3話 目標
ぱちり、とカトリーヌの目が覚める。
眠りのヴェールが朝日に吹き払われたような、奇妙な程にすっきりとした目覚めだった。
どうして、私は横になっているのだったか。
「っお嬢様!よかった、お目覚めになられたのですね!」
カトリーヌが寝起きで鈍い頭の持て余していると、喜色に満ちた声が降ってきた。そちらを見ると、涙を浮かべんばかりの笑顔のミーシャ。
「私は……」
「お嬢様はお誕生日会の後にお疲れだったのか、お熱を出してしまわれたのですよ。それから三日も寝たきりで。ミーシャは心配でたまりませんでした」
「……そう」
誕生日会の後。熱。ミーシャの言葉に引っ張り出されるようカトリーヌの頭に記憶が戻ってくる。
(そうだ、私はお父様たちのお話の後に倒れてしまったんだ。)
ミーシャに手渡された水を飲むために体を起こす。口に含んだ水がやけにおいしく感じられるのは、三日間なにも口にできていなかったからか。聞かされた真実の衝撃が大きすぎて、カトリーヌの頭は一周回って冴え冴えとしていた。もしかしたら熱を出していた三日の間に噛み砕いてしまえたのかもしれない。
「心配をかけたわね。ごめんなさい、ミーシャ」
「へっ」
グラスを返す時に目を細めて笑いかけてきたカトリーヌにミーシャは驚いた。熱に倒れる前のお嬢様は天真爛漫で年相応の少女だったというのに、今目の前にいるこの人は一体何なのだろう。無理をした大人の真似とも、背伸びしたおませな少女とも言えない、この年不相応の落ち着いた表情は。まるで大切な志を失ってしまった老人のような、この雰囲気は。
「……お嬢様、何かございましたか?辛いことがあれば、なんでもミーシャにお申し付けくださいな。全力で解決しますから」
「ううん、何にもないわ。おなかが減っただけよ」
「そう、ですか。……分かりました、今お食事をご用意しますね」
首を振ったカトリーヌに一抹の寂しさを感じながらも、ミーシャは食事を用意するために部屋を出ていく。
その背を見つめながら、カトリーヌは考える。
(私にああやって話しかけたということは、きっとミーシャは入れ替わりのことを知らないのだわ)
物心つく前から世話をしてくれた彼女が、本当は別の人を一番大切に思いながら世話をしてくれていた、なんてことにならなくて少しホッとした。そして、そうやって本物の場所を奪っているのに安心していることに気づいて自己嫌悪を起こす。
グッと握りしめた手のひらに爪が食い込んだとき、扉をノックする音がした。
「はい、どうぞ、お入りください」
ミーシャならばノックはもう少し音が大きいはずなので、違う人が来たのだろう。丁寧な口調で入室の許可を口にする。
「……カトリーヌ」
「お父様、お母様」
「どこか、苦しいところはありませんか。しんどいのならば、まだ横になっていてもよいのですよ」
飴色の扉の向こうから出てきたのは両親だった。その表情に浮かぶ申し訳なさを見て、カトリーヌはこっそり手を後ろに回し、きつく握っていたそれを広げる。
「いいえ、どこも悪いところはありません。すこしおなかが空いているくらいです。ですから、そんな顔しないでください」
「そうか。……いきなりあんなことを話されても驚くしかないよな。配慮が足りずすまなかった、カトリーヌ」
「……いつか知ることなら、いつ知ったって同じですから。私はもう大丈夫ですよ」
「無理はしないでね、何度だっていうけれど、あなたも私たちの大切な子供なのだから」
温かい腕の中に迎え入れられる。その優しい温度に安心して、申し訳なくなる。少しだけ信じられなくて、そんな自分が嫌になって。言葉にならない苦しさに泣きそうになりながら、全部飲み込んでカトリーヌは笑った。
「……はい、お母様」
