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桃夭② 皇子、来訪する

 月や太陽が目の前に降りて来た時にどんな反応を見せれば良いものか、桂霄けいしょうは知らない。卑小な我が身を恥じて平伏すべきではないかとも思うけれど、あいにく彼女は皇族の端くれだった。あまりにへりくだった作法で迎えるのは、かえって非礼になるだろう。


「お会いできて嬉しく思います、桂霄けいしょう様」

「ここここ、こちらこそ、陽春ようしゅん叔父様」


 という訳で、桂霄けいしょうは目が潰れんばかりに美しく、耳が蕩けるばかりに綺麗な声の年下の叔父に、震える声でたいへんみっともなくぶれぶれの揖礼ゆうれいをした。もちろんというか何というか、陽春皇子の揖礼ゆうれいは舞のように優雅な所作で、こんなところでも桂霄けいしょうは格の違いを見せられた気になった。


(いったい何ごとですか、お父様)


 子供ふたりを引き合わせて満足そうに頷いている父を、桂霄けいしょうは抗議をこめてじっとりと見上げた。


 桂霄けいしょうの住まいに、輝かしいこと日月星辰じつげつせいしんのごとき麗し過ぎる少年を招いたのは、ほかならぬ父だった。つまり、帝位に就く可能性は低いとはいえ皇子のひとりで、陽春には異母兄に当たる。


 だからまあ、兄弟で交流を深めること自体はあり得なくもないかもしれないけれど、桂霄けいしょうを巻き込まなくても良いと思う。


 桂霄けいしょうは、その他大勢のひとりで十分。祖父である皇帝の寵を争うのは、眩しい存在だけでやれば良い。──母と違って、父は桂霄けいしょうの性格を分かってくれていると思っていたのに。


 娘の恨めしげな視線に気付いていないのか、父はにこりと微笑んだ。


桂霄けいしょう。そなたの舞は父上の不興を買ったとか。挽回するためにも、しばらくこの陽春に教わるが良い」

「え──」


 それは、恥の上塗りというものだ。桂霄けいしょうなんて石の裏の虫にも等しい存在で、太陽の下に引きずり出したからといって蝶になれたりはしないのだ。


 絶望に呻いた娘に、父は表情を真剣なものに改めた。声も潜めて、自邸にいながら何者かの耳を憚るかのように、改めて桂霄けいしょうに命じる。


「……という体で、陽春と共に学べ。父上に任せておくと、この子は歌と舞しか教えられぬ。今少し、系統だって学ぶ機会を与えてやらねば」


      * * *


 話を詳しく聞いてみると、父は桂霄けいしょうが思っている以上に先のこと、国のことを考えているらしかった。


 つまり、祖父の戯迷しばいぐるいは傍目にも度が過ぎている。


 後宮にこもりきりで、お気に入りの役者の歌や舞や芝居を観るばかりで、まつりごとを疎かにするにとどまらず、外朝がいちょうにもろくに姿を見せないのだと、桂霄けいしょうは初めて知った。伯父や父や高官たちもいさめてはいるけれど、何しろ皇帝と言うのは偉いから、祖父が機嫌を損ねると何ひとつ進まなくなる、らしい。


 そこで鍵になるのが、祖父が目に入れても痛くないほど溺愛している──たぶん、世間的には孫に対する形容だ──末の皇子の陽春だ、ということになったのだとか。伝聞系なのは、桂霄けいしょうが難しい顔の父から教えられたことだからだ。彼女には、事態の深刻さが今ひとつ実感できていない。


『陽春の進言ならば、父上も聞いてくださるやもしれぬ。それを可能にするためには、この子にまともな見識を身につけさせねば』


 ふんわりと理解したのは、眩しい存在は眩しい存在なりの苦労があるらしい、ということだろうか。有象無象の皇族としてのほほんと生きている彼女に比べると、皇帝に愛される陽春は、何かもっと重くて大変な義務というか期待というかが課せられている気配が窺えた。


 ともあれ、桂霄けいしょうは問答無用で陽春と机を並べて勉強させられることになった。


 顔も名前も覚えていないであろう孫娘のために、祖父がお気に入りの末っ子を()()()くれる期限はごく短い。父のたっての願いでようやく叶ったことで、次があるかは分からないというから、さくさくと進めなければならなかった。


「ねえ……」

「はい、何でしょう」


 それでも休憩の時間はもらえるから、桂霄けいしょうは恐る恐る、陽春に声を掛けてみることにした。眩しい存在への気後れはあるけれども、知らない家に連れてこられた少年が緊張している気配を感じたから、話を振ってやるのが家の者の気遣いだろうと思ったのだ。


