循環参照:前編
0.
立春の前日。
すなわち、季節の境目、節分の日。
ある華族の流れを汲む裕福な家庭に、別々の母親から一人ずつ、同じ日に二人の娘が生まれた。
名は、少し先に生まれた姉がフユ、遅れてきた妹がハルという。
戸籍上は冬子と春子である。
娘たちは双子同然に一つの部屋で育てられ、与えられた名前に呼応するように、姉が淑やかに美しく、妹が明るく優しく育った。
二人は対でこの世に生まれ落ちた。
1.
カラカラとビー玉が転がる。
青、緑、黄色、ピンク、色とりどりを、小鍋でころころ。
「……フユ姉さん、何してるの?」
「ビー玉を炒っているの」
ふふふ、と笑って冬子は答えた。
軽く結った黒髪が背中でさらりと揺れる。
場所はキッチン、身につけたのはネイビーのエプロン、コンロの上で揺らす小さな鍋。その中に入っているのがビー玉でさえなければ料理をしているとしか思えない姿だ。
「もういいかしら」
と呟いて、ひょいと手首を返し、熱したビー玉を水を張ったボウルに投入した。中にたくさん氷が入っている。ジュワッ、ビキビキッと不穏な音が立て続けに聞こえてくる。
コンロの火を切り、小鍋を水につけて洗い――この時、派手な音とともに白い水蒸気がもうもうと上がり、どれだけ鍋が熱されていたかが分かった――、拭いて、シンクの下の定位置に戻す。
しばらくキッチンとリビングの境からそれを見ていた春子は中に入り、氷水のボウルをのぞきこんだ。ビー玉が五つぐらい沈んでいる。
「冷えまして?」
「見ただけじゃ分からないよ」
「それもそうね」
冬子が白い手を水中に突っ込んで、直接ビー玉に触る。
「ちょっと暖かいわ」
もう少し待ちましょと言った顔が少し残念そうで、早く出したいのだなと分かった。
「これ何?」
「ビー玉をいただいてね、ひび割れビー玉にしてみようかと思案したのよ」
「ひび割れ」
言われてみれば、水中のビー玉は確かに細かくひびが入っているように見える。氷と水の揺らめきが邪魔で良くは見えないが。
しばらく待って再度温度を確認し、冬子はおでんの時に使う穴あきおたまでビー玉をすくうと用意してあったタオルの上に優しく転がした。
「わあ」
つい声が出る。
「綺麗ね、冬ちゃん」
細かくクラックの入ったガラス玉は、ちょっと魔法のアイテムみたいな綺麗さがあった。
「でしょう?」
ふふふとまた含み笑い。
ひとつずつビー玉をすくってはタオルに置く。特に水色のひとつが薄い氷片をいくつも重ねて閉じ込めたみたいに美しく、春子はその粒のきらめきに見入った。
「拭いて、あちらに持っていってくださる?」
「うん」
言われた通り表面の水を拭き取って、道具の片付けをしている姉を横目にタオルごとビー玉を持ち上げ、お姫様への献上品のように恭しく春子はそれをリビングのテーブルへ運んだ。
椅子に座って、顔を近付け、きらきらする様子を飽きもせずじっと眺めた。
「きれいねぇ」
自分が言ったかと思ったが春子ではない。
いつの間にか、テーブルを挟んで正面に冬子が来ていた。
電気ケトルから暖かな湯気の立つ水流をマグカップに注ぎ入れる。やがて遅れてやってきた香りに、中にインスタントコーヒーが入っていたのだと分かった。
「ミルクはいかがかしら」
「ふたつで」
春子は答えた。
ひとつふたつと数えられるのは、コーヒー用のクリームポーション。冬子はそれを春子が言った通りに二つ取り、一個ずつ丁寧に開封してカップの中へ垂らしこむ。砂糖はなし。
