循環参照:後編
3.
明るい午後の陽射しがぽかぽか背中を温めていた。
「うーん、ちょっと口寂しいかしら。何か食べる?」
ふと冬子が言った。
春子はクラック入りのガラス玉から目を上げて、頭の中のおやつリストを照合する。
「クッキーなかったっけ。この間もらった」
「クッキー」
オウム返しの冬子に心当たりがない様子だったので、「待ってて」と手を突いて椅子を立った。
その、途端。
「……え?」
かしゅん、と、他愛なく。
力を込めて指先で潰した角砂糖がある時突然散るように、手の中にあった水色のビー玉が砕け散っていた。大きな欠片をいくつか残して細かい砂が落ちる。
「え、うそ」
「ハル? どうかなさって」
「なんで」
身を乗り出し、冬子が納得の吐息を落とした。事態を知る。
「割れてしまったのね。ああ、握ってはだめでしょう。テーブルに置いて」
「私、何も力とか入れてなくて」
「ハル」
「……なんで」
子供のようだった。
とてつもない悲しみが、あまりに容赦なく春子を暴き立て、彼女は呆然としていた。取り返しがつかない、という、それ。その事実の耐え難い大きさ。
大したことではないと大人の春子が言う。ビー玉のひとつやふたつ、また買ってきて同じようにすればいい。今度はもっとたくさんでも。
違うんだと子供のハルが言う。
そんなの違う。
これ、は、失われてしまった。永遠に損なわれてしまった。あれ、は、もうない。同じものはどこにもない。あのキラキラはもう、本当のキラキラは、どこにもない。うきうきしながら冬子が作って、わけも分からず春子が付き合わされて、そうして生まれた、あの道の先に虹がいきなり現れたような奇跡は。
代わりが欲しいんじゃない。いくつ作ってももうない。壊してしまった、壊してしまった。なくしてしまった。もう戻らない。
「ハル、手を放して。そこに置いて。ね?」
「フユ姉が、せっかく」
「いいのよ。怪我をしていないわね」
テーブルを回り込み、隣に立って冬子は妹の手を逆さにし、破片を落とさせる。よくよく丁寧に手のひらの細かいガラスを払い落とした後で、向き合うために腕を引っ張って両手を掴んだ。せっせっせを始める前のように、互いの手を握って正面から相対する。
「なんか」
「はい」
「ほんと、ごめん」
春子はうつむいて呻いた。「ああ」と思わずため息を落としたら、途端にどっと何かが襲ってくる。
「ああ、何これ、ダメージすごい」
顔を隠したいが手を捕まえられていてそれも叶わない。
「すごく綺麗だったものねえ」
「うん」
「残念でしたわ」
「うん」
「お春もとっても気に入っていて」
「……うん」
「んん」
何やら考え込む声。
「お葬式を上げるのはいかがかしら」
「は?」
目を丸くする。
つい顔を上げた真正面、彼女の姉はいつもと同じようににこにこしていた。
「だって、悲しいじゃないの」
「お葬式って、ビー玉の?」
「ええ。庭に埋めて火を焚いて、空に送ってあげるのよ。私たちを楽しませてくれたお礼を言って、早すぎた別れを悼んで、迷わず成仏して化けて出ないように」
唖然として、それから、ふ、と春子の口元が緩んだ。
「フユって、天才だよね」
代わりを用意しようかなんて不粋なこと、この姉は口の端にものぼせない。
泣かないで、とか、悲しまないで、とか、誰だって咄嗟に言いたくなるようなことを、冬子はちっとも願わない。春子の幼い悲しみを笑いもせずに丸ごと全部受け止めて、さらには気が済むまで思いっきり悲しもうと言ってのける。せっかく辛いならどん底まで行かなくては損ですとばかりに、春子より向こうまで行こうとして引っ張るから、呆気に取られて、冬子はついつい笑顔に変わってしまう。
「フユ姉さん」
「なあに?」
「私、姉さんと一緒に生まれてほんとに良かったと思う」
突拍子もない発想でひょいと空まで羽ばたいてみせる、瓜二つの姉。
「そうでしょうとも」
えっへんと胸を張った姉から、両腕を伝い、あったかいエネルギーが静かに春子の中へ流れていた。
* * *
ねえ、フユ。
