3.燦珠、濡れそぼつ
宙に浮いて、空を飛べるような気がしたのはもちろん一瞬だけだった。飛び出した勢いがなくなったあとは、内臓が見えない何かに掴まれるような感覚と共に落下が始まる。
(落ち──)
当たり前のことに、今さらながら驚き慌て、燦珠は空中で明婉と抱き合った。
耳に感じる風は速く、それだけすぐに地上が迫っているのだと分かってしまう。数秒に満たないはずの時間は、けれどひどく長くて──燦珠には、下にも月が見えることを不思議に思う余裕さえあった。
上下の区別もつかなくなっている訳では、なくて。上に輝く月とは違って、輪郭を揺らめかせるほう、今まさに彼女たちが飛び込もうとしているほうは──
(……水? 池?)
水面に月が写っているのだ、と理解した瞬間、高い水飛沫が上がった。
燦珠の目に映る月は、今度は水の膜の向こう側に朧に霞み、燦珠がばたつかせる手足が起こす水流によって姿を歪めている。そう、彼女は確かに生きてはいるのだけれど。
(息……痛──苦し……!)
唇から泡が漏れ、代わりに青臭い水が口内に入ってくる。
水面に打たれた身体は痛いし、息は苦しいし、濡れた衣服は纏わりついて彼女を水底に引きずり込もうとしているかのよう。時おり手足に感じるぬるりとした感触は、魚でもいるのか藻が茂っているのか、いずれにしても気持ち悪い。何より、真っ暗なのが、怖い。
(助けて……!)
と、何度目かに闇雲に振り回した手が、掴まれた──と思うと、ぐいと上に引っ張られる。
そして次の瞬間には、燦珠の頭は水面を破っていた。夜の風が濡れた髪や頬を撫でる冷たさに震えながら、新鮮な空気を求めて動こうとする肺のせいで大きく咳き込む。いまだ水の中、爪先も水底につかない状態では、普通ならそんなことはできないはずなのだけれど──彼女を頼もしく支えてくれる存在が、いる。
「ふたりとも掴まえた! 引き上げてくれ!」
水に浮いて、両腕にそれぞれ燦珠と明婉を抱えた不安定な体勢でも、霜烈の声はやはり綺麗でよく響いた。明婉は、意識を失ってはいるようだけれど、顔はちゃんと水面から出でいる。手当をすれば大丈夫だろう。
霜烈の身体に綱でも巻いてあったらしく、三人はゆっくりと岸──と思しき明るいほうに──近づいていく。その明るさは、すぐに、楼閣を取り囲むように設けられた篝火や宮衛が携えた松明だと分かる。そのころには燦珠の足も確かに水底の柔らかい泥を捉えていたから、彼女はようやく息を吐くことができた。
「長公主様──」
「早く、侍医を……!」
と、ようやく乾いた地に足をつけた燦珠たちに、布を抱えた宦官が何人か駆け寄って来る。ほとんどは、長公主である明婉に殺到し、ぐったりした貴人の姿を隠しつつ用意されていた轎子に運んでいった。
(助かった……?)
明婉のおまけのように渡された布に包まると、ようやくひと心地ついた。改めて見上げた楼閣の高さは、首がほぼ直角に曲がってしまうほど。あそこから跳び下りたのだと思うと、夜風の冷たさや濡れた身体のせいだけでなく、足が震えてくる。
と、燦珠を夜風から守ろうとするかのように、霜烈が彼女の背後、それもごく間近に立った気配がした。彼も全身濡れそぼっているのだろう、ぽたぽたと滴る雫が草葉に落ちる音がする。
「清鑑殿とは、水鏡を擁するがゆえの命名だ。暗くては分からなかったかもしれないが」
「うん……全然気づかなかった……」
霜烈越しに恐る恐る振り向けば、月灯りと炎によって照らされた水面はとても広い。ちらちらと波が光る範囲すべてが池なのだとしたら、昼間なら見渡す限りの池が庭園を水鏡に映す絶景が見えるのかもしれない。
(楼閣の入り口からは、裏側になっていたから……で、窓から池が見えるように造られていた、のね……?)