ガラス玉に注意を奪われて顔を上げない妹へとその集中を邪魔しないように静かにカップを押し出して、冬子は自分用にはクリームではなくパックの牛乳を取った。そこにスティックシュガーを一本入れればできたのは甘いカフェラテだ。ゴミを片付けて椅子に座る。
春子の視線はビー玉に、冬子の視線は春子に注がれている。
「ふふ」
「フユ姉、ご機嫌?」
「ハルがごきげんですもの」
両手でマグをくるんで顔の近くに持ち上げ、にこにこと冬子は笑っていた。春子は虚を突かれて瞬きする。写真で見れば春子と見分けがつかないほど良く似た顔立ちなのに、生きて動いているとまったく印象の違う、春子の異母姉。
「きっと気に入ると思いましたのよ」
ふふ、とまた笑う。
「あなた美しいものがお好きだもの」
艶の深い黒髪。
抜けるような白い肌。
深窓の令嬢を絵に描いたような上品な視線や指の使い方。
飲み物からゆるやかに立ち昇る白い湯気が、霧のように優しく冬子の表情にソフトフォーカスをかけている。
「え、あ」
もしかして。
「冬ちゃん、これ、ひょっとして、私のために作ってくれた……?」
「ええ。うまくできたら春ちゃんにって」
嬉しそうに、てらいなく、満面の笑みで冬子は認める。
言葉の出ない春子を気に留める様子もなく、「ハルはどれが一番好きかしら?」と会話を進めてしまう。
「ああ、お待ちになって。答えないで、わたくしに当てさせてくださいな。そうですわねぇ、うーん」
思いつきで勝手にそんなゲームを始めて。
「これ」
人差し指。
「いかが?」
「……正解」
水色の、薄氷の折り重なったビー玉を、間違えようもなくはっきり指し示されてしまい、春子は肩をすくめてみせた。それを見て冬子も笑う。いつものふふふが、ちょっと、ふふふん、という得意そうな感じになっていた。
「フユ姉は?」
「当ててごらんなさい」
「ええっ?」
想像もつかなくて恨みがましい声になった。
身に纏うものなら黒とか紫とか、少し暗めのトーンを選ぶことの多い姉は、意外と移り気なところがあってその場その場でころころ好みが変わる。色がくっきりした海のような青、明るい日差しみたいな黄色、小さな花の花畑を思わせるピンク。やっぱり春子の目には水色が一番に見えて仕方ない。
「降参」
「まあ」
「だって本当に分からないんだもん」
「ガッツが足りないわ。がんばって。お姉ちゃんの頭の中を読むの」
「うん、無理」
「なんてこと。ハルったら諦めが早くていけないわ」
ぷんとふくれて冬子が文句をつける。
「ま、いいでしょう。今日は勘弁して差し上げる。正解は」
「うん?」
「ぜんぶですの」
ガク、と肩が落ちた気がした。
「それ、ずるい!」
「ひとつとは言ってないです」
「一番って話でしょ」
「あらら?」
冬子の睫がぱちぱち上下する。
「そういえば、そうかしら」
「もう……」
春子がため息で苦笑いしてコーヒーを口に運ぶ頃、姉は何やら、身を乗り出して真剣にビー玉の群れを眺めている。どうやら一番お気に入りのひとつを選ぶ気になったようだ。
行き来する視線が、やがて一点に集中する。
「緑?」
「敢えて言うなら」
冬子はこっくり頷いた。
「優しい色よ。まるで木漏れ日を閉じ込めたよう」
姉がにこにこ笑って言うから、春子もそっと微笑んだ。
2.