私が水色のを特別気に入ったのは、それが、美しくて儚くて、まるでフユみたいだったからって言ったら、やっぱりちょっと引いちゃうかな。
「死神、死神だと……!」
激しい憤りがぶちまけられた。
「なんてことだ、入口の死神の方を連れてきてしまった。入口と出口がそろいでいると、どうして予想しなかったんだ。容易に考えついたことだ」
せわしなく男が辺りを歩きまわっている。
杖の音が神経質に鳴り響いた。床は固くて、靴もきっと革製だ。
「手袋だ。手袋がなければ私だってすぐに気付いたはずだ。なんだってこいつは手袋なんかしているんだ。他人に触れないようにか? ふん、死神の分際で」
ずいぶん前から春子は起きていた。
老人にはなりたくないものだ。なるならできる限り独り言をいわない老人になろう。
自分の目的を自分でべらべら喋る悪役なんて、フィクションの中だけにしかいないかと思っていたが、寄る年波というのは怖いものだ。声の大きさも大きくなれば、独り言の際限のなさもひどい。同じ話を何度でも繰り返してしまう。おかげでかなり明瞭に春子は自分の立場を理解した。
彼はここをラボと呼んでいる。
スタンガンで春子を気絶させて拉致してきた。それと何か薬剤も投与されたらしく、数日目が覚めないものと思われている。さっき、隙を見て薄目を開いてみたのだが、真っ暗で何も見えなかったので、どうやら目隠しをされているようだ。手足も繋がれている感触がある。
この男は医者だ。
そして、どういった経緯か分からないが、春子たちのような存在があることを知り、ずっと探していたという。
「愚かだ、愚か者だ! なぜもっと慎重にことを運ばなかった? 空港は警察が出入りしてこいつを探している。今からもう一人に接触するのは難しい。どうする。どうすればいい。考えろ!」
狙いはハルではなく、フユ。
無尽蔵のエネルギー源だ。
彼はそれを「出口の神」と呼んでいる。ハルは「入口の死神」だ。なるほど、吸血鬼や悪魔より、死神という呼び方の方が自分の能力には確かに似つかわしい。
この誘拐犯が春子たちの存在を知ったのは、あの男の子の足が、一度修繕されたものだと気付いたからだ。癒し手がすぐ側にいたはずだと察し、彼を使って春子のところへ案内させた。捕まったのが自分で良かった。狙い通りの冬子だったら何をされていたか分からない。
「こいつを使っておびき出す……取引を持ちかける…………人質、そうだ私の側には人質がいるんだ。出口と入口は対で生まれる。血縁のはずだ」
大きな独り言を聞くにつれ、ゆっくりと春子の腹に冷たい固まりが凝結していく。
たぶんそれは決意だ。
同情はしない。自分はこれからこの男を壊す。
冬子に手出しをする気なら、そこに感傷を挟む余地はない。
いつもは呪わしいこの力を、春子は今、感謝をもって握り締める。他者を害する力があることを、これほどありがたいと思うことはない。ちょうどここしばらく補給をしていなかったから飢えはある。あんな風に子どもを助けていなかったら、そろそろ冬子に力を分けてもらっていてもおかしくない時期だった。
来いと念じる。
こちらに、来い。
一時間後でも半日後でも、こちらに来て男が自分に触れた時、ありったけ、吸ってやる。腹を壊そうが知るものか。冬子に手は触れさせない。こいつと心中したっていい。
「いや、待て」
ステッキがかつんと何かを打つ。
「死神だぞ。己の力を吸い取る相手だ。入口の方は、どう思う。いなくなれば、願ったりではないか? 本当に、人質の役に立つのか? 調べる必要がある」
(…………っ!)
ガチャ、と、春子の腕から伸びる帯の先、ベッドのフレームに留められた金具が揺れて音を立てた。
(しまった――――!)
独り言が止まった。
シンとあたりが静まり返る。息を殺した。ぎりぎりまで耐える。
片足の不自由な独特の足音で、気配がこちらに近付いてくる。ピンチだがチャンスだ。一度で決める。
「失礼」
ひやりと、その声がした。
「あなたが誘拐犯で、お間違いないですね」
タアンッ!と、銃声が響いた。
(フユ姉!)
