5.燦珠、報告する
翠牡丹は相変わらず戻っていないけれど、燦珠にかけられた嫌疑は晴れた。よって彼女は、堂々と、かつ意気揚々と霜烈の住まいを目指した。
(これでやっとお見舞いに行けるんだから!)
距離を隔てて聞いた歌の声だけでは、安心できるものではない。直に会って無事を確かめたいし、秘華園の役者としてはことの顛末も報告しなくては。
あと──彼からの伝言の解釈について話したい。大人しくしていたら幾らでも唄ってくれる、という話について、だ。
燦珠はどう考えても大人しくはしていなかったけれど、一方で功績もあったはずで。幾らでも、とは言わずとも、何とか唄ってもらえないか、あわよくば舞も見せてくれないか、交渉しなくては、と思う。
「燦珠さんなら、師父もお会いになりたいでしょう。すぐにお取次ぎします」
「真的嗎!? ありがとう!」
霜烈の身辺の世話をする少年宦官は、もう燦珠の顔を見知っている。彼女が客庁に通されるまでに、いくらも待つ必要はなかった。
「楊太監!」
鐘鼓司太監に相応しい広さと調度の室内に、長身の人影を見て取って、燦珠は声を弾ませた。でも──
「燦珠。ちょうど君の話をしていたところだよ。とても、お手柄だったと」
蕩けるように微笑む眼差しも、呼び掛けた声も、甘くて綺麗でうっとりとしてしまうものだった。でも、訪ねた相手のそれではなかったから、燦珠は首を傾げた。
「あの、芳絶さんもお見舞いでしたか……?」
「そう。楓葉殿の貴妃様の勧めでね。でも、もう退散するよ。彼には君が何よりの薬だろうから」
なぜか霜烈と立ったままで話をしていたらしい芳絶は、謎めいた言葉と蠱惑的な笑顔を残して、ついでに長い手指で燦珠の頬をくすぐってから辞去していった。熱くなった頬を手で扇いで冷ましながら、燦珠は恐る恐る霜烈に尋ねた。
「私、芳絶さんを急かしちゃったの? 邪魔だったかしら」
片手を卓につき、逆の手で額を押さえる霜烈は、どうも困っているように見えた。
(入れてくれたんだから、来ちゃダメってことはないんだろうけど)
とはいえ、彼と話すのは久しぶりだ。前に見たのは、杖刑を受けた時の痛ましい姿で、さらにその前は翠牡丹が失くなった時の厳しい表情だった。だから、どんな顔をして何を話せば良いのか、ふと分からなくなってしまうのだ。
「いや。大した話はしていなかった。──そなたは変わりないな。安心した」
燦珠がじっと見つめていると、霜烈はやがて首を振った。次いで、美しい顔に浮かべた微笑こそ変わりなく、輝かしく眩しかった。その笑顔に心まで照らされた気がして、燦珠もようやく表情を緩めた。
「でも、すっごく心配してたのよ。もう大丈夫なの? 立って話してたの? なんで?」
「それは、座るほうが傷に障るから──だが、大事はない」
霜烈はさらりと言ったけれど、背中から杖で打たれていた姿を思い出せば冷静ではいられない。頬が強張るのを感じながら、燦珠は襖衣の袖にしまっておいた手土産を取り出した。
「あのね、パパに頼んで良い痛み止めを送ってもらったの。青蘭小父さんって、知ってる? 延康で花旦をやってる──えっと、役者は怪我も多いから、薬を煎じるのに凝ってる人なの」
燦珠は、青蘭小父さんの薬をある意味では医者の処方以上に信頼している。何しろ役者稼業には色々な苦労がつきものだから。怪我の痛みや熱の苦しみを隠して舞台に立つために、偉大な先輩は身をもって実験を重ねたらしい。
(あと、楊太監なら小父さんのこと知ってるかもだし……)
青蘭小父さんも優れた役者なのだ。父、梨詩牙とも共演することもあるし、もしかしたら霜烈は喜んでくれるかも、と思ったのだけど──
「呉青蘭の!? それは光栄だ……大事に使わせていただこう」
「跪かなくて良いから! あと、苦いから気を付けてね……?」
予想以上の喜ばれように、燦珠は慌てて彼を止めることになった。
(私だって、驪珠の翠牡丹を見た時は跪いたけどさあ!)
