梨詩牙、手紙を燃やす
延康の都の一角、当代一の将軍役者と名高い梨詩牙の屋敷の院子にて。屋敷の主人は、今まさに焚火に一幅の書簡をくべようとしていた。
瞬く間に赤い炎に舐められ、身を捩らせるその紙片は白く滑らかで、いかにも上質なものだった。それが無残に灰と化し、風に乗って飛んでいくのを見て、線の細い男が溜息を吐く。
「もったいない。せっかくの娘からの手紙だというのに」
心底惜しむようで、どこか揶揄う調子もある──柔らかな声の主は、呉青蘭という役者だった。花旦の名手として名を馳せているだけに、幾つになっても立ち居振る舞いも声の響きも嫋やかな華やぎを纏っている。
対する梨詩牙の声には、舞台の上で戟を手に敵役と対する時のような、猛々しさと荒々しさがあった。
「内容は覚えたから良いんです。……あんなもの、危なっかしくて手元に置いておけるか……!」
青蘭がいう通り、梨詩牙が燃やしたのは娘の燦珠が後宮から寄こした手紙だった。
科挙の合格者を祝う祝宴にて、秘華園──燦珠も所属する、女だけの劇団──も演じたこと。
燦珠自身は怪我によって出演できなかったものの、皇帝も高官も合格した進士たちもたいへん満足していた様子だったということ。
秘華園を預かる楊太監も。祝宴に出席できなかったのは残念そうだったが、大役をつつがなく果たして安堵したようだったということ。
(なぜ父親にあいつのことをいちいち知らせる? ……まさか、祝宴とやらの間、ふたりきりだったんじゃないだろうな?)
幾つか引っかかる点はあったものの、そこまではまあ良かった。怪我といっても、どうやら長引くものではないようだし。むしろ、娘が皇族だの高官だのの目に留まる機会がなかったのは梨詩牙にとっては喜ぶべきことだ。
問題は、娘が弾む筆跡で続けたくだりだ。
──天子様のお父様にもお褒めの御言葉をいただいたの! はっきり褒めていただいた訳ではないし、正直なところ謝っていただいても良かったんじゃないかと思うんだけど、御年を召した御方だし、役者にお言葉をいただいただけでも快挙だと思うの!
文字を目で追うだけで、音を立てて血の気が引くこともあるのだ、と。梨詩牙はその時初めて知った。
(皇帝の父親に対して、何たる無礼……!)
役者の娘風情が、皇帝の父とかいう雲の上の存在に言葉を賜った。それが快挙なのは間違いない。
いったい何がどうなってそうなったのかは分からないが──伝えなかったのは、後宮での出来事を漏らす訳にはいかないだろうから、理解はできる。娘がその辺りを弁えているのは驚くべきことだし、きちんと教える者がいたのは僥倖ではあったのだが。
(いや、あいつが教えたのかもしれないが!)
頭に過ぎりかけた忌々しい美貌を振り払って、梨詩牙は風に舞う灰を目で追った。
何にせよ、彼の娘の認識はまだまだ甘い。蟲毒のような後宮の風に染まっていないのは良いのかもしれないが、書いて良いことと悪いことはもっと厳しく見分けてもらわねば、親のほうが生きた心地がしない。
(手紙で叱ったところで、聞く娘ではないだろうが──)
梨詩牙の溜息に、吹き飛ばされたのかどうか。
皇父の年齢を云々し、御言葉に対する不満とも取られかねない文面の並んだ──たいそう不敬で不遜な紙片は、めでたく飛び去った。彼や娘にお咎めが及ぶこともなくなるだろうと思うと、ようやく肩の力を抜くことができる。
「──そちらは燃やさなくて良かったのかね?」
と、青蘭が意味ありげな笑みを浮かべて梨詩牙に尋ねた。後宮から彼に届いた手紙は、一通だけではなかった。もう一通、まったくもって待ち望んではいなかったものも、梨詩牙の手にしっかりとある。
できることなら引きちぎって燃やしてやりたいという思いも、確かにないことはないのだが──
「……これはこれで、燦珠の近況が分かるので。墨と紙に罪はないですからね」
たとえ手紙の主が、例のやたらと声と顔の良い宦官だとしても、そこまでするのは大人げないように思われるのだ。
なお、楊霜烈とかいう宦官は、声と顔だけでなく字も美しいことが判明して梨詩牙の苛立ちを募らせた。
(宦官の癖に……どこで学ぶ機会があったのだか……!)
