5.霜烈、言い当てる
明婉のために整えられた殿舎は、一見すると平穏だった。仮の女主人が害されたとか、何か不吉な事態が起きている気配はなくて、ひとまず翔雲は肩の力を抜いた。
「明婉は、何をしている」
皇帝と皇父、仙鶴の補子を胸に纏った首輔──流れで同行することになった──、さらには闇を圧倒する眩しい美貌の霜烈を前に、その侍女は崩れ落ちるように平伏した。
長公主に仕えるとはいえ、これほどの身分の者たちを一度に、それも急に相手にすることはそうそうないだろうから無理もない。轎子を呼ぶ手間も省いて駆けつけたから、年長のふたりは息を切らしてもいることだし。
「あ、あの──お部屋で、書を読んでいらっしゃるかと……!」
「花梅馨なる侍女がいるであろう。その者は、今、どこに?」
震える声で答えた侍女は、結った髪に白いものが混ざり始めていた。父によると花梅馨の年ごろは明婉と同じくらいだというから、この女ではないはずだ。
「梅馨は──きっと、いつも通り長公主様のお傍に」
戸惑いつつも当然のことを述べる口調での答えに、翔雲の裡で焦りが募る。
(その娘は、それほどに明婉に近しいのか)
梅馨の兄が綴ったという答案は、翔雲と父への怒りと怨みに満ちていた。帝位を私し、権を弄ぶ簒奪者だと。花兄妹が果たしてどこまで考えを同じくしているのか──確かめねばならない。少なくとも、明婉と引き離さなくては。
「……その者をここに召せ。取り急ぎ、明婉に気付かれぬように」
低く声を潜めて翔雲が命じた時──対照的に高く澄んだ娘の声が響いた。
「その必要はございませんわ」
ひらめく薄絹の艶やかさが、そこに織り出された模様が煌めいた。高貴な女の衣装の眩さに、翔雲は一瞬、妹が現れたのかと思った。だが、胸を張って傲然とした表情で彼らの前に進み出たのは、翔雲の知らない娘だった。
髪に挿した簪は珊瑚や真珠や玉に飾られて。そして、帯に施された刺繍の精緻なこと、重さを感じさせない絹が重なりさざめく様の優美なこと、間違いなく長公主の格式ではあった。とはいえ決して装いに相応しい者ではないはずのその娘の名は──想像は、つくが。
「梅馨っ、貴女、何という……!」
翔雲も思い浮かべた名を呼んで絶句した侍女は、何と言おうとしたのだろう。何という思い上がり、何という格好、何という無礼──そのいずれもが混ざり合って、若い後輩に恐れおののき、憤っているのだろうか。
「はじめまして、叔従父様。──実のところ、御目通りしたことはあったのですが、私のことなどお気に留めてはいらっしゃらなかったのでしょうね……!」
妹の侍女の顔など、いちいち気に留めないのは当然のことだ。
なのに刺すような目で睨まれるのは不本意極まりないし、非礼と共に敵意を露にした者に対して加減する必要もないだろう。
「それは、明婉の衣装か? 妹に何をした」
鋭く問い質した翔雲に、梅馨は軽やかな嘲笑を響かせた。盗んだはずの衣装を見せつけるように、優雅にくるりと回ってさえ見せる。
「明婉様が進んで衣装を取り換えてくださったのですわ。あの方は目立たぬように、私のほうでは長公主の不在を気付かれぬように。年ごろも背格好も同じくらいですから、本を読む振りで顔を伏せていれば、意外と誤魔化せました」
「明婉はどこだ」
要領を得ない答えに苛立った翔雲は、一歩、足を進めた。声の険しさも一段と増したはずだったが、梅馨の余裕ある笑みは変わらない。
「兄と会っています。是非にと仰ってくださったので」
「花志耀か! 忘恩の輩めが、やはり悪事を企んでいたか……!」
父の怒声も、梅馨を怯ませるにはまだ足りないようだった。いっぽうで、幼さの残る目元に浮かんだ憎悪と苛立ちは、明らかにいっそう強まり、また、尖る。
「興徳王殿下のご厚恩には感謝しておりました。ご子息を帝位に就けようとしてのことだと気付くまでは!」
父を睨んで、梅馨は語気荒く糾弾した。
「殿下は、姉が辺境に嫁がされるのを助けてはくださいませんでした。先帝の怒りを買うことを恐れられたのです。母や私たちを引き取ったのも、世間の評判を気になさっただけでしょう? 本心から父を悼んでくださったなら、どうして母を女官に、私を侍女に貶めたのですか!? 兄に科挙を受けさせなかったのですか!?」
「な──」
父を絶句させた後は、鋭い視線と言葉が射かけられた矢のように翔雲を襲う。
「貴方様が首尾良く帝位を得たかと思えば、科挙の結果を歪めようとなさって。不当に得た権を保つために、明婉様を董家の餌にしようと企まれていたのも、存じています。当の明婉様も、役者と戯れるばかりで嘆かわしい限りでしたけれど!」
そうだ、この娘は明婉の傍に仕えていたのだ。ならば、この間のことはすべて知っているだろう。父のやり方は──確かに強引ではあった。翔雲が帝位に就いた経緯も、明婉の縁談に関しても。
(だから我慢ならなくなった、ということか……!)
