未衣16
豊島さんとあんなに酷い別れ方をしたから、Preludeでのバイトも辞めなきゃかなと思った。
罵倒されるかもしれないと思うと正直なところ、小百合さんと顔を合わせるのもつらかった。
制服に着替えるのも躊躇われ私服のまま恐る恐る厨房に顔を出すと、たくさん並べたセルクルに熱心にスポンジ生地を絞り出していた小百合さんが気づいて振り返り、あたしを見て少し笑った。
「おはよう。いろいろあって私も何を話していいか判らないけど、もし良かったら着替えて今日も一緒に仕事して欲しいわ。
未衣ちゃんが嫌ならもちろん無理にとは言わないけど、未衣ちゃんと一緒に働きたいと、私は思ってる」
小百合さんの真剣な瞳に、あたしは思わず頷いて厨房のドアを閉め休憩室で着替えた。
小百合さん、本当に良い人だ。すごい人だと思う。
あんなに可愛がっている甥御さんを手酷くフった女を、冷静に評価して一緒に働きたいと言ってくれる。
あたしもあと1週間ちょっと、一生懸命働こう。
それから1週間と少しの間、あたしも小百合さんもその話に直接触れることはなかった。
豊島さん目当てに来ている女の子たちの問いかけに、あたしが困惑して黙っていると厨房から出てきて「ちょっと体調を崩してしまって、もう来ないと思うわ」と微笑んで言った。
えーっと女の子たちが不満そうな声を上げ、それでもケーキは買って帰った後、小百合さんはあたしを見て無言のまま微笑み、また厨房のドアを開けて入っていった。
陽子さんも無事にお子さんが退院して、あたしのバイト最終日に挨拶を兼ねて会いに来てくれた。
豊島さんと別れたことは小百合さんから聞いていたようでそのことには触れず、夏休み中本当に助かったと、繰り返し礼を言ってくれた。
あたしは泣きそうになりながら、もう二度と会うことはないだろう陽子さんと握手した。
最終日も無事に仕事が終わり、後は友紀ちゃんに託してあたしは着替えて小百合さんに挨拶に行った。
小百合さんは封筒を持って、事務室から出てきた。
「1ヶ月半、お世話になりました」とあたしが頭を下げると、小百合さんは
「こちらこそ、本当にどうもありがとう。未衣ちゃんの明るい笑顔と元気な声の接客に、私とこのお店もとても助けられたわ。
できればずっと働いて欲しいと思ってたんだけど」
そこまで言って言葉を切った。
「20日ごろ将也から未衣ちゃんと婚約したいって言われて、驚いた姉から連絡があって。
中野さんってどんな娘?って訊かれて私もビックリした。
将也の行き過ぎた溺愛ぶりについては私も危惧していたんだけど、まさかそんなに思いつめているとは思わなくて…
その時は、よく働いてくれる明るくて優しくてとてもいい子よって姉に答えたの」
「日を置かずにまた姉から電話があって、将也が未衣さんに婚約の話をしに行ったあと倒れて入院したと。
夏休みの後半に入ったころからひどく憔悴している感じはあって、未衣ちゃんの勤務日にも来なくなったし私も心配はしていた。
でも姉の話を聞いているうちに、冗談では済まされないようなことを将也がしたと知って、未衣ちゃんに本当に申し訳なくて」
「将也の叔母として、また未衣ちゃんの雇い主として見通しが甘かったと思う。
私が一番近くにいる大人だったのに、将也の行動を止めることもできず未衣ちゃんを怖い目に遭わせて、本当にごめんなさい」
そう言って小百合さんは深々と頭を下げてくれた。
あたしは涙が止まらなかった。
小百合さんが謝ることじゃない。
「小百合さん…謝らないでください。あたしが豊島さんのことちゃんと好きになれなくて、あんなに苦しめて申し訳ないと思っています」
顔を上げた小百合さんも泣いていた。
「将也の行動は常軌を逸していたと思う。
未衣ちゃんから別れを言われて、将也は殆ど錯乱状態にあって。
入院している病院の内科のドクターに勧められて、将也は姉と一緒に心療内科を受診したの。
話を聞いた心療内科の医師に転地を勧められてね。とにかくそのお嬢さんから離れた方が良いと。
退院したら、外国の大学に留学することが決まったから」
あたしの手をとり伏し拝むようにして続ける。
「将也を警察に突き出さないでくれてありがとう…。
将也は本当にあなたを愛してた。こんなこと言われても困るだろうけど。