嫋やかな青衣役が切々と訴える声が聞こえるかのような、流麗な手跡だった。そうして、楊霜烈は燦珠の怪我について詫び、できることなら対面した上でひれ伏して詫びたいと告げてきていた。
宦官は、許しがあれば後宮を出ることもあるようだが、梨詩牙としてはあの男に会う気はない。あの顔を前にしてあの声を聞いたら、またほだされて丸め込まれそうな気がするからだ。
とりあえず、燦珠からの手紙であの男に言及した箇所は多くなかった。美貌と美声に間近に接しても、惑わされていないと分かったから今は良しとしよう。
波立ちそうな心をそう宥めて、梨詩牙は火の始末を命じるべく弟子を呼びつけようと息を吸った。が、彼が声を発する前に、青蘭の穏やかな呟きが割って入る。
「仲が良さそうで結構なことだ。私のほうにも手紙が来ていたが、あの燦珠が文面からも分かる落ち込みようだったから」
「──は?」
せっかく吸った息は、間の抜けた呟きとして消費された。目を口をぽかんと開けた梨詩牙に軽く笑って、青蘭は懐から書簡を取り出して見せびらかした。
「例の、たいそうな美形だという宦官が燦珠を庇ってひどい怪我をしたとかで、痛み止めを送って欲しいと頼まれたんだ。きっと私の名を知っているから喜ぶだろうと。……実際、感激した様子の礼状をもらったよ。手跡も見事なものじゃないか──」
薬を求められたからか、後宮にまでも名が知られていたからか。青蘭は機嫌よく唄うように語った。だが、梨詩牙は話に付き合う気にはなれない。
「──聞いていない。娘からも、あいつからも!」
楊霜烈の手紙は、怪我のことなど一字たりとも匂わせてはいなかった。燦珠は──そういえば、祝宴が無事に済んで良かった、とわざわざ奴の心情に触れていたのはそういうことなのか。いや、何よりも──
(燦珠が、庇われるような事態があったのか!?)
後宮で、何かの事故があったということなのか。それとも──罰から庇った、ということなのか。まさか燦珠は、皇帝の父の不興を買っていたのかどうか。
血相を変えて詰め寄る梨詩牙に、青蘭は少女のような可憐さで首を傾げた。口元に、妖しい笑みを浮かべながら。
「わざわざ誇ることでもないと考えたのでは? ならば奥ゆかしいことだ。燦珠については──父親に恋人のことを悪く思われたくなかったのかな」
青蘭は、梨詩牙を揶揄っているだけだ。燦珠に、親に対する恋人の評判を気にするような情緒はない。ない──はずだ。会わなかった一年ほどの間に、恋を知ったのでなければ。
「まさか。そんなことは──」
ない、と。自分に言い聞かせようとしても確信が持てなかった。いつになくか細くか弱い梨詩牙の声に哀れみを覚えたのか、青蘭が執り成すような苦笑を浮かべる。
「ない、だろうとも。燦珠は相変わらずなのだろうし、くだんの宦官はかなりの戯迷と聞くから。梨詩牙の調子を狂わせるのを案じたとか、そういうことではないのかな」
「そう……だと、良いですが」
俯いた梨詩牙の視線の先で、燦珠の手紙をくべた火はもう勢いを失って燻っている。黒く細く立ち上る煙は、まるで彼の疑念と不安を表すようでもあって。
すっかりしょぼくれた風情の彼を案じてか、青蘭は長身の梨詩牙を下から窺うように覗き込んだ。
「心配ならば、また後宮に上がっては? どうも燦珠はまた何かお手柄を上げたようだし。口を利いてもらうこともできるんじゃないかね」
「──は!?」
確かに梨詩牙は、昨年、後宮に上がって皇帝の御前で演じるという名誉を賜ったことがある。百年振りの内廷供奉役者とかいうたいそうな肩書をいただいたのだ。
ただ、それは《偽春の変》なる陰謀における彼の功績に報いて、ということだった。同様の恩典を再び強請れるとしたら、その前提として考えられるのは、何か。
「燦珠が、また何か危険なことを……!?」
「ああ──いや、はっきりそう書いてあった訳ではないが。何というか、安心したというか得意げな様子がね、文章からしたから」
「あの坏女孩が……」
低く唸ると、梨詩牙は身体を翻して正房へと足を急がせた。一秒でも早く、筆を執って後宮への手紙をしたためるためだ。
一通は、娘に自重を促す戒めの手紙。
もう一通は、あの美貌の宦官を呼び出すためのもの。
(燦珠と何があったか吐かせてやる……!)
眩い美貌の持ち主をひれ伏させるなど、正直言って梨詩牙の趣味ではないのだが。娘との経緯について、聞きたいことが多すぎる。
(……ことの次第によっては、あいつに感謝することになるのか? あいつに、燦珠を託すことになるのか……!?)
目の前が暗くなるような嫌な予感が忍び寄るが──それは、またそうなった時の話。梨詩牙は、今は娘たちに何と書いて送ってやるかに意識を集中することにした。