3.長公主、翠牡丹を強請る
長公主のおねだりを受けて、三人の貴妃は一瞬だけ、無言で目を見交わした。
(あり得ないわ)
仙娥の頭に、咄嗟に否定の言葉が浮かぶ。役者の真似事だけでも興徳王や皇帝は眉を顰めるだろうに、つい最近、科挙の不正に使われた──ことになるはずの──翠牡丹を長公主に授けるなんて。
仙娥が窘める言葉を探す横で、幼い周貴妃鶯佳が無邪気に笑った。
「もちろんですわ。陛下におねだりなさるとよろしいと思います」
「予備の翠牡丹は封印されているのでしょう。楊太監も療養中とのこと、長公主様といえど開封させられるかどうか」
子供の考えなしのへつらいに、声をまったく尖らせないのは難しかった。なぜか過剰に皇帝の寵を受けている、汚らわしい宦官に言及しなければならなかったから、なおのことだ。香雪が糾弾されるはずだったあの日、澄ました顔で話の流れを捻じ曲げたあの男もまた、仙娥の苛立ちの源だった。
(死ねば良かったのに! 陛下が加減させたのではないでしょうね……!?)
杖刑は死刑ではないけれど、結果として命を落とす者は珍しくない。興徳王に吹き込んだ醜聞は、秘華園に悪印象を持たせるための方便でしかなかった。あとは、香雪が寵愛を独り占めしているだなんて言いたくなかったから。仙娥自身も信じている訳ではいなかったけれど──こうなると怪しく思えてくる。
兄の趣味を疑われているとは知らない明婉は、機嫌を損ねた風もなく、役者たちを見渡した。
「では、貴女たちの誰か。わたくしに翠牡丹をくれないかしら」
「それは──」
「それならお兄様を煩わせずに済むでしょう? わたくしの持っている宝飾と交換で構わないわ。好きなものをあげるから」
顔を見合わせて言い淀む役者たちに、明婉は朗らかに告げた。精緻な翡翠の細工とはいえ、その価値は長公主の持ち物とは比べるべくもないだろう。それでも、誰も名乗り出る者はいない。
「ねえ、誰か……?」
不服そうに首を傾げる明婉の呟きに、華麟の軽やかな笑い声が重なる。
「長公主様。翠牡丹は役者にとってとても大切なものです。星晶もほかの子も、永陽殿の役者からは差し上げられませんわ」
「まあ、謝貴妃様。意地悪を仰って」
にこやかに、けれどきっぱりと言い切った華麟の非礼に、鶯佳は驚いたように非難がましい表情を向けた。仙娥も、まったく同じ思いではあったけれど──
(駄目よ。翠牡丹はいけないわ)
咄嗟に胸を過ぎった拒否感の強さに、仙娥は自分自身で驚いた。なぜ駄目なのか、と自問して、長公主には相応しくないからだ、と思い出すのに数秒を要する。
興徳王や皇帝の機嫌を損ねるのを恐れれば、迂闊な発言はできないはずなのに。幼い鶯佳は、例によって悩む素振りもなく舞台のほうへ身を乗り出した。
「芳絶、そなたは良いでしょう? そなたなら、楊太監も新しい翠牡丹を出してくれるのではなくて?」
「どうでしょうか。貴妃様と長公主様のたっての命とあれば、従わない訳には参りませんが──」
幼い主の無体な命に、今日も皇帝役を演じていた藍芳絶は苦笑で応じた。例の楊太監にも素早く擦り寄ったこの女は、さすがに貴人に従うことを弁えている。仙娥も、少しだけ肩に入っていた力を抜いた。
(……これで、長公主様は満足なさるかしら)
わたくしは良くないと思ったのですけれど、と溜息を吐けば体裁は保てるだろうか。仙娥が脳裏に巡らせた打算は、けれど明婉の弾んだ声によって狂わされた。
「そうだわ、どうせなら姸玉が良いわ」
「──は?」
不意に抱えの役者の名を呼ばれて、仙娥は間の抜けた声を上げる。目を見開いた視界の中、明婉は気軽に屈みこんで、跪く姸玉に目線を合わせて微笑んでいる。
「長公主が、公主役の役者から翠牡丹をもらうのよ。男役から、よりも収まりが良いのではないかしら」
「私、ですか──」
姸玉の視線が揺れて、仙娥を窺う。主の意を尋ねるのは当然のことだ。でも──従順なはずのその視線が、彼女の神経に障る。さざ波だった胸を、同輩の貴妃たちがさらにかき乱す。
「董貴妃様、よろしいのでは? 長公主様のお望みですよ?」
「ほかの殿舎のことには、わたくしは口出しいたしませんわ。董貴妃様のお好きなように」
白々しいと、思った。万事解決とばかりに笑顔で促す鶯佳も。高みの見物の体で突き放す華麟も。仙娥に、姸玉の翠牡丹を差し出せと迫っている。そんなことは、できないというのに!
