「平凡な日常、その終わり」
日本のとある地方都市。朝の通勤時間帯を過ぎた街には、いつもと変わらない穏やかな日常が流れていた。
柾木和雄は、自宅の台所で朝食の後片付けをしていた。
特別な才能があるわけでも、誰もが羨むような人生を送っているわけでもない。仕事をして、食事を作り、趣味を楽しみながら暮らす、ごく普通の日本人だ。
ただし、和雄には昔から夢中になっているものがあった。それは刀を使った剣術である。
「さて、今日は何をするかな」
和雄は洗い終えた皿を水切りかごに置き、壁の時計へ目を向けた。せっかくの休日なのだから、どこかへ出かけてもいい。だが、特に用事があるわけでもなかった。
居間へ移動した和雄は、テレビの電源を入れた。画面には海外の観光地を紹介する番組が映し出されている。
広大な草原、石造りの城、どこまでも続く山脈。そんな景色を眺めているうちに、和雄はふと笑みを浮かべた。
「こういう場所を冒険できたら、面白そうなんだけどな」
もちろん、現実には魔法も魔物も存在しない。剣一本で世界を旅するなど、ゲームや小説の中だけの話だ。
それでも、もし本当にそんな世界があるのなら、一度くらい訪れてみたいと思うことはあった。
和雄はテレビを消すと、冷蔵庫から麦茶を取り出した。グラスに注いで一口飲み、窓の外へ目を向ける。
その瞬間だった。
「……ん?」
視界の端に、奇妙な光が映った。
最初は窓ガラスに何かが反射したのかと思った。しかし、光は室内の中央に浮かんでいた。白く淡い輝きが小さな粒となって集まり、やがて人ひとりを包み込めそうなほど大きな光の輪へと変わっていく。
和雄は思わずグラスをテーブルに置いた。
「おいおい、何だよこれ……」
逃げようとしたが、足が動かなかった。恐怖で身体が固まったわけではない。まるで周囲の空間そのものが、和雄の動きを止めているかのようだった。
次の瞬間、光が一気に広がった。
「うわっ!」
和雄は反射的に目を閉じた。
耳鳴りのような音が響き、身体がふわりと浮き上がる感覚に襲われる。足元の床も、室内の空気も、すべてが遠ざかっていった。
そして、何も感じなくなった。
どれほど時間が経ったのだろうか。
和雄がゆっくりと目を開けると、そこには見知らぬ空間が広がっていた。
床も壁も天井もない。どこまでも続く白い世界で、足元には不思議な光が漂っている。
「……ここ、どこだ?」
和雄は自分の身体を確かめた。手足は動くし、痛みもない。服装も自宅にいたときのままだった。
夢でも見ているのだろうか。
そんなことを考えていると、背後から柔らかな女性の声が聞こえた。
「ようこそ、和雄さん。突然お呼びしてしまって、ごめんなさい」
和雄が振り返ると、そこには一人の美しい女性が立っていた。
長い銀色の髪に、澄んだ青い瞳。純白の衣装をまとったその女性は、人間とは思えないほど神秘的な雰囲気を漂わせている。
和雄は警戒しながら尋ねた。
「えっと……あなたは?」
女性は穏やかに微笑み、胸元に手を添えて答えた。
「私はメシア。あなたたちが神と呼ぶ存在の一人です」
「……神様?」
「はい。正確には、ある世界を管理している女神ですね」
和雄はしばらく女性を見つめた。
普通なら信じられる話ではない。しかし、目の前に広がる不可思議な空間を見れば、簡単に否定することもできなかった。
「それで、女神様が俺に何の用なんです?」
和雄が尋ねると、メシアは少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「実は、あなたにお願いしたいことがあるんです」
「お願い?」
「はい。私が管理している世界、エルディアへ行っていただきたいのです」
和雄は思わず目を瞬かせた。
エルディア。聞いたことのない名前だったが、その響きだけで異世界という言葉が頭に浮かんだ。
「それって、もしかして剣と魔法の世界ですか?」
メシアは嬉しそうに頷いた。
「そのとおりです。人間だけでなく、エルフやドワーフ、獣人などが暮らし、魔法や魔物も存在する世界です」
和雄の胸が高鳴った。
つい先ほど、自宅でそんな世界を冒険してみたいと考えていたばかりだ。
だが、すぐに冷静さを取り戻した。
「ちょっと待ってください。行くのはいいとして、帰ってこられるんですか?」
その質問に、メシアは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……今のあなたには、簡単ではありません」
「やっぱりそうですよね」
和雄は苦笑した。
異世界へ行けるという話は魅力的だ。しかし、今までの生活をすべて捨てることになるのなら、簡単に決められることではない。
メシアもそれを理解しているのか、無理に返事を求めようとはしなかった。
「もちろん、何の力も持たずに送り出すつもりはありません。エルディアで生活できるよう、私からいくつかの能力を授けます」
「能力ですか?」
「はい。あなたが得意とする剣術を生かせる身体能力に加えて、魔法を扱うための力も用意しています」
メシアが右手を差し出すと、掌の上に小さな光の球が現れた。
その光を見つめながら、和雄は考えた。
日本での平凡な暮らしを続けるか。それとも、何が待ち受けているか分からない世界へ飛び込むか。
答えは、すぐには出なかった。
しかし、和雄の心の奥では、未知の世界への好奇心が確かに膨らみ始めていた。
「……もう少し、詳しく聞かせてもらえますか?」
和雄がそう告げると、メシアは安心したように微笑んだ。
「ええ、もちろんです。まずはエルディアという世界について、お話ししましょう」
こうして、柾木和雄の人生を大きく変える、女神との対話が始まった。
それは、後に異世界エルディアで数々の伝説を残すことになる、一人の剣士の物語の始まりだった。




