第10話「境界」
――違う匂い。
洞窟の奥へ進んだ先で、俺は足を止めた。
血でも、腐肉でもない。
魔物とも違う。
もっと、乾いていて。
薄くて。
だが、はっきりとした匂い。
……覚えがある。
記憶の奥。
ぼやけた断片。
それが、ゆっくりと浮かび上がる。
――人間。
その単語が、自然に繋がった。
同時に、身体がわずかに硬直する。
警戒。
だが、恐怖ではない。
確認。
それに近い。
匂いを辿る。
慎重に。
今まで以上に、気配を消す。
進む。
やがて、視界に入った。
――光。
洞窟の中で、不自然なもの。
揺れる、小さな炎。
たいまつ。
そして、その周囲。
装備。
革の袋。
金属の刃。
血の跡。
だが。
……いない。
人間の姿は、どこにもない。
だが、間違いない。
ここにいた。
つい最近まで。
匂いが、まだ残っている。
新しい。
……来ている。
この場所に。
人間が。
ゆっくりと近づく。
慎重に。
たいまつの近く。
地面に、跡。
足跡。
複数。
そして。
――引きずった跡。
何かを。
運んだ。
もしくは。
……持ち帰った。
魔物の死体か。
それとも。
別の何かか。
その時。
わずかな音。
奥。
岩の陰。
……いる。
気配。
小さい。
だが、確実に。
ゆっくりと、視線を向ける。
そこにいたのは。
牙獣鼠。
だが。
動かない。
震えている。
目が、奥を見ている。
俺ではない。
もっと奥。
……なるほど。
理解する。
こいつは。
人間を見た。
そして。
逃げた。
だが、逃げきれなかった。
恐怖が残っている。
その反応。
……興味深い。
人間。
魔物とは違う。
狩る側。
捕食者。
その位置にいる存在。
だが。
今の俺は。
どうだ?
その問いが、自然に浮かぶ。
少しだけ、考える。
人間だった頃の記憶。
断片的。
曖昧。
だが、確かにある。
弱かった。
少なくとも。
今の俺よりは。
なら。
……食えるか?
その思考が、浮かぶ。
自然に。
躊躇なく。
そして。
それを“おかしい”と感じる感覚が、ほとんどないことに気づく。
……変わったな。
そう思う。
だが、それもすぐに流れる。
今は。
確認が先だ。
その時。
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【システム】
新規種族を検出
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【システム】
対象:人間
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────────────────────────
【システム】
脅威評価:未確定
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……未確定。
つまり。
判断できていない。
強いのか。
弱いのか。
それすら。
だが。
興味はある。
強いのか。
弱いのか。
どちらでもいい。
確認する価値はある。
その時。
足音。
遠く。
だが、はっきりと。
複数。
近づいてくる。
……来る。
人間が。
すぐに判断する。
戦うか。
隠れるか。
答えは一つ。
――まだ早い。
今の俺では、情報が足りない。
強さも。
数も。
何も分からない。
なら。
見る。
知る。
それが先だ。
身体を広げる。
岩の影。
闇の中へと溶ける。
気配を消す。
完全に。
やがて。
人影が現れる。
三人。
装備。
武器。
動き。
すべてが、はっきりと分かる。
――弱くはない。
少なくとも。
牙獣鼠とは比較にならない。
腐食狼に近い。
……面白い。
その感想が浮かぶ。
人間。
魔物ではない。
だが。
狩れる可能性はある。
その思考が、自然に流れる。
そして。
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【エラー】
対象評価に異常を検出
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【エラー】
捕食対象として認識されています
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……やはりか。
俺は。
人間すら。
“食う対象”として見ている。
その事実を、はっきりと認識する。
だが。
否定はしない。
必要なら、食う。
それだけだ。
人間たちが会話している。
言葉。
断片。
まだ完全には理解できない。
だが、少しずつ。
意味が繋がり始めている。
……いけるな。
理解できるようになる。
その確信が浮かぶ。
そして。
新しい可能性が見える。
人間。
知性。
言語。
情報。
それらを。
取り込めば。
――もっと、上に行ける。
その思考が、はっきりと形になる。
洞窟の闇の中で、静かにそれを見つめる。
まだ、動かない。
今は。
知る。
覚える。
その段階だ。
だが。
いずれ。
その境界を越える。
魔物と、人間の境界。
その先へ。
踏み込む。
そのために。
俺は。
じっと観察を続けた。




