6.長公主、祝福を望む
「心確かに聞くのだ、明婉」
渾天宮に明婉を呼び出した兄は、ひどく難しい顔で切り出した。そうして、山と並べられた菓子に手を付ける暇も許されぬまま、彼女が聞かされたのはおおむね次のようなのことだった。
沈貴妃香雪と、抱えの役者の梨燦珠に科挙の不正の疑いがかかっているけれど、濡れ衣の可能性が高いこと。よって、明婉は不埒な者に関わったと恐れる必要はないこと。
一方で、父、興徳王が娘の駙馬にと考えていた董家こそが、沈貴妃たちを陥れた黒幕かもしれないということ。
(燦珠に、そんなことが……)
あの朗らかな娘が不正にかかわるはずがないのは、明婉にも分かる。疑われるだけでもさぞ恐ろしいことだろうと思うと胸が痛む。
でも──兄が沈痛な面持ちで告げるほどには、彼女の駙馬候補についての疑惑は明婉の心を動かさなかった。
「だが、罪は必ず明らかになろう。そなたが品行不確かな者に嫁がされることはあり得ぬから──」
妹のことを羽根も生えそろわぬ雛のように扱う兄を、明婉はくすくすと笑って遮った。今や一天万乗の帝位に就いた御方を、懸命に翼を羽ばたかせる親鳥に重ねてしまうと、おかしくて仕方ない。
「……明婉?」
唖然として言葉を途切れさせた兄を安心させるべく、明婉は聞き分けと行儀の良い、皇族の娘としてあるべき表情を纏った。
「お父様とお兄様が見つけてくださる方に間違いがあるはずはございません。どなたがお相手でも、わたくしは喜んで嫁ぎます」
公主や長公主が科挙の及第者である進士に嫁ぐのはよくあることだ。
確かに父は、彼女の相手を何者か──たった今、董家の者だと確定した──に限定して話を進めようとしていた節はあったけれど、問題がある相手なら兄が止めてくれるであろうこと、明婉は信じている。
しばらくの間、明婉の顔をじっくりと眺めた後──兄は、ようやく妹の言葉を信用してくれたようだった。もちろん、その理解には当然の疑問が伴うのだろうけれど。
「……縁談が嫌だった訳ではないのか? なぜ、役者になりたいなどと言い出した?」
恐る恐る、と言った風情で問うてきた兄に、不敬と分かっていても、明婉は再び笑ってしまう。皇帝陛下ともあろう御方が、十も年の離れた妹に対してはまったく弱い。それに──
(やっぱり、そんなことを考えていらっしゃったのね)
若い女が思い悩むのは、色恋や結婚のことばかり、と。兄ほどに優れた方でもそう思い込んでいるのだ。
幼いころから、様々な場面で何度も気付かされてきたことだから、今さら嘆くこともない。ただ、少し面白いと思うだけ、この数日の間に用意しておいた答えを述べるだけだ。
「燦珠の舞は、とても綺麗でしたもの。花のようだと思えば、蝶になって、楽しそうだと思えば切なくもなって、くるくると、回るたびに姿が変わるようでした……」
明婉に役者の才がないのはすでに痛感している。けれど、あの日、燦珠を初めて見た時の衝撃を思い返せば、称賛の言葉はすらすらと口をついて出る。明婉が言葉に詰まってしまうのは、よく知らない相手に対してだけだ。……まあ、世のほとんどの者がそうなのだけれど。
楽の音がなくても、簡素な練習着でも、燦珠が何を伝えようとしているかはありありと見えた。視線や指先、手足のしなりや跳躍や回転──そんなもので感情や物語が表現できるのだと、明婉はあの時初めて知った。
(本当に……素敵だったから……)
だから、口実になると思った。後宮にあってさえも殿舎の奥に留まるべき長公主が、頻繁に出歩くための。そして、侍女の梅馨に後宮の建物の配置や懐柔できそうな宮女や宦官を探ってもらうための。
「だから、わたくしにもできないかと思っただけです。……とても難しいと、もう分かりましたけれど」
恥じらう風情で付け加えると、兄は明らかに表情を緩めた。妹が本気で役者を目指している訳ではないと安心したのだろう。
「そうだったか。そなたがあれほど言い張るのは珍しいから──」
「突き詰めれば、やってみたいから、というだけのことでしたから、申し上げることもなくて……」
兄は、女にはさしたる考えなどないと思っている。だから今は、これで納得してくれるだろう。実の妹が、役者志望以上に大それた考えを抱いているとは、想像もしないはずだ。
* * *
興徳王府は、学問を奨励し印刷も盛んに行っている。よって、明婉の周囲も幼いころから書物が溢れていたし、近侍の婦人も教養ある者が揃っていた。
科挙に必要な知識も、だから彼女は自然に身につけていた。もちろん、受験してみたい、などとは冗談でも口にしなかったけれど。
だって、明婉以上に優秀な兄でさえ、科挙を受けようとはしなかったから。皇族というものは知識をひけらかすものではないのだろうと、しばらく前までの彼女は何となく理解していた。
それが誤りであったことに気付いたのは、兄が次の皇帝候補として取りざたされるようになってからやっと、だった。
科挙の門戸は、貴賤を問わずに開かれている。たとえ皇族に対しても。兄が受験を試みなかったのは、官吏を目指す必要がなかったから。皇太子争いにおいて悪目立ちしてはならないという、父の意向があったからに過ぎない。