「危ない!」
小さめの交通事故だった。
道で歩行者と自転車がぶつかりそうになり、衝突を避けようとハンドルを大きく切った自転車が路肩に突っ込んだのだ。
春子は頭を庇う姿勢でしゃがみこんだ老婦人の方へ、冬子は自転車の方へ走った。
「怪我は!?」
幸い、歩行者に接触はなかった。
ただひどく驚いた様子の婦人をそのままにもできず、少しの間声かけをしていた春子は、ひと段落ついたところで顔を上げ、姉の方の首尾を見る。
ちょうどその時、冬子が振り向いて、
にっこり、した。
我知らず息を呑む。ぞっと首筋が粟立った。
「おばあちゃん、ごめんね、わたし、ちょっとあっち見てくる。大丈夫だよね?」
少し屈んで目を覗きこんだ春子の真剣さに、最後には相手も頷いた。了承をもぎ取った途端、春子は弓弦を放たれた矢のように走り出す。
「フユ!」
「大丈夫、大事ないわ。本当に良かった」
にこにこして。
十歳になる前くらいの男の子が、冬子のコートの裾を握って、終わりかけた涙ですんすんと鼻を鳴らして不安げに春子を見上げている。春子はしゃがんで相手と視線を合わせた。
「大丈夫?」
「うん……」
「いたいところ、ない?」
「たぶん」
少年は何度も何度もまばたきする。
子供の手が離れた隙に、冬子が路側に落ちていたヘルメットを拾い、自転車を起こした。自転車の前カゴから何かがだらんと流れ出たのを捕まえてカゴの中へ戻すのが見える。サッカーボールの入ったネットの先を自転車のカゴに直接結んで飛び出ても落ちないようにしていたようだった。そのボールに重ねるようにして冬子はヘルメットをカゴの中へ入れる。
春子は視線を目の前の少年に戻した。
「ヘルメットしてたんだ。えらいね」
「……おんなじだ」
「え?」
「あっちの人と、顔、おんなじ」
「ああ、きょうだいなの。あっちは私のお姉さん」
「双子!」
「双子じゃないけど、まあ、似たようなものかな。よく言われるのよね」
それからどうするか話し合ってから、冬子は二人の職場に出社して妹が有給を取ることをシフト担当に説明した。春子は対応で現場に残り、老婦人を警察へ、少年を救急車へ引き渡した。救急隊員が可能なら来て欲しいと言うので病院まで同行し、少年の家族が来たところで連絡先を渡してその場を離れた。
その日の夕方には、評判のパティスリーのチョコレート詰め合わせと、精密検査の結果まったく問題は見つからなかったという知らせがわざわざ職場にまで届けられ、冬子は嬉しそうに笑みこぼれた。
「なんにしても、無事で良かったですねぇ」
妹の不在にあたって事情を共有されていた職場の仲間たちは口々に喜んでくれたが、
「そうですね」
と答える春子は、気持ちが逸れているのか返事がおざなりだった。
「ハルさん?」
「シフトに穴あけて迷惑かけたのに申し訳ないんだけど、これ、私たちで全部もらっちゃってもいいかな? フユ姉さん、ここのチョコすごく好きで」
「もらうも何も、元々あんたらへのお礼でしょうが」
「ありがと! 今度なんか代わりに差し入れするね!」
「は? そんなのいらないですよ……って」
「なんか今ハルさんがすごい勢いで出てきましたけど、何かあったんですか?」
「……さあ」
置いてきぼりで、同僚の面々は首を横に傾けた。
ホイップクリームがこんもりで砂糖増し増しにした暖かいカフェモカ。
共用冷蔵庫にキープしていたエクレア二つ。
美しく包装された菓子折り。
どん、どん、ばん!と春子はそれを置いていく。
「フユ、おやつ」
「今まいります」
いつもだったら手をつけるのがもったいないような包装紙もびりびり破いて、せわしなく箱を開けた。
「ゴージャスだわ」
「食べれる?」
「任せろ、でございますです」
冬子はいそいそとガナッシュをつまんで口に入れた。チョコレートより先にその顔がとろけていく。
「お春ちゃんもいかが?」
「ううん」
二つ、三つ。五つ、七つ。
鼻血が出そうだ。味わっているとは思えない速度で、油分と糖の塊は次々と冬子の口に吸い込まれていった。
「どんな様子だったの」
冬子は決してとぼけたわけではなかったが、少し返事を迷い、手を止め、困った様子で目元を緩ませた。