横目に窺える父の横顔は、朱く染まっては青褪めていた。過ぎた怒りによってなのか、悔恨によってなのか──後者もあって欲しいと願いながら、翔雲はぎり、と歯を噛み締めた。
「……そなたらの言い分は後でいくらでも聞いてやる。だが、明婉には関係のないことだろう。妹はどこだ。あれに何をしようとしている!?」
「ここにいらっしゃったということは、兄の答案を御目に留められたのですね。こんなに騒ぎ立てていただいて──きっと、明婉様も気付かれたはず」
「何を……?」
確かに、慌ただしく濤佳殿を後にした彼らの行動は、外廷のみならず後宮でも人目を引いているかもしれない。だが、明婉はまだ知らないだろう。いつからかは知らないが、妹は殿舎を離れていたというのだから。
眉を寄せた翔雲の不明を嘲るように、梅馨はまた声高く嗤った。
「私も兄も、これまで父のことは明婉様に語ってはおりませんでした。良いように使っていた侍女が、実はより帝位に近い皇族の血だと知ったら。実の父君が、私たちを貶め虐げたのだと知ったら。優しいあの方のことですもの、命を絶ちたいと思われるでしょう。──そのように仕立てるつもりでした」
花志耀は、明婉を自害に見せかけて殺すつもりなのだ。理解した瞬間、翔雲は梅馨に背を向け、いまだ事情が呑み込めていない様子の宦官たちに怒鳴った。
「明婉を探せ! 宦官も女官もすべて使うのだ。早く──無事に見つけ出した者には、褒美は思うままに取らせる! 花志耀を手引きした者もいるはずであろう、門衛も調べさせよ! 門を閉ざして決して逃すな!」
皇帝の言葉に鞭打たれたかのように、命令に応じる者たちの衣擦れが、慌ただしい潮騒めいた音を奏でる。常は静寂を保つ夜の後宮に沸き立つ緊迫を帯びた活気を切り裂くように、梅馨の嘲笑の声が甲高く響く。
「さすが、お早い判断ですこと! でも、間に合うでしょうか!? 失意の姫君が首を吊るのも身を投げるのも、ほんの一瞬で済みますのよ!? 後宮には、ちょうど良い場所が多すぎますわね!」
決して聞きたくも認めたくないこと、しかし反論できないことだった。花志耀を捕らえることはできるかもしれないが、明婉とまた生きて会えるかどうか。
(……望みは薄くとも! できることをせねば……!)
梅馨に掴みかかりたいという衝動を必死に抑えて、翔雲は足を踏み出そうとした。いまだ状況を把握していない者たちを、指揮しなければ。
「──清鑑殿、か」
と、その時──水晶を打つような涼やかな声が、翔雲の耳を惹きつけた。霜烈の声は、いつ、どのような状況であっても注目を集める力がある。この危急の時でも、翔雲の知らぬ殿舎の名でも、そうだった。思わず足を止めてしまったいっぽうで、霜烈の真意は読めなかったが。
(当て推量に頼るのか……?)
後宮の殿舎の数は限りないと思えるほどだ。勘に頼って挙げていくよりは、虱潰しに探したほうが早いはずなのだが──霜烈の声にも、鋭い眼差しにもやけに強い確信があるように思われて、翔雲は梅馨を振り返った。
「なぜ。どうしてっ、それを……!」
そして、梅馨の驚愕の表情と震える声がはっきりと教えていた。霜烈は見事に正解を言い当てたのだと。なぜ、とはその場の誰もが問いたかったことであろう。
「後宮のはずれにあって外廷に近く、人目につかない。かつ、現在は住まう者がいない。それに──」
全員の視線に貫かれた霜烈は、いくらでも該当する殿舎がありそうなことを述べた。そして、美しい顔をわずかに顰め、そっと、溜息を吐くように続ける。
「嘉祥公主──慶煕王殿下の姫君、そなたたちの姉君が、辺境に嫁がれる前に過ごした殿舎だ。心細く思われて、身投げせんばかりのお嘆きであったと知る者は多い。長公主様と姉君の身の上を引き比べれば……そなたたちには、思うところがあったであろう」
ここまで聞けば、梅馨の引き攣った顔を見れば、もう十分だった。翔雲は改めて首を巡らせ、大声で命じる。
「……清鑑殿に向かえ。いや、案内せよ。今すぐに……!」
人任せにする暇はないと、走り始めた彼の背に、霜烈の声が聞こえる。
「興徳王殿下や陛下のなさりように不満があるならば、直言すべきであった。長公主様の執り成しがあれば、可能であったはず。先帝を諫め続けた興徳王殿下や慶煕王殿下に比べて、なんと卑怯で短気な振る舞いか」
いつもはどこまでも涼しげに耳に心地良く響く声が、今は怒りを湛えて激しく燃えているのが聞き取れる。稀代の役者の血ゆえか、この者の声は実に見事に感情を伝えるらしい。
(そなた……父上を、そのように言ってくれるのか)
父がどんな顔をしているか、確かめる余裕はなかったが。宦官からの評価など、気にする父ではないだろうが。
「宦官風情が、知った風なことを……!」
梅馨の、苦し紛れの遠吠えを正してやる時間も、ない。彼女が罵ったのは、父の弟、血を分けた叔父、本来ならば王として尊ばれるべき存在だったのだと。無責任な放言などではなく、甥や姪に対する真摯な教戒なのだと──誰にも、言えない。
「嘉祥公主が嫁がされたのも、母君が王妃であった血筋正しさを見込まれたからこそ。──できることなら、名ばかりの皇族からは解放して差し上げたかっただろうに」
霜烈がどのような顔で呟いたのか、見ることができなかったのは翔雲にとって恐らく幸いだっただろう。見ていたら、足が鈍ってしまったかもしれないから。
言うだけ言って、霜烈も梅馨に背を向けたのだろう。静かな、けれど速さを感じさせる足音が、すぐに翔雲の後を追って聞こえてきた。
梅馨から見た翔雲は、「父の従弟」に当たるので従叔父ということになります。