そして一方で、女は身分を問わずに科挙から締め出されているのも、知った。
(わたくしも、良いところまで行けるのではないかと思うのだけど)
父や兄に従って生きてきた明婉だから、さほど強い不満を覚えることはなかった。でも、兄の即位を祝い、長公主への冊封を受けながら、やはり彼女の心には寂しさやもの足りなさがあった。
だから──科挙の問題を解いてみよう、と思ったのだ。受験者たちと同じ様式で、答案を作る時間も同じように区切って。
何しろ、興徳王府は学問と印刷業が盛んなのだ。よって、郷試の出題は即座に父のもとに届けられ、目をかけられた学生たちが参考にできるように回覧に供される。
さらに父の厳格な人柄の評判のお陰で、答案は興徳王府に集められて複写され、採点の官に回される。明婉が作った答案を密かに紛れ込ませる余地は、十分にあった。
問題は、彼女自身の名で提出する訳にはいかないということだったけれど。侍女の梅馨は、名案を献じてくれた。
『私の兄が興徳王殿下のもとで学んでおりますが、いまだ郷試に臨めるほどの成績ではございません。明婉様は、進士及第を目指すというよりは、腕試しがなさりたいのでしょう? ご謹製の答案がそうと知られず審査されるよう、兄妹ともどもお力になれれば、と存じますが──』
梅馨は、明婉の願いを正確に汲み取ってくれた。匿名で採点されるのでなければ、意味がないのだ。
父も兄もそのほかの学者も、彼女の作と知って見れば、それなりに褒めてくれるに決まっている。若い娘にしてはよくやったと、但し書きをつけて。
そんな称賛を、どうして喜ぶことができるだろう。
『そう、そうしたいの! できるかしら、梅馨?』
『興徳王府の内情は、あるていど分かっておりますから。万が一露見して、興徳王殿下のお怒りを買った時は、何卒執り成しをお願いしたいところですが──』
『ええ、わたくしの我が儘ということにするわ。貴女もお兄様も、ますます引き立ててもらえるようにお願いするから……!』
そして郷試の結果が発表された時、花志耀──梅馨の兄の名は見事掲示された合格者の中に並んでいた。次の会試は都で行われるからさすがに無理かと思ったけれど、図らずも明婉は父に連れられて後宮で過ごすことになった。答案が集まる印刷局の、ごく間近で。
(これはもしかして、殿試まで行けてしまうのではないかしら!?)
会試に臨んだ志耀から、出題を届けてもらう手はずは梅馨が整えてくれている。郷試以上の難関なのは承知しているつもりだけれど、それでも明婉はもしかしたら、と考えずにはいられない。
名を伏せた状態で進士に並ぶ成績を出せば、さすがに父や兄も本気で褒めてくれるのではないだろうか。ふたりの驚く顔を見た後なら、相手が誰でも喜んで嫁ぐ気になれるのではないだろうか。父に兄に夫に、従うだけの人生の中で、その誇りは彼女を支える標になってくれるのではないだろうか。
* * *
燦珠に今少し待って欲しいと言ったのは、兄に打ち明けるのは科挙の合否が分かってから、と決めたからだ。だからいまだ秘密を抱えたまま、明婉はさりげなく首を傾げた。
「でもお兄様、会試までもう日がございませんでしょう。調査は無事に終わるのでしょうか」
「たとえ終わらずとも、不審な点が残っていれば受けさせぬ。ほかの受験者に対して不実になるであろうからな」
まさに「ほかの受験者」のひとりである明婉は、皇帝その人の保証に胸を弾ませた。
(これなら、わたくしの答案を混ぜても大丈夫そう……!)
印刷局の周辺の警備が厳しくなるという点で、董貴妃の──たぶん──企みは、明婉にとっても非常に迷惑だったのだ。でも、問題が解決した後なら、いくらか困難は減るだろう。そしてもうひとつ、兄に請け負って欲しいことがある。
「安心いたしました。あの……後は、燦珠たちは賜宴で演じられるのですよね? とても熱心に練習していたのです」
《探秘花》と言っただろうか、役者たちが唄い上げた祝福の唱が、明婉の耳に焼き付いて離れない。本番では衣装も楽も加わって、進士たちが寿がれるのだ。
(わたくしも、祝ってもらえたら)
恐らくは明婉の存在が理由で、燦珠の玉花が盗まれてしまったのは本当に申し訳なかった。それを切っ掛けに、役者たちの移動が制限されたことは、明婉と梅馨が動きにくくなるということでもあって──だから、一度は諦めかけたのだ。
(でも、燦珠が応援すると言ってくれたから)
自身の言葉がどれだけ明婉を励ましたか、燦珠は知らない。教えられるのは兄の後になってしまうだろうけれど、あの娘は驚きつつも喜んでくれる気がした。芝居でも学問でも、女が選ぶには険しい道が多いようだから。
「あの娘の潔白が証明されれば、問題あるまい。秘華園を預かる楊太監は、有益な進言をしてくれている。報いるためにも、役者たちの鍛錬を無にすることはしない」
「ありがとうございます、お兄様……!」
だから兄の頼もしい言葉を聞いて、明婉は心から笑った。今日も傍に控えていた梅馨が軽く目を見開くほどに、長公主にはあるまじき、あけすけな表情だったかもしれない。