「──貴女たち、何のつもりなの。わたくしを、陥れようというの」
低く呟いて左右を睨めつければ、それぞれ違う反応が帰って来る。
「そんな。どうして……!?」
「まあ、無礼な。この場を設けたのは長公主様だということをお忘れなく」
鶯佳は悲しげに眉を下げ、華麟はわざとらしい驚きの表情を見せる。──否、わざとらしい、だろうか。
(謝貴妃はいつもこう、かも……? 無作法なほどはっきりとものを言う女。何もかも芝居だと思っていそうで、品がない……馬鹿みたいな格好で……)
だから、露見したと思うのは、まだ早いのかもしれない。それに、華麟の言葉も、一応間違いではないのだ。競争相手の貴妃同士と違って、明婉が仙娥を陥れる理由はないのだから。ならば──仙娥は、わざわざ隙を見せてしまったのかも。
(落ち着いて……慎み深く賢明に振る舞うのがわたくしの常でしょう。長公主様を窘めれば良い。我が儘を言うものではないと、申し上げれば──)
浅く、深く。仙娥が息を吸って心を落ち着けようとする間に、明婉は彼女のほうへ駆け寄ってきた。役者を真似た濃い化粧のせいか、男装のせいか、日ごろは儚げな風情の御方のはずが、視線も口調もどうもきつく感じられる。
「どうなの、董貴妃。貴女からも姸玉に言ってくれないかしら。それとも、駄目? わたくしのお願いを聞いてくれないの!?」
「そのような、ことは──」
軽々しい振る舞いの小娘の後ろには、皇帝とその父がいる。明婉の高慢なもの言いに気圧されて、仙娥は思わず横に首を振っていた。言質を得るや否や、明婉はそれこそ舞うように身を翻し、再び姸玉に詰め寄る。
「では、あとは姸玉次第ね!? わたくしからあげる宝飾を、ふたつにしても良いわ。好きなものを選ばせてあげるから」
「たいへんもったいない仰せです、長公主様。ですが──」
跪くというよりはもはや平伏しながら、姸玉はちらりと仙娥のほうを盗み見た。ほとんど床の低さから見上げる目線は、卑屈で訴えかけるようなもの。この娘が以前見せた怒りや非難──主に対してあるまじき生意気さは、ない。けれど、あの時と同じように仙娥を苛立たせる。
(どうしてわたくしを見るの! 上手く言い訳なさい……!)
姸玉は、優れた役者のはずではないのか。ならば、咄嗟の演技もこなしてもらわなければ困る。何があったか、だいたい察しているだろうに。董家の抱えの役者ならば、常に主家のために行動すべきだ。その、はずなのに。
「私の翠牡丹は、手元にございません。今は……あの、董貴妃様が。何というか……お預けしておりますので」
姸玉は、さらりと仙娥を裏切った。言い辛そうに口ごもりながら、躊躇う気配を見せながら、けれど何もかもを言葉に出してしまう。丁寧な説明は、すなわち用意された台詞だ。仙娥がやろうとしたのと同じく、罪を明らかにして糾弾するための。
(罪? 糾弾? 役者風情が、このわたくしを!?)
悟った瞬間に、仙娥の頬は怒りと屈辱によって熱くなった。見た目にも朱が上ったのだろう、姸玉の目に愉悦の色が浮かんだのを、仙娥は確かに見た。
「梨燦珠の翠牡丹がなくなった後のことです。貴妃様が、ご覧になりたいと仰ったので……」
あんな小さな翡翠の細工を借りただけのことが、主を裏切るほどの怨みになり得るのだろうか。呆然とする仙娥の耳を、姸玉の明瞭な台詞の声が通り抜けていった。