5.長公主、翠牡丹を得る
今回の状元は、五十歳だったという。
すでに成人した息子と机を並べて受験したそうだ。息子のほうは、あいにく今回は及第しなかったというけれど、数年後には父子揃って兄に仕えてくれるのではないだろうか。めでたいことではあるけれど、もちろん、年上の息子がいる者は明婉の駙馬にはなり得ない。
ほかに、目立った合格者でいえば、沈貴妃香雪の父君の教え子がいる。
師の教えが良かったのだろう、三十半ばの若さで第三席の探花に選ばれたのだ。妻子はすでにいるものの、年齢だけ見れば明婉と釣り合いが取れなくもないけれど、この男については父が難色を示した。祝宴で披露した《探秘花》と同じ筋書きになってしまうのはよろしくない、まるで明婉が迂闊に男の前に姿を見せたように思われてしまう、との主張だった。
(実際、迂闊に殿方に姿を見せてはいるのだけれど……)
身分に相応しからぬことをしでかしたという自覚のある明婉は、内心で首を傾げてはいる。とはいえ、娘にして妹たるもの、父や兄の意向には逆らわないものだ。ふたりとも、彼女を思ってくれているのだとは、理解していることでもあるし。
「まあ、そういう訳でそなたの縁談は当分保留となった。心を落ち着ける必要があるだろうとは、誰の目にも明らかだろうからな」
「お心遣いありがとうございます、お兄様」
なので、多忙な政務の合間を縫って見舞ってくれた兄に、明婉は大人しく感謝を述べた。こういう時に茶菓を出してくれるのが、梅馨でないことにはまだ慣れないけれど──慣れなければいけないのだろう。
「結婚は──いつでも、どなたがお相手でも構いませんでしたの。本当に。でも、梅馨のことを思うと、今は喜べそうにないですから……」
明婉は何も知らなかった。
ずっと傍に控えてくれていた侍女が近しい親族であったことも。年を経ても褪せぬ美貌と教養を尊敬していた彼女の母、花夫人が、会ったことのない従兄、慶煕王の未亡人だったことも。姉君は、皇族の姫君の中から生贄のように選ばれて、辺境に嫁がされたことも。
(もしも慶煕王殿下がご存命だったら──)
花夫人は王の側室で、梅馨も兄の志耀も皇族の一員に留まっていたはず。科挙の進士に嫁ぐという栄誉──世間から見ればそうなのだ──は、梅馨や姉君のものであったかもしれないのだ。
傍系の兄が即位するのを見て、花兄妹は胸に無念の火を燻らせていた。そこに、明婉の縁談が油を注いだ。不正じみた手段で状元を仕立てるということ、皇帝の父の権力を振りかざしてそれを行うということ、いずれもあのふたりには許し難いと思えたのだ。
(しかも、わたくしがあんなことを思いついたから。燦珠たちにも、迷惑を……いえ、迷惑どころか恐ろしいことになってしまって)
燦珠の翠牡丹が盗まれたのは役者や妃嬪の嫉妬が原因ではなく、ほかならぬ明婉の計画のせいだったと知って、明婉は倒れそうになったのだ。
捕らえられた梅馨は、明婉が知る由もなかった計画の全容を語ったのだという。
『母は、慶煕王妃様ともやり取りがございましたので、文宗様時代の後宮の様子を多少は存じておりました。秘華園の役者は大層な特権を与えられていると聞いたので、翠牡丹とやらを使えば上手く行くのではないか、と──』
忠実な侍女が上手くやってくれたのだろう、だなんてふんわりとした認識でいてはならなかったのだ。梅馨は、最初から翠牡丹を盗むつもりで後宮に乗り込んでいた。そして、その状況を董貴妃に利用されてしまった。
明婉が梅馨や志耀に謝ることは、もうできない。彼女の思いつきさえなければ、彼らが罪を犯すこともなかったはずなのに。
『今は──明婉様がご無事で良かったと、思います。あの太監に言われてやっと気付きました。亡き父が、あの方の死を望むはずはなかったのです』
梅馨がそう語ったというのは、本当だろうか。兄の優しい嘘ではないのかどうか、明婉に確かめる術はない。梅馨とは、もう会えない。
それに、彼女が責を負うのは梅馨に対してだけではない。
兄の寵妃への濡れ衣も、楊太監が打たれたのも、燦珠が怪我をした上に《探秘花》に出演できなかったのも。花志耀が後宮に侵入して重い罪を背負うことになったことも。すべては明婉の軽率が原因だった。
「反省を示すためにも、しばらく謹慎したほうが良いと思っております。慶事などは、とても」
「謹慎など。そなたは何が悪かったか、もう十分に分かっているであろう?」
俯く明婉に、兄の苦笑交じりの呟きが落ちてくる。
(お兄様は、妹に甘くていらっしゃる……)
今回の件の何もかもについて、明婉は父と兄にたっぷりと叱られていた。そもそも、こっそりと答案を採点して欲しい、というところからして大それた願いなのだ、と。
女が出過ぎた真似をするものではない、という父の言い分は、覚悟していたからまだ良かった。
けれど、兄からの叱責のほうが明婉には堪えた。権力ある者はそれを濫用してはならない。明婉の答案によって合否が別れた者もいるかもしれない。受験者の生涯を懸けた努力を何だと思っているのか、と──返す言葉が、ひとつも見つからなかったから。
「だって。皇室の名誉にも関わることになってしまいましたから」
ささやかだったつもりの願いが引き起こした影響の大きさを思って、明婉は改めて縮こまる。
今回の件をどこまで記録に残すかについては、兄や父や高官の間でも意見が分かれたらしい。
