未衣3 (3)
3.
とりあえずその話はうやむやにしたまま、あたしは豊島さんの分も有り難くケーキを頂いた。
ミルフィーユもサックサクのパイ生地が、まろやかなカスタードクリームと口の中で混ざって絶品だった。
こんな素敵なケーキのお店で働けるなんて幸せ~
「未衣ちゃん、ちょっといいかしら」ショーケースの向こうから、小百合さんが声をかけてきた。
「あ、はい」立ってショーケースの方に行くと、「こっちに来てくれる?」と奥の厨房へ案内された。
厨房の奥に扉があって、それを開けて廊下に出て突き当りの部屋のドアを開けた。
「ここがスタッフルーム。テーブルの上に置いてある制服を合わせてみてくれる?鍵かけてね。
あ、廊下の左手のドアがトイレだから」
「はい、わかりました。ありがとうございます」と言うと、小百合さんは笑って
「将也が彼女を連れてくるなんて本当にびっくりした。あの子、人づきあいが苦手でね。幼いころから、いつも一人で本を読んでいるような子で。心配してたのよ。
今、未衣ちゃんとすごく楽しそうに話してるの見て、ホッとしたわ。
将也を宜しくね」パチンと鮮やかにウィンクする。
「あ、はあ…」そうなんだ。あたしはちょっと意外に思った。
そんなふうには見えないけど…
言われた通り鍵をかけて、着替えてみる。
陽子さんが来ていたのと同じ、小さなタイがついた白いシャツにタイと同系色のパンツ。
パンツと同じ色の短いギャルソンエプロンを着ける。
鏡が置いてあって、帽子をかぶってみると、あ…案外、いいかも。
部屋を出て厨房へ行くと、クリームを絞っていた小百合さんが振り向いて「あ、可愛い!似合う似合う!陽子さん!将也呼んでくれる?」と陽子さんに声をかけた。
扉についた丸いガラス窓からこちらを覗き込んだ陽子さんは、あたしに気づいてにっこりし、豊島さんを呼んだ。
厨房に入ってきた豊島さんはあたしを見て、右手で口を覆った。
「どお?可愛いでしょぉ~」小百合さんがニヤニヤしながら言う。
「・・・・・うん」と豊島さんは見つめたまま小さく言った。
え?似合わない?あたしは不安になった。
「ちょっとぉ、将也!見惚れてないで、可愛いって言ってあげなさいよ!」
ボールの中のクリームをすべて絞り袋に入れて、ボールをシンクに置きながら小百合さんは大きな声で言う。
はっとしたように豊島さんは「あ、ごめん。…あの…」と言って、外へ出て行ってしまった。
「やあねえ。照れちゃって」小百合さんはクリーム絞りに戻りながら言った。
「ごめんねえ、気の利かない甥っ子でねえ。ホント、似合ってるわよ。
で、細かい話になるんだけど、時給はとりあえず千円で良いかな?
時間は、オープンが午前10時だから、9時半には入ってもらって掃除とかお願いするわ。
休憩は1時間、終わりは4時か5時くらいでも大丈夫?
あと、イートインについては、来てもらってからでいいわ。
後で陽子さんからケーキの説明のマニュアルもらってね」
「はい、分かりました。よろしくお願いします」頭を下げる。
「こちらこそ。未衣ちゃんの笑顔ってすごく明るくて良いし、本当に助かるわ。
よろしくね」
そう言って、小百合さんはまた集中してクリームを絞り始めた。
職人の顔になっている、素敵な横顔を眺めて、あたしはまたスタッフルームに戻って着替えた。
陽子さんからケーキのマニュアルをもらって、電話番号とメールアドレスを書いて渡した。
「息子のオペが決まったら、連絡します。
私がいるうちに何度か来てもらって、仕事教えますね」
と言われ、「はい、よろしくお願いします」と頭を下げた。
陽子さんはいえいえ、と笑った。
「夏休みの間だけ、なんて条件で来てくれる人がいると思わなかったから。
本当に助かります。
なにか判らないこととかあったら、メールちょうだいね」
すっかり暗くなってしまった駅までの道を歩きながら、隣を歩く黙ったままの豊島さんを見上げる。
「どうしたの?似合ってなかった?」
みっともないのかな。バイトやめた方が良いかなあ。不安が募る。
豊島さんは立ち止まってあたしの手をとってしっかり握る。
「いや、その…あんまり可愛かったんで。逆に心配になっちゃって。
客の男に声かけられたりとか、大学の奴がたまたま来て惚れちゃったりしたらどうしようとか」
「ええ??」
あたしは素っ頓狂な声をあげた。
そんなこと考えてたの?