「……おじい様のお気に入りというのも大変、なのね……? あんな、人前で唄ったり踊ったりなんて」


 思えば皇帝の命令というのは逆らえないものであって。祖父の気分ひとつで、いつ何時、それもたったひとりで歌や舞を披露させられるか分からない日々というのは、とても恐ろしいのではないかと思ったのだけど──


「いえ、歌も舞も好きなのでまったく苦ではないのですが」


 美しい存在は、困ったように微笑んでまたも格の違いを見せつけた。


(……あんなに上手にできるんだから当然か……)


 有象無象の彼女とは、見え方も感じ方も違って当然と、頭を抱えつつ納得したところで──桂霄けいしょうは、恐ろしい可能性に気付いた。


「えっと……では、お父様は余計なことをしたのかしら」


 陽春が、今の待遇に満足しているのだとしたら。

 さらわれて、好きでもない勉強をさせられた、なんて祖父に言いつけられたら、父も桂霄けいしょうも色々()()()気がする。


「とんでもない」


 相手の回答次第では、ひれ伏して許しを乞う心構えでいたのだけれど。陽春は、ゆるゆると首を振った。目を軽く伏せると、白い頬に落ちる睫毛の影が濃く、長い。間近にいて言葉を交わしてなお、この少年の常人離れした美しさには見蕩れさせられてしまう。


「ですが、それだけでは国が立ち行かないのもさすがに分かります。父上は、確かに芝居にのめり込み過ぎではないのか、と──ならば、おいさめするのも孝行のうちではないかと思いました。淳鵬じゅんほう兄上のご配慮には感謝しています」

「そう、なの……」


 恐怖ではなく、感動によってひれ伏したい思いを堪えて、桂霄けいしょうは年下の叔父の真摯な表情に見蕩れ、声にも、語る内容にも聴き惚れた。彼女には陽春と同じ年ごろの弟もいるけれど、こんな難しいことは絶対に考えていないと思う。


桂霄けいしょうこそ、私がお邪魔ではないですか」

「そんな。どうして……?」


 と、陽春が身を乗り出して彼女の顔を覗き込んできたので、桂霄けいしょうは目を瞬かせた。この美しい少年は、白い肌の内側から光を放っているかのように眩しいのだ。


「《桃夭タオヤオ》の時のこと……何というか、感じが悪かったでしょうから」


 目が眩んでしまったから、何を言われたかを理解するのにたっぷり数十秒はかかっただろう。


 《桃夭タオヤオ》は──先日、陽春が舞い歌った婚礼のうただ。というか、そもそもは桂霄けいしょうたちが披露するはずで、祖父の目には適わなかったもの。


(……覚えてたんだ)


 取り立てて美しくもない、歌舞の才がない、有象無象の小娘のひとりのことを。陽春の、この吸い込まれそうな目に、桂霄けいしょうは確かに映っていたのだ。


「そんなことない! すごいものを見られて、感動したくらい! あんなのと自分を比べようなんて思ったりしないわ!」

「そ、そうですか……」


 感動に、思わぬ大声が出て、陽春は一瞬たじろいだようだった。でも、すぐに嬉しそうに破顔する。


桂霄けいしょうが歌舞を嫌いにならないでいてくれると嬉しいのですが。そうだ──私がお教えしましょうか」

「え!?」

「未熟ですが、母から聞いた秘訣コツもありますので。父上にも、そもそもそのようにお伝えしているのですし。今の声で歌えば、きっと楽しいですよ!」

「えええ!?」


 陽春の母君といえば、祖父がこよなく愛する稀代の歌姫で舞姫だ。桂霄けいしょうのような地味な娘に伝えて良い秘訣では絶対ないと思う。


 でも、歌のこととなると陽春は強情で、桂霄けいしょうは勉強の後できっちりとしごかれた。まあ──声を出して歌うのは確かに楽しかった。陽春には決して敵わなくても、人に見せるような出来ではなくても、人生の彩がひとつ増えたのかもしれない。


      * * *


 そうして数日を共に過ごした後、陽春はまた、と笑って後宮に帰って行った。桂霄けいしょうも同じく笑って手を振った。


 眩しい存在への気後れはまだあるけれど、あの子も人間だと分かった。歌舞に関してはやたらと()が強くて、ちょっとおかしなところもあると知れた。皇帝に近しい、雲の上の存在であることは変わらなくても、たまに息抜きをさせてあげられれば良いと、素直に思った。それで、役得として綺麗な笑顔を間近で見せてもらえれば嬉しい、と。




 結局──また、の機会が来ることなんて、なかったのだけれど。

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