未衣15
その時、彬のスマホが尻ポケットで震えだした。
彬はあたしの顔から手を離しスマホを取り出して「あ、いっけね…」と呟いて耳に当てた。
「もしもし…うん、ごめん。
今日、行けなくなった。本当に申し訳ない。
もっと前に連絡すべきだったんだけど、不測の事態が起きて」
「え、彬、誰かと約束あったの?
すぐに行って!」あたしが小声で言うと、彬は横目であたしを見てシッと唇に指をあてる。
「え?…そう、未衣のところ。
だから。
昨日も言ったように、未衣は親友だから。美乃利ちゃんからどう見えようと」
彬がため息交じりに言っている。
説得する気があるようには見えない。
ヤバいんじゃないの?
あたしは彬からスマホをひったくった。
「もしもし?美乃利ちゃん?ごめんね、あたしが悪いの。
彬が美乃利ちゃんと約束してるとか知らなくて…
すぐ行かせるから」
と言ったところで、ぶつっと音を立てて通話が切られた。
「切られちゃった…彬、ごめんね、すぐに行って!
美乃利ちゃん、泣いてたよ?あたしのせいだね…本当にごめんなさい」
スマホを彬に返しながら慌てて言うと、彬は受け取って首を振る。
「実は昨日、駅まで美乃利ちゃんが来ててさ。
あの日のこと謝って、その上で別れようって言ったんだ。
だけど美乃利ちゃんが納得してくれなくて。
今日の11時に渋谷で待ち合わせたんだけど…」
ため息をつく。
「会ったところで話は同じだ。
俺は別れようって事しか言えない。
誠心誠意、話をしたところで、美乃利ちゃんに納得する気がないなら何を言っても一緒だ」
「そんな…冷たいこと言わないでよ」あたしは思わず彬にすがった。
「美乃利ちゃん可哀相だよ、ちゃんと納得するまで話してあげて。
あたしも一緒に行ってもいいから」
彬は薄く笑って手を伸ばし、あたしの頬を撫でる。
「未衣が来たら余計こじれるだけだよ。豊島さんの反応見ただろ?
あれの再現になるだけだ。
俺が自分で何とかするから。未衣は心配しないでいいよ」
あたしは何も言えなくなってうつむいた。
彬は笑いを含んだような声で言う。
「今日は疲れたよ。
未衣と豊島さんの別れ話にがっつり組み込まれちまった挙句、言い慣れない啖呵きって。
もう一度別れ話は、しかも自分のはちょっとつらいな」
「ごめんね…彬まで巻き込んじゃって。
自分でどうにかしようと思ってたんだけど…」
怖かった。彬が来てくれなかったら…あたしは…
彬はぎゅっとあたしを抱きしめて「冗談だよ。豊島さんに何かされる前に間に合って、本当に良かった。俺が何も知らない間に、未衣が豊島さんに力ずくで犯されたりしたら俺は一生後悔する羽目になるところだった」と囁いた。
あたしも彬の背に手を回し抱きしめた。
ありがとう。そんなふうに言ってくれる友達がいて、あたしは幸せだわ。
あたしは彬に囁いた。
彬は頷く。
身体を離し、なんとなく照れてしまう。
彬は部屋を見回し、膝でいざってローチェストの引き出しを開けて中を探る。
「あ、まだあった」と言いながら、タバコと携帯灰皿とライターを引っ張り出した。
「もう湿気ってんじゃないの?」あたしが訊くと「まあ、多少はね。でもいいやこの際」と言って窓際にいざって行き、窓を少し開けて座り込んだ。
煙草を1本取り出し、咥えてライターで火をつけて吸い込む。
「うあー…久しぶりだ…」
とタバコを持った手で目を覆って呻く。
「美乃利ちゃんの前では吸わなかったの?」
「吸うもんか。王子様だぞ」携帯灰皿に灰を落としながら言う。
あたしは呆れて彬を見つめた。
はあ…いろいろ大変なんだね、王子様も。
「まあ、もうやめようと思ってたところでもあったから、家でも吸ってなかった」
そう言って、夏の青空を見つめながらしばらく黙ってタバコをふかしていたが、やがてぽつんと言った。
「ずっとこんなふうにいられると良いな」
「うん…そうだね」
あたしは心から言った。
ずっと親友でいたいね。
「彬…今日は本当にありがとう。
何か、お礼したいんだけど…リクエストある?」
彬はしばらく考えてるふうだった。
そして急に思いついたように「あ、ある!リクエスト」とあたしの方に身体を乗り出す。
「何?」あたしはちょっと怖くなって身を引いた。
「未衣のメシ食いたい。
もお俺、ずっと未衣が作ったメシが食べたくてさあ。
弁当とか、豊島さんがちょー羨ましかった」
「美乃利ちゃんに作ってもらってたじゃないの」
梅雨の半ば。大学の芝生広場で。見たよ~
「ああ、うーん」彬は言い淀んで新しいタバコに火をつけた。
「一生懸命作ってくれたものだしね。不味くはなかったよ、うん。
だけど、未衣の美味いメシを食べ慣れてるとね…」
贅沢なやつめ。
でも、美乃利ちゃんには悪いけど、彬がそう言ってくれるとなんか嬉しい。
あたしは照れ隠しに腕を伸ばして彬のおでこを指で弾いた。
彬はタバコを持った手を上にあげ、逆の手であたしの腕をつかんで引き寄せる。
「胃袋つかまれちゃってるのって危険だよなあ。
俺が結婚しても、飯炊きでついてきて」
「嫌あよ!冗談じゃない!なんであたしが彬の家政婦にならなきゃいけないのよ。
っていうかタバコ持ってるんだからやめてよ。臭いが移るっ」
あたしは彬から逃げ出すと「で?何食べたいの?」と訊く。
細いくせによく食べるからなあ…買い出し行かないと。
「あ、えーとね、ちょっと待って考えるから」
「買い出しに行くからつきあって。昨日、合宿から帰ってきて、家に何もないの」
「了解了解」
彬は嬉しそうに言うと、タバコを携帯灰皿でもみ消した。
その日はそれからスーパーに買い出しに行って、あれも食べたいこれも食べたいとワガママばかりの彬の言うままに大量の食材を買い込み、一日かかってたくさんの料理を作った。
彬は美味い美味いと言って、めちゃめちゃいっぱい食べた。
あたしはその食欲に呆れながらも、食べている姿を見るのがとても嬉しかった。
豊島さん、美乃利ちゃん。
あたしと彬のワガママで振り回して、本当に申し訳ないと思う。
思うけどあたしはやっぱり、彬とこうしているのが一番だと、改めて感じてしまった。
恋愛は、しばらく良いかな。




