1.長公主、衣装を纏う
その日、秘華園には再び貴妃たちが集められた。
科挙の不正に関わる嫌疑をかけられて謹慎中の沈貴妃香雪以外の三人の貴妃たちは、寧福長公主明婉が主演を務める芝居を観る栄誉を与えられたのだ。栄誉、と──招かれるほうは、そう言うしかないだろうけれど。
(……素人の下手な芝居を見せられるのだと、困っているのではないかしら……秘華園の役者の演技を見慣れている方たちなのに……)
招いたのは自分自身だとは重々承知していても、明婉としては、怖くて恥ずかしくて堪らない。当日になって、これから衣装に着替えるという段になってなお、そうだった。
侍女の梅馨に不安を打ち明けたいけれど、では止めればよろしいとさらりと言われるのは目に見えている。
(とても大事なお芝居だもの。皆、もう準備をしているところなのに)
取りやめるなんて考えられない。楽しみにしている思いも、確かにある。でも、怖い。恥ずかしい。だから明婉は、先ほどから胸の前で手を組み合わせて、ぐるぐると歩き回っている。身体を動かしていると、まだ気が紛れる──ような気がしないでもない。
緊張に震え、吐き気さえ覚え始めた明婉の耳を、軽やかな笑い声がくすぐった。
「初舞台が大がかりなことになっておりますわね。羨む役者も多いことでございましょう」
「え、ええ……」
古風な斉胸襦裙を纏い、優雅に微笑んでいるのは謝貴妃華麟だ。長公主を前に、ひとり座るような非礼はもちろん犯さず姿勢を正して立っている。わずかな揶揄いを含んだ口調も悪戯っぽい眼差しも、明婉を侮ってのものではない。
事実、華麟は透けるような薄絹の袖で口元を隠して、この上なく楽しそうに笑っている。
「わたくしにとっても、演じるのは初めてのことです。長公主様との共演だなんて光栄ですわ」
華麟もまた、今日の一幕の大事な役者なのだ。こよなく寵愛しているという男役の星晶の顔を見るという口実で楽屋を訪れて、明婉たちと最後の打ち合わせをしたところだった。本番を控えてなお、固まり切った明婉を見かねて声をかけてくれた、ということかもしれない。
(優しい方、なのかしら)
明婉にとっては、今回が後宮に長く滞在するのは初めての機会だった。兄の妃たちの人柄を知る、良い機会でもあったのかもしれない。華麟の気遣いに感謝しながら、明婉は首を傾げた。
「謝貴妃は、華劇が好きだと聞いたけれど?」
違う時代の絵画から抜け出したような華麟の出で立ちは、華劇の演目にちなんだものなのだとか。華劇も星晶もそんなに好きなら、自分で演じてみたいと考えたことはないのだろうか。
明婉の素朴な疑問に、華麟は満面の笑みで応じてくれた。でも、花のような唇が紡いだ言葉は、輝くようなその笑顔ほどには優しくなかった。
「華劇の唱も舞も大好きです。特に、わたくしの星晶が。あの子たちの鍛錬を知り、愛し、尊重するからこそ、権を振りかざして割り込む気にはなれませんわね」
「ご、ごめんなさい……」
では、華麟はさぞ明婉のことを苦々しく思ったのだろう。今日のことも、そもそも最初に役者になりたい、だなんて言い出したことも。言葉によって打たれた思いで首を竦めると、華麟はまた軽やかな笑い声を響かせて明婉の弱気を吹き飛ばした。
「主として良いところが見せられるのは嬉しいことですわ。……前は、星晶を見送ることしかできませんでしたから」
眉を寄せて唇を尖らせる華麟が言う前が何のことだか、明婉は知らない。昨年の《偽春の変》では後宮も秘華園も大いに動揺したというから、その時に何かあったのだろうか、と想像するくらいだ。
ただ──長公主だの貴妃だのと崇められても、彼女たちにできることは思いのほかに少ないのだ、ということは理解できる。
(良いところ……そう、できることがあるのは素敵なことよ)
改めて自分に言い聞かせると、明婉の口元が自然とほころんだ。傍目にも緊張が和らいだのが見えたのだろうか、華麟が、今度こそ励ますような笑顔と言葉をくれる。
「わたくしは、途中までは観客ですもの。特等席で長公主様の熱演を拝見させていただきましょう」
「謝貴妃に満足してもらえたなら、わたくしも光栄です。……あの、頑張ります。燦珠のためにも……!」
明婉と華麟が、間近に顔を突き合わせて頷き合った時──まさに、その燦珠の声が明るく響いた。
「お待たせしました、長公主様! お着替えと化粧の手伝いに参りました。始めてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん」
意気揚々とした足取りで入室する燦珠の後ろには、衣装や化粧道具を携えた星晶と喜燕が続く。この数日の練習と打ち合わせの間に、明婉も役者たちの顔と名前をだいぶ覚えた。
「わたくし、男装をするのは初めてなの。どきどきするわ」
「別人になれるようで楽しゅうございますよ。お姿を変えれば、役を演じるお心構えもできましょう」
裙の帯を解きながら呟く明婉に、優しく語り掛ける星晶の声は甘く、しかも卒がない。華麟が惚れこんで褒め称えるのも当然だった。
(本当に、わたくしではないみたい……!)
そして、しばしの後に差し出された鏡を見て、明婉は胸を弾ませた。
普段は結い上げて鳳冠で飾る髪は、小さく纏めて文官が被る烏紗帽に収めた。花蝶が舞う色鮮やかな襦裙に代わって纏うのは、堂々とした円領の緋色の袍。
高官の公服に似ているけれど、胸に示される補子は、実際にはない龍の図柄だ。華劇では、実在する意匠を憚って避けるものなのだとか。まあそれはもっともな配慮だとして。
鏡に映る明婉は、科挙を突破した進士さながらの装いだった。
舞台の上では、自分ではないものになれる──そして、決してなれないものにも。一時とはいえ夢を叶えることも、できる。燦珠たちは、彼女にそう教えてくれたのだ。