5.皇帝、心労は尽きず
この数日というもの、翔雲は気の休まる暇がない。私的な時間を過ごすはずの渾天宮においてさえ、そうだった。
香雪を召すことができない上に、父、興徳王とのやり取り──というか口論──に時間を取られているからだ。父からすれば彼の反抗が信じがたいのだろうが、息子からすれば父が主張を曲げぬことこそ信じがたい。
今日もまた、花の咲き始めた庭園が夕闇に沈む清雅な光景を余所に、父子の間に漂う空気は険悪だった。話がややこしくなるから口にはしないが、心中の愚痴はかなり非建設的なものになっている。
父は、明婉の駙馬にするはずの状元候補が、董家の者であったことを認めた。親族である董貴妃仙娥の下手な演技を見てなお、父はそれが良い考えであると疑っていないようなのだ。
(昨年以来、見え透いた芝居を見せられてばかり、皇帝に見せるのに不敬ではないか……!?)
無論、翔雲とて巧妙な陰謀に対峙したいと思っている訳ではない。ただ父は、《偽春の変》の時は遥かな王府で事態を見守っていた。ゆえに、目の前で茶番が繰り広げられているのに止められないという不快さが分からないのではないかと、密かに疑ってしまうのだ。それに、《偽春の変》といえば──
「董貴妃は偽皇子におもねっておりました。董家の意向がそうだった、ということでございましょう。外戚に迎えるのに相応しいとは思えませぬ」
仙娥やその実家を信用すべきでない理由を、翔雲は切り口を変えて何度も父に述べている。だが、いまだに説得することに成功できていない。父の認識では、董家は皇帝の後宮での放蕩を進言した功績があり、翔雲は香雪への寵愛が深いあまりに罪を罪と理解していない、ということになっているのだ。
「だからこそ、だ。利害で立ち位置を変える輩は、厚遇すれば繋ぎ留められよう。高潔と見せて、不正に手を染める者よりはよほど良い!」
香雪と直接話して、一度は教養を認めたのだろうに、これだ。董家はよほどもっともらしい作りごとを父の耳に吹き込んだらしい。
(寵妃可愛さに目が眩む、と──ありそうな話だと思われているのか、父上は!?)
うんざりとした気分を表情に出せば、話が長くなる。よって、翔雲は努めて平らな声で指摘するにとどめた。
「……不正を犯したのが何者かはまだ分かりませぬ。動機というなら董貴妃にもありましょう。香雪──沈貴妃の罪を捏造することで、父上に取り入ることができるのですから」
良いように操られているのではないか、と。翔雲にとっては当然の懸念は、父にとっては考え過ぎの無理な理屈に聞こえるらしい。
微かに笑んだ父の口元は、呆れと苛立ちと、そして一抹の寛容を浮かべていた。未熟者の言うことだから多めに見てやろう、とでもいうような。ほんの数日前の翔雲なら狼狽えていたかもしれないが、日を追うごとに動じなくなっているのが、自分でも分かる。
「頑迷なことだ。まあ、汝はあの宦官を打たせることができた。過ちを認めることができると、信じておるぞ」
「父上のご教導のお陰かと。動かぬ証拠があれば、認めるのは当然のことでございます」
頑迷なのはどちらだ、とはもちろん言わず、翔雲は従順にへりくだる。こう言っておけば、調査の結果が出た時こそ父を黙らせられるだろう。
皇帝を差し置いてその父に取り入ろうとした仙娥が失脚すれば、妃嬪たちの態度も改まるはず。あのような下手な芝居を前に、誰ひとりとして異を唱えなかったことに、翔雲は密かに失望していたのだ。彼女たちに、というよりは、皇帝として信用されていないことを突き付けられてということだ。
(このような手段に訴える者が、清廉潔白であるものか……!)
