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【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第二部 七章 月鏡、万事を映じて輝く
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6.燦珠、城壁に立つ

 後宮を取り囲む城壁に築かれた石段を上る燦珠さんじゅの腰で、翠牡丹ツイムータンが揺れている。香雪こうせつから改めて賜ったくみひもで帯から提げたそれは、間違いなく彼女自身のものだ。ただし、一度失う前とまったく同じ、では()()


 翡翠の花の花弁の裏には、燦珠、の三文字が刻まれている。それも、皇帝の直筆を写したものだ。長公主ちょうこうしゅの命を救った、ということになった彼女が得た褒美がその栄誉だった。


 あの方の人柄をよく表した、力強くも端整な筆跡が自分の名を綴るのを見たり触ったりするたびに、よりいっそうの誇らしさを感じる。だから、見上げるほどの石段を上りながらも、燦珠の足取りは軽かった。


尚宝監しょうほうかんの仕事は早くて正確で、すごい……!)


 数多ある宦官の衙門がもんのうち、公印の類を管理する尚宝監しょうほうかん太監たいかんは、今はあのだん叔叔おじさんだ。

 秘華園ひかえんに関することとあって張り切ってくれているそうで、燦珠のものだけでなく、役者全員の翠牡丹ツイムータンが、尚宝監しょうほうかん所属の職人のもと、次々に持ち主の名を刻まれているところだ。


 ほかの子たちの名は、さすがに皇帝直筆ではないのだけれど、翠牡丹ツイムータンがはっきりと「自分だけのもの」になることは誰もが歓迎しているようだ。とう貴妃きひ仙娥せんが──廃されて後宮を去ったから、元、とつけるべきかもしれない──の所業は、役者にとっては許し難いものだったから。


 悪用される余地がなくなるのは歓迎すべきことだし、いっぽうでは翠牡丹ツイムータンを使う際には必ず名を明かさなければならなくなる。役者ひとりひとりが清廉に、疑われることなく行動すべし、という意識が、今回の件で高まったのではないかと思う。


(長公主様ともお揃いだし)


 翠牡丹ツイムータンを抱き締めるようにして、嬉しそうに微笑んでいた明婉を思い浮かべると、燦珠の口元も綻んだ。


 父君の興徳こうとく王殿下は王府おうふに帰るいっぽうで、明婉はしばらく後宮に留まるとか。先の事件で受けた心労を癒すため、世間の噂から隠れるためということだから、華劇ファジュが力になれると良いのだけれど。


 と、一陣の風が吹いて、燦珠のスカートの裾を足に絡ませた。足音が乱れたのが聞こえたのだろう、数段先を上っていた霜烈そうれつが彼女のほうを振り返る。


「風が強い。足もとに気を付けるのだぞ」

「うん……!」


 捻った足首は完治しているし、幸いに、頂上はすぐそこだった。燦珠は足に力を込めて石段を駆け上がり、霜烈とほぼ同時に城壁の上に辿り着いた。


「わ、綺麗──」


 眼下に広がる絶景に、燦珠は感嘆の声を漏らした。


 城壁の外側に広がるのは、瑠璃瓦るりがわらを戴いた官庁街だ。釉薬ゆうやくの艶が美しい屋根の色は、主に貴色の黄を用いた後宮の諸殿舎とは違って、格式に応じて黒、青、緑などを使い分けている。深い森や水面が広がる様にも似て、万寿ばんじゅ閣から後宮を見下ろした時の光景とはまた違った趣もある。


 さらに遠くに目をやれば、延康えんこうの都の街並みが皇宮を取り囲んでいる。

 庶民には宮城や官庁のように瑠璃瓦を使った壮麗な建物は許されないけれど、それだけに、主要な通りが交差するところに築かれた物見の市楼しろう、それに施された鮮やかな彩色が花が咲いたように鮮やかだった。屋根の連なりが砂塵に微かに煙るのは、それだけ人の行き来の多さを示すものでもあって。市中の賑わいを知る燦珠としては、懐かしくも心躍る。