「お冬姉さん。笑ってごまかさないで」
「ハル」
「ヘルメットは、フユ姉が取ったの。それとも事故の時に飛ばされてたの、どっち?」
ぶつかった跡も生々しかった現場。
無傷で良かった、なんて。
「心配しないで。取ったのはわたくしよ。飛んだわけではないの」
観念したのか冬子が認めた。
「頭に怪我がないかを見たかったの。幸い、何もなかったわ。ただ、左足が」
「骨折?」
「複雑骨折と言うのかしらね。いくつものパーツにばらけてしまっていた。組織もずいぶん破断して、皮膚は数箇所、内側からの裂傷があって。でもそれだけ。それだけよ」
言いながらひとつふたつとチョコレートトリュフをつまんでは口に入れ、カフェモカで喉へ流し込む。四かける五列で二十個入る焦げ茶色の美しい箱の中は、すでに残っている数の方が少ない。
味よりも、今は、カロリー。
できればこの後、寝かせてやりたい。だがかなり頑固者なこの姉に、この状況で仮眠室の利用や、まして早退けを了承させるのは難しいだろう。
ため息を落として、立ったまま冬子の様子を眺めていた春子は足を踏み出した。
姉の座った応接ソファの前まで歩き、しゃがむ。
「ハル?」
暖かな左手を取って、自分の額に押し当てた。
「お願い、だから」
苦しく吐き出した一言。
冬子は少し動きを止め、それから優しくその左手で妹のこめかみから髪を撫でた。
「軽症だったの。本当に、どうってことなくてよ」
「でも、痛いんだよね!?」
思わず叫ぶ。
「痛みまで引き受けてしまうんでしょう? フユ、前はいつも泣いてたじゃない、誰かの怪我を治してあげる時、必ず、あんなに」
「ハル」
ゆっくり妹の後頭部を撫でて、冬子は微笑む。
「しーっ」
右手の人差し指を唇の前に立てて。
「わたくしたちが居合わせて良かったと思わなくて?」
「思うよ、思うけど」
「カゴに運動の鞠がくくってあったわ。きっと走るのが好きな子でしょうね」
「それは私だって見たけど、姉さん」
「ね、お春。わたくし、あなたがそう言うから、無茶できるんですのよ?」
「フユ」
「しーっ、ですわ。ね?」
ふんわり甘く、冬子はマシュマロのように笑みこぼれた。
* * *
そういう存在を、なんと言うのかは分からない。ただし春子は自分のことを吸血鬼のようなものだと思っている。じゃなければ、自分は悪魔で、冬子は天使だ。
二人は定められて対で生まれ落ちた。
それはもう壮絶に確定的である。
姉のフユは与え手で、妹のハルは奪い手だ。
冬子は自分の命の力を他人に与えることができる。彼女は絶えずあふれる泉のようで、時には吐き出さないと破裂してしまうような恐怖すら覚えるらしい。小さな頃は、しばしば庭の植物や動物が一足飛びに急成長する異変が起こって驚かされたものだ。
一方で、春子は命を吸い取る。
フユが清水の湧き出る泉ならハルは乾いた砂地だ。
生命エネルギーはさらさらと春子の皮膚に染み込み消えてしまう。
まだ言葉も話せない時代に周囲で突然人が倒れる怪現象があった時には、春子はずいぶん気味悪く思われたものだ。それは決まって冬子がいなくて春子が一人でいる時で、命の供給が絶たれたために触れた相手の力を無作為に奪ってしまっていたのだ。
春子は、冬子の命を食っている。
生まれてすぐからずっと。
身体の成長も止まった頃からは吸収量も落ち着いていて、このところはもう意図せぬ強奪をすることはない。不本意ながら一定期間姉から離れて過ごしたこともあるし、飢餓を耐えるすべも身につけた。こんな風に住まいも仕事も同じにする必要など最早ないのかもしれない。だが春子は冬子にそれを話したことはない。それじゃそうしましょうかと冬子が春子の側からいなくなったとして、突如、今までにないような凶暴な飢えに襲われたら。想像するだけで恐ろしい。
誰かを取り返しのつかないほど害してしまうのではないかという懸念は、彼女のアイデンティティそのもののように、いつも春子の心の闇に住み着いて離れなかった。