「次はあなたに当てます」
冷え切ったフユの声が聞こえる。
そちらを見ようとして――その時になって初めて、春子は自分がもはやほとんど自由に体を動かせないことを知る。声も出ない。何の薬を打たれたのだ。意識だけがある。
カツン、と、ヒールの音。男の革靴とは違う、姉の履いている靴の音。
「お、おお」
男が小さく呟いた。感極まった様子だった。
「神よ!」
彼は叫ぶ。
フユの足音が大股でこちらに近付いてくる。誘拐犯を一顧だにもせず、まっしぐら春子に向かっている。
「これだ。こっちだ。やっと見つけた、やっと、やっと」
「……私の妹に、何をしました?」
ぞわっと背筋から血の気が引いた。
まずい。
怒っている。
春子が見える位置に来たのだ。自分はどんな様子なんだろう。分かるのは、目隠しがされていること、両腕両足が何かでベッドに繋がれて、その状態で寝かされていること。それから、なぜかきちんとシーツがかけられていること。
(フユ、私は大丈夫、お願い、落ち着いて)
「退きなさい」
「触れるな。後悔するぞ。そいつの無事を願うなら、私の言うことを聞いてもらおう」
一拍、冬子は沈黙した。
男の荒い息遣いがやけに大きく聞こえる。視界がないのが煩わしい。
「あなたの」
フユの声。
「その足は、どうなさいました」
「ああ、賢い奴だ。素晴らしい。そうだ、まずは私の足からだ。これは昔、事故でね。その時私にも君がいたらこうではなかっただろうに。手始めに治してくれないか。小手調べだ。君の力を見せてもらおう」
「肌を露出させてください。足首だけで結構です。どうぞそちらに」
「おお、素晴らしい、素晴らしい……!」
相手が思い通りになった喜びに男が高く声を震わせる。片足を引きずって、がた、と何か音をさせ、どうやら椅子に腰掛けたようだった。
沈黙の時間がしばらく。
「お、おお…………」
男の声。
「感じる。分かるぞ、これがそうなのか。ふ、はは……素晴らしい。力が流れ込んでくる」
「すこし時間を頂戴します」
「構わん。構わんとも! ああ、この力だ!」
(姉さん……?)
フユは古い傷は治せない。何をしているのだ。
「ブラックホールとホワイトホールの話を、あの子にしたそうですね」
「言い得て妙と君も思わんか」
「わたくしが、ホワイトホールと」
「その通りだ」
「ブラックホールに吸い込まれたものがホワイトホールに出る、というのは物語としては魅力的ですが、いささか物理法則の不理解が気になるところでございます」
「なんだと?」
悦に入った様子の男が、何か踏み外した調子になる。
「浅学の身ではございますが、せっかくです。宇宙についてのお話をいたしましょうか。ブラックホールはあたかも空間に開いた穴『のように見える』という存在ですが、穴ではございません。物質は穴に落ちるのではなく、ばらばらに引き裂かれ、外から見れば、事象の地平面へ集約されていきます」
戸惑いの気配があった。
冬子が何を話しているのか、あるいはなぜそんな話をしているかの意図が分からないのだろう。緩やかだが切れ目なく、相手に口を開く隙を与えず冬子は立て板に水で言葉を重ねていく。
「幾多の反駁を検証するまでもなく、時間反転解、すなわち、マイナスtという時間から導き出す一点においても、わたくしは率直なところホワイトホールの存在を否定する立場なのですが、それでは少々ロマンがございませんので、思考実験まで『ある』ものとしましょう。
ブラックホールは巨大な質量の塊でございます。凄まじい重力を持ち、周囲のものを飲み込み続けます。ではホワイトホールですが、同じだけ膨大な質量を吐き出した先はどうなりますことか。ええ、先生ほどの方ならお分かりですね。吐き出された大量のエネルギーと物質はやがて自らの重みに耐えかね、新たなブラックホールを生み出すことでしょう。
ホワイトホールはそれ自体が、元来あまりに不安定で無理のある存在です。逆にそれを存在させ続けたいと言うのであれば、因果律か時空構造かが破綻する。つまり」
ほんのわずかな時間。
初めて冬子が、話の流れにポーズを入れた。
「世界の方をゆがめて合わせなくてはなりません」
「う、ぐ……?」
「ああ、まだ足を動かさないでくださいませ。ええ、もちろん動かしたくても動かせないことでしょうが。確か、お医者様でいらっしゃいましたね。宇宙物理ばかりで失礼いたしました。耳学問ですので正しいところを教えていただきたいのですが、ドクター」
「いったい、何を」
「異常増殖した細胞が、正常に殺されず肥大したものを一般に、腫瘍……たとえば、ものによって、癌、などと、言うのでございますよね?」
「ひ」
春子の首筋がぞっと寒くなった。
くつくつとフユが喉を鳴らして笑っている。
「はな、はなせ、嫌だ」
「生命というものは不思議でございますね。常に一定量を殺し、新しいものに入れ替えることによって、全体として変化のない正常な状態が保たれる。たった一人の個体であれ、種としての集団であれ。ホメオスタシス? 恒常性? 動的平衡思想? 呼び名は詳しく存じませんが、半年もすれば私たちの肉体は、もう大半がそっくり別の細胞に入れ替わってしまっているのでございましょう?