 城壁から身を乗り出す燦珠とは裏腹に、霜烈は少々気落ちした風の顔をしている。


「市街の先までは、さすがに見えないか……」

「こういうのは、気持ちが大事だと思うの。だから良いんじゃないかしら?」


 彼が、城壁に上る許可をもらった理由も、燦珠を誘った理由も想像がついている。慰めるべく、燦珠は霜烈を見上げ──ついでに、陽光の下でいっそう眩しい美貌に目を細める。


「そなたを無駄に付き合わせてしまった。すまなかった」

「ううん。こんなとこまで上れるなんて、滅多にないもの。それに、ほかの人じゃ駄目だったんでしょう?」


 今日は、志耀と梅馨ばいけいの兄妹が西方に流される、その出発の日だ。ふたりの母であり、慶煕けいき王のしょうであった花氏かしともども、栄和えいわの国の版図はんとの外に追放されて、生涯帰ることを許されない──皇族を害そうとした罪人に対しては、順当な罰だろうか。


(でも、天子様はやっぱり優しい方だったわ……)


 彼らが追放される西方とは、すなわち慶煕けいき王の姫君の嫁ぎ先だ。かの地の支配者の伴侶として迎えられたかの姫君は、縁ある親子を庇護するだろう。栄和の国境を越えた先で何があるか、こちら側が関与することではない、ということだ。


 歩哨の兵は、城壁の遥か彼方、豆粒のように小さく見える距離にいる。それでも人の耳を憚って、燦珠は小声で霜烈に囁く。


「良かったけど──心配は心配、よね? お見送りの人がいるって伝えられれば良かったのに。……まあ、でも、あの人たちは知らないんだけど」


 霜烈が、後宮の西の城壁に上ろうと思い立ったのは、彼らを見送り、無事を祈る想いがあったからに違いない。名乗ることはできなくても、花兄妹は霜烈の甥と姪なのだから。皇帝や明婉と同様、死なせたくないと思っていたはずなのだ。


 そして、その想いを理解できて、かつ身軽について行くことができるのは燦珠しかいない。


(言いたいことがあるなら、言えば良いのに?)


 首を傾げて見つめていると──霜烈は、目を伏せた。溜息に似た調子で、整った唇が美しい、けれど苦しげな声を紡ぎ出す。


「……淳鵬じゅんほう兄上は、私に目をかけてくださった。というか、私にまともな見識があれば父上を諫められるようになるかもしれぬからと、勉強を見てくださったことがあった。それで桂霄けいしょう──嘉祥かしょう公主とも何度か遊んだ。庶子のふたりまでは、会ったことがなかったが」


 聞き慣れない名前は、遠く離れてしまった人たちのことだと想像がついたから、燦珠は黙って頷いた。「陽春ようしゅん皇子」にも、親しく名前で呼ぶ人たちがいたと知れたのは良いことで、でも、その人たちがもういないのは悲しいことだ。


「桂霄は、清鑑せいかん殿のあの池に身投げしようとまでしていたのだ。傍で見ていながら、私は何もできなかったから──」


 霜烈の指が、城壁の石材に強く立てられる。白く変じた爪が剥がれてしまうのではないかと、心配になるほどだった。


「あの答案を見て、しかも長公主様を狙ったと聞いた時には、もう助からないだろうと思いかけた。興徳王殿下のお怒りはもちろんのこと、陛下のご寛容をもってしても許されぬだろう、と」

「……うん。あの人たちのためにも、急いでくれたのね……?」


 皇帝たちがいち早く清鑑せいかん殿に辿り着いたのは、霜烈の機転あってこそだと聞いた。後宮の暮らしが長いから各殿舎の逸話にも詳しい、ということで乗り切ったそうだけれど、彼にとっても危ない橋だったに違いない。それでも口にしたのは、兄の遺児たちに罪を重ねさせたくはなかったからなのだろう。