調査の対象が香雪や梨燦珠だけだとは、翔雲はひと言も言っていない。仙娥も、その親族の受験者も、叩けば埃が出てくるに決まっているのだ。
* * *
どうにか父を帰らせた後、翔雲のもとに一通の書簡が届けられた。宦官が捧げる盆に載ったそれを引っ掴むようにして手にした彼は、開いた紙面を一瞥して顔を顰めた。
(なんと清々しく憂いも怨みも見えない手跡だ。あの者にとっては、思い通りなのかもしれぬが……)
書簡の送り主は、霜烈だ。
華麟経由で──父には絶対に知られる訳にはいかないので──送った薬への礼と、くれぐれも香雪の、ひいては梨燦珠と秘華園の潔白を明かして欲しいとの請願が流麗な筆跡で記されている。恐らく、芸術にだけは関心が深かった先帝の薫陶の賜物だろう。
そして、霜烈自身の容態については、陛下の格別のご配慮によって回復は早く、云々としれっと末尾に書いている。翔雲がもっとも知りたいことを後回しにするのは、焦らしているのかどうか。
「そなたの功績だ。俺に感謝することではないだろうに」
苦く笑いながら、翔雲は霜烈がいつになく真剣な表情で拝謁を求めた時のことを思い出す。彼も香雪も梨燦珠も、あの男の手回しで救われたようなものなのだ。
あの時、霜烈は例によって先を促したくて堪らなくなることを、絶妙な間合いと抑揚と美声で訴えた。その口上の見事なこと、かえって思い通りにさせたくないという考えが頭を過ぎるほどだった。
『私はこれから、私情で、陛下が決して聞き捨てならぬ言葉を使って語ります。讒言に等しいことでございますゆえ、ご不信があらば罰してくださいますように』
『……そなたがそのようなことを言うとは信じがたい。遠慮せずに申すが良い』
だが、促してみれば、確かに翔雲にとって決して見過ごすことのできない事態だった。霜烈の滑らかな報告に聞き惚れることもできず、翔雲の眉間には次第に深い皺が刻まれていったことだろう。
梨燦珠の翠牡丹が盗難されたこと。戯子に不便が生じる措置を取ったにも関わらず、見つかる気配がないことから、犯人は戯子ではない可能性があること。そこまでを報告した上で、霜烈は続けた。
『──戯子同士の嫌がらせでないとすれば、沈貴妃様を狙う陰謀やもしれませぬ。梨燦珠の翠牡丹が悪用されたとなれば、命じた者がいると疑われるのは当然のことでございますから』
『だが、広い後宮から翠牡丹ひとつを探し出すのは容易ではないな? どのような対策が考えられる?』
あの者は対案なしで不安だけを煽るような真似をしないと、翔雲は信じていた。そして実際、霜烈は即座に応じてくれた。
『万が一、梨燦珠を通して沈貴妃様の罪が問われる事態が起きた時、いち早く糾弾するのは何者かを確かめるべきかと存じます。その者は、何が起きるかをあらかじめ知っていたのでしょうから』
『なるほど』
そうすれば調査の範囲も絞ることができる、と。翔雲が得心したところで、霜烈はさらりと続けた。
『そして、誰かに罰を与えることが必要になった場合は、私が引き受けますので、お召しください』
『……何?』
『翠牡丹が関わることですから、自然なことです。皇父殿下のお疑いも解けましょう。秘華園に過剰に甘いと思われることも、なくなるかと』
絶句した翔雲に、霜烈はいっそ不思議そうに首を傾げた。それで万事丸く収まるではないか、と言いたげに。翔雲は、その場ではあり得ぬことと退けたが、結局父を抑えきれずに霜烈の述べた通りの展開となった。糾弾の場を設けることを了承せざるを得なかった時点で、宮衛の刑官に加減するよう言い含めておいたのは危うい幸運だった。
霜烈からの書簡を元通りにしまいながら、翔雲は苦い思いを噛み締めた。
(そなたは守りたい者を守ったのだな)
霜烈の進言は確かに私情と打算に塗れていた。秘華園のためと言いつつ、実は梨燦珠のためだというのが見え見えだ。さらに言うなら、翔雲に罪悪感を持たせることで今後の交渉や強請りごとを通しやすくしよう、という肚もありそうではある。
だが、その私情と打算によってこそ、香雪への断罪を保留にすることができた。
杖刑を言い渡した時の、梨燦珠の驚きと非難の眼差しは、思い出すたびに翔雲の胸に刺さる。明らかに不当な罰を下した皇帝にさぞ失望したことだろう。真実を究明することで、どれだけ信用を挽回できるだろうか。
「あとは──明婉か」
さらにもうひとり、渦中にいる存在を思い浮かべて翔雲は額を押さえた。梨燦珠の翠牡丹盗難の切っ掛けになってしまった上に、駙馬候補の董家の受験者とやらも、不正の疑いに巻き込まれつつある。か弱い妹は、さぞ心を痛めて憂いを深めているだろう。
(意に反して嫁がせはしないと、改めて言ってやらなければ……)
梨燦珠ならば、明婉の心を解きほぐせるかと期待したのだが。今の後宮では妹の気晴らしも儘ならないだろうと思うと、兄としては心配の種が尽きなかった。