いかがですか、ドクター。
その基礎的な理解をもって、不老不死とはどのようなものかお聞かせ願えませんか。
なぜ、妹ではなく、わたくしだけに、さような夢を見られる方が後を絶たないのか。わたくしは不思議でならないのです。
あなたの体の全組織を、一ヶ月ほど自然の摂理より生きながらえさせて差し上げます。その間にどれぐらいたくさんの新しい組織が生まれて、居場所もなく、押し合いへし合いをするのでしょう。消化器官でしたら二、三日で入れ替わるだとか聞きますが……それが本当でしたら、三十日で十個から十五個の胃腸に相当する量の組織が、互いに潰し合いながらひとつの体の中に生まれる計算ですねぇ。骨や皮膚はもっとゆっくりでしょうけれど、入りきりますでしょうか」
「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ!」
「おや」
闇で閉ざされた視界の向こう、フユという名の化け物がふんわり笑う。
「わたくしは、生来、慈悲というものを持たない生き物なのでございます。そのあたりはすべて妹に任せておりますので」
ご存知なかったなら、残念なことでございますね?
あの慈悲深い片割れにふさわしい扱いをしていれば、恩赦の余地もあったかもしれないものを。
「――――――姉さまッ!」
絶叫が、春子の口から飛び出て空を裂いた。
4.
ガシャン、と、腕と足に繋がった拘束具がそれぞれ音を立てた。
「姉さま、姉さま!」
「ハル」
ぱっと表情を華やがせて、エネルギーの注入を中断すると、椅子の前に屈んで男の足首を掴んでいた冬子は立ち上がり、そちらを振り向く。
コートの下のホルスターから拳銃を抜き取り、思い切り振り抜いて台座で男の側頭部へ強烈な一打を与える。そこに一切の躊躇はない。
「姉さま、お願い、わたくしはここです、姉さま!」
叫ぶ自分の声で覆われて状況が聞き取れないハルは、危機感に押されて更にやみくもに叫んでいた。古い古い、昔の言葉遣いが出てしまっているのにも気が回らない。
「ハル」
「ね、さま」
「わたくしよ、ハル、来たわ、聞こえていて」
「あ…………」
声と衣擦れの近さに春子の肩から強張りが少しだけ抜ける。息を吐く。冷静さが戻ってきた。
「フユ姉」
「ハル、大丈夫なの、ハル」
「だい……、大丈夫」
喉が痛く咳き込みそうになるのを堪えて、できる限り明るく春子は言った。姉の手が腕の拘束をはずしにかかる。
「あ、先に目隠しを取ってもらえる? 何も見えなくって」
冬子が息を呑んだ。
その空白と悲鳴のような息遣いだけで、春子にも状況は極めて正確に伝わった。刹那の内にぞわりと黒い感情が魂の片割れの中に膨れ上がるのを感じ、妹は慌てて声を出す。
「フユ、あの」
「すこし待ってらしてね」
異能のやわらかな手のひらが春子の両目を覆った。
頭痛や気分の悪さ、細かな打ち身の痛みが風で吹き飛ばされるように消えていく。しばらくもらっていなかったエネルギーの暖かさに体中が歓喜する。
指先が離れた。目を開く。
「ん……」
眩しくてまた閉ざしてしまった。
細くまぶたを開けて、泣き出しそうな顔に出会う。
「ありがとう。もう見えるよ。なぁに? ひどい顔してるじゃない」
「助けに来たお冬ちゃんに第一声がそれですの」
「ありがとうって言ったでしょ」
右手が自由になったところで、左手は自分ではずそうと手を伸ばす。医療用の拘束具で錠などはなく、スナップボタンで留めてあるだけだから、取るのは簡単だった。
「痛く、なかった?」
治療の時の苦痛を思って、ためらいがちに春子は問う。一度なくなった視力を回復させるなんて、どんなものを引き受けさせてしまっただろうか。
「ちっとも。わたくし、お春を治すのは少しも辛くなくてよ」
最後の左足の拘束をはずして、冬子はにっこりした。
手を借りて体を起こすと目眩がする。