「そうだ。長公主様が害されることはあってはならなかったから」


 小さく頷いてから──霜烈は、燦珠に真っ直ぐに向き直った。と思うと、その場に跪き、深く頭を垂れる。


「だからそなたには感謝している。どのようにして伝えれば良いかも分からないほどに」

「……え?」


 初めてのことでは、ないのだけれど。年上の男の人を跪かせる格好に狼狽えて、燦珠は慌てて左右を見渡した。吹きさらしの城壁の上に、好奇の目で見てくるような人影はいない。それでも居心地が悪いから、彼女のほうでも膝をついて、霜烈の顔を覗き込む。


「今、それを言うの? お見送りの日に? 後日で良くない?」

「ほかに言える場所はない。秘華園のびょうも、もう人目につくだろう」

よう太監の部屋は?」

「……もう入れたくない」

「なんで!? この前は良かったのに!」


 非難と驚きを込めて燦珠が叫ぶと、霜烈はなぜかひどく恨みがましい、じっとりとした目で彼女を睨んだ。


「この前の《探秘花タンミーファ》のせいだ。あれの後で、よく室内でふたりきりになろうと思えるな?」

「……どういうこと?」


 しばらくの間、風の音だけが耳に届いた。舞い上がる砂塵に時々目を瞬かせながら、燦珠は霜烈の顔をまじまじと見続けた。綺麗な人は、どんな表情でもとても見ごたえがあるものだから。じっくりと答えを待つのも苦ではない。


(どういうこと、なの?)


 目を見開いて。何か言いたげに口元に力を込めたかと思うと、溜息を零す。何かしらの憤りによってか頬が赤く染まって──その熱を振り払うかのように首を振って。色々な顔を見せてくれた後、霜烈は眉を顰めると、どこか拗ねたような口調で、言った。


「何とも思っていないなら、良い。とにかく──礼が言いたかった。まだ価値を認めてくれるなら、歌でも舞でも、いくらでも唄うし披露する」

真的嗎ほんと!?」


 今の沈黙は何だったのかは腑に落ちないまま、それでも願ってもない申し出に燦珠は目を輝かせた。大人しくしていなかったことで反故になったと思っていたいくらでも、が実現するなんて嬉し過ぎる。


「じゃあ、一緒に演じ(やり)たいわ! 何か、恋の場面が良い! この前の《探秘花タンミーファ》は、とても勉強になったの。私、恥じらいとか色気の演技がやっと掴めた気がして──」

「演技。演技か」


 苦笑しながら立ち上がる霜烈を追って、燦珠もぴょんと飛ぶように直立した。やっぱり、見上げる姿勢のほうがしっくりと来る。


「ええ。見せてもらうだけではもったいないもの。楊太監や芳絶ほうぜつさんみたいに、色気のある演技もできるようになったら良いな、って!」

「そなたの糧になれるなら光栄なこと。──では、そろそろ降りるか。風邪をひいてはいけない」

「ええ!」


 どうやら霜烈は了承してくれたようだ、と思うと燦珠の足取りはいっそう軽くなる。踊るように石段を降りながら、彼女の頭はどの演目を強請るかでいっぱいだ。


(悲恋──よりは明るいお話のほうが良いかしら。《探秘花タンミーファ》は公主役だったから、違う役どころとか? 衣装も借りられないか、隼瓊しゅんけい老師せんせいにも相談してみようかしら)


 頭上から降り注ぐ陽光は眩しく、風が運ぶ新緑の香りは芳しい。何もかもが輝き生気に満ちる夏が近づいている。燦珠の人生もまた、眩しい季節を迎えているに違いないと思えた。

 「娘役者は後宮に舞う」、第二部は今話にて完結です。新しいキャラクターに新たな陰謀、また、進展した関係も描けました。ご意見ご感想など、お気軽にお寄せいただけると嬉しいです。また、楽しんでいただけましたら評価を入れていただけると励みになります。

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2025年1月24日 角川文庫より1、2巻同時発売!

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