未衣7
「ああ、疲れた…」あたしはスタッフルームに戻ると椅子にへたり込んだ。
あの後、ノマドワーカーの女性がやっと席を立ったんだけど、帰り際あたしをすごい怖い表情で睨んで出ていって、あたしは笑顔がこわばってしまった。
なんであたしがこんな目に…豊島さんがイケメンで、かつあたしの彼氏なのは、あたしのせいじゃない!
あたしの彼氏なのはあたしのせいでもあるか。うーむ。ごめんなさい。
豊島さんが待ってるし着替えるか…
のろのろと立ち上がって服のボタンを外した時、スタッフルームのドアをノックする音が聞こえ、てっきり小百合さんだと思ったあたしは脱ぎながら「どうぞ〜」と声をかけた。
「お疲れ様」と言いながら入ってきたのは、あろうことか豊島さんだった。
「・・・・・・!」
声が聞こえた時点で小百合さんじゃないのは判ったけど、何か反応できるような時間はない。
思いきり正面から向き合ってしまって、あたしは服で咄嗟に隠したけれど見られた。豊島さんの視線が一瞬だけど胸に釘づけになったのが判った。
やだーっ
「っごめんっ!」豊島さんはばたんとドアを閉めた。
手に何か持っていたような…?
いやそれより。
こんな少女マンガ?いや少年マンガか?みたいなベタな展開があって良いのか?!
信じられない…
あたしは急いで着替えてドアを開けようとしたけど、豊島さんが寄りかかってしっかりロックしているらしく、押してもビクともしない。
「豊島さん…いいよ開けて」あたしがドアにくっついて言うと、ドアの向こう側で衣擦れの音がし、恐る恐るっていう感じでドアが開いた。
豊島さんが入ってくる。やだ、顔が真っ赤。
手にケーキを載せたお皿を持っていた。
「あの、本当に申し訳ない。ノックしたときに声をかけるべきだった。
ごめん本当に…」お皿をテーブルに置くと、両手をテーブルについて頭を下げる。
「いえ、あの、あたしも…てっきり小百合さんだと思って…どうぞなんて言っちゃったから」
ごめんなさい。と謝ると、いや被害者は君だから、と言われて思い出してあたしも赤くなってしまった。
二人してしばらく黙り込んだ後、「あのさ、このケーキ良かったら食べて。今日は迷惑かけちゃったし、彬くんの彼女とかも来て君も疲れたでしょ。小百合さんに頼んでひとつもらってきた」とお皿をあたしの方に押した。
あ、フレジェ…あたしは思わず笑顔になった。
アーモンドプードルの生地を焼いたスポンジにカスタードクリームとイチゴが挟んである。
上にもイチゴが飾ってあって、可愛らしいケーキ。
豊島さん、あのノマドワーカーの人のこと、気にしててくれてたんだ。
あたしは豊島さんに「ありがとう」と言って、椅子に座って「いただきます」とお皿に載せてあったフォークを取った。
「美味しい…」微笑むと、豊島さんもホッとしたように笑った。
眼鏡を外し、目をてのひらで撫でると、真剣な表情で言った。
「あの人、これ以上変なこと言うようだったら、警察に通報しようかと思ってる」
「えっ…」あたしは驚いて豊島さんの顔を見つめる。
「僕が頑として店に立たないのは、店員になっちゃうと今日みたいに無茶なことばかりいう客がいても従わなきゃいけないからなんだよ」
ああ、過去になんかあったんだな。あたしは豊島さんの言い方から推察する。
「その結果、君に迷惑かけちゃって本当に申し訳ないと思ってる」また頭を下げる。
じゃあ、来なきゃ良いのに…とあたしが思っていると「来なきゃいいじゃんって思ってるでしょ」と鋭く指摘する。
うっと詰まると、豊島さんは苦笑して「それはできない。悪いけど。君と一日中同じ空間にいられる、こんな最高のシチュエーションを逃す気はない」と言った。
あなたはそうでしょうけど…あたしは思わず罪のないケーキにぐさっとフォークを刺す。
「でも今日は、彬くんの彼女が怒って帰りそうになっちゃったとき、僕が出てって良かったでしょ」と少し慌てたように言った。
「それは…まあ」だけどあれは彬が悪いのよ。あたしがバイトしてるってこと、言ってなかったみたいだったから。
彬と彼女の笑いあってる姿が目の前に浮かんでくる。
何よあんなに楽しそうにしてっ
あたしはなんだかモヤモヤする気持ちをぶつけるように「でもさっき、そんなのお釣りがくるくらいの事があったし!」と怒ってみせる。
豊島さんはガタッと音たてて立ち上がってあたしの方へ来て跪き、あたしの左手を取って両手で握った。
「ごめん…それ言われちゃうと何も反論できないんだけど。僕のワガママで君に迷惑かけてばかりでホント悪いと思ってる」
そこで一度言葉を切り「けど…どうしよう…」とうつむく。何?ノマドワーカーの女性となんかあった?