揺れがおさまるのを待ってから姉を見上げた。苦笑して両腕を開くと、姉は姉で「仕方ない子ねぇ」と言いながらぽすりと春子を抱き締める。
呼吸を少し。
鼓動を分け合って。
勇気をもらって、おもむろに春子は目を開いた。肩を押しやって冬子に困った顔をさせる。
「ハル」
「心配かけてごめんね。でも、駄目だよ、フユ姉。こんなのは良くない」
「わたくしはまだ物足りません」
「古い銃まで持ち出して。このところは証拠隠滅も難しくなってるのに」
「う……」
痛いところを突かれたらしく冬子が目を逸らす。
大昔は人間の一人や二人、人の目のない場所ならうっかり殺してしまってもそんなに困ることはなかった。戦後しばらくまでは戸籍だってわやくちゃでいい加減だったし。それが段々と人の管理システムが細かくなり、テクノロジーも勢いよく進歩して、弾痕はパテで塗ったくらいでは見逃してもらえなくなってしまった。
冬子は独特の思考回路を持ち、非常に倫理観が薄かったが、その分計算高いところがある。その計算が吹き飛んでしまうのは、決まって春子に何か害が及んだ時だった。妹が無事だと実感できれば、冬子の怒りは持続しない。
「いいよね?」
「……あなたが、そうしたいなら」
「うん。そうしたい」
ベッドの縁を押して立ち上がった。
足元は裸足で、服は入院患者用のガウンだ。手首に何か認識タグのような物が巻かれている。個人の建物かと思っていたが、設備はずいぶん本格的で、どうやら本物の病院の一室のようだ。
冷たい白い床をぺたぺた歩き、失神している初老の男の傍らに立った。
真っ白い、銀色に近いほどの見事な白髪だ。
人生が、彫刻のノミの跡のように複雑に顔面のしわに刻まれている。ひび割れビー玉が手の中で散った感触を思い出して異能は眉を寄せた。
「ごめんなさい」
呟いて、その首筋にそっと自分の手のひらを沿わせた。
冬子が最も綺麗な一粒として緑のビー玉を選んだのは、それがいっとう優しい存在に思えたからだ。
ちょうど木々の葉の間からちらちらと光が散っているようで、まるで春子のようだと思った。冬子は何かに執着することはあまりなかったが、春子を思い出させるものは手元に置いておきたくなる。
うっすら光る命の流れが、男からハルに吸い出されていく。
嫌がる体にフユが無理やり叩き込んだ黒い濁流が、ハルの手にかかるとあんなにも美しく清水のように清冽になる。
奇跡のようだと冬子はその光景に目を細めた。
自分たちを作った万物の神は、なぜあの優しい妹を与える側にしなかったのか、冬子は不思議で仕方ない。己の力が求められるのは誰だって嬉しい。自分の命が飢えたハルの役に立つことが、冬子はいつも嬉しくてたまらない。たとえ妹がフユを心底嫌うことがあったって、自己犠牲精神の強い妹は他人の命を損なうよりは化け物の姉に助けを求めるだろう。
与える側はいつでも居場所を約束され、心が満たされる。なのにその力は、心の欠けたフユの方に与えられた。
自分が幸福である必要を冬子は感じないが、幸福は自分の側にあった。
奪うハルは、けれど健全な心を持ち、奪う度に深く傷付いた。
フユから生命力を渡されることすら今もどこか申し訳なさそうにするし、無関係な相手を貧血にしてしまったら罪悪感でしばらく深い海にもぐってしまう。焼いたビー玉を砕いてしまった時の落ち込みようと言ったらなかった。触れれば壊れると知りながら、それでも春子は壊れやすい物を愛してしまう。中でもとりわけ、人間という脆弱な生き物を。
妹が嘆くのでなければ、フユはどれだけの人を救う気になったか自信がない。誰かが泣くと春子も泣く。それは困るので冬子は率先して他者を助けた。自分以外に決してできないことが何かよく知っていたし、痛みを厭う気持ちも鈍い。
「……ハル?」
冬子はふと瞬きした。
いつの間にか、春子の頬に幾筋もの涙が伝っている。