姉妹は今、この現代で、大きめの空港のグランドスタッフとして働いている。整った顔立ちときっちりとした身だしなみや立ち居振る舞いの印象から搭乗スタッフでないことを驚かれることもあるが、二人は仕事で飛行機に乗るつもりはさらさらない。別々の便で別々の国に飛ばされてしまっては意味がないのだ。ここを職場に選んだのは、あくまで、不特定多数の人々が無数に訪れる場所だからだ。
非常の際、どうしても必要な時、行きずりの人々から春子はそうっと命をかすめ取る。
冬場のドアでぱちりと鳴る静電気よりほんの少し多いくらいの、生命の灯火のぬくもりをもらいながら五十人もすれ違えば、当座困らないくらいに渇きはおさまった。取られた方も、その影響もなければ実感もない。
ここまでコントロールできるようになるまでは苦労の連続だったが、何はともあれ、今はだいぶ社会適応できたと思う。
春子が外部からの補給を必要とするエネルギーの量に関して言うと、普通に生きていくには冬子からあふれこぼれる分だけで充分だ。他の人間から摂る必要はない。
また冬子が吐き出すエネルギーについても、春子が引き取ってやれば冬子に問題は生じない。
何かあった時は空港内の植物庭園やら大型水槽の魚たちやらに与えて散らすこともできるが、誰も気にしないような場所を見ている人間というのは想像以上にいるもので、こと、テクノロジーの進むこの時代においては監視カメラやセンサーの類も多く迂闊なことはできない。
冬子は渡す、春子は受け取る。
かように、かれら姉妹は完全な対だった。
* * *
「ホワイトホール?」
昼過ぎの遅い食事休憩で外に出てきて、持ち場へ戻る途中だった。
子供の高い声が、ふと春子の耳を打った。
見れば恰幅のいいスーツの男性と、小さな男の子がちょうど人が引いたタイミングのエントランスエリアのソファに並んで座っている。
「そう、ホワイトホールだ。知っているかな。そうだね、ブラックホールは?」
「知ってる! なんでも飲み込んじゃうやつ!」
「そうそう、それだ。すごく強い重力で、なんでも飲み込んでしまう宇宙の穴だ。だけどその飲み込んだものはどこに行くんだろうね」
「ええー?」
「ブラックホールと逆で、なんでも吐き出すのがホワイトホールだ。うしろで繋がってて、ブラックホールに入ったものが出てきてるのかもしれない。黒の逆で、白」
「あっ」
日焼けした栗色の髪の少年が、そこで春子に目を留めて叫んだ。
「先生、あのお姉さん」
「おお」
勢いよく男が立った。
遊びのあるデザインのハンチング帽を押し上げて脱ぐと、銀に近い真っ白な髪があらわになった。持っている杖はアクセサリーかと思ったが、少し左足を庇うような仕草がある。
「あなたですか、この子を救われたのは」
「ええと……?」
「このあいだはありがとうございました!」
ぴょこんと横から頭を下げられて、ようやく記憶の中から正解が弾かれた。やけにその声が心に引っかかった理由をようやく知る。
「あ、きみ、この前の自転車の子?」
「はいっ」
「元気そうだね。あの後大丈夫だった?」
「うん。すっごく元気です。先生にたいこばん押してもらいました」
太鼓判、という言葉がたどたどしい。誰かが言ったのを聞きかじって使ってみたばかりという感じだった。元気が幼い体に収まらずに輝くようだ。事故の直後はぼんやり青白い顔で言葉も覇気がなかったが、これが本来のこの子の姿なのだろう。
「先生、ですか」
「この子を診察しました。何、実際に診たのは若いのですがな。いや、素晴らしい。奇跡的です」
よく響くバリトンを最後はなぜか低く落とす。
秘密めかしてにやりと視線を向けられ、春子はざらついた気分に陥り、落ち着かなくなった。これは嫌だと感覚で思った。いそいそ、うきうき、よだれでも出そうな顔で春子を見てくる。これは、この感じは。
「ご心配には及ばない。画像は私の他に何人も見ましたが、誰も気付きませんでした。身震いしました。あの瞬間の気持ちをどう言ったらいいか。なんて幸運だ。やっと見つけた」
「あの」
「先生……?」
ぐいっと馴れ馴れしく男が内緒話の近さまで間を詰め、職場用の白手袋を嵌めた春子の片方の手首を握ってきた。
そして、それはもう、突然。
バチンという衝撃に、春子の世界はブレーカーを落とした。




