4.貴妃、馬脚を現す
明婉や役者たちの視線が、一斉に仙娥に集まる。まるで、弓矢で狙われるような思いがして、仙娥は思わず椅子を引いた。
姸玉の言葉によって、いったいどれほどの者が、どれほど気付いたのだろう。何も分からないから、怖かった。
「ええと……では、董貴妃様から献上なさっては?」
戸惑ったような声と表情で、できないことを提案してくる周貴妃鶯佳は、何も気付いていない愚か者なのか、その振りをして仙娥を追い詰めようとしているのか。
姸玉から取り上げた翠牡丹は、仙娥の手元にはない。どこにあるかも知らない。科挙の不正の証拠として、外朝のしかるべき衙門に保管されているのだろう。今さら、取り返せるものか。
(いいえ、あれは梨燦珠のものよ。銀花殿の役者は関係ないわ……!)
梨燦珠の翠牡丹が盗難されたと聞いた時、使える、と思ったのだ。楊太監も指摘したという通り、翠牡丹はいくらでも悪用できるもの。目障りな相手を追い落とす、千載一遇の好機が巡って来たのだ、と。
事態は一刻を争った。真犯人が怖気づいて名乗り出てからでは、遅いのだ。
だから、仙娥は手近な翠牡丹を使った。姸玉から取り上げた。誰もが、それを梨燦珠のものだと信じ込み、その背後の香雪の命令を疑うように。綬に仕込んだ問題文らしきものは、仙娥が自ら捻り出した。彼女だって、香雪に劣らぬ教養がある。それくらい簡単なことだ。事実、興徳王も、仙娥の目論見通りの推理をしてくれた。
役者風情が泣こうと喚こうと、些末なことだ。仙娥は果断な行動をしたのだ。──その、はずだったのに。
(どうして、上手く行かないの……!?)
何か言わなくては、と思うのに、口が動いてくれなかった。明婉は、さっさと出せ、と言わんばかりに、きらきらとした目で仙娥を見つめている。鶯佳もさすがに不審に思い始めたようだ。何か──何か、この場を切り抜ける理屈を、考えなければいけないのに。
「──翠牡丹の、何をご覧になりたかったのかしら。それも、姸玉のものだけだなんて。どれも同じではないの?」
黙して語らない仙娥に飽いたように、謝貴妃華麟が独り言めいて呟いた。主の言葉に反応して、皇帝の側近を演じていた星晶が進み出る。
「意外とそれぞれ違いますよ、華麟様」
「まあ、そうなの?」
身を乗り出した華麟に応えて、星晶だけでなく、楓葉殿の女生、芳絶も貴妃の席に近づいてきた。
「石の色も花弁の形も、まったく同じという訳にはいかないようです。──ほら、並べるとお分かりになりますでしょう」
ふたりの役者が、それぞれの主に自らの翠牡丹を差し出した。──つまりは、華麟と鶯佳の間に座る仙娥にも、見せつけるかのように。
「あら、本当。芳絶のは少し紫がかっているみたい……!」
「面白いわ。ほかの者も見せてくれないかしら」
話題が変わったのを喜ぶべきか、あるいはこれも何かの罠なのか、仙娥にはやはり分からなかった。無邪気に笑う鶯佳も、華麟の声に応じて次々に翠牡丹を取り出す役者たちも。何もかもが疑わしい。
(どうして皆、翠牡丹を持っているの。今は、使いものにならないはずでしょう……!?)
色の濃淡だの、斑の入り方だの。どうでも良い些細な違いを明婉に披露するのは、愚かな役者が浮かれているだけなのだろうか。どの殿舎のどの役者のものか分からない声が、やけに耳に刺さって不快だった。
「役者にとっては、毎日のように眺めるものでございますから」
「ええ、なので、どれが自分のものかは見ればすぐ分かります」
「混ぜてから当てる遊戯をしてみましょうか?」
今や明婉も興味津々で役者たちの手元を覗いている。気に入ったものを献上させれば良いとでも、勧めようか。でも、そうするには、梨燦珠の声が仙娥の脳裏でうるさく鳴り響いている。何度も、何度も。
『これは私の翠牡丹ではありません』
最初は綬の有無について、次は罪を逃れるために言ったのだと思った。誰も信じないだろうから気にする必要はないと──でも、では。あの娘は確信を持って違う、と言っていたのだろうか。
(あり得ないわ……!)
