貴妃、孤閨を愁う
今宵、燦珠は同輩の喜燕と玲雀とともに喜雨殿に参上していた。この殿舎を賜る貴妃、香雪の願いに応じてのことだ。
「今宵は、どのような趣向をお望みでしょうか!?」
「歌でも舞でも、仰せの通りに」
「お心を晴らして差し上げたいと存じます」
燦珠は緋色、喜燕は梔子色、玲雀は碧──それぞれ違う色の舞衣装を纏った役者たちの声と表情は、たぶんやや硬い。
「そうね──」
問われて首を傾げる香雪の仕草も、また。
優雅さも美貌も常と変わりないけれど、薫り高い菊花を思わせる佇まいが、今はしっとりと愁いの露を帯びているかのよう。ただでさえ華奢な肩も、薄絹の領巾によってさえ折れてしまうのではないかと思える。それほどに、香雪は今にも消えそうな儚げな風情だった。
どこか色褪せたように見える唇が微かに笑んで、優しく慎ましやかな声を紡いだ。
「貴女たちには申し訳ないけれど、話し相手になってもらえるかしら。お酒は、喉に悪いのでしょうから──眠れなくならないように、花茶と、お菓子を出しましょう」
特技の披露は不要、と言われて、役者の娘たちは互いにそっと視線を交わし合った。
不満がある訳では、ない。
気晴らしを考える余裕さえなさそうな主のことが、案じられてならなかったのだ。
(やっぱり、気が気ではない……んでしょうね……)
今宵、皇帝の寝殿である渾天宮には、香雪ではない妃が召されている。これまでにはほとんど例がなかったことだ。
皇帝は、あらかじめ心変わりはあり得ないと繰り返し寵妃に誓っていたけれど。好きではない女を召す殿方も、相手の心が余所にあるのを知って侍る姫君も、幸せな夜を過ごす訳ではないのだろうけれど。
それでも、ひとり待つことしかできない香雪の心の裡はとりわけ穏やかではないだろう。
淑やかに微笑んでいられるのは並々ならぬ自制心があればこそで、胸中では嵐が荒れ狂っているのかもしれない。たとえ皇帝に進言したのがほかならぬ香雪だったとしても──あるいは、だからこそ。不安や恐れと無縁でいられるはずはない。
* * *
切っ掛けは、董仙娥の証言だった。
貴妃の位を剥奪されて、もはや敬われることのなくなったあの女性は、翠牡丹を悪用して香雪を陥れようとした動機を、嫉妬だと述べたのだ。
嫉妬、と──仙娥自身は認めなかったのかもしれない。要するに、香雪が皇帝の寵愛を独占するのは狡くて不当だということらしいから。
『見当違いも甚だしい。あの者は、香雪が労せずして貴妃の地位を得たと思い込んでいたのだ』
皇帝が苦り切った顔で零した場に、燦珠も同席していたものだ。《偽春の変》の折りの香雪の覚悟は彼女も見ていたから、大いに頷いたものだ。
香雪だって、憤って良かっただろうに。でも、この御方は皇帝の寵愛に相応しく、どこまでも聡明で控えめだった。
『では──寵の偏りはやはり不和の種になるのですね。翔雲様は、もっと後宮の花に目を向けてもよろしいのかと』
それを聞いた燦珠たちは息を呑んだし、皇帝も目を剥いていた。続けてとんでもないと反駁されても、香雪は国で最も尊貴な御方にも退くことなく、はっきりと述べたのだ。
曰く、不満を抱いているのが仙娥だけとは限らない。今は行動に移していなくとも、燻っていた昏い感情が何らかの火種を得て燃え上がることもあるかもしれない。それは陰謀になるかもしれないし、侍女や宦官や役者といった弱い立場の者が巻き込まれるかもしれない。
そもそも、後宮とは皇統を保つためにあるものでもあって。皇子や公主のひとりもいない今の後宮は寂し過ぎる。
『もっと早く気付いて申し上げるべきでしたのに……』
いっそ申し訳なさそうに眉を下げる香雪に、皇帝も頷かざるを得なかった。そうして、当面の間、妃嬪が順番に渾天宮に召されることが決まった、という訳だった。
* * *
薄い白磁の茶器の中で、乾燥させた玫瑰の蕾がゆっくりと解けていく。
目に鮮やかな薄紅の色に、華やかな香りが菓子の甘さを惹き立てる。
すでに夜の食事を終えた遅い時刻とあって、小さな砂糖菓子や、干した果実を使ったものが多い。だから衣装を汚す恐れも少ないし、目に美しく、舌にも贅沢な菓子を楽しむことができれば良かったけれど──無邪気なお茶会という訳にはいかないのは、さすがに燦珠にも分かっている。
(侍女ではなくて、私たちをご所望と、言うことなのよね……?)
