第四章 ‐25
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目の前に戦が迫っているので、世界屈指の大通りといえども閑散としていた。ごく少数の出歩いていた人々は、疾走するマルクス・アントニウスの馬に蹴散らされそうになった。泡を食って四散したが、刹那の後、アントニウスがただ一騎戻ってきた意味を悟るのだった。
馬はたちまち大通りから消えた。角を無事に曲がれたのは奇跡だった。恐るべき速度で向かってくるアントニウスに気づき、門番たちは大あわてて黄金のスフィンクスの門を開けようとした。だが開ききる前に、アントニウスの両肩が突っ込んでいた。
「どこだ! クレオパトラ!」
アントニウスは馬から飛び下りた。震えが止まらないティベリウスを引きずりおろし、わめき散らしながら宮殿へ乗り込んでいく。その手には、すでに抜身の剣が握られていた。
「どこにいる! この裏切り者め! 魔女め! 売女め!」
目につくあらゆるものを破壊しながら突き進んだ。宮殿内にいた召使いたちは全員逃げ出した。
「俺を欺き、オクタヴィアヌスと通じていやがった! 俺をあんな小僧に引き渡すつもりか! 俺はずっとお前のために戦ってきたのに! なにもかも犠牲にしてお前だけに尽くしてきたのに!」
灌木をずたずたに切り裂いた。石像を蹴り倒し、燭台を叩き落し、モザイク画をえぐった。ガラス細工も陶器も一つとして無事では済まさなかった。
「下劣で薄汚い尻軽女! 俺を破滅させた張本人! それがのうのうと生き延びる! 許されるとでも思うのか、あばずれめ! 出て来い! 絶対に生かしてはおかん!」
壺が真っ二つに割られた。ティベリウスは破片から顔をかばうことで精一杯だった。気が狂いそうだった。こんなにも大きくて恐ろしい男を見たことがない。つぶれてしまいそうだ。絶え間ないわめき声に耳鳴りがする。頭ががんがんする。逃げ出したかった。しかし右手首ががっちりつかまれていて、びくともしない。ひねりちぎられる。倒れる石像に肩をど突かれ、自分はもうここで死ぬのだと思った。死に場所を取り上げた子どもを、アントニウスはまもなく八つ裂きにする。女王もろともに。
だれも助けてくれなかった。アントニウスの行くところ、召使いたちが悲鳴を上げて逃げ惑う。家族も友人もだれ一人近づいて来ない。プトレマイオスの宮殿は破滅目前の混沌を迎えていた。
「クレオパトラ! クレオパトラ!」
ティベリウスの頭上をかすめ、アントニウスはめったやたらに剣を振りまわした。
「クレオパトラっ! クレオパトラっ…! クレオっ…パトラっ……!」
赤い怪物はしだいに息を切らしていた。とうとう階段の前で動かなくなったのは、ティベリウスがその場でうずくまってしまったためでもある。アントニウスは激しく上半身を上下させていた。腕は下ろしたが、どこかで女王が覗き見ていないかとでも言うように、目玉をぎょろつかせていた。だれの姿もなかった。
しかし、彼の左手には子どもがつながれていた。
かっとばかりに血の気が再燃した。アントニウスは抜身の剣を振り上げた。ティベリウスは覚悟した。
しかし、それはいつまでたっても落ちてこなかった。ティベリウスが恐る恐る顔を上げると、アントニウスは剣を振りかぶった姿勢のまま固まっていた。なにか不思議なものでも見るように、つくづくと視線を下ろしてきている。
そして、ぎこちなく笑ったのだ。
「おい、しっかりしろよ、ちびネロ」
それは泣き顔のようだった。彼は剣を持つ腕を広げた。
「見ろよ。これが愛に生きた男のなれの果てだ。笑えよ……」
ティベリウスはその姿を見上げ、微動だにしなかった。
そこへ、きびきびとした足音が聞こえてきた。
「アントニウス殿」
アポロドロスだった。相変わらず感情の見えない顔つきだったが、ティベリウスに気づくと、とたんにぴたりと静止した。片足を浮かせたまま、驚異の存在に打たれたように呼吸を止めていた。
「なんだ、犬」
アポロドロスの逸脱には気も留めず、アントニウスはまた声を荒らげはじめた。ティベリウスの手を放し、大股で詰め寄っていく。
「お前のいまいましいご主人様はどこだ? どこへ逃げ隠れしようと、この俺が必ず探し出して――」
「その必要はございません」
平静な態度に戻り、アポロドロスは告げた。
「陛下はすでに身まかられました」
とたんにアントニウスの顔から表情が消えた。眼光が、燃え尽きる蝋燭のように奥へしぼんで見えなくなる。皮膚には赤みも青みも無くなる。
ティベリウスも我が耳を疑っていた。
死んだ? 女王が? 自害し果てた?
