4.燦珠、恥じらう
その後、会試の採点結果が掲示され、殿試は滞りなく行われ、最終的な合格者とその序列も決定された。
そして、秘華園は不正にかかわっていない──翠牡丹が引き起こした疑惑は、すべては董貴妃の陰謀によるものだった、ということになったから、祝宴での《探秘花》の上演も予定通りに実現にこぎつけた。
皇父・興徳王殿下は、役者が外朝で演じることに心から賛成したご様子ではなかったそうだけれど、皇帝が押し切ってくれたらしい。無事に意識を取り戻した明婉の訴えも、大きな後押しになったと聞く。というか、秘華園を見舞った本人が教えてくれた。
『お父様にもお兄様にも、たくさん叱られたの。当然のことなのだけれど。でも──助かったのは燦珠のお陰だと、しっかりと念押ししておいたから……!』
必死の表情で語った明婉は、ご自身のせいで燦珠を巻き込んでしまったと気に病んでいたらしい。燦珠のほうでは、長公主を楼閣から飛び下りさせたことに対するお咎めがなくて安心したくらいだったのだけれど。
ふたりとも危ないところだったのは確かなのだけれど、落ち着いて考えてみると──考えなくても──あれはあれでとても危険かつ無礼なことには違いなかった。
花兄妹の処遇が決まるのはこれからだけど、皇帝は妹君の心情を汲んでくださるだろう。先帝の血筋に繋がる出自も嘘ではなかったというから、過剰に残酷な罰がくだされることはないだろうと、燦珠は霜烈のためにも願っている。
すべては良いように収まるはずで──だから、燦珠自身は《探秘花》に出演できないとしても、大したことではないはずだった。
* * *
秘華園の練習場のひとつにて、外朝の方角を望みながら、燦珠はもう何度目かに嘆いた。
「今ごろ始まってるんでしょうね……出演たかったなあ……!」
椅子に掛けて、足をぷらぷらとさせて。行き場をなくしてあり余ったやる気と体力を持て余す燦珠を、傍らに佇む霜烈が呆れたように見下ろしてくる。
「怪我人なのだから仕方あるまい。曲に合わせて踊るなら、手の動きだけにしておきなさい」
「はあい」
あの夜、清鑑殿の楼閣から跳び下りた燦珠と明婉は、さすがに無傷と言う訳にはいかなかった。ほとんどは水面に叩きつけられた時の痣や打撲で、痕が残るような重傷ではなかったけれど、窓枠を踏み切った時に、燦珠は足首を捻っていたのだ。
(もう治ってるんじゃないかと、思うんだけど……)
日常生活を送る分には、もうほとんど痛みはない。多少の痛みなら我慢して踊れる、とも思う。
でも、無理せずいったん完治させろ、が隼瓊や霜烈、さらには同輩たちからの一致した意見だったので、しかたなく従っているのだ。足を怪我したことのある喜燕や玲雀に言われたら、反論の言葉があるはずもない。
「……玲雀の舞も綺麗だもの。喜燕と共演できて嬉しいでしょうし」
燦珠に代わって牡丹精を演じることになったのは、玲雀だ。足の怪我から復帰してすぐに翠牡丹を得ていた彼女は、練習を見て振り付けを完璧に覚えていたらしい。代役を募った時に、即座に名乗り出ていたのはさすがだった。見習わなければ、と思う。
(出られないのは仕方ないけど……でも、袖でも良いから見たかったなあ)
着替えの手伝いでもできれば、と思ったのだけれど。痛みが出た時に手当や休憩ができるとも限らないから、ということで却下されていた。
なお、霜烈も秘華園に留まっているのは、燦珠を見張るためだけではない。彼も、傷が癒えてない弱った身体で冷水に入ったことで、熱がぶり返していたのだ。体調が万全でない者が公の儀式の場にお呼びでないことは、たとえ鐘鼓司太監でも変わらないのだ。
(楊太監も、絶対楽しみにしてたのに)
燦珠としては、ひとりで留守番にならなくて良かったいっぽう、霜烈の心中が思い遣られてならない。
祝宴を見られなかった者同士で愚痴でも言い合おうか、とも思うのだけれど、かえって無念さが募るだろうか。霜烈の表情を窺いながら、そっと、唇を尖らせてみる。
「泰皇殿に入るのも楽しみだったのに。後宮に入る時に見たきりなんだもの」
科挙の合格者を祝う筋書きを、まさに現実の同じ祝宴で演じるのだ。観客であるはずの進士たちや高官や王侯さえも背景の一部になって、舞台をいっそう豪華に見せる趣向だと聞いている。
仙鶴や獅子の錚々たる高位の補子に、位によって少しずつ色や意匠を変えた皇族の龍袍が居並ぶ様は、さぞ壮観だったろうに。
「次の科挙は二年後だな。また《探秘花》を演じられるか、ほかの演目になるか──そもそも秘華園がどうなっているかも分からないが」
燦珠と同じく外朝の方角を見上げながら、霜烈の言葉はやけに悲観的だ。それは、芝居なんて偉い人や政の都合で翻弄されるものだということは、今回の件で嫌というほど分かった。偉い人たちと交渉する彼の苦労も、重々承知しているのだけれど。
(良いほうに変わっているかもしれないじゃない……!)