いくら嬉しくても、怪我人が急に膝をつこうとするのはよろしくない。小父さんがこれほどまでに霜烈に認められていると分かったこと、珍しいほど弾んだ彼の声を聞けたのは嬉しいけれど。
(うん、いつもの楊太監ね!)
見蕩れるほどの美貌なのに、燦珠でさえ驚くほどの戯迷《芝居オタク》、と。改めて実感したところで、ふたりは本題に入った。
つまり、燦珠と香雪の潔白と、董貴妃の罪が同時に明らかになったことについて、だ。
「……おおよそのことは藍芳絶から聞いた。翠牡丹にそれほど違いがあるとは、知らなかった」
燦珠と霜烈の間を、まだ冷たい春の風が通り抜けていく。
以前、深夜に話した時よりよほど広い部屋にいるのに、彼はやっぱりそういうところに厳しいのだ。とはいえ、出された茶は温かいし、久しぶりに話せる興奮もあるから、寒さはまったく気にならない。
なお、霜烈に倣って燦珠も立ったままだ。霜烈は背が高いから、彼女が座るととても話しづらいのだ。
「そうね、人のをじっくり見ることなんて、そうそうないから。でも、渾天宮で見せられたのは絶対違う、私のじゃないって思ったの。じゃあ誰かのかな、って考えたら──銀花殿だし、姸玉かな、って」
燦珠を見るなり、姸玉が踵を返した理由は、後ろめたさではないか、と考えたのだ。渾天宮での一幕を聞いた姸玉は、自分の翠牡丹が何に使われたかを一瞬で悟ったのだろう。
(あの子も、董貴妃様や董家の若君を応援しようと思ってたのに)
苦い思いを呑み込んで、燦珠は霜烈への報告を続けた。
当たりをつけた上で、隼瓊や芳絶も交えて尋ねれば、姸玉はすぐに打ち明けてくれた。
董貴妃仙娥は、泣いて抗議したにも関わらず、姸玉の翠牡丹を強引に取り上げたのだと。その流れで、各々の翠牡丹が結構違うことも分かったから、仙娥相手に一芝居打つことを思いついた、という訳だった。
「長公主様を巻き込んだのは、役者が問い質しても無駄だから、か」
「ええ。最初は謝貴妃様にお願いしようかとも思ったんだけど、偉い方のほうが言い訳しづらいでしょうし」
仙娥のあの下手な芝居は、華麟もたいそう苦々しく思ったのだとか。だからあの方も非常に乗り気だったのだけれど、貴妃同士、それも不仲なあのふたりでは、問い質しても効果は薄かっただろう。
(長公主様が来てくださって、本当に良かった……!)