「どうしたの」
「ううん。大丈夫。なんでもない」
首を振って手を離した。最後の支えを失ったかのようにずるりと男の体が崩れる。
「お前、まさか」
「奥さんを、助けたかったんだ」
「ハル」
どうして。
冬子の胸に苛立ちが湧く。
体に毒となる過剰なエネルギーを奪うだけだと思っていたのに、ハルはそれ以上をしてしまった。あんな目に遭わされたのに、男の記憶を食ってやったのだ。正気を失い、欲望に負け、犯罪に身を落とすほどの原因となった苦しみを、己の心に引き受けた。
「愛してたんだ。本当に愛してた。ずっと一緒だった。命の半分だった。どうしても助けたかったんだ。だから。ああ」
「お春、お前という子は」
「ごめんなさい…、ごめん……、わたしでも、姉さんでも、できないんだ、ごめんなさい。死んでるの。もう、その人は死んでるの。自分だって分かってたんでしょう」
冬子は手を伸ばし、ハルの腕を引っつかんでぐいと抱き寄せた。
激しい嗚咽で妹は泣き続ける。
遅れて警察が駆け込んでくるまで、その涙は止まらなかった。
5.
「ひまー」
春子が呻いた。
ベッドの傍らの椅子に腰掛けてりんごを剥いていた冬子が視線を上げる。入院病棟の三階。うららかな日射しが斜めに射し込んでいる。
「仕事行きたいよぅ、フユ姉さん」
「だーめ、です」
「私がもうなんともないの、姉さんが一番よく知ってるでしょ。自分で治したんだから」
「お前はスタンガンで気絶させられて、薬を打たれて、一時的な視力障害まで起こしていたのよ。ぜひ、隅々まで調べてもらってくださいな。十日ほど閉じ込められるくらいなんだというの」
「あいつを助けてあげたこと、そんなに怒ってるの」
「激おこです」
「何って?」
「人づてに聞きましたの。はやり言葉だそうで、とっても怒っていることですのよ。わたくし、とっても怒っておりますの」
「またお嬢様言葉強めになってるよー」
「んんっ」
冬子は咳払いする。
その時々に言葉遣いを変えるのが得意な春子に対して、他人に興味の薄い冬子は話し方の調整が苦手だ。二人きり以外の時はとりあえず全部をですますございますと丁寧な喋り方にして済ませているのだが、うっかりするとそれでも話しぶりが古くさくなる。
今は個室に二人だけなので素に近いが、病院は人の出入りに無防備だ。多少気にしておいた方がいい。
「姉さんが見つけてくる流行り言葉、だいぶ周回遅れなことがあるから、使っていいか分からないのがなぁ……」
「話を逸らさないでくださいまし」
「ください『まし』、もそろそろやめた方が」
「お春!」
「もう。仕方ないじゃない。警察で余計なこと喋られても困るんだから」
どうして誘拐なんてしたんだ。
はい、防腐処理を施した妻の死体を生き返らせてもらうためです。彼ら化け物シスターズの姉の方には、他人の怪我を治す力があります。
笑えない想像だ。いらぬ火の粉が降ってくるのが目に見えている。
「言わせておけばいいの。どうせ取り合ってはもらえないです」
「そうだとは思うけどさ」
「はい、どうぞ」
ウサギに剥いたりんごが紙皿に載せられて手渡された。器用だなぁと瞬きする。
同時にちくりと胸が痛んだ。あの男の妻もかつては、器用にりんごを剥いたのだ。見も知らぬ、会ったこともない人間が、ハルの中には幾人か生きている。
「そうそう。今日はお土産があるの」
「え?」
「手を出してちょうだい」
紙皿を取り上げてサイドテーブルに置き、冬子は春子に命じる。言われたとおり手のひらを上にしたところへ、じゃらっと何かが落とされた。
「うわっ?」
慌てて左手を添えて受け止める。
コンコンカンと音を立てながら落ちてくるそれは、無数の、クラック入りのビー玉。
「え、ちょ」
ひびの入ったガラスは脆い。