花志耀に思惑を知られぬよう、霜烈は歌の詞になぞらえて指示してくれたのだ。思い切り跳べば池に落ちて助かる、と。
納得したところに、燦珠の頭上に深々とした溜息が降ってきた。
「そなたなら跳んでくれるだろうとは思ったが。──本当に、躊躇わないな」
そういえば、万寿閣の上層から跳び下りた時も、同じようなことを言われていた。取り決め通り、言われた通りに行動したのに責められるのはおかしなことで、燦珠は少しだけ笑った。
「楊太監なら、受け止めてくれるのかなって思ったから」
実際は水面に受け止められた訳で、怖かったし痛かったし驚いたけれど。
でも、明婉ともども無事だったから良かった。燦珠は、霜烈の正面に向き直ってそう伝えようとした。
「……楊太監?」
でも、その前に背中から抱き締められた。とても強く──軽くよろめいてしまうほど。
「前の時とは、話が違う。清鑑殿にいると聞いた時、翠牡丹を見つけた時、上から声がした時。どんな気分だったか分からぬだろうな? そなたは──ちゃんと生きているか?」
「い、生き、てる……!」
耳元に切々と語りかける囁きに、背中に感じる温もりに、身体に回された腕の力強さに。顔は熱くなるし胸は高くうるさく脈打つし、死にそうな気になっているけれど。包まった布越しに抱き締められるのは、形だけなら万寿閣の時と同じだけれど、それこそこの状況とは話が違う。
それに、責めるような物言いをされては、燦珠にだって言い分がある。
「わ、私だって。気が気じゃなかったのに……!」
しれっと庇われて、杖刑を受けるところを目の当たりにさせられて。鐘鼓司太監なら当然のことだなんて思えなくて。だから自ら動きたくてこんなことになったのは──やっぱり、褒められたことではないかもしれないけれど。
腕の拘束を振りほどいて、今度こそ霜烈に相対しようとしたのだけれど。燦珠がそれを実行する前に、男性の低い声が遠慮がちに割って入った。
「あー──花志耀は、捕らえたぞ。自害しようとしていたが、させるものか。経緯も、董貴妃との関わりも、すべて吐き出させる」
後宮にいる男性は、すなわち皇帝だけだ。花志耀が捕らえられたならなおのこと。天に等しい御方が間近に現れたと知って、燦珠は跳ねたし、霜烈も慌てたように腕を解いた。
「陛下。お見苦しい姿にて──」
「いや。朕こそ邪魔をして悪かった。汚れるからそのままで良いぞ」
跪こうとする燦珠と霜烈を止めた皇帝は、なぜか困ったような表情をしていた。長公主を狙った陰謀のさ中なのだから当然、と思うには、どうも緊迫感がないのが不可解ではある。
(というか、気まずそうになさっている……?)
もちろん、燦珠に尊い御方の心の裡を推し量ることなんてできない。対面することを許されたとはいえ、皇帝の表情を窺うことさえ本来は非礼なのだろうけれど。
「それに、妹の恩人を跪かせる訳にはいかぬ。そなたたちがいなければ、明婉はどうなっていたことか……!」
そういう皇帝の龍袍こそ、泥や土埃に塗れていた。明婉のために奔走したのが窺えて、燦珠は改めて良かった、と思う。そして同時に、一抹の不安が胸を過ぎる。
「あの」
皇帝が、妹君を大切に思っているのは明らかだ。捕縛を伝えた時の語気も荒かったし──明婉の思いを、事前に伝えておいたほうが良いのではないだろうか。
「私も、何が何だか分からないんですけど。長公主様は、あの男を助けようとなさっていたようでした。罪を重ねないように、って。できれば科挙をちゃんと受けさせたいご様子でした。あの人──あの、文宗様の血を引いてるとも言っていて。もしも本当なら──」
言葉にしてみると、とても畏れ多いことを言っている気がして、最後まで言い切ることができなかった。けれど、皇帝は咎めることなく頷いてくれた。
「あるていどは承知している。無論、まだ分からぬ部分もまだ多いのだが。そなたたちにも、改めて話を聞かねばならぬが──まずは休め。楊太監も、まだ傷が癒えておらぬだろう。……この際だから言っておくが、朕の本意ではなかったのだ」
最後のひと言は燦珠だけに向けて、しかも声を潜めて囁かれた。どうやらあの杖刑のことを気にしていてくださったらしい。
「……はい。そうだろうとは、存じております」
燦珠だって、あの時の皇帝の苦い表情に気付かないほど動転していた訳ではない。父君の怒りの矛先を逸らすためにしかたなく、だったことは承知している。そもそも翠牡丹を紛失したことについては彼女自身にも責がある。でも──
(天子様が私に謝ってくださるのは、違うと思うんだけどなあ?)
お言葉があるとしたら、興徳王から霜烈に対して、だろうに。とはいえそんな疑問というか不満を口にすることなんてできないから、燦珠は曖昧に頷くだけだ。
「翔雲! 明婉は──」
と、慌ただしい足音と共に、またも男性の声が近づいてきた。
皇帝と長公主とを呼び捨てるのは、燦珠が今まさに思い浮かべた皇父殿下その人だった。燦珠たちの顔が見分けられたであろう辺りでぴたりと足を止めたのは、宦官と役者が立ったまま皇帝と相対しているのが不快なのだろうな、という気がする。
実際、興徳王は口を開けて大きく息を吸い込んだ。けれど、何かしらの叱責が発せられる前に、皇帝がぴしゃりと言い放った。
「父上。この者たちの働きによって明婉は救われました。相応の御言葉があるべきかと存じます」
あの時とは打って変わった毅然とした態度に、燦珠は目を瞠ったし、霜烈も息を呑んだようだった。もちろん、子に叱られるような格好になった興徳王も、篝火の灯りでもはっきり見えるほど頬を紅潮させた。でも──言われたことの内容も、大まかな状況も、察してくださったらしい。吸った息を吐いて、さらに深く呼吸すること、数度。燦珠たちから軽く顔を背けてから、皇父殿下はぼそりと呟いた。
「……大儀であった」
不正の罪を犯したと決めつけたことへの謝罪ではないし、感謝の言葉とも言い切れない。でも、このお歳の方が目下の者に対して節を曲げるのは一大事なのだろう、ということもまあ分かる。
「恐れ入ります。ありがとうございます!」
なので燦珠は、これまでの色々を許して差し上げることにした。




