桃夭① 郡主、埋もれる
皇帝の孫娘というのは、さぞ愛され甘やかされるものだろうと世間では思われているかもしれない。でも、必ずしもそうでないのは桂霄が身をもって知っている。
何しろ、皇帝の実子である皇子や公主からして数多い。さらにその子となると、百人規模でわんさといるのではないだろうか。
桂霄からして、数多い従兄弟姉妹の全員を把握してはいないのだ。祖父から見れば、皇太子を父に持つ訳でもない、容姿も才覚も凡庸な郡主など、いてもいなくても同じだろう。
(当然のことよね。おじい様の──皇帝陛下の寵愛争いなんて、考えるだけで怖いしめんどくさい)
可愛がられてはいなくても、皇族の一員ではあるのだ。上を見れば切りがないけれど、周りを見渡せば同じように冴えない従姉妹は幾らでもいる。無理に媚びを売らなくても、祖父も、その後を継ぐ伯父の皇太子も、まあそれなりの扱いをしてくれるだろう。桂霄は十三歳にして早々に人生に見切りをつけていた。
けれど、桂霄の母は何らかの危機感を抱いたらしかった。あるいは、母にとっては娘は可愛いもので、頑張ればイケる、とでも思ったのか。いずれにしても、桂霄は同じていどの容姿の従姉妹たち何人かと組まされて祖父の前で歌舞を披露することになった。たぶん、我が子が良い意味でも悪い意味でも目立ち過ぎないよう、母たちの間で駆け引きと牽制があったのではないか、という気がする。
衣装だけは軽やかに鮮やかに纏わされた桂霄と従姉妹たちは、誰もが同じことを考えていただろう。母たちの手前、口には出さなくても顔を見合わせれば分かる。
(確かにおじい様は華劇がお好きだけど! 絶対に無理があるでしょう!)
その時々の皇帝によって、後宮でもてはやされる芸事や基準は変わるものだろう。
詩だったり、書画だったり、単純な美貌だったり。そして当代の祖父については、戯迷と名高い。
容姿はそれなりでも、歌や舞に見るべきものがあればお褒めの言葉をいただけるのではないかとか、母たちは期待したのかもしれないけれど──
「見るに堪えぬ。下がらせよ」
そうでしょうね、の一喝を賜って、桂霄たちはすごすごと引き下がった。
祖父のお気に入りの役者たちは、姿かたちが美しいだけでなく、ただしゃべるだけの声もよく響いて楽の調べのよう、立ち居振る舞いも柳の枝のようにしなやかで洗練されている。顔と名前が一致しているかも怪しい、とりあえず血が繋がっているだけの孫娘たちが形ばかり真似ようとしたところで、太刀打ちできるはずがなかったのだ。
「老い先短い朕の時間を、どうして下手な歌舞で浪費させるのか」
「まあ、亮堅様。可愛らしかったではありませんか」
祖父は、怒っているというよりは心の底からうんざりしているようだった。
宥める皇后は、子のいない御方だから、桂霄たちの誰にとっても祖母ではない。だからだろうか、優しく穏やかではあっても、同時に果てしなく冷淡だった。水に落ちた子猫がいたとして、可哀想、と呟きはしても、自ら手を差し伸べたりはしないのと同じこと。
(でもまあ、これでお母様も諦めてくれるかしら……?)
