彬 8
なんか最近、美乃利ちゃんがやたらくっついてくる。
俺の部屋に遊びに来たがるし。
なんだろう…
俺の我慢の限界点を測ってる、とか…
なんのために??
夏コミとかいうイベントが終わって美乃利ちゃんはご家族と別荘に行った。
夏コミは美乃利ちゃんに誘われて見に行ったが、ビッグサイトのだだっ広い展示場をぶち抜きで何部屋も使うようなでかいイベントで、ものっ凄い人出だった。
コスプレした人が闊歩し、なんだか似たような表情のいわゆるオタク?の人々がたくさん集っていて、正直俺にはちょっと理解できない世界だったが、これだけの数の人々を魅了するなにか奥深い世界であるんだろう。
演劇部の合宿の前に、演出の3年生の滝沢さん、演出補の俺と未衣の3人で集まってスクリプトを読み込み、演出の方向性を決めた。
未衣は自分がスクリプトを書いただけあって、人物の心情を深く理解していて、俺と滝沢さんは終始うーむそうなんだ…と唸り、たちまち台本が赤いペンの文字で染まってしまった。
俺はスクリプトの台詞のひとつひとつ、ト書きの一行一行に豊島さんの影がちらつくような気がして、次第に滅入ってきた。
これ、未衣のいない合宿でどれだけ詰められるかなあ…と暗い気持ちになる。
滝沢さんも同じ思いでいるらしく、大きなため息をついた。
ところが未衣が「3日目と最終日は行けることになりました。他にバイトに来てくれる人が見つかったので」と言い出し、俺と滝沢さんのテンションが一気に上がる。
「じゃあ、初日と2日目は台本の読み合わせやって、3日目と最終日は立ち稽古に入れるようにしよう。
オーディションは予定通り明後日で。良い?」
滝沢さんが言って、俺と未衣は頷いた。
滝沢さんはこのあと用事があると言って早々に部室を出て行き、俺と未衣は蒸し暑い部室に二人になった。
窓を開け放していると蝉の声がうるさく響く。
「ねえ彬…」台本に目を落としながら未衣が呟く。
「ここの、大石内蔵助の台詞なんだけど…もう少し詰問調にした方が良いかな」
俺は未衣の白皙の額に浮かぶ汗をじっと見ていた。
俯いている顔の、長いまつげと少し低い鼻がなぜかとても綺麗に見えた。
「…何?」顔を上げた未衣が訝し気に訊く。しかめたような眉の形が可愛い。
「いや、未衣もすげえ汗かいてるなと思って。あっついなここ」俺はあらぬ方を向いて言う。
「そうね。カフェテリアにでもいく?」
未衣はシャツの襟を少し広げる。白い肌が見えて、俺はドキッとした。
「ん?いや、まあいいよ…。で、なに?」俺はごまかして、未衣の方に身体を乗り出す。
もう少し二人でいたい。
「ぼーっとしてないでよ。ただでさえ回転の悪い頭が、暑さで余計に鈍ってんじゃないの?
どこかに緩んだネジが落ちてない?」
未衣は相変わらず辛辣なことばかり言う。
けっ。ぼーっとしてるのは誰のせいだと思ってんだ。
しばらく台本について二人で話し合う。
俺は未衣の隣に座り、強いて未衣の方は見ないようにする。
集中できなくなるのは判り切ってるし、それでまたバカにされたんじゃたまらないから。
時折、互いにバイブレーション機能の設定にしているスマホが震える。
互いに無視して話を続け、オーディションの時の人物の基準などを決めて、一息ついたところでスマホを取って確認する。
美乃利ちゃんからLINEがたくさん来てる。
いくつかの会話に返事して顔を上げると、未衣もスマホを弄っている。
豊島さんからかな。まあそうだろうな。
画面見ながら微笑んでる。どんなメッセージだったんだろう。気になる…
俺は左肘をテーブルについて、手を側頭に当てて寄りかかった。
未衣を眺めながら何とはなしに思いついたことを口にする。
「なあ…豊島さんとキスした?」
未衣は驚いたようにぱっと顔を上げる。
その色がみるみるうちに赤くなる。
顔を隠すように片手で覆った。
したんだ。
俺の中に曰く言い難い、黒い感情が湧いてくる。
自分でも驚くほどの、濃く渦巻くどす黒い感情。
「彬は…どうなのよ」未衣が片手を口許に当てたまま訊いてくる。
俺はスマホに目を落として「してねーよ」と呟く。
「えっ?!」立ち上がりそうになっている。
そんなに驚くなよ…
「なんで?」信じられないという風に未衣が訊く。
「嫌われたくないから」スマホを弄るふりをする。どこに視線を置いていいか判らない。
「…えーっ…」
今度は絶句している。
「悪うござんしたね、小心者で」いじけてみる。