侍女が相手だと、話題はおのずと主への同情や、皇帝への控えめな非難になってしまうから、ということだろう。後宮での位階や寵愛争いとは比較的遠い小娘だからこそ、他愛ない会話で気を紛らわせることができる、ということのはずだ。
なので、同輩たちとさりげなく息を合わせながら、燦珠はできるだけ秘華園の出来事に話題を絞った。練習のやり方や、役者の生活について──香雪にとっては別の世界の出来事に、このひと時は意識を向けていただこうと。それはそれで、ある種の芝居になるのかもしれなかった。
「──それで、《探秘花》で姸玉を見初めたっていう進士様もいらっしゃったんですけど。あの子は、まだまだ秘華園にいたいって言うから、楊太監が断ってくれたそうです」
でも、それなら燦珠は台詞を間違えてしまった、のだろう。何気ない近況のつもりで口にしたことが、香雪の眉を曇らせてしまったのだから。
「そう──夢中になれることがあるのは素敵なことね。羨ましいわ」
やらかしに気付いた燦珠は、慌てて左右の喜燕と玲雀に視線で助けを求めた。
貴妃が役者を羨むなんて、本来はあり得ないことだ。でも、自分の力で人生を決める余地があるという点で、お妃様やお姫様たちと燦珠たちはけっこう違う。
先だっての明婉も、たぶんその辺りを汲み取ったからこそ、例の芝居に協力してくれた気がする。
(結婚は、望んでするものではない、のかしら。高貴な方々だとそうなってしまうの……? 香雪様と天子様でも……?)
愛し合っているように見えるふたりでは、あるのだけれど。
香雪の幸せは皇帝の一途さに懸かっていて。そして、いくら心では香雪だけと誓ったとしても、ほかの妃嬪にも目を向けなくてはならないことが今まさに証明されている訳で。それは、努力や鍛錬ではどうしようもないことで──その不安や心細さは、燦珠たちには計り知れない。
「はい。あの! 私も、まだまだなので。だから──歌や舞で、お慰めできたら、良かったんですけど……!」
香雪の愁いを目の当たりにした動揺のあまり、燦珠はたぶん余計なことを口走った。
でも、だって。悔しかったのだ。
(私、未熟者だ……!)
燦珠には、分からないことだらけだ。
誰かを愛することも、その想いの深さゆえに不安になることも。後宮に入って、美姫の立ち居振る舞いに学ぶところは多かったのに、内面までを写し取るのはまだまだ難しい。霜烈と唄った《探秘花》で掴んだ、と思ったのは恋や愛のほんの一端でしかなかったらしい。
そして、できないことだらけでも、ある。
秘華園に入って、歌や舞の技術は確かに上がったはずなのに。香雪の心を晴れさせる芸はまだ身につけられていないのだから。
慰めさせろ、と訴えるのは傲慢でもあるだろう。でも、男女の機微に不明な小娘たちにはどう振る舞えば良いのか分からないのも事実。だからだろう、燦珠だけでなく、喜燕と玲雀も息を詰めて懇願するように香雪を見つめる気配がした。
「ああ……ごめんなさい。せっかく貴女たちに来てもらったのに。そうね、では──楽しくて、可愛い踊りをお願いするわ。燦珠、貴女が舞って。喜燕と玲雀はどんなお話か教えてくれるかしら」
「は、はい!」
香雪は、若い役者たちを気遣って命じてくれたようだった。慰めるべき主に慰められたのだ。苦い、忸怩たる思いを噛み締めつつ──それでも燦珠は元気よく立ち上がる。仕事が与えられた、ということは何だかんだで喜ぶべきことだ。
その後、燦珠は喜燕と玲雀と代わる代わる唄い、舞った。手足と衣装を使って、花を咲き乱れさせ、星や月を呼び、鳥のように飛び交った。
香雪は、笑ってくれていたけれど。愁いと不安を覆う笑顔の仮面の薄さは燦珠の目にも明らかで──それでも、本当の思いが透けるからこそ美しい、とも見えた。
人を想うことの幸せも苦しみも、その感情の現れ方も。燦珠が演じきるにはあまりに深淵なものなのだろう。