長公主と公主役の誼で姸玉の翠牡丹を欲しがっていただこう、というのは燦珠の発案だった。
内気でおっとりとした明婉に、「我が儘で高慢なお姫様役」をお願いするのは心苦しかったけれど。でも、終わった後、あの方は楽しそうに笑っていたから大丈夫だと思う、たぶん。
「相変わらずそなたは畏れを知らぬ。だが、そなただからこそ長公主様もお力を貸してくださったのだろう。……よくやった」
「ありがとう! 長公主様もね、とても頑張ってらしたの。《女駙馬》の歌詞も台詞も長いのに、すぐに覚えていらして……さすが天子様の妹君ね」
華劇を知らないという割に、原典となった故事をよく知っているとは思っていたのだ。《女駙馬》の練習を通してよく分かった。あの姫君は野の花の風情に似合わず聡明で、記憶力も素晴らしい。女ながらに状元になった女駙馬は、まさにぴったりの役どころだったのだろう。
「興徳王府は学問を奨励しているからでもあるだろう。……皇父殿下も本来は廉直で謹厳な御方。お恨みすることは、ないように」
燦珠の表情を窺う眼差しで囁く霜烈は、皇父殿下──あの厳しい興徳王に言及する機会を探っていたようだった。まだ座ると痛むというほどの傷を受けさせられた当の本人が、ずいぶん優しいような気もする。
(これじゃ、私がずっと怒ってる訳にもいかないじゃない……)
尊い御方に対して、恨んでどうこう、だなんて思っていた訳ではないけれど。誤解で人を打たせたのだから、ひと言ぐらい御言葉があっても良いのでは、と思う。
「……そうね。悪いのは董貴妃様、なのかしら。分かってくださるなら……良いんだけど」
言葉では一応頷きながら、燦珠はもうひとり、「ひと言ぐらい御言葉をいただきたい御方」がいたことを思い出した。芳絶の主でもある幼い貴妃、周鶯佳のことだ。
「あ、あとね。周貴妃様はどうして私たちの味方をしてくださったのかしら。芳絶さんは、何て言っておいてくれたのかしら? 楊太監は、何か聞いた?」
芝居に全面的に協力してくれた華麟は、もはや役者の一員だった。でも、鶯佳にすべての企みを打ち明けておくことなんてできなかった。芳絶は大丈夫だと請け合ってくれたし、実際そうだったのだけど。あの強情そうな方をどう動かしたのかは、とても気になるところだ。
「聞いていないが、想像はつく」
燦珠が話題を変えたことで、霜烈は安堵したようだった。明らかに表情を緩めて、滑らかに教えてくれる。
「藍芳絶は、周貴妃にひたすら長公主様に同意するように勧めたのだろう」
「ああ……そういえば、そうだったかも?」
あの時の鶯佳の言葉を思い出せば、確かに明婉の意に沿った発言ばかりだった。芳絶にまで翠牡丹を差し出すように命じたり、仙娥にもさっさと渡すように勧めたり。
(そんな単純なことで……でも、何も間違ってないし悪いことでもないわね!)
鶯佳は、何も疑わずに役者の助言に従ったのだろう。芳絶の手腕への驚きと感嘆で目を瞬かせる燦珠に、霜烈は微かに苦笑した。
「周貴妃は、幼いだろう。だから良くも悪くも素直なのだ。役者を使って後宮で存在を示せ、と実家に言われれば、《鳳凰比翼》の時のようなことも起きる」
「……なるほど?」
あの時、燦珠の衣装を損ねた役者は、貴妃様に楓葉殿の役者の出番が少ないと言われたから云々と主張したらしい。
(でも、今の話だと、貴妃様もあんまり深く考えて言った訳じゃないってことなのかな……?)
燦珠の足を引っ張れと、明確に命じた訳ではなくて。とにかく、かつ何となく、抱えの役者が活躍すれば良いのだろう、と考えた、ということだろうか。
それであの顛末になったなら──あの御方は、周囲に恵まれていないのではないか、という気がする。
「……子供だから許せ、と言うつもりもないが。ただ、頭に置いておくのが良いと思う」
「まあ、私もあの時のことは良いって、天子様にも言ったしね……お陰で《凰人相恋》ができたんだし」
興徳王は恨むなと言った霜烈も、鶯佳についてはまた意見が違うらしい。だから今度は、燦珠も素直に頷くことができた。そういう方だと分かっているなら諦めもつくし、今後は対応できるかもしれない。
「だが、今の周貴妃は藍芳絶の言葉に耳を傾けるようになった。無理を言わなくなったのは、秘華園のためには良いことだろう」
燦珠の反応は素直過ぎて、霜烈は不安になったのかもしれない。長身を軽く屈めて、燦珠の目を覗き込むようにして言い添えてくれた。心配げに眉を顰めた表情も、とても綺麗なのが霜烈だ。憂い顔を間近に堪能して見蕩れた後──燦珠の頭に、閃くものがあった。
(ああ、だから!?)
謎が解けた気持ちの良さに駆られて、燦珠は軽く背伸びするようにして霜烈に問いかけた。
「楊太監と芳絶さんが恋人みたいな演技をしてたのって、その辺に関係があったりする?」