先のことを憂えるよりも、二年間で何ができるかを考えたほうが楽しいはずだ。明るい未来も思い浮かべて欲しくて、燦珠はあえてはしゃいだ声を上げる。
「……二年後には公主役ができるようになってると良いわ! 姸玉も喜燕も玲雀も強敵だけど。ほかの演目だったとしても、誰からも文句を言われないように……!」
「そうだな」
少々のわざとらしさには気付かれなかったのか、燦珠のことだから本心から言っていると思われたのか。彼女を見下ろす霜烈の眼差しが、少し笑んだ。
外朝からは、夜風に乗って微かに楽器の調べが聞こえてくる。星を貫くような鋭い打楽器ではなく、嫋々とした弦楽器の音が、場面の移り変わりを教えてくれる。絢爛な群舞が終わって、主役ふたりが出会う場面に差し掛かるのだろう。
(星晶と姸玉の出番……!)
同じ時に同輩たちが演じていると思うと、意識がそちらに向かってしまう。せっかく広い練習場を独占できるのに、練習どころではなかった。
首を伸ばすようにして、そわそわと音楽の聞こえる方角を窺って身体を揺らしていると──遠慮がちに、声がかけられる。
「──唄って、みるか?」
「え?」
この場にいるのは、燦珠のほかには霜烈だけ。声の主も考えるまでもない。それでも、いったい何を提案されたのかすぐには分からなくて、燦珠は目を瞬かせた。
「公主役の詞は覚えているであろう。この距離ならば聞こえないし、星晶たちへの非礼にもならぬだろう」
他人の役の歌や台詞を、本人の前で堂々と練習するのは、それは失礼だ。
自分ならこうする、というのを見せつけることになってしまうのだから。そういうのはこっそり隠れてやるものだ。
だから、《探秘花》が今まさに演じられている泰皇殿から遠く離れているここでなら、というのは分かるとして。公主役の姸玉だけでなく、探花役の星晶にまで言及するということは──
「……楊太監も、一緒にってこと!?」
思わず叫ぶと、霜烈はなぜかふいとそっぽを向いて早口に言った。
「無理にとは言わない。私の歌は、そなたを引き留めることができなかったのだし。演技もすぐに見破られたということだし……」
大人しくしていろ、と言われたのに従わなかったのを、霜烈は彼の歌に魅力が足りなかったからだ、と解釈したらしい。芳絶との演技の件でも、何やら矜持を傷つけられたように思っているのかもしれない。
「ううん! 唄いたい! ぜひ! お願い!」
燦珠が絶句したのは、嬉し過ぎて固まっていたからだというのに。やっぱり止めた、なんて言われないように、食らいつくように身を乗り出すと、霜烈は嬉しそうに微笑んで燦珠の傍らに膝をついた。
「では──」
この場面で先に唄い出すのは、探花のほうだ。皇帝に献上する花を探しに訪れた庭園で、思いがけず秘められた花──公主と出会った驚きと喜びが紡がれる。
我要選摘最美的花 もっとも美しい花を摘むのが我が務め
没想到那就是君女 それが主君の姫君だとはどうして想像できようか
知道必須翻身離開 すぐに顔を背けるべきと分かっていても
但我怎么敢不要你 貴女を求めずにはいられない
喩えようもなく美しい微笑が、耳を蕩かすような美しい声が、心からとしか思えない賛美を伝えてくれる。芳絶との演技で感じたぎこちなさは何だったのかと思うほどだった。霜烈は、やっぱり容姿や声だけでなく演技力も卓越している。
(お姫様がこんな想いを向けられたら──それは、恥じらうわね)
いつかの姸玉の助言が改めて腑に落ちて、燦珠はそっと目を伏せた。
綺麗な顔は正面から見たい、だなんて言っている場合ではない。身分にも関わらず姿を見られてしまったことへの戸惑い、想いにどう応えれば良いか分からないという不安を、出会いの喜びが上回る。それをあからさまに表現するのも怖いけれど──それでも伝えたい。それらの想いが混ざり合って、恥じらいの表現に集約されるのだ。
普段着だからとか、伴奏は微かにしか聞こえないとか、そんなことはどうでも良かった。《探秘花》の世界に、公主の役に完全に入り込んで、燦珠はそっと唇を開く。
花被選摘給交某人 花とは誰かに摘まれる定め
没法希望自己選摘 相手を自分で選ぶことなんてできないのに
知道必須翻身離開 すぐに顔を背けるべきと分かっていても
但我怎么敢不要你 貴方を求めずにはいられない
燦珠の手が、温かいものに包まれる。霜烈の手だ。顔を見られた羞恥に逃げようとする公主を引き留めて、探花はさらに愛を囁くのだ。古今の詩を引用したうえで、さらに美しく離れがたいと。才子の学識を目の当たりにして公主はいっそう想いを深め、やがて真っ直ぐに向き合うことができるのだ。
(出演できなくて──良かったかも)
役者としてあるまじき考えが頭を過ぎってしまうほど、幸せな時間だった。椅子に座ったままでは、できる所作は限られるのだけれど。歌と仕草と眼差しを駆使して、霜烈と演じるのは楽しかった。
唄いながら、視線を絡ませては逸らして。取り合った手は、時に逃れようとわなないて、けれど優しく繋ぎ止められて。想いを乗せて歌を紡げば、同じだけ情感溢れる声が受け止めてくれる。
ふたりして作り上げる世界は、この上なく濃密で美しいものだ。誰ひとりとして観客がいなくても、あるいはだからこそ貴重で贅沢な時間。
この一幕を知っているのは、燦珠と霜烈だけなのだ。