6.燦珠、指摘する
霜烈のそれは美しい双眸が大きく見開かれるのに見蕩れながら、燦珠は首を傾げた。勢いのまま口にしてはみたものの、直感したほどすべてが分かった訳ではないことに、気付いてしまったのだ。
「でも、なんで? 楊太監と芳絶さんが恋人同士だと、周貴妃様が──えっと、応援してくださるのかな? それが、秘華園のためになるってこと?」
周貴妃鶯佳は、ふたりの演技を信じていたようだし、確かに燦珠に──なぜか──自慢するようなことも言ってきた。でも、だからといって芳絶の言うことを聞いてくれるかどうかは、また別の話だったかもしれない。
燦珠が重ねた問いに、霜烈はすぐには答えてくれなかった。瞬きもせず凍りついたような表情も、それはそれで彫刻めいて見ごたえがあるのだけれど。
(聞こえていなかったのかしら? 言い直したほうが良い……?)
さすがに燦珠が訝しみ始めた時、霜烈の唇がそっと開いて、吐息のような囁きを漏らした。
「今、何と言った」
「なんで、楊太監と芳絶さんが恋人同士だと、周貴妃様は秘華園のために動いてくださるの?」
「違う。その前だ」
今日の彼は、やはりまだ本調子ではないのかもしれない。
(前は、一発で長い台詞を覚えていたじゃない)
驪珠を演じた時は、燦珠が即興で述べた台詞を、驚くほどすらすらと諳んじていたものだ。なのに、どうしてもっとずっと短いはずの内容を繰り返させるのだろう。
少し心配になりながら、燦珠はほんの少し前の記憶を辿った。
「恋人同士っていう演技をしてたのは、周貴妃様のため?」
「なぜ、演技だと考えた。周貴妃も役者たちも、そう考えてはいないはずだ。そう見えるように──」
霜烈の反問は、やはり演技だった、という自白も同然だった。なので燦珠がにこりと微笑むと、彼は諦めたように溜息を吐いてから、答え合わせをしてくれた。
「……今の私は、陛下の覚えがめでたいと見えるだろう。すなわち、後宮でも秘華園でも影響力を持っているということだ。少なくとも周貴妃は、そのように信じている。その私と近しいと思えば、芳絶の言葉にも重きをおくようになる。……秘華園の平穏にも繋がるからと提案されて、乗った」
「そういうことだったのね。やっとすっきりした……!」
鶯佳は、どうやら偉い人に弱いらしい。宦官も役者も、しばしば見下される立場ではあるけれど、皇帝の権威を借りれば話は変わってくる、ということだろう。後宮での暮らしが長いだけあって、霜烈も芳絶もとても賢い。
「気にしていたのか。説明すべきだったか……?」
「説明は、しなくても良かったんじゃない? だって、何か意味があるんだろうなって思ったし、長身で綺麗でお似合いの対だし。……だからこそ、演技だって見え見えなのがもったいないな、って思ってただけで」
燦珠は完全に納得して感心したのだけれど、霜烈は浮かない表情のままだった。理由は──まあ、想像がつかないでもない。
(演技、バレてないつもりだったんだ……?)
演技の不備を指摘されるのは恥ずかしいものだ。色気の件で芳絶に言われて、燦珠も痛感している。
「いつから、気付いていた」
「たぶん、割と最初のほう? 《探秘花》の練習が始まってすぐくらい、だよね?」
燦珠の答えは正解だったのだろう。霜烈は酢を呑んだような顔をした。言い当ててしまったのは申し訳ないけれど、聞いたのは彼のほうだ。
(知らないままでいるよりは、分かったほうが良い、よね)
こうなったら気付いた理由まで言ったほうが良いだろう、と。燦珠は茶で口を湿し、気まずさを呑み込んでから、口を開いた。
「だって、楊太監はしょっちゅう私を見てたもの。本当に恋人なら、芳絶さんのほうを見るんじゃないかなって……」
言った後で、自意識過剰に聞こえそうなことに気付いて、燦珠は慌てて付け足した。
「星晶と喜燕も言ってたから、気のせいじゃないよね!? ほら、排練の後だって、目が合ってから逸らしたでしょ!? その前は見てたってことだよね!?」
「あのふたりは──星晶と喜燕は、私や芳絶を睨んでいた。それは──信じていたからでは、ないのか」
「うーん。言いづらいんだけど」
覚えているはずだ、と問い質したのに、霜烈は質問に質問で返してきた。まだ動揺しているらしい。追い討ちになる予感をひしひしと覚えながら、それでも聞かれたからには答えない訳にはいかなかった。霜烈も、できることなら演技を改善したいと思うだろう。
