3.長公主、密会する
後宮に滞在する間、明婉は主のいない殿舎をまるまるひとつ、使わせてもらえることになっていた。
先帝の崩御に伴い、その妃嬪たちが後輩のために明け渡した殿舎のひとつということになる。幸い、兄の後宮はまだ妃嬪の数が揃っていないから、長公主の来訪のせいで肩身の狭い思いをする方はいなかった。
広い殿舎を独り占めできるのは、明婉にとっても僥倖だった。
何しろ、紙や筆や硯を用意して、引き籠る準備を整えても怪しまれる余地が少ないのだから。皇帝の妹の機嫌を伺おうとする妃嬪は多いけれど、気分が優れないと梅馨に言ってもらえば食い下がる者はいない。会試の答案の作成に向けて、明婉は思う存分鋭気を養い、集中を高めることができるという訳だった。
(董家の不正は暴かれたと言うし、燦珠たちはもう大丈夫でしょう。……あとは、わたくしが頑張るだけ……!)
試験に臨む受験者たちを見習って、時間を区切って誰とも相談することなく答案を作るのだ、と明婉は決意していた。郷試の時にもやったことだ。堂々と受験することはできない身でも、できる限り平等な条件で挑みたいから。
もちろん、前提として出題を入手しなければならないのだけれど。明婉は、忠実な侍女を信じていた。同い年なのにとてもしっかりとしている梅馨は、彼女の前に膝をついて頼もしい微笑を見せてくれている。
「明婉様。会試の出題をお届けする手はずが整いました。兄が自ら献上したいと申しているのですが──お声をいただく栄誉を頂戴できますでしょうか」
「まあ、大丈夫なの?」
兄の花志耀と通じ、かつ、明婉の答案を印刷局に紛れさせる術を探してくれるとは聞いていた。でも、まさか後宮に男の人が乗り込んでくるとは思っていなかったから、明婉は思わず目を瞠った。
(見つかったら、大変なことになってしまうのでは……?)
梅馨の兄が罰せられるなんて、考えるだけでも恐ろしい。でも、当の妹は、明婉の不安を宥めるように微笑みを保っている。その声にも言葉にも、躊躇う調子は窺えない。
「この間に、私も宦官や女官と縁を得ましたので。外廷にも近い、清鑑殿なる殿舎に兄を手引きしてもらえるように、話を通しております」
「そんなことができるのね」
「もちろん、内密かつ特別の措置です。──ですので、明婉様おひとりでお出ましいただくことになってしまいますが」
「え──これから、よね……?」
窓の外に目をやれば、すでに日はかなり傾き、夜の気配が迫りつつある。清鑑殿とやらに辿り着くころには、真っ暗になっているのではないだろうか。その中をたったひとりで進むなんて。
「もちろん、迷われることがないように道筋は重々ご説明いたします。……轎子を使えないのはもちろん、お供を引き連れていては目立ってしまいますから」
「それは、そうそうでしょうね……。でも……あの、殿方と、ふたりきりになるのは──」
梅馨の指摘ももっともではあった。けれど、その上でも明婉は簡単に頷くことができなかった。
彼女は、父や兄以外の殿方と話した経験がほとんどない。そのようなことは許されない、という感覚が強くあった。同じ年ごろ、同じ女の貴妃たちや役者たちにはどうにか慣れたけれど、彼女はそもそも知らない人と話すのが苦手なのだ。
「尊い姫君、それも未婚の御方にはあるまじきことでございましたね」
躊躇い言い淀む明婉を前に、梅馨は哀しそうに目を伏せた。そして、深く頭を垂れて平伏する。
「分を弁えぬ出過ぎた望み、兄に代わって伏してお詫び申し上げます。やはり、私が参りましょう」
「い、いいえ! 直接お礼をお伝えできるなら願ってもないわ。梅馨のお兄様で、ここまで手伝ってくれた方だもの。信頼しているわ」
梅馨は、父の王府にいたころから明婉のために何くれとなく奔走してくれたのだ。
彼女が直接知らないだけで、兄の志耀も同様のはず。この兄妹を失望させてはならないし、忠誠には報いてあげなければならない。
「わたくし、ひとりでも大丈夫よ。だからお願い、顔を上げて」
明婉が慌てて跪き、必死に訴えると梅馨はようやく身体を起こしてくれた。
「なんと慈悲深く寛大な御言葉でしょう。どうか、兄にもそのお声を賜ってくださいますように」
そうして浮かべた梅馨の笑顔は、心からの喜びに満ちている、と見えた。嬉しそうで、幸せそうで。
(こんなに、喜んでもらえるなら)
だから闇にも、ひとりで出歩くことへの不安にも耐えなくては。
* * *
自らの衣装を梅馨に着せて、明婉は侍女の格好で夜の後宮に足を踏み出した。
梅馨は恐縮していたけれど、長公主の衣装を着た少女が殿舎にいれば、多少の間の不在は誤魔化せるのではないかと思いたかった。
(やっぱり暗いし、怖いわ……)
広大な後宮には、鳥や虫や、もしかしたら獣も棲んでいるのかもしれない。
手に持った灯りだけを頼りに、時に木々を揺らす何かの影や鳴き声に身を竦ませながら、明婉は少しずつ歩いた。夜警の宦官もいるだろうに、見咎められることがないのは、梅馨の手回しが確かだから、ということなのだろう。
頭上には月こそ出ているけれど、静かな光は木々や建物の影をいっそう濃く、何かの怪物のように浮かび上がらせるだけ。
ひとりきりで闇の中を進むのはとても怖かったし、目的地の清鑑殿に辿り着いても安堵にはほど遠かった。
「中に、入らないといけないのよね……?」
出題の受け渡しを人に見られぬよう、花志耀とは門の内側で会うことになっている。