あたしがフォークを置いて顔を覗き込むと、急に顔を上げてすごい力であたしを抱きしめた。
「嫌っ…」離れようとするけど、まったく動けない。
「今日は眠れそうにない…さっきの未衣ちゃんの姿が頭から離れない」呻くように言って、あたしの髪に顔を埋めた。
「嫌なのは判ってる…でもお願いだから少しだけこうしていて…僕の気持ちが落ち着くまで」
囁いて、あたしの耳にそっとキスする。
ぎゅっと抱きしめたまま、じっと我慢してくれているのが判る。
あたしは申し訳なく思った。
思ったけど…やっぱり彼を抱きしめたいとは思えない。
彬…あたしどうしたらいいのかな。
彬に抱きしめられたことを思い出して、涙が出てきた。
無性に寂しくなった。
人の彼氏のこと思い出すなんて、アホだなあたし。
いつか、豊島さんに抱かれたいって思えるようになるのかな…
思えるようになりたい。
こんなにあたしを大切にしてくれる人を裏切れない。
あたしも努力しなくちゃ。
しばらくして、豊島さんは大きく息をつくと、あたしを離した。
「ごめんね。帰ろうか」
テーブルの上にあったティッシュを取って、あたしの涙を拭ってくれる。
あたしは「ありがとう」と微笑んだ。
小百合さんにケーキのお礼を言って、明日もよろしくお願いしますと挨拶する。
あたしと入れ替わりに夕方からラストまで入ってくれてる、一つ年下の友香ちゃんにも挨拶して店の外へ出た。
駅までのこの道を、彬と彼女は腕を組んで歩いて帰ったんだろうか。
常に彬の腕にぶら下がるようにつかまっていた、彼女の姿を思い出す。
あたしはおずおずと右手を伸ばして、豊島さんの左腕の肘に通してつかまる。
豊島さんは驚いたようにあたしと腕を見て、それから嬉しそうに右手であたしの手を引っ張り出し深く左腕に絡ませた。
豊島さんの腕も、あたしの手も汗ばんでくる。
でもなんか嬉しかった。
駅に着くと、もう当然のようにあたしが乗る方のホームに上がっていく。
豊島さんはあたしの肩を抱いてゆっくり登る。
別れる時間を少しでも遅くしたいから、と以前に笑って言っていた。
電車が来るまでの時間、ホームで他愛のない話をする。
今日は終わってからずいぶんお店にいたので、通勤時間帯にぶつかってしまい、ホームにもいつもより人が多い。
自然と身体を寄せ合うような感じになる。
豊島さんはあたしの肩を抱いて話しながら時折、あたしの髪にキスをする。
周りから見たら、普通にカップルなんだろうなあ、あたしたち。
電車がホームに入ってきて、名残惜しそうに豊島さんがあたしの肩から腕を離そうとする、その直前に、あたしは首だけ振り向けて背伸びをし、豊島さんの唇にキスした。
すぐに豊島さんがぐっとかがんでくる。
電車のドアが開き、人が降りてくる。
あたしはぱっと豊島さんから離れて、電車に駆け込むように乗った。
恥ずかしくて顔が見られなくて、閉まるドアの陰に隠れる。
頑張った、よくやったあたし。
案外、思ってたよりずっと、嫌じゃない。
受け身じゃなくって自分からアクションすればいいんだ。