尊い方々にとって、自分が何でもない存在だと突き付けられるのは寂しく悲しいこと。でも、一方で無駄な歌舞の練習から解放されると思えば安堵もある。足取り軽く、桂霄が辞そうとした時──彼女の背で、祖父の弾んだ声が響いた。
「陽春、そなたも知る歌であっただろう? そなたの声と舞を父に見せておくれ。いかなる美酒美食や薬よりも、寿命を延ばしてくれよう」
「はい、父上」
彼女たちに向けたのとは大違いの、祖父の熱と愛情に満ちた声に。そして、応じた声の、水晶の鈴を振るような澄んだ清らかな響きに、桂霄は振り返った。そして、目に飛び込んできた圧倒的な美に、目を見開いて息を呑む。
皇帝と皇后の御前に、敷物によって簡易な舞台が設けられている。皇族の若い子女が、余興として歌や舞をお見せします、という席だった。桂霄よりも声や姿が美しく、祖父をそれなりに満足させた子も、一応はいた。でも、今、彼女の目の前で舞う少年に比べれば、そんな子たちもすべて前座に過ぎなかった。
祖父の命に従って進み出たのは、十になるかどうかの少年だった。桂霄たちは寄り集まるようにして舞台に上ったのに、臆する気配も見せないのは、他を寄せつけない美貌をすでに備えているからだろうか。公主に郡主、祖父の後宮を華やがせる若い妃嬪たちの誰も、その少年の美しさに敵いそうにない。
染みひとつない白皙の頬に、夜の淵の漆黒を湛える瞳。通った鼻筋にも一分の歪みもなく、化粧もしていないだろうにほのかに紅い唇は、あどけなさと同時に微かな色香を漂わせてすらいる。
名工が丹精した人形のよう、だなんて陳腐な表現が浮かんでしまうけれど、その少年は血の通った人間なのだ。その証拠に、祖父の合図で楽師が音楽を奏で始めると、彼は花咲くような眩い微笑を綻ばせて、辺りを輝かせた。そして、形良い唇が歌を紡ぎ始める。
桃之夭夭 灼灼其華 若々しい桃 その花は燃えるよう
之子于帰 宜其室家 桃のようなこの娘は 嫁ぎ先で喜ばれる
桃之夭夭 有蕡其実 若々しい桃 その実はふっくらとして
之子于帰 宜其家室 桃のようなこの娘は 嫁ぎ先で喜ばれる
桃之夭夭 其葉蓁蓁 若々しい桃 その葉は瑞々しく生い繫る
之子于帰 宜其家人 桃のようなこの娘は 嫁ぎ先で喜ばれる
澄んだ声が歌うのは、桂霄たちが披露しようとして、最初の一節で止められた歌だった。古い素朴なものだから簡単だろう、と母たちは主張していたけれど、そんなことはまったくなかった。この声を聞けば、思い知らされてしまう。彼女たちには、歌声で春の薫風を頬に感じさせるような真似は絶対にできない。
(それに、この舞!)
彼は、本来は演じる予定ではなかったのかもしれない。纏うのは袖の長い舞衣装ではなく、普段着の袍だった。でも、彼が指先を伸ばせば花が咲いたし、身体を翻せば桃の馥郁たる香りが辺りに満ちた。少なくとも、桂霄にはそう思えた。はにかんだ眼差しは、嫁入りを控えた娘にも見えるし、喜びを湛えた微笑みは、新妻を迎え入れる家人のそれにも見える。たったひとりの演じ手、それもこんな小さな子供が、こうも複雑に折り重なる情景を思い描かせることができるなんて。
祖父である皇帝の寵愛を一身に集める存在と言うのは、この水準なのだ。桂霄たちは、この少年と張り合おうとしていたのだ。
(いや、無理でしょお母様……)
無謀と身のほどしらずを思い知って、桂霄は内心で呻く。もしかしたら彼こそが母たちの危機感の原因なのかもしれないけれど、この眩しさを押しのけて祖父に取り入ろうだなんて、人の身で月や太陽を射ち落とそうとするような恐れを知らぬ暴挙ではないだろうか。
(あの子が、陽春叔父様、かあ)
あんなに美しい存在は、後宮に頻繁に出入りする訳でもない桂霄の耳にも届いていた。
人間離れした妙なる歌舞を披露した少年は、陽春皇子。祖父にとっては末っ子で、桂霄にとっては、自分より年下の叔父にあたる。美貌も歌舞の才もある意味道理、陽春の母君は、祖父がこよなく愛する役者なのだとか。容姿にも声にも惚れ込んだ女に生き写しの我が子は、有象無象の孫娘より可愛くて当然だろう。どう見てもあちらのほうが美しくて才豊かなのだから、嫉妬を覚える余地もない。
事実、演技を終えた陽春は、皇帝と皇后の絶賛に迎えられていた。生さぬ仲の皇后でさえ、美しい少年の輝く笑顔には甘くなるようで、褒美の菓子を勧められているのが遠目に見える。
(あの子はきっと、綺麗なお妃をもらって良いところに封土を賜るんだろうなあ)
帝位に就かない皇族の中では、おそらく最良の将来をほぼ保証された少年を見上げる思いで、桂霄は目を細めた。たぶん、会う機会もそうそうないだろうから、眩しい存在を目に焼き付けておこう、という思いだった。
そうして、彼女自身は有象無象のひとりに埋もれて、平凡な人生を送るのだ。桂霄は、そう信じていた。
※郡主→皇帝の娘の公主に対して、皇帝の子(親王)の娘のこと
《桃夭》の詞は「詩経」からの引用です。(意)訳は自作です。