石に刻まれた予言
摘星楼は、朝日より眩しく、東の空を焦がして燃えていた。火は衰えを知らず、周囲の宮と庭園にも燃え移りつつあった。
太公望と姫発は、延焼を食い止めるのは難しいと判断し、兵を王城から一旦引かせた。
その時、突如、炎の中央から、二つの光の球が飛び出した。
光は一直線に、西の空へと飛んで行った。
革命は最後の局面を迎えている。
次々に魂が空へと飛び去る光景も、そろそろ終わりかと思われた。
朝歌は事実上陥落、殷の禁軍の動きは、数も勢いも勝る周軍に完膚なきまでに押さえ込められていた。
朝歌の市街地に即席で設けられた周軍の陣営の最深部で、姜尚は、魂の光が二つ、王城の中心で燃えさかる楼から空へと飛んだのを見た。紂王と蘇妲己もとい千年狐狸精であろうと察しが付いた。
「太公望殿」
西の空を見上げていた姜尚を呼ぶ者があった。鎧と冑を身に着けた黄飛虎だった。
「妙な奴が、貴殿を訪ねてきています」
「妙な、とは?」
「それが……虎なのです」
黄飛虎は眉を顰めて髭を捻った。
「うちの隊の兵たちが、空から白い虎が現れた、天界の使いかもしれんと騒いでいたので見に行ったのですが……、確かに虎がいて、しかも、太公望殿をお探ししていると喋るので」
姜尚は瞬時に、申公豹だと思った。
「虎だけですか? 道士が一緒に居るのでは」
「いや、虎だけです」
妙な予感に囚われ、姜尚は黄隊長と共に前線へ駆けつけた。
朝歌はすっかり鎮圧され、戦を終えた兵がたむろしていた。百名以上の兵が、少し遠巻きに何かを囲んでいる。人垣を掻き分けてゆくと、中央に一頭の白い虎がいた。
「お前は――」
虎の額には、三角形に並んだ三つの黒い点があった。
「軍師太公望姜尚殿ですね」
虎が地面を蹴って宙返りを一つすると、固唾を呑んで見守っていた兵達の間に、どよめきが起こった。先程までの虎の姿が、少女の姿に転じていた。長い黒髪を結って垂らし、白地に黒の模様の入った衣を身に着けている。少女は、取り囲む甲冑の男達も、彼らから注がれる数多の視線も全くものともせず、あどけなさの残る顔に不釣合いな凜とした声で述べた。
「師叔へご挨拶申し上げます。わたくし、黒点虎と申します。我が主、申公豹の遣いにて参りました」
「――申公豹は」
「本日はわたくしのみが参りました。我が主が、これを師叔へお渡しするように、と」
黒点虎は姜尚の前に進んで、両手で平たい玉を差し出した。
「この玉を?」
「はい」
姜尚は怪訝な顔で玉を受け取った。平たく円い翡翠に飾り紐が結ばれ、術の力が込められているが、特に毒にも薬にならないものだった。首を傾げながらひっくり返すと、文字が刻まれていた。
天は星を布き 大河は地を律し
彩雲が覆い尽くせど 浮世を御するは叶わず
万の理もいつか 黄昏を知り
幼子は地を継いで 永久の護りを砕く
――まさか。
一つの考えが沸いた。姜尚は手の中の玉と、目の前の少女を見比べた。黒点虎は、青い大きな瞳で姜尚をじっと見ていた。
姜尚が突然踵を返し、急ぎ足で周軍の陣営へ向かった。咄嗟に黒点虎も、後を追う。
「太公望殿? ――あ、こら、おい! 虎!」
事態が飲み込めていない黄将軍を、背後に残して走った。
姜尚は陣営の奥に駆け込むと、小さな神輿のような台の前に立った。台の上には一振りの剣が横たえられていた。封神傍だった。姜尚が両手の指を合わせた。刹那、封神榜の鞘と柄に巻かれていた飾り紐が、火花を散らして解けた。
剣を柄から抜いて、姜尚は目を見開いた。
刀身が、淡く光っていた。隙間無く刻まれた小さな文字の一つ一つが、光っている。姜尚には見覚えのある名ばかりだった。封神台へ魂を封じられた者達の名である。そして、剣の真ん中の、先端に近いところに、三つだけ光っていない文字があった。
申公豹の名だった。
「太公望殿……?」
振り返ると、目を丸くした黒点虎が立っていた。何が起きたか、把握しきれていない様子だった。姜尚は、剣と鞘を握り締めたままで、絞り出すように呟いた。
「莫迦が……!」
姜尚の脳裏に、崑崙山を下る途中で会った時の申公豹の言葉が蘇った。
――お前、貧乏籤を引かされたな。
記憶の中の申公豹は、あっけらかんと笑っていた。
――そう言うお前が、私に押し付けたのは何だ。私から、説明しろというのか。この子に。お前の、運命を。
平素は温厚な姜尚も、今日ばかりは、心の中で同門の兄弟子を罵倒せずにはいられなかった。