少しの衝撃で簡単に割れてしまったのが嫌と言うほど印象に残っている。だがお互いにぶつかるその光の塊は、日射しを弾いて乱反射しながら、まったく砕ける気配がない。触った感じも床から聞こえる音も何かちょっとおかしかった。
「これ……?」
「レジン細工というものに初挑戦したの。フルコーティングですわ。……です」
一粒つまんで、持ち上げ、光に透かしてみる。
ガラスの表面をぼってりとした厚みのある透明な樹脂が覆っている。なんだか少しでこぼこして、小さな銀色の泡だらけで。
「すごいいっぱい気泡が入ってる」
「あらら?」
ぱちぱち目を瞬いて、少し首を傾ける。
「たっぷり何重にも塗ったら絶対割れなくて安心だと思ったのだけど」
ひとつひとつ塗ったのだろうか。
こんなにたくさん全部、ガラス玉を焼いて、ひとつひとつ。絶対割れないように。絶対ハルが泣かないように。ついさっきウサギのりんごを軽快に削りだした姉の器用な手が、こんなにたくさん、加減を忘れたみたいな厚塗りを。
「……馬鹿だなぁ」
ハルは笑った。
姉には聞こえないように、小さな小さな声で。
昔、フユとハルは、華族の血筋に生まれた。
まだそういう身分制度が十分機能している時代だった。
母親はどちらも妾だったが、なぜだか妾が別邸ではなく普通に屋敷内に住まわされている家庭で、二人はきちんと父親に認知され、ひとまとめに育てられた。
二人は気味悪がられるほど顔立ちが似ていたが、わざと互いを似せ合ってもいた。髪型や装いをできるだけ同一にして、声の高さや調子をそろえて語った。それは二人の愛情の表れでもあったし、最初の自衛方法でもあった。豊穣と快癒の力を持つフユを手にしたがる無法者があまりに多かったのである。巫女と呼ばれたり、神の子と呼ばれたり、フユは勝手に色々なラベルを貼り付けられた。そっくりな振る舞いをすることでハルはフユへの害意の盾になり、フユはハルの生存を守った。
二人を見分けられない曽祖父を懐柔し、傀儡として長く長く生きさせて四十年ほどを乗り切った後、するりと二人は一族を出奔した。
終わり十五年間ほどは顔を隠して生活していたので、置き土産の死体に意外と簡単に皆騙されたようだった。まあ、その死体もハルの力でからからに干からびさせておいたので科学捜査のない時代に身元の判別もしにくかったのだろう。
それから、時にかけもちしながら六つほど信仰宗教を渡り歩いて、集金と身分証のロンダリングを繰り返してゆるやかに二人は時代を超えてきた。
「次はどんなお仕事がいいかなぁ」
「そろそろ転職します?」
「ぼちぼち考えよっかね。海外もいいかも。送金ハードルすごい下がったし。素晴らしきかな文明」
「大戦の後、世界一周客船にゲストとスタッフで二回乗ったのはどちらも大層楽しゅうございましたわね! また乗りませんこと?」
「うん、だからフユ姉はもうちょっと口に気をつけようね?」
言葉遣いの話なら、お冬ちゃん、お春ちゃんという当たり前の呼び名だって、もはや時代劇の中の言葉である。
ただ愛称というのは冗談から始まることも多く、時代錯誤でもアクロバティックでも比較的そういうものだと受け入れられやすい。これに関してはまだ大丈夫だろうと踏んでいるし、無理に変えたくない気持ちもあった。
春子はもうひとつ、ベッドに散らばったビー玉から青いものを取り上げて窓の光にかざした。海の泡のような空気の粒の向こうに、大西洋の空色と潮風が広がっている気がする。
二人は対でこの世に生まれ落ちた。
春を待ちわびる冬のように。冬の試練を受け止める春のように。
次の百年も、二人はきっと、生きていく。
お読みいただきありがとうございました!
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※推敲時の科学考証にAIを使用しました。AIは間違えることがあります。人間の執筆者はもっと間違えます。(要約:色々間違ってたらごめんなさい)