その後、ミーシャが来るまで抱きしめられながら両親に体調を心配されていたカトリーヌは、両親がいなくなった後に思わず肺腑の空気をすべて吐き出すようにため息をついてしまった。優しい両親に心配をかけていることが申し訳ないし、大丈夫ですと繰り返すのも精神的に疲労が溜まる。
(お父様たちに、もう心配かけない)
それが双方の精神衛生上最上の選択だと思った。
医者にも問題ないとお墨付きをもらった後、カトリーヌは今まであまり好きではなかった勉強に力を入れるようになった。家庭教師の出す課題だけでなく、書庫の本も分かりやすいものから手を出すようになった。本物の場所でのうのうとしていると、後ろ指をさされている気分が消えなかったからだ。
カトリーヌの突然の変わりように驚く人には五歳になったから、はやく素敵なお姉さんになるためだと言った。両親には向き合ってみたら案外楽しかったのだと言った。少し悲しそうな顔をされたので笑顔で誤魔化した。
そして、親族には。
「多少は本家の娘という自覚が芽生えたようでなによりですわ」
「……お褒め頂き、ありがとうございます」
「まぁ、所詮本物に慣れない化けの皮でも、ないよりましというもの」
「一族の繁栄の駒として引き取った子ですからね。成り上がりの血を引いていても養育を丁寧にしておいて損はしないでしょうから」
「むしろ嫁げないのなら下賤の血を置いておく意味などありませんもの」
少しずつ覚えだした難しい言葉より難しい言葉が降ってくるけれど、その目の冷ややかさに馬鹿にされていることはカトリーヌにもよく分かった。それでも物分かりの良いいい子でいるために、アルフルーレの隣で笑顔を浮かべる。
真実を告げられた日からしばらくした後、親族の中でも一番冷たい目をしていた曾祖母、アンネが亡くなった。
粛々と行われた葬儀の後に親族で集まり、アンネの遺産や諸々の打ち合わせのために男性がいなくなった後に残された女子供。井戸端会議が起こるのはもはや必然と言えた。
カトリーヌは親族の子どもの集まりに混ぜてもらうのも少々気が引けて、どうしようかと壁のほうにいた時に、母の横顔を見つけた。親族の女性たちと談笑しているようだ、が。なんだか顔色が悪い気がする。
気になってしまい、カトリーヌはゆっくりと母のもとに近づく。
「あれから六年もたつのに、まだ体調はすぐれませんの?」
「本家の子がいないのは私たちも心配なのですわ」
「ご実家に一度お顔を見せてきてはいかが?あなたのお父様も大層お喜びになると思いますよ」
上品そうな語尾の言葉がだんだん聞こえてくる。しかし、話している人の口元に浮かぶ笑みも言葉も冷たくて怖い。母は笑顔で相槌を打っているようだが、顔が白い。
カトリーヌは迷うことなく母の袖を引いた。
「お母様」
「っカトリーヌ。……ここには面白いものは何もないわ。あちらの子どもたちに混ぜてもらいなさいな」
「まぁ、ご本家の奥方様の可愛がる子は随分と懐いていらっしゃるのね」
見上げるカトリーヌに対して膝をついて目線を合わせたアルフルーレは、柔らかな笑みを浮かべながら少し柳眉を寄せた。その背に浴びせられる声。
「……カトリーヌは、アイオリーシスの子です」
「血の繋がらない下賤の子に、よくもそんなに構えますわね。そんな暇があるのならばバルトロメオ様にさっさと共寝を請えばよろしいものを」
「偽物の出自はあの成り上がりの上に貧乏な男爵程度でしたわよね。そんなものにお目をかけるなんて奥方様は随分と心が広くていらっしゃる」
「もう一度言いますわ。カトリーヌは、アイオリーシスの子です。侮辱はバルトロメオ様たちの決定に楯突くことになりますよ」