「美乃利ちゃんってさあ、小中高と女子校なわけ。で、彼氏ってのは王子様?みたいなイメージらしい。美乃利ちゃんの好きなアニメーションの中では」
「はあ…それで彼女の中の王子様イメージを死守するべく、涙ぐましい努力してるわけね…」
「バカにしてんのか」俺はむっとして言い返す。
未衣は首を横に振り、ため息をついた。
「バカになんかしてないわ。偉いなって思ってるの。
王子様幻想はないけれど、あたしも嫌だった。でも最初豊島さんは判ってるって言いながら結構無理矢理してきたし。
男ってそんなものかと思ったけど…彬は彼女を本当に大切にしてるんだね」
未衣に無理矢理キスしたのか…あの野郎。
俺は唇を噛む。何だか無性に悔しかった。
「でも美乃利ちゃん?は彬のこととても好きみたいだし、キスくらい大丈夫なんじゃないかなあ。
あんなに美乃利ちゃんの方から彬にくっついてたじゃない。トライしてみたら?」
「そーかなぁ…」
俺は後頭部で腕を組んで天井を見上げた。
『キスくらい大丈夫』…未衣の言葉が気になる。
「ヤっちゃったわけ?」下品と思いながら、どうにも気になってしまって、上を見たまま訊く。
未衣は「ヤってない!」と即座に焦ったように言う。
「いや別に…いいんだけど」俺はホッとしたような変な気持ちを持て余し、何気ないふうを装って言ってみる。
良くはないよ本当は。でも、そう言っちゃうわけにいかないし。
二人してしばらく黙り込む。なんつっていいか判らん。
「未衣が合宿に来られることになって良かったよ。俺と滝沢さんじゃ、ちっと心配だったし」
俺は話を変える。
未衣も心なしかホッとしたように答える。
「うん。いつもあたしの後、夕方からラストまで入ってくれてる友香ちゃんが来てくれることになって」
「豊島さん、合宿についてくるって言わなかったか?」
「うーん…」未衣は鼻の頭を掻いて、ため息をついた。
「マジかよ…」俺は脱力する。
さすがの美乃利ちゃんでも、ついてくるとは言わなかったぞ。
まあ、誰も知らないし芝居にも興味ないみたいだけど。
「そこまでいくと、もうストーカーって言わね?」俺は呆れて言う。
「豊島さん、自分でもストーカーだって言ってる。最近は何だか開き直ってて怖い」未衣は俺の方を向いて言った。
その瞳に怯えのような光を見て、俺は椅子に座り直し、未衣の正面に向き直る。
「合宿、来るのか」俺は少し真剣に言う。
未衣はかぶりを振った。「固辞した。来たら困るって言った」
「本当は、合宿全部行くつもりだった。だけど豊島さんが、それだったら絶対について行くって」
「部員も知ってるしな。スクリプトも書いたしってところか」
俺が腕を組んで言うと、未衣は頷く。
「厄介だなあ…」思わず呟くと未衣が俺を見た。
「あたしが、豊島さんにスクリプトの手伝いを頼んだから悪いって言うの?だって間に合いそうになかったんだもの。もとはと言えば彬が…」瞳に涙が盛り上がる。
「判った!判ってる。俺が悪いんだよな。本当に悪かった。ごめん」
俺は、まずいと思いながらも、腕を伸ばして未衣を抱き寄せる。
俺の肩に未衣が額をつけて、静かに涙を零す。
俺は未衣の背中を撫でて「俺が、友人代表で豊島さんにちょっと話してやろうか」と未衣の耳元に囁いた。
未衣の耳や頬に唇が触れそうになる。否、触れさせたい…
未衣は俺の肩に頭をつけたまま、首を横に振った。
「彬じゃ逆効果だよ。美乃利ちゃんがあたしを敵視するように、豊島さんも彬に敵意みたいな感情を持ってる」
顔を起こして、涙に濡れた瞳で俺を見つめる。
「異性の友人って、難しいね…もっとうまくやれるかと思ってたけど」
俺は頷いて、未衣の涙を指で拭ってやるつもりで、本当にそのつもりで。
何故か未衣の頬にキスしていた。
はっ倒される!
思わず身を引こうとすると、未衣は下を向いて少し笑った。
「あたしを練習台にするな」
「ちがっ…」俺は慌てて未衣の両肩をつかんで顔を覗き込む。
「そんなつもりはない!俺は…」
俺は?
なんて言おうとしたんだ。
黙り込む俺を見て、未衣は「冗談よ」とまた少し笑って俺の手を肩から外した。
そしてちょっと身を乗り出すと素早く俺の頬にキスした。
「練習台ごっこ終わり」
笑って言うと、スクリプトをバッグにしまった。
「お疲れ様。じゃあまた、明後日のオーディションで」
呆然としている俺ににこやかに手を振り、未衣は部室から出て行った。
俺はひとりで蝉の声が暑苦しく響く部屋に取り残され、頬に残った未衣の柔らかい唇の感触をいつまでも思い出していた。




