6.燦珠、尾行する
燦珠の行く道を、月が明るく照らしてくれている。灯りを持たずに飛び出してしまった、と気付いたのは走り出した後だったのだけれど、これなら迷わなくて済みそうだった。
(ほら、もしも何かあっても見つかりにくいかもしれないし!)
翠牡丹を餌に、何かしらの悪巧みが行われようとしている、という可能性は否定できない。だから、闇に紛れて様子を窺うのはそう間違ったことでもないだろう、たぶん。
(……でも、人気がないわね? お妃がいない辺りならこんなものなの……?)
清鑑殿の場所は、霜烈を訪ねる道すがらに星晶から聞いていた。
外廷にもほど近い後宮のはずれだから、宦官の見廻りも手薄になっているのかどうか。──だから盗品をこっそり返すのにも向いているのか、燦珠を誘い出すにも都合が良いのか、どちらだろう。
周囲の様子に気を配りながら進むうち、やがて、月とも星とも違う煌めきが木々の間に見えた。釉薬の艶を帯びた瑠璃瓦は、闇の中でも日中の壮麗さの面影がある。歩いてきた距離と方角からして、清鑑殿の外玄関、広亮門に違いない。
香雪や華麟、貴妃たちの殿舎を訪ねた時の記憶と照らし合わせれば、たぶん、その奥に主人が暮らす正房の目隠しとなる影壁や、中庭に続く垂花門があるはずだ。もちろん、使用されていない殿舎の門は固く閉ざされているはずだけど。
(だからこの辺、だよね……?)
翠牡丹は殿舎の門に、なんていう大雑把な指定をしてきた以上は、分かりやすい場所に置いておいてもらわなければ困る。広亮門の前の石段を駆け上がった燦珠は、闇にも慣れてきた目で辺りを見渡し──そして、小さく歓声を上げた。
「あった!」
門を守るように左右に配置された獅子の彫刻、その片方の足もとに、見慣れた翡翠の艶が見えた。大切に、掌で包み込むように拾い上げれば、燦珠の手にとてもよく馴染む。
明るいところで見ないと断言できないけれど、彼女の翠牡丹がようやく返ってきたと思って良いだろう。
(良かった! 後は、早く帰らないと……?)
喜燕や星晶が心配しているだろうし、そろそろ霜烈も戻っているかもしれない。こんな寂れた殿舎に長居は無用と、燦珠が踵を返しかけた時──けれど、人声のようなものが耳に届いた。
「あれ……?」
たとえ闇の中でひとりきりでも、幽鬼だとは思わない。だって、声を潜めた男と女のやり取りなら、人目を忍んでの密会だと考えるのが自然だから。問題は──この後宮では低い男の声は本来あり得ないはずだということ、もう片方の、細く澄んだ少女の声は、どう考えても聞き覚えがあるものだということだ。
(長公主様、よね? どうして……?)
燦珠は、耳には自信がある。歌も台詞も、聞いただけで覚えるのは役者にとって大事な資質だ。相手が役者でもそうでなくても、声の響きを聞き分けるのも勉強になる。夜の風に乗って聞こえる、野の花の蕾が綻ぶ様を思わせる可憐な声の主は、長公主明婉に違いない。
(秘密の恋人がいたってこと? 《探秘花》じゃあるまいし……!)
そんなことはあり得ないと、燦珠だって思っていたし、同じく深窓の姫君である華麟もそう言っていた。でも──では、明婉は誰と、なぜこんなところで会っているのだろう。
「きゃ──?」
訝しむうちに、明婉の悲鳴が聞こえたので燦珠は飛び跳ねた。
(人を呼んでる……暇は、ないわね!)
長公主に狼藉を働く不埒者がいるなら、一秒の猶予もならない。あんなか弱い華奢な御方が怖がっているなら放っておけない。
(私が、中にいるって分かるようにしないとね)
それでも、駆け出す前に、広亮門の真ん前に翠牡丹を置いておくのを忘れない。これで、燦珠が確かにここに来たこと、翠牡丹を放り出してでも見過ごせない何かあったのだと、後から来た者に分かるはず。
空き家のはずなのになぜか封が壊されていた門を抜けて、燦珠は清鑑殿の敷地に入った。内門の垂花門までひと息に駆けたところで──内側から聞こえた男の声に、立ち竦む。
「私と梅馨の父は慶煕王。祖父は文宗帝。世が世なら、貴女がたよりも尊ばれるべき者でした」
ここでも、門扉は完全に閉ざされていなかった。だから、中庭の様子を覗き見ることができる。
手入れされていない草が敷石を押しのけて生い茂り、月光と、中のふたりが携えていたらしい灯りが、塵と埃にくすんだ風情の正房を浮き上がらせる。それに──華奢な少女を抱きすくめる、若い男の姿を。
「我らの無念を、興徳王とその世子に思い知らせるため。貴女には死んでいただく。自らの所業で娘や妹を死なせたとなれば、さぞ悔やみ悲しむだろう……!」
声を立てぬよう、掌で口を塞ぎながら。燦珠は漏れ聞こえたことを理解しようと必死に頭を働かせた。
(慶煕王……先帝の、皇子様!? 楊太監のお兄さんのひとり──の、御子? 今、無念って言った……!?)