幼いころから感情の表現が苦手で自分を抑えてきたあの子が、あんなに感情を露にするのを初めて見て、私もつい甥可愛さにあなたに負担をかけてしまった」
「本当は義兄と姉からも謝罪しなきゃいけないんだけど、将也から離れられる状態じゃなくて。ふたりとも病室に詰めてるの。また改めてご挨拶に伺うと申しておりました」また深々と頭を下げた。
あたしは多すぎるお給料に固辞したが、小百合さんは頑として退かず仕方なく受け取った。
ご迷惑ばかりかけたバイトだった。
小百合さんと豊島さんに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
泣きながら駅まで歩き、耐えきれずに彬に電話した。
彬は支離滅裂なあたしの話を、黙って辛抱強く聞いてくれた。
『未衣はよく頑張ったと思うよ。
こんな状況でも辞めずに逃げずに最後までバイトやり通して、偉かった。
小百合さんは豊島さんのこと抜きにしても未衣のこと買ってくれてたんだと思う。
自信もって、バイト代ももらっていいんだよ』
あたしは彬の優しい声と口調に、すごく慰められた。
肩を抱いて励ましてもらっているような気がした。
ありがとう、彬。
精神的にすごく長く感じられた夏休みがやっと終わり、また大学が始まった。
演劇部に公演の準備も少しずつ進んでいる。
11月あたまに開催される文化祭の公演日に向けて、稽古も次第に熱を帯びてくる。
ある日、舞台装置作りに駆り出されて材木を肩に担いで運んできた彬が、大学の入口辺りで美由紀さんという美乃利ちゃんの友達に会ったと報告してきた。
Preludeにも一緒に来た子だと聞かされて、あたしは思い出した。
あの、長い黒髪の美人。
愛くるしい美乃利ちゃんとは好対照のクールビューティだった。
彬ってば、両手に花だなぁと思ったんだった。
彬の話を聞いてあたしは、美乃利ちゃんと美由紀さんって、あたしと彬の関係とは対角線の逆側にある、同性の友人の複雑な関係だと思った。
彬は「歪な関係」と評していたが、それを言ったらあたしたちもやっぱり外部から見れば歪んだ関係なのかもしれない。
でも、だからってどうしようもない。
彬とあたしは友達。そう言い続けるしかない。
授業でもまた以前のように講義の度に隣に座るようになったあたしたちを、クラスメイト達はなんとなく微笑ましく眺めてくれているような気がする。
中でも、千佳と今泉君は前みたいに、よくあたしと彬の傍へ来て4人で話をするようになった。
最近気づいたんだけど。
今泉君って、千佳のこと好きだよね?
かなり露骨に言い寄ってる…
千佳も絶対気づいてるはずだけど、すっとぼけて上手くいなしてる感じ。
あたしや彬が気づくくらいだから他のクラスメイトも当然知っていて、たまに冗談ぽく訊かれたりするけど、千佳がどう思ってるのかなんてそんなことあたしに解るはずがない。
だいたい、千佳という子はあまり本心を見せない。
何か思うことがあってもじっと心の裡に秘めていて、表向きは普段と変わらない明るいキャラクターを演じている。
彬とあたしについて、互いに彼氏彼女ができた時にはよく思っていなかったようだった。
あたしにも彬に対しても何となくよそよそしくなって、あたしは少なからずショックだった。
いつも笑ってあたしのことを受け入れてくれると思ってたのに。
だから、あたしも彬もまた独り身になり、授業中もくだらないことで言い争いをするような日常が戻ってきて、千佳と今泉君とまた親しく話をするようになって本当に嬉しかった。
千佳に今泉君のことどう思ってるか訊いて見事にはぐらかされた日の夜、彬からLINEが入った。
夏のバイト料がたくさん入ったからあたしを遊びに誘おうと思ってたけど、千佳と今泉君も一緒に4人でどこかへ行かないか?と。
えーっ彬があたしを誘うなんてビックリ。
あたしはスマホを持ったまましばらく固まってしまった。
いや4人でか。千佳と今泉君と一緒か。
二人で行きたかったな。
なんて考えてぼーっとしてしまい、はっと気づいてあたしは慌てて返事を入力した。
『そうね。4人で大学の外で会うことも遊びに行くこともなかなかないしね。
誘ってみようか。あたしは千佳に声かけてみる。
彬は今泉君にお願い』
返信してから千佳のLINEトークを呼び出しながら、どこへ行こうと考えていた。
急速に気分が上がってくる。