相変わらず歪んだ口元を隠そうともしない目の前の人々に対し、アルフルーレは毅然と言い放つ。侯爵家当主の名を出し、まっすぐに見つめてくるアルフルーレの視線に流石にやり過ぎたと悟ったのか、彼女らは眉を寄せながらもそれ以上を口にはしなくなった。
微妙な空気を何とかしようと思ったのだろう、親族たちは母の傍から離れないカトリーヌを話題にし始める。
「風の噂では、カトリーヌさんが随分と勉強をなさっているとか」
「あぁ、私も聞いたことがありますわ」
扇子で口元を覆い言われる言葉を、カトリーヌは中身のない箱みたいな音だと思った。
そして、先述の会話に戻る。
言われていることの意味を全て理解できなくても、居心地が悪いということだけは幼いカトリーヌでも分かる。しかし、ここで下手な行動に出て母がまた悪く言われるのならば、話を静かに聞いているほうがいいと思えた。
「でも、あまり賢しすぎる女は嫌われますわ。男性が気後れするような女なんて貰い手がいなくなってしまいますから、ある程度でやめておきなさい」
「はい」
「顔だって全然できていないわ。そんな表情で誰に嫁げるというの。生まれで出遅れた分は愛嬌で埋めるしかないんだから」
「はい」
「いいですか、カトリーヌさん。あなたは我らの一族繁栄のために拾われた命。本当ならば捨ておかれていた命なのだから、今ここで生きていられるのは誰のおかげなのかをよく考えて振る舞いなさい」
「っ、お義姉様!その言い方はあまりに」
「はい、分かりました。伯母様」
ひどい物言いに抗議しようとしたアルフルーレの言葉を遮り、カトリーヌはまっすぐに伯母の目を見て頷いた。泣きそうな顔でカトリーヌを見つめる母に何も問題ないと言いたくて笑いかけるが、余計に眉がハの字になるだけだった。
見上げた母のつらそうな顔に、激しい後悔が押し寄せる。
(あぁ、どうしよう。お母様に心配をかけてしまった)
でも、母が言いたい放題言われている所は自分も見たくないのだ。どうするのが正しい答えだったのだろう。
好き勝手に言いたいことを言った女性たちは満足したのか去っていった。やがて父の話し合いが終わり、帰りの馬車に乗り込むまで、カトリーヌは落ち着かない脳内でずっと間違いじゃない答えを考えていた。
例え言われていることの意味が分からなくても、こちらを心底馬鹿にした目と声は怖かった。聞くのが辛かった。今でも胃の奥のほうが重たくてぐるぐるしているような気がする。あんなものを母にまた押し付けようなんて、出来るはずがなかった。なら、伯母たちの言っていたことを実行できるようになれば良いのだろうか。それとも、どんなに苦しいことを言われても何も感じないように慣れてしまえばよいのだろうか。
窓の外を眺めながら思考に耽るカトリーヌを見据え、アルフルーレはやや硬い声を出す。
「カトリーヌ」
「はい」
「今日言われたことは気にしなくて構いませんからね。あなたがこうなりたいと思う女性が一番魅力的な人間像ですし、あなたは十分に笑えていたわ。それに、あなたに健やかに成長してほしいと私たちが願うのはあなたが私たちの子どもだからよ。あなたに幸せに生きてほしいと私たちが願うから、あなたはここにいるの。それ以上も以下もないわ」
グッと握りしめた手を膝に置きながら、アルフルーレはカトリーヌに言い聞かせる。そのまっすぐで、しかし悔やむ色の滲んだ目線を受け止め、気づく。
(伯母様たちが言っていたことを私が素直に聞いていたから、お母様は悲しい顔をしていたんだ。……でも、私は伯母様たちが文句を言うのに絶好の対象で。このままでは、いつもお母様を悲しませることになってしまう。……よし)
「分かりました、お母様」
(誰にも文句を言われない、言わせない女性になろう)
熱の無意識で考えたことより、さらに高い目標を掲げたカトリーヌは、それをおくびにも出すことなくアルフルーレの言葉に返答した。