無念とやらの内容は、想像がつく。
華麟から聞いた先帝の皇子たちの末路はいずれも悲惨なものだった。父君が生きてさえいれば、帝位に就いていたのは自分だったのに、とかそんなことを言いたいのだろう。帝位を巡っての企みごとの陰惨なこと、燦珠も《偽春の変》で知ってしまっている。
(でも、長公主様には関係ないわ!)
大声で怒鳴りつけてやりたかったのを、燦珠は自分の手に噛みついて堪えた。彼女が飛び出したところで、小娘ひとりではあの男が明婉を害することを止められそうにない。
(長公主様を、どこに連れて行く気よ……!)
暗い色の袍を纏ったその男は、明婉を抱えて敷地の奥へと入っていく。目指すのは、正房か、庭園を望む楼閣か。死んでいただく、と言ったからには、裏手にはあるであろう井戸にでも投げ込むつもりかもしれない。
(どこかで、もっと近づければ……!)
足音を殺して、燦珠は男の後を追った。せめて、明婉だけでも逃がせる機会を見つけられれば、と思うけれど、先ほどの悲鳴から少女の声は聞こえない。声も出せないほど怯えているのか、気を失ってしまっているなら話はもっと難しくなる。
「状元を駙馬にできると、さぞ浮かれていたのでしょう。こんな最期を迎えるとは、思ってもいなかったのでは?」
ぐったりとした明婉を見下ろして、男は機嫌良く語り掛けている。
浮かれているようで憎悪と嘲りが篭った声は、離れたところから聞くだけでも気分が悪くなりそうだった。でも、男の意図を探る手掛かりになるかもしれないから、燦珠は粟立つ肌を宥めて、必死に耳に神経を集中する。
「夜、ひとりで男を訪ねるなどと、はしたない真似をなさるからです。そこまでして会試の出題が欲しかったのですか。女が及第できるとでも? 秘華園で遊び惚けておきながら? 父や兄にそっくりの思い上がりだ……!」
と、姫君には似つかわしくない単語を拾って、燦珠は一瞬だけ足を止めた。
(会試──科挙の、問題? 長公主様が、どうして……?)
皇帝の妹君が科挙の問題を欲しがる理由も、この男から受け取ろうとしていたらしい経緯も分からない。ただ──《探秘花》の排錬を見た後の、あの方の弾んだ声と上気した頬を思い出す。
『燦珠。貴女は自分でここまでの道を拓いたのね……?』
『女の身でも、できるということよ。……わたくしも、見習わないと』
『もう少しで諦めるところだったの。でも、やってみなくては』
何かを隠していらっしゃるのだろう、とは思っていた。どうやら科挙に関わることではないか、とも。兄君の皇帝は、状元と結婚させられるのが嫌なのでは、と考えていたけれど、そうではなくて──もっと単純なことだったのかもしれない。
(そうよ。《女駙馬》を演じたのだって──)
あの時の芝居は、公主役の姸玉の翠牡丹を本物の長公主が欲しがる、という筋書きにできれば良かった。だから、公主が登場する演目であれば、何でも良いはずだった。一度見ていただいた《探秘花》以外にも恋の物語もあれば、異国に嫁ぐ公主の悲劇もあった。幾つか提示した演目の中で、でも、明婉はほかならぬ《女駙馬》を選んだのだ。
(長公主様。だから……?)
男装してみたいのかと、役者たちは勝手に得心していたのだけれど。明婉が演じた女駙馬は、女ながらに状元となった役どころだ。あれは──あの方にとってはなりたい自分、だったのだろうか。
燦珠が考えを巡らせる間に、男は明婉を抱えて楼閣に入った。閉ざされていたはずの殿舎を迷いなく進む足取りは、よほど綿密に調べたか、後宮に内通者がいるからかもしれない。後をつける燦珠の存在にはまだ気付かずに、階段を上っていくのは──明婉を墜死させるつもりなのか。
(そんなこと、させないんだから……!)
心に強く念じながら、燦珠も階段に足を掛ける。明婉だって、自分の力で道を切り拓こうとしていたのだ。その道を、志半ばで途絶えさせてなるものか。
怒りと不安と緊張に、心臓は痛いほど高鳴っている。必死に考えているから、頭も痛いし目眩もしそうだ。でも──やらなくては。
燦珠が清鑑殿に来ていることを知っている者は、多い。
秘華園に戻らなければ、誰かが探しに来るだろう。それまで時間を稼がなくては。
非力な小娘の身でそんなことができるとしたら、芝居しかない。楼閣の上階に上り切るまでに、言うべき台詞、演じるべき役どころを考え抜くのだ。こんな短い時間で練った台本が、客の目に堪えるはずは、ないのだけれど──
「その子を解放してちょうだい。貴方は人違いをしています」
それでも、燦珠は役者なのだ。舞台に上がれば、肚も据わる。役になり切ることができる。
「お前──いったい、いつから……!?」
尾行されていたことに初めて気付いたのだろう、明婉を放り出し、驚愕の表情も露に身構える男に、燦珠はここ一番の嫣然とした笑みを浮かべた。紡ぐ声も品良く淑やかに、姫君役の概念そのものの化身であるかのように。
「長公主たるもの、簡単に姿を見せると思って? 代役を立てていたのよ。──わたくしこそが、本物の寧福長公主明婉です」