第1話「誕生」
冷たい。
――いや、違う。冷たいのではない。
そこには何もなかった。熱も、音も、光も、境界すら存在しない。ただ、自分という意識だけが、底の見えない暗闇に沈んでいる。
……息は、できているのか。
胸はあるのか。
手足は、動くのか。
確かめようとした瞬間、思考の奥にひびが走った。頭の内側を無理やりこじ開けられるような、不快な圧迫感が広がる。
同時に、濁った液体を流し込まれたような感覚が全身を満たした。
全身――そう認識したが、本当にそうなのかは分からない。
だが確かに、“自分”はそこにあった。
ぬるり、と何かに触れている。
柔らかく、湿っていて、生暖かい。
反射的に、それを包み込んだ。
逃がさないように。
沈めるように。
そして――溶かす。
ぎち、という感覚が伝わる。音ではない。感触だけが、直接意識に流れ込んでくる。
何をしているのかは分からない。
だが、内側が満たされていく感覚だけは、はっきりと理解できた。
空だったものが、埋まっていく。
理屈よりも先に、本能が歓喜する。
――食っている。
その理解と同時に、視界の奥に文字が浮かび上がった。
────────────────────────
個体名:未設定
種族:屍喰いスライム
ランク:F
レベル:1
【ステータス】
HP :12 / 12
MP :3 / 3
攻撃 :2
防御 :1
敏捷 :1
知性 :0
【耐性】
レジスト:1
【スキル】
・捕食 Lv1
・酸分泌 Lv1
【称号】
なし
【状態】
正常
────────────────────────
意味は分かる。
見覚えもある。
だが、その内容が問題だった。
――屍喰いスライム。
その単語を認識した瞬間、視界が広がる。
床に広がる、どす黒い粘液。
それが、自分だった。
目はない。だが見える。
耳はない。だが周囲の気配が分かる。
人間ではない。
その事実だけが、やけに鮮明だった。
転生。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
だが、その思考は途中で途切れた。
視界の端で、文字が歪む。
ノイズのように揺れ、崩れ、そして――書き換わる。
────────────────────────
【システム】
初期化処理に失敗しました
不明なデータを検出
補正処理を実行します
────────────────────────
……なんだ、これは。
理解が追いつかない。
だが、その疑問を考える余裕はなかった。
次の瞬間、頭の芯を貫かれるような激痛が走る。
ぶち、と何かが切れる感覚。
存在そのものが歪む。
その中で、新たな表示が割り込んできた。
────────────────────────
【システム】
スキルを取得しました
・逸脱吸収 Lv1
────────────────────────
────────────────────────
【システム】
称号を取得しました
・規格外個体
・存在汚染
────────────────────────
────────────────────────
【システム】
状態異常を確認
状態:軽度異常
────────────────────────
空気が凍るような感覚。
――規格外個体。
――存在汚染。
どちらも、まともなものではない。
そして“逸脱吸収”。
通常では得られないものを取り込む――そんな歪んだ意味が、理解と同時に流れ込んでくる。
最初から、おかしい。
自分だけが、明らかに。
だが。
その違和感は、すぐに別の感覚に押し流された。
腹が減る。
満たされたはずの内側が、もう空洞を広げ始めている。
飢餓。
それが全てを上書きする。
周囲を探る。
ここは洞窟だ。
湿った岩肌。転がる骨。腐った肉片。
ダンジョン――その言葉が自然に浮かぶ。
その時、影が動いた。
灰色の毛皮。
裂けた腹。
鋭い牙。
牙獣鼠。
向こうもこちらに気づく。
一瞬の静止。
そして次の瞬間、一直線に飛びかかってきた。
速い。
今の身体では、避けることはできない。
だが、思考より先に体が動いた。
広がる。
包み込む。
ぐちゅ、と沈める。
牙が食い込み、表面が裂ける。
痛みはある。
だが、それ以上に強い感覚があった。
――逃がすな。
締め付ける。
沈める。
意識した瞬間、内部が熱を帯びる。
酸分泌。
溶ける。
肉が崩れ、骨が軋み、抵抗が弱まる。
さらに圧をかける。
やがて、動きが止まった。
────────────────────────
【システム】
牙獣鼠(F)を捕食しました
経験値を獲得
────────────────────────
────────────────────────
【システム】
逸脱吸収が発動
スキルを取得しました
・危機感知 Lv1
────────────────────────
……やはりおかしい。
だが、考える前にステータスが更新される。
────────────────────────
個体名:未設定
種族:屍喰いスライム
ランク:F
レベル:2
【ステータス】
HP :15 / 15
MP :3 / 3
攻撃 :3
防御 :1
敏捷 :2
知性 :0
【スキル】
・捕食 Lv1
・酸分泌 Lv1
・逸脱吸収 Lv1
・危機感知 Lv1
【称号】
・規格外個体
・存在汚染
【状態】
軽度異常
────────────────────────
上がっている。
確実に、強くなっている。
数値として理解できるその事実が、わずかな安心を与えた。
――生きられる。
だが。
その安堵は、一瞬で吹き飛ぶ。
危機感知が、鋭く反応した。
いる。
すぐ近くに。
さっきの獲物とは、格が違う。
重い足音。
濃い血の匂い。
現れたのは、黒い狼だった。
骨が露出し、黒い唾液を垂らす異形。
強い。
直感で理解する。
勝てない。
今は、絶対に。
狼が、床の肉片に鼻を寄せる。
そして。
こちらを見た。
見つかった。
終わる――そう思った瞬間。
────────────────────────
【システム】
称号《存在汚染》が発動
対象に異常反応を付与
────────────────────────
狼の動きが、わずかに止まる。
ほんの一瞬の、躊躇。
それで十分だった。
逃げる。
身体を裂き、岩の隙間へと流し込む。
爪が岩を砕く。
すぐ横を掠める。
遅れれば、死んでいた。
狭い隙間の奥へ潜り込み、息を潜める。
やがて、気配が遠ざかった。
……助かった。
だが、理解する。
このままでは、すぐに死ぬ。
弱い。
圧倒的に。
だが。
食えばいい。
食って、奪って、強くなる。
それができる。
この身体なら。
そして、この“異常な力”があるなら。
暗闇の中で、静かに思考する。
次に食うもの。
どう生きるか。
その時、新たな表示が浮かぶ。
────────────────────────
【システム】
進化条件の一部を満たしました
次段階まで:
レベル5
────────────────────────
進化。
その言葉が、妙に甘く響いた。
恐怖ではない。
希望でもない。
もっと濁った、執着に近い感情。
俺はもう、人間ではない。
ならば。
この世界で、この形で、生きるしかない。
食って。
奪って。
変わる。
どこまでも。
暗闇の中、どす黒い粘液が静かに脈打つ。
それはまるで、笑っているようだった。