仙娥が知らないことを、役者風情が知っていたなんて。露見するはずがないと思っていた企みの瑕疵を、こんなところで突き付けられるなんて。
「あれは、梨燦珠の翠牡丹よ。そうでないはずがないでしょう」
思わず零れた仙娥の声は、自分でも驚くほど硬く尖っていた。姦しく騒いでいた役者たちも、冷水を浴びせられたように押し黙って首を竦める。
「燦珠が、どうかしたの? ねえ、董貴妃。今、何か関係があって?」
明婉に問われて、仙娥は少しだけ笑った。
ちゃんと説明して差し上げなければ、と思ったのだ。何も分かっていない小娘たちを、教え諭してやらなければ。この者たちが何を疑っていようと、的外れな邪推に過ぎないのだと。
「見分けがつく、などと言うのは役者の口先に過ぎませんわ。まして、梨燦珠は悪事を働いていたのですもの、自分のものではないと言うのは当然です」
どれが自分の翠牡丹だとかそうでないとか、役者が言ったところで誰が取り合うだろう。梨燦珠だろうと姸玉だろうと、恐れる必要はなかったのだ。
仙娥の言葉は難しすぎたのか、明婉は首を傾げた。幼い仕草は、官吏を真似た女駙馬の衣装には似合わない。こんな悪趣味な遊びは早く止めさせなければと思うのに、長公主はまだくだらないことに拘泥している。
「燦珠が、そんなことを言ったの? いつ?」
「わたくしどもが、渾天宮に参上した時のことです。科挙の出題を漏洩したのではないかと責められて、あの娘が──あれ?」
鶯佳も、明婉に誘われたように同じ角度に首を傾けた。長公主に相槌を打つことしか頭にない子供でも、何かしらに思い至ってしまったらしい。
考えなしの小娘が余計なことを言う前に、仙娥は椅子を蹴立てて立ち上がる。その勢いで、形良く積み上げられた焼き菓子が崩れるけれど、構ってなどいられない。
「あれは、姸玉の翠牡丹ではないわ! 役者が何人集まって証言しても、証明にはならない!」
「誰もそんなことは言っていませんわ。いったいどうなさったの?」
皿から転がり落ちかけた菓子を優雅に摘まんで、華麟が微笑む。違う、嘲る。仙娥の醜態を。怒りと屈辱に目の前が赤く染まる。
「謝貴妃! 貴女なの!? 貴女が長公主様に取り入って──」
「何の騒ぎだ」
菓子も茶器も薙ぎ払って華麟につかみかかろうとした時──低い男の声が響いた。後宮にはただひとりしかいないはずの、若く張りのある声の、主は。
「陛下──」
「まあ、お兄様!」
貴妃や役者が跪く衣擦れの音が響く中、長公主だけが軽やかに兄のもとに駆け寄ったようだった。
「秘華園に何か御用でしたか?」
「貴妃たちが揃っているというからちょうど良いと思ったのだが。……明婉、その格好は何ごとだ?」
男装の上に派手な化粧の妹を見て、皇帝が問う。こんなところを見たら、厳しく叱るだろうと思っていたのに、口調は思いのほかに柔らかい。
「華劇の一幕をやらせてもらっておりました。わたくしは女の状元で、同時に駙馬なのです」
「どういう筋書きだ……?」
「市井には、というか華劇には色々な物語があるそうですわ。燦珠が教えてくれました」
もっともな疑問を口にする兄に、妹姫は楽しそうにくすくすと笑った。微かな衣擦れの音は、くるりと回って見せたのか、芝居の仕草でも披露したのか。
(おふたりがこんなに近しいなんて)
十も年の離れた兄妹なのに。
では──明婉は兄に何かしらを言いつけただろうか。そもそも、この御方も企みに加わっていたのか、何をどこまで気付いていたのか。何ひとつ分からないまま、仙娥は身を縮めてひれ伏すしかない。
「お兄様にもお見せしたかったですわ。それで、皆でお話していたのですけれど、董貴妃がおかしなことを言い出すものですから──」
わずかな空気の流れで、仙娥は皇帝の視線を浴びたことを知った。真綿で首を絞められたような息苦しさに、鼓動が早まり目が眩む。
(陛下に問われたらどうしよう。どう答えれば良いの……!?)
聡明な御方だから、下手な言い訳では誤魔化されまい。役者と違って、叱りつけて黙らせることもできない。では、すべてを正直に打ち明ける? それも、できるはずがない。
「……ちょうど良いというのは、そなたらに伝えることがあったからだ。特に、董貴妃に」
皇帝は、明婉の告げ口について問い質すことはしなかった。けれど、その声は妹に見せた親しみの欠片もなくて、やはり仙娥の喉を締め上げる。これから告げられるのは判決なのだろうと、分かってしまうから。
「そなたの親族の答案を取り寄せたのだが──」
その後に何を言われたのか、仙娥にはもう分からなかった。