殿舎の表玄関である広亮門の、埃を被った扉に触れる時は心臓が止まるような心地だった。古く寂れたもの、というのはそれだけで恐ろしいものだし、誰ひとりいない場所、いるべきでない場所に踏み込んでいく感覚はたとえようもなく心細い。
(梅馨は、門の封印を開ける手回しまでしてくれたの? 元に戻せるのかしら……)
侍女の手回しの良さに感嘆し、それでも不安を覚えながら、明婉は清鑑殿の敷地の中に入った。
そして──中庭に佇む人影を見つけ、明婉は心から安堵する。はしたなくも小走りで駆け寄ってしまったほどだ。相手のほうも彼女の姿を見て取ったのだろう、滑らかに拝跪する。
「──長公主様で、いらっしゃいますね」
「え、ええ。梅馨の、お兄様ですね……?」
闇に紛れるためだろうか、花志耀は暗い色の袍を纏っていた。間近で言葉を交わしてなお、影のようだと思ってしまって、まだ少し怖い。
「この度は、本当にありがとうございました。わたくしのために、こんな危険なことまでしていただいて」
けれどもちろん、明婉の願いを叶えてくれた彼を恐れるなんて失礼なことだ。声が震えてしまわないよう、明婉は燦珠たちに教えてもらった、腹筋を使った役者の発生を意識する。
「会試の結果が出たら、お兄様に打ち明けようと思っているのですが、絶対にご迷惑がかからないように──いえ、ご褒美がいただけるようにお願いするつもりです。どうか安心なさってください」
「なんと心強い御言葉でしょう」
志耀は、わずかに顔を上げて微笑んだ。梅馨の兄だから当然かもしれないけれど、明婉の兄とも年は近いようだ。怜悧さを窺わせる顔立ちも落ち着いた低い声も兄に似ているような気がして不安は緩む。
「会試の出題でございます。覚えて、書き留めて参りました。どうぞご確認を」
だから、志耀が書簡を差し出した時、明婉は躊躇いなく距離を縮めて受け取った。侍女がいないのだからそうするしかないのだけれど、たとえひとりでなくても、彼女は同じことをしていただろう。
志耀の手の温もりが残る書簡を抱き締めて、明婉は微笑んだ。
「ありがとうございます。戻ってから拝読します。……だって、先に見てしまっては狡いですもの。答案を書き始める時になってからでないと」
ちらりとでも出題を見てしまったら、帰り道で答案を考えずにはいられなくなってしまう。受験生にはそんな猶予は与えられないのだから、我慢しなくては。
堂々と受験に臨むことができない明婉の、精いっぱいの筋の通し方だった。でも──
「いいえ、今ご覧いただかなくては」
「きゃ──?」
志耀は、明婉の手を掴むと乱暴に引っ張った。
男の人の手は大きく力強く、恐ろしさに声を上げることもできずにいるうちに、明婉は体勢を崩してしまう。完全に倒れる前に、志耀は支えてくれたけれど、それは、半ば抱え込まれるような格好になるということだった。
志耀の手が明婉のそれに重なり、書簡を強引に開かせる。地に落ちたふたり分の灯りが下から照らす中、明婉は紙面に並ぶ文字を見せられた。
(殿方の手跡ではない、わ……? というかこれは──)
まず、梅馨はいつの間に問題文を書き写してくれたのだろう、と不思議に思った。
繊細かつ流麗な手跡は、見慣れた侍女のものだったから。内容に気を向けることができたのは、文面を最初から最後まで、通して二回読んでからだった。曰く──
父と兄が帝位を弄び、恣にすることをたいへん悲しく遺憾に思っている。正統な後継者を退け、不当に得た位を保つためなら、科挙の結果を捻じ曲げようというのは嘆かわしい。役者と交わり遊び惚けていた罪を償うためにも、我が一命をもって父と兄を諫めんことを期する。
「あの、これは」
まるで、明婉が綴ったような文面だった。もちろん、彼女の手跡ではないし、このようなことを書いた覚えはないけれど。
(まるで、遺書のようではなくて……?)
父と兄の、何だかよく分からない過ちを諫めるために死ぬのだ、と述べているような気が、する。
不安に駆られて見上げた志耀の顔は近く、浮かべている表情は、笑顔なのにどこか怖くて。触れ合った身体の温もりと裏腹に、明婉を震えさせた。その震えさえ許さぬと言わんばかりに、志耀はよりいっそう強く、彼女の身体を抱き締める。違う、拘束する。
「私どもが貴女に考えていただきたいことです。妹が代筆いたしました。貴女も、兄君も……本来その立場にいるべきではなかったのに!」
耳元で怒鳴られて身を竦ませた時には、明婉の爪先は宙に浮いていた。侍女たちが羨み、父や兄が称賛してくれた彼女の華奢な肢体は、志耀にとっては手荒に扱える人形でしかないかのよう。
「私と梅馨の父は慶煕王。祖父は文宗帝。世が世なら、貴女がたよりも尊ばれるべき者でした」
何を言われているのか、さっぱり分からなかった。
父たちへの糾弾。彼女自身のような筆致で綴られた、心当たりのない悔恨。男の人の身体の硬さ、力の強さと荒々しさ、低い声の恐ろしさ。
何もかもが明婉の頭の中で入り乱れて理解が追いつかない。
「我らの無念を、興徳王とその世子に思い知らせるため。貴女には死んでいただく。自らの所業で娘や妹を死なせたとなれば、さぞ悔やみ悲しむだろう……!」
嬉しそうに囁きながら、明婉を抱えたまま。志耀は歩き出したようだった。
どこへ向かうのか、行った先で何をしようというのか──考える余裕もないまま、明婉の意識は闇に落ちていった。