4.燦珠、走り出す
燦珠の翠牡丹は見つからないまま練習は進み、祝宴の日は近づいている。
董貴妃仙娥を追い詰めた役者たちの功績が評価されたから、ここまでくれば無事に上演にこぎつけられるだろう。科挙そのものも、公正に行われるということだし。
夕方遅く、その日の練習を終えた燦珠は、汗を拭いながらそっと溜息を呑み込んだ。
練習用の短褐姿の間は意識しないでいられるけれど、着替えて帯を締める段になると、そこに翠牡丹がないことに気付いてしまうのだ。
(天子様は、ご褒美に新しい何かをくださるかもってことだけど……)
つまりは、翠牡丹に代わって役者の身分を証す何かしらを、ということだ。
翡翠や牡丹以外の玉や花を使うのかもしれないし、宦官が携える牙牌──象牙の板に所属や身分を刻んだ通行証──のような形になるのかもしれない。今回の件を踏まえて、いくらか行動の自由は制限されることになるかもしれないけれど、皇帝からの賜与は名誉だし、秘華園にとっては良いことのはずだ。
だから、燦珠の翠牡丹の行方については、そろそろ考えるのを止めたほうが良いのだろう。
(新しい身分証がもらえるなら、悪用される心配はなくなる訳だし。持て余して埋められたり、池に投げ込まれたりしてたらもう見つからないし)
自分に言い聞かせながら、燦珠は畳んであった着替えを広げた。
と、指先に布ではないかさかさとした感触がある。小さく折りたたんだ紙片が、服の間に仕込まれていたのだ。
広げてみると、細かな文字が綴られている。その、内容は──
「……何これ」
「燦珠、どうしたの?」
内衣姿のまま、紙を睨め下ろして立ち尽くす燦珠を、横から喜燕と星晶が覗いてくる。
「えっとね、今、見つけたんだけど」
不可解かつ謎めいた内容だから、ほかの役者には見られぬよう聞かれぬよう、三人して紙片を取り囲んでひそひそと言葉を交わす。
「……清鑑殿の門に翠牡丹を隠したから取りに来い、って──どこ?」
「後宮のはずれ、外廷に近いほうじゃなかったかな」
「今は会試の採点でぴりぴりしてるんじゃない? 燦珠を呼び出すなんて、すごく怪しい」
「しかも、今夜だけって書いてあるの。ほかの日でも、昼間でも駄目だって。行くなら、すぐ行かないと」
「それは、ますます怪しいってことだよね?」
喜燕と星晶の結論に、燦珠も心から同意する。
けれど、じゃあ無視しよう、とは言えなかった。
だって、彼女の翠牡丹に関わることなのだから。この世にたったひとつしかない、燦珠自身の翡翠の花に。
「怪しいのは……そう、だけど」
燦珠の表情からして、引き下がりそうにないと察したのだろう。星晶と喜燕は、顔を見合わせて溜息を吐いた。
「楊太監に相談しよう。燦珠のことだもの、人を出すとかしてくれるはず」
「……うん」
星晶の提案は、それで諦めなさい、と言い聞かせるものだった。確かに、鐘鼓司太監が命じれば、宦官の何人かはすぐに動かせるだろう。
(翠牡丹が関わるなら、当然の処置なんでしょうけど……)
科挙の不正事件──というか、その冤罪を起こしかけた代物なのだから、大げさではない。燦珠のためだけのことでもない。
(でも、星晶たちは見てないもの)
霜烈が杖刑を受けるところを。肉が打たれる恐ろしい音も、声も漏らさず苦痛に耐える横顔も。
怪我もまだ治っていないのに、彼は練習に専念しろと言ってくれた。それはつまり、危ないことや企みごとは霜烈が引き受けてくれるということで──そんなことはして欲しくないと、言ってはいけないのは分かっているのだけれど。
という訳で、燦珠は友人ふたりに挟まれて、大人しく霜烈の住まいに引っ張られた。明らかに納得していない顔になっていたかもしれないからか、喜燕と星晶は少々呆れた目をしていた。
役者が鐘鼓司太監を訪ねるのに何の障りもないから、翠牡丹が封じられた今でも秘華園を出る許可は簡単に下りたのだけど──
「楊太監が、いない……?」
「はい。濤佳殿へのお召しがあって、まだお戻りではありません」
霜烈の側仕えの少年宦官に言われて、燦珠たちは顔を見合わせた。濤佳殿といえば皇帝の執務の場所だ。皇帝が夜遅くまで政務に励むのはさほど驚くことでもないけれど、外朝に霜烈を呼び出す要件がいったい何なのかは見当もつかない。
「じゃあ、やっぱり隼瓊老師に──」
「じゃあ、私、清鑑殿に行ってみるね!」
友人が妥当な案を挙げるのを遮って、燦珠は慌てて宣言した。身軽なふたりに捕まる前に、身体を翻して走り始める。
「燦珠!」
「星晶と喜燕は、楊太監が戻ったら伝言して。様子を見て、誰かいたら帰ってくるから!」
彼女の翠牡丹なのだから、自分で迎えに行ってあげたい。霜烈を煩わせたくない。董貴妃の悪事はすでに暴かれた訳だし。
(犯人も、こっそり返したいだけかもしれないし……!)