…あほらしい…あたしは呆れてため息をついた。
「そんなことあるわけないでしょ、だいたいあんなお洒落なケーキ屋に男の人がひとりでなんて来ないわよ。杞憂っていうのもバカバカしいくらいの、妄想だから」
彼氏の欲目?にも程があるわ。
「そんなことないよ!」豊島さんは言い張る。
「僕が部員でもないのに、何であんなに演劇部に入り浸ってたか、君だって知ってるでしょ」
「え、知らない」そういえば何で?
豊島さんは、はあーっとため息をついた。
「未衣ちゃんがいるからだよ!
他の部員から、結構人気あるとか知らないんだろうけど…
僕は君と話したいって言うのもあったけど、とにかく他の男から君を遠ざけたくて」
えー、そんなことないと思うけど。他に告られたことなんてないし。
「それ言ったら、豊島さんの方が女子から凄い人気あったよ。
この頃部室に来ないねーって残念がってるし」
「そりゃまあ、未衣ちゃんを手に入れれば、ゲキブには用はないって言うか…」
あたしの手をつないだまま離さず、逆の手で頬をぽりぽり掻いた。
あ…そうだったんだ。
全然知らなかった。
「あたし、また来てくれるように言っとくねってみんなに言っちゃった」
豊島さんは驚いて口を開けたが言葉が出ないようで、そのまま閉じるとあたしの手を両手で握り、自分の額に押しあてた。
あたしの方がだいぶん背が低いので、腕が持ち上がる感じになる。
「あのさぁ、未衣ちゃんさ…その無防備さっていうか天真爛漫な感じ?
君の魅力だとは思うけど、他人の恋愛感情に対して無頓着すぎるよ…
その、部活の子たちは僕に好意を抱いてくれてるわけでしょ?
どういう種類の好意かは判らないにしてもさ。
君はそれを何とも思わないの?
僕がその子たちの誰かに好意を持つかも、とか…」
ええーそんなこと考えたこともなかった。
部の女の子たちだって、そこまで深い感情はないと思うんだけど…
あたしの不得要領な表情を見て、また大きくため息をつき、豊島さんはあたしの手を降ろした。
「まあいいや、結局、僕の片想いってことなんだよね。
好きになってもらえるように頑張るしかないかぁ…」
結局、手をつながれたまま駅まで行って、帰る方向が違うのでそこで別れた。
豊島さんは送ってくれるって言ったんだけど、あたしが遠慮した。
だって、今日は予定してくれてた渋谷にも、あたしのバイトの件で行けなくなったし、なんか振り回してばっかりで悪い気がして。
豊島さんはちょっと傷ついたような顔をしてそれから微笑んだ。
「じゃあ、ホームまで。見送らせて」
「でも豊島さんの方が先に電車来るよ?」あたしが電光掲示板を見ながら言うと
「だから。そういうこと言わないの!」と切ない笑顔になってあたしの肩を抱き階段を登り始めた。
家に帰って、授業の課題を取り出そうとして、スクリプトが目に入った。
あっこれ…豊島さんに相談しようと思ってたんだ。
明日にでもまた相談してみよう。
今日はなんか、いろいろあったなあ…
ケーキ屋さんでバイトできるなんて嬉しい。
小百合さんや陽子さんもすごく良い人そうだし。
豊島さんのお陰だわ。
本当に夏休み、あたしのいる日に来るんだろうか。
まさかねえ…
でも部室に毎日のように顔出してた人が、あたしとつきあいだした途端ばったり来なくなったのは事実だ。
みんなは多分それ知ってたんだわ。
リアクション薄かったもんな…
豊島さんは優しくて、あたしのことを一番に考えてくれて、言葉の端々にあたしのことを好きだと織り込んで話してくれる。
物腰もスマートでイケメンだし(ゲキブの女子からは、ほんっとに人気あった)、理想的な彼氏、なんだろうけど…
うーん。
やっぱり、あたしがまだ豊島さんの気持ちに応えられる程、豊島さんのことを好きじゃないからなのか。
重いな…って感じることがある。
あ~ダメだ。こんなこと考えちゃ。
好きになれるように頑張ろう。
あたしはスマホを取り出し、LINEを起動した。
今日のお礼を入力する。
送信すると、すぐに返事が来る。
優しい、豊島さんらしい文面。
彬の、ちぎって投げるような、不愛想なのとは全然違う。
『今日のケーキとバイトの紹介の件のお礼に、明日、お弁当作っていきますね!』
と送信すると
『本当?めっちゃ嬉しい!』という文と次にでっかいスタンプが来た。
ハートマーク。
うーん。どう返そう。
結局、既読スルーで終わらせてしまった。
ごめんなさい。