つまり、後宮への男の侵入を許し、長公主が危うく害されるところであった、と公表すれば醜聞になる。いっぽうで、事実を隠せば董家を糾弾する理由がひとつ減る。さらには、花兄妹を罰することもできなくなる。起きていない事態に対する罰などあり得ないのだから。
父は、事実を秘して、花志耀は会試で皇帝を誹謗した咎で罰すれば良い、と言って、明婉を醜聞から守ろうとしたそうだ。
いっぽうの兄は、狭量な皇帝と評されることこそが耐え難いと主張したという。治世の最初の科挙で、受験者の言論を封じるような真似をしては、今後の統治に支障が出かねない、と。
「そなたの名誉にも関わることであろう。世間の邪推を招きかねないこと、すまなく思っている」
「当然の報いで、正しいことですわ。お気になさいませんように」
兄の主張にこそ理があると明婉も思うし、高官たちが兄を支持してくれたのは喜ぶべきことだ。花志耀が彼女に何かしらの狼藉を働いたのでは、なんて噂されるのは甘受しなくてはならない。董貴妃や花兄妹と違って、皇帝の妹という身分では罰せられるということはないのだから。
「……そなたが喜びそうな報せがふたつある」
「まあ、何でしょうか」
自分がしでかしたこと、これから梅馨たちに起きることを思って、明婉の心は沈んだままだった。だから兄の言葉への相槌も素っ気ないものになってしまったのだけれど。優しい兄は咎めることなく、悪戯っぽく微笑んだ。
「ひとつ目だ。そなたの郷試の答案を採点した官に照会したところ、花志耀の名は知らなかったとの回答だった。皇室の血を引くか否かに関わらず、内容だけで通したということだな」
「──え」
今の明婉の気分を上向かせる贈り物なんて、あるはずがないと思ったのに。今、兄は何と言ったのだろう。目を見開いた明婉に、兄は笑みを深めると、噛んで含めるように言い聞かせる。
「そなたは自力で郷試に通っていたのだ。二十歳にもならぬ若い身でなんとめざましいことだ」
「お兄様。それは、では……わたくし──」
それ以上、言葉を紡ぐことができなくて唇を震わせていると、兄は明婉の頭をそっと撫でた。小さな子供にするかのように。
「よくやったな」
「……っ、はい。ありがとう、ございます……!」
兄の手の温もりも、かけられた労いの言葉も、ただでさえいいっぱいいっぱいだった明婉の心の堰を溢れさせるのに十分だった。胸に込み上げる、何だか分からない色々な想いと同時に、涙がぽろぽろと流れ落ちる。思わず顔を掌で覆うと──ひやりとしたものが、手の甲に触れる。
「そしてこれは、ふたつ目だ。そなたのために、造らせた」
慌てて掌をどければ、目の前には翡翠の牡丹が差し伸べられている。本物の花のように精緻な彫刻は、確かに燦珠たちが持っているものと同じに見える。でも、これは明婉などが持ってはいけないものだ。
「あの、翠牡丹が欲しいと申したのは、方便で。わたくしが、役者だなんて、とても」
董貴妃仙娥を追い詰めた時の一幕は、当然兄の耳にも入っている。でも、演技でやった高慢な振る舞いを真に受けられているのだとしたら心外なこと、早急に兄の誤解を解かなければ。
「だが、そなたは『梨燦珠』を見事に演じたのだろう? 花志耀を惑わせて時間稼ぎをしたのだと聞いた」
でも──狼狽える明婉を前に、兄は楽しそうに笑うだけ。どこか、悪戯を成功させて喜ぶ気配さえ感じられた。
「……あれだって。燦珠のお陰です。何も知らなかったのに、咄嗟の機転であんなことができるなんて」
もしも燦珠が来てくれなかったら、明婉はあっさりと殺されていたはず。
そしてその罪によって、花志耀も梅馨も死を賜っていたはず。あの眩しくて強い娘は、たくさんの命を救ってくれた。それに比べれば、明婉に誇れることなどあるようには思えないのに。
「父上は眉を顰められるだろうが、華劇はそれ自体では悪いものではない。俺も香雪も、息抜きに訪れることもあるだろう。そなたもたまには同席すれば良い」
「はい。それは──光栄ですわ」
兄の話の繋がりが見えなくて、明婉は曖昧に相槌を打つ。燦珠たちの演技がまた見られるのは嬉しいこと。兄と沈貴妃が仲睦まじいのも素晴らしい。でも、翠牡丹をもらえてしまうことと、何の関係があるのだろう。
明婉の疑問を感じ取ったのだろう、兄はやや声を潜めて、内緒話のように囁いた。
「歌舞を楽しみながらのやり取りは、余人に聞かれることもない。身分も年齢も、男女の別も関係なく──そなたも、遠慮する必要はないのだ」
「あ──」
芝居を楽しむ席にかこつけて、政治について意見を述べて良い。若いから女だからと咎められることはなく、兄も話を聞いてくれる。そう言われているのだとようやく理解して、明婉は頬が熱くなるのを感じた。口元も緩んで、自然に笑みを形作るのが、分かる。
「そのためにも芝居好きの長公主、との評判を築いておいてもらいたいのだが。不服ではない、よな……?」
そこまで聞けば、もはや断る理由は何もなかった。燦珠ともお揃いの、とろりとした艶が美しい翡翠の花。役者たちのように誇れるものが欲しいと、たぶん彼女はずっと願っていた。
「そのようなこと、あり得ませんわ……! これは、わたくしの何よりの宝物になりましょう。わたくしが、自分の力で掴みとったものなのですもの……!」
兄の手から翠牡丹を受け取ると、ひんやりとした石の冷たさが、彼女の体温が上がっていることを教えてくれた。高揚の熱を翡翠に伝えようとするかのように、明婉はもらったばかりの玉の牡丹を強くしっかりと抱き締めた。