乾いた金属音が響いた。アントニウスの手から滑り落ちた剣だった。石床の上で震えていた。それが収まると、地上は静寂に支配された。
雲の影に撫でられ、男が立ちながらにして死んでいく。ティベリウスはその時間を間近に見ていた。
「…は、は…はははっ……」
笑い声が聞こえてきた。自分の声ではないのだから、アントニウスのものだとわかった。アポロドロスはすでにどこかへ去っていた。
ティベリウスはのろのろと立ち上がった。アントニウスは反り返っていた。哄笑はどんどん大きく、高く、豪快にさえなっていく。紫色の空へ突き上げ、跳ね返ってくるように。
ティベリウスは、彼が泣いているのだと知った。
「立派な最期だ!」
アントニウスは満面の笑みで言った。
「これぞ世界に挑みし女王! この俺が愛を捧げた、誇り高き女だ! まったくしてやられたよ、クレオパトラ! 君は女なのに、最高司令官であるこの俺が遅れをとってしまった。そう思われるじゃないか。なんという勇気! なんという豪胆よ! だが俺もすぐにあとを追うからな。悲しみはしないぞ!」
そう大声で呼びかけるや、アントニウスはせわしなく辺りを見まわした。そして「奴隷もいないのか」とぼやきつつ、一人で我が身の甲冑を脱がしはじめた。
ティベリウスは絶句して眺めていた。
「ここの金具をはずせ」
首をまわし、アントニウスが命じてきた。そして安心させるように微笑する。
「心配するな。お前の見ている前ではやらないから」
それでも、ティベリウスはまったく動けずにいた。すがるような目を向けていたことには気づかなかった。
「おい、まさか、死ぬなとでも言う気か?」
アントニウスはやれやれとため息をつく。
「さすがにそれは傲慢が過ぎるだろう? ただでさえ、俺から最高の死に場所を奪っておきながら。これなら文句はないよな? お前の人生はお前のもん。そして、俺の人生は俺のもんだ。わかるよな?」
噛んで含めるように話しながら、甲冑を指で軽く叩いてみせる。
「この金具を外してくれたら、帰っていいぞ。あんな継父のところで良ければだが――」
アントニウスは苦笑交じりに首を振った。
「それにしても、お前には色々ひどいことをしちまったな。あの世でネロが、拳骨振りかぶって待ち構えてら。でも、俺は意外と楽しかったぞ。なんだか昔に戻ったみたいで。ネロと口喧嘩ばかりしてた、あの頃を思い出して…」
その屈託のなくなった顔を、アントニウスは前に戻した。その遠い目線の先を、ティベリウスは追った。そこにあの人がいた。五日前、二人が口論したときと同じように、黄金色に輝いたまま。
「父親のような人だった」
なつかしそうに、アントニウスは神君カエサル像へ微笑んだ。
「俺みたいな出来の悪い息子にも、どんどん大きな機会を与えてくれた。元々、俺はローマのはじかれ者だった。餓鬼の頃から、馬鹿やってさ、親父には勘当され、おふくろには泣かれ、ご立派な市民からはことごとく眉をひそめられた。長男なのにな、一応。唯一寛大に接してくれたのが継父だったが、もしかして彼は俺と同類だったのかもしれん。世の中に上手くなじめず、カティリーナの陰謀に加担した末に、キケロに殺されちまった。質実剛健、品行方正、伝統と美徳こそ至上の、誇り高きローマ。その除け者は、受け入れられるんじゃなくて殺されるんだ。それを俺はあのときに知った」
穏やかなまなざしに、かすかな翳りが差していた。しかしその寂しげな色を振りきるように、アントニウスは続けた。
「それに引き替え、ギリシアは居心地が良かった。アンティオキアやエフェソスなどの東方の都市も、そしてこのアレクサンドリアも。俺はギリシア人に生まれたほうが幸せだったかと、一度ならず思ったよ。でも親父は――ユリウス・カエサルは、大口開けて笑いながら俺を迎え入れてくれた。人使いは恐ろしく荒い人だったがな、最高に楽しかった。あの人の下で、初めて俺はローマ人であることを喜んだ。祖国のために活躍することを、誇りに思ったんだよ」