何もしないで見ているだけ、も限界だった。翠牡丹を盗まれたこと、その後の仲間の冷たい目や囁き声。霜烈に庇われたこともだし、明婉たちの芝居は素晴らしかったけれど、燦珠自身は陰から見守ることしかできなかった。
(おかしいと思ったら、すぐ引き返すもの)
《偽春の変》の時ほどの大役なんて望まない。でも、後宮を巻き込んだ事態の中で、何か少しでも役割を果たしたい。果たしたと、思える働きがしたい。──そういうことなのかもしれない。
たぶん、勝手な我が儘なのも分かっているけれど。大人しくしていろ、と。芳絶を介した霜烈の溜息が聞こえた気もしたけれど。
鬱屈も後ろめたさも振り払って、燦珠は強く地を蹴った。
* * *
梨燦珠が、ひとり清鑑殿に向かったとの報告を聞いて、仙娥はほくそ笑んだ。
「まあ、あの宦官を頼る知恵はあったのに我慢できなかったのね。浅はかな役者らしいこと」
やはり、翠牡丹とかいうものは役者にとってこの上なく大切なものらしい。仙娥にはさっぱり理解できないけれど、そういうものだと承知していれば、利用することは十分可能だった。
(どうせなら、楊太監も巻き込めれば良かったけれど。あの娘だけでも十分よ)
花梅馨なる侍女が伝えた長公主明婉の願いとは、男をひとり後宮に手引きして欲しい、というものだった。いったいどこでどうやってそんな相手を見つけたのか、大人しそうな顔をしている癖に、油断できない姫君だと思う。
(そんなこと、見過ごせるものですか)
承知した、と述べたのは嘘ではなかった。少なくとも、あの時は。でも、悪巧みを見過ごすにも限度があるというものだった。未婚の姫君が、後宮で男と逢引なんて──そんな情報があるなら、皇帝やその父君に訴えたほうが保身の役に立つだろう。長公主の放蕩を見過ごすなど、露見した時の糾弾が恐ろし過ぎる。
(ころ合いを見計らって、陛下にお伝えしなければ)
ころ合い──梨燦珠が長公主と男が一緒にいるところを見て騒ぎ出すころ、ということだ。仙娥の背信を知れば、明婉は怒るだろう。だから、その怒りのいくらかをあの娘に肩代わりしてもらわなければ。
明婉の目から見れば、燦珠が騒ぎ立てたから父や兄に見つかったのだ、となれば良い。楊霜烈のように、杖刑を与えられれば良い。宦官も役者も、貴人の気分に生殺与奪を握られるもの、あのように、長公主と親しげにしていたのは間違いなのだ。
(一度は翠牡丹を返してやるのだもの。感謝して欲しいわ……!)
小細工を弄したところで、自身と実家の先行きが暗いのは百も承知。それなら、憎い香雪の手の者に少しでも痛手を負わせてやりたかった。梨燦珠は、例の明婉の芝居で仙娥を陥れようとしたと分かっているのだし。だからこれは、当然の報いというものだ。