「恋人同士の演技なんだろうな、とは私たちも思ったの。でも、それにしてはこっちを見てくるのはどういう意図なのかな、って不思議で。……ほら、芳絶さんはもちろん、楊太監だって演技はできると思ってたから」
何がしたいの、と吐き捨てた喜燕の声が燦珠の耳に蘇る。
ずいぶん語調が強くて驚いたものだけど。とても綺麗な霜烈が、意図のよく分からない、何なら下手な演技を見せていたら苛立つのかもしれない、と燦珠は納得することにしていた。それに──霜烈の演技のぶれについて、燦珠には喜燕も星晶も知らない心当たりが、一応あった。
「あのね、前にずっと見ていて、って言ったでしょう? 守ってくれてるのは嬉しいけど、役者としての成長とかの意味であって、文字通りにずっと、ではない……かも」
「そうか」
「うん。排練なら、みんな平等に見ないとだし。恋人同士の演技なら、ちゃんとやったほうが良いと思うし」
「そうだな」
言うまでもないはずのことを、あえて口にするのは決まりが悪いものだ。霜烈は燦珠よりずっと年上だし、華劇にも詳しいはずでもあるし。──でも、それにしては相槌が上の空なのが気にかかる。燦珠は、背伸びして霜烈の表情を窺い──眉を顰めた。
「……楊太監。顔が赤いわ? どうしたの?」
いつもは冷たく見えるほど白い霜烈の頬に朱が差している。以前、喜燕だけが彼の赤面を見たと主張した時は、たいへん羨ましく思ったものだけど、今は素直に喜べない。だって、霜烈はひどい怪我をしたばかりなのだ。
事実、霜烈は頬に触れ、次いで額を押さえると顔を顰めた。
「傷のせいかもしれぬ。熱が上がってきたようだ」
「え──大丈夫? 大丈夫じゃないよね。じゃあ私、もう帰ったほうが良い?」
「いいや!」
彼の体温を確かめようと、燦珠が伸ばした指先は、振り払う勢いで避けられた。声も、驚くほどに大きくて──でも、言葉は引き留めるためのものだった。
(本当に、大丈夫……?)
紅く染まった霜烈の頬は、まるで熟れた林檎のようだ。軽く目を伏せて、俯いて。卓に手をつく姿は、だいぶ辛いのではないかと思うのに、彼はまだ燦珠のために時間を割いてくれる。
「……そなたの翠牡丹の行方は知れぬままだ。元通りという訳には、まだ行かぬ。そう……だから。この機に、聞き残したことがないようにすると良い」
「そう、ね……」
疑いが晴れたから、許可こそすぐに降りたけれど。役者たちの後宮での移動は、まだ以前ほど自由ではない。ちょっと顔が見たいから、くらいの理由で秘華園を抜け出すことはできないだろう。
「姸玉は、翠牡丹を返してもらえて良かったわ。香雪様も私も、無罪ってことになったし」
証拠として保管されていた翠牡丹を確認した姸玉は、すぐに自分のものだと断言した。心からの安堵の表情で翡翠の花を抱き締めていた友人の姿を見て、燦珠も嬉しかった。
なかなか取り調べのお呼びがかからなかったのが不安だったけれど、皇帝は董貴妃仙娥およびその実家の調査を優先してくれたのだとも聞いた。だから、万事解決と思えれば良いのだけれど──まだ、腑に落ちないことは残っていた。
「私の翠牡丹、結局どこにあるのかなっていうのは……ずっと、気になってるわね……」
仙娥は、燦珠の翠牡丹が失くなったと聞いて例の悪巧みを思いついたと主張しているらしい。確かに、燦珠のものが手元にあるなら、姸玉から取り上げる必要はない訳で──では、真犯人は、まだどこかに潜んでいるのだ。
霜烈の容態と同じくらい、これから起きるかもしれないことが不安だった。彼が、また傷ついたりしないかどうか。
「まだ誰かが何か──悪いことを企んでいるのかしら?」
「分からぬ。今のところは、何も確かには言えぬ」
答えのない問いかけなんて、具合の悪い時には煩わしいものでしかないだろうに。霜烈は、燦珠の不安を宥めるように少しだけ微笑んでくれた。
「だが、そなたたちがこの上心を割くことではないだろう。すでに、十分過ぎるほどの働きをしてくれたのだから」
「うん……」
「あとは《探秘花》の練習に専念するが良い。……そうできるように、努めるから」
それはつまり、また何かが起きたら霜烈は身をもって燦珠を──違う、役者を、秘華園を庇ってくれるということのような。
(全然、安心できないじゃない)
恐ろしい場面を、傍で見ているだけだなんて。もう二度と、あんな思いはしたくない。でも、言ったところでどうにもならないのも分かっている。
「うん。ありがとう、楊太監」
だから燦珠は強いて微笑んで、霜烈の住まいを辞した。