にやりと歯を見せたその顔は、隠しようもなくやつれていた。しかしそこには、かつて意気高らかに燦然と輝いていた青年の面影が、確かにあった。
彼はティベリウスに片目を閉じてみせた。
「でも、お前でさえわかるんだ。カエサルはちゃんと見抜いてたんだな。俺に代わりは無理だってことが」
ティベリウスはなにも言えずにいたが、アントニウスはすぐに神像へ視線を戻した。
「恨んじゃいないさ。恨むわけがない。生きていたら、あの人は絶対に俺を見捨てなかったってわかる。さらに面白い未来をくれていたってわかる。でも、あの人は死んじまった。俺の帰る場所は、また無くなっちまった。そして案の定、俺はまたローマのはじかれ者に逆戻りした」
これがマルクス・アントニウスなのかと、ティベリウスは衝撃を受けていた。ティベリウスが聞き知っていたアントニウスは、友人の多い男だった。ほとんどは戦争のなかで離れていったが、その人柄を最後まで惜しまれていた。市民にも好かれ、兵たちにも人望があり、元老院においても、元はオクタヴィアヌスよりも支持者が大勢いたのだ。
そんなにも愛されていた男が、心の奥底に疎外感を抱えていた。彼は孤独だったのだ。ティベリウスにはそれがにわかには信じられない。
だがそのとおりだ。ローマは彼を除け者にしたのだ。身から出た錆の部分も多分にあったとはいえ、かつて国家の最高位に据えた男を、今、自害に至るまで追い詰めているのだ。これほどの非情があるだろうか。
彼から離れた友人たちは、心のどこかに罪の意識を抱えながら、これからも生きていくのだろう。だが彼らが一人、また一人と去るたび、アントニウスは我が身を切り裂かれる苦しみを味わっていたに違いない。
――ローマのはじかれ者。
アントニウスはずっとさまよっていたのかもしれなかった。この広い世界を、居場所を求めて旅していたのかもしれなかった。とても長いあいだだ。十一歳が想像及ばないほど。
頂から目を配る神君カエサルがいて、真正面から口論を挑んでくるネロがいた、あの頃こそ、彼が最も心満たされていた時代だったのかもしれない。
「だが、俺は見つけた」
アントニウスは力強く知らせた。
「俺の居場所は確かにあった。あの人の後釜だろうが、かまわなかった。クレオパトラほど大きくあたたかく、俺を迎えてくれた女はいなかった。彼女の一番でないことはわかっていたさ。でも俺にとっては、彼女こそがすべてだった」
ティベリウスへ首を傾け、自慢げに教授するように語り出す。
「あんな女はいないぞ、ちびネロ。男に自分を最高の男だと思わせてくれる。ともに頂を見上げながら、飽きることのない幸福を与え続けてくれる。そして俺が与えるものをすべて受け取ってくれる。このうえなく尊大に、喜んでな。その男よりもずっと賢いくせに、無邪気に情熱を燃やす。その男が酔いつぶれているあいだも忙しくしているくせに、自分の苦労は決して見せない。いつも美しく、気高くある。見上げたもんだ。あれぞ世界一の女だ。俺は、今まで彼女が本当に涙を流すのを見たことがないんだ」
そして、そこに女王がいるかのように、紫の空へ両腕を差し伸べる。
「最高の女と離れて生きていくことなどできやしない! クレオパトラがいるところが、俺の帰る場所だ! だから俺はそこへいく!」
ティベリウスは茫然とたたずんでいるばかりだった。アントニウスの論理は、ほとんど理解できなかった。なぜならティベリウスは、まだ女性を愛したことがない。
けれども、愛する気持ちならば痛いほどわかった。
乱れた呼吸と足音が近づいてきた。
「ご主人様!」
先だっても見た覚えがある、アントニウスの奴隷だった。戦場から追いかけてきていたのだろう。
「おお、エロスか。待っていたぞ。俺はたった今、クレオパトラが死んだと知らされたところだ」
赤かった奴隷の顔が、たちまち青ざめた。アントニウスはさっぱりと笑いかけていた。
「かねてから言っておいたことを、今こそ実行してもらおう。おっと、その前に、まずは鎧を脱がせてもらわんとな」
それからティベリウスを見た。
「もう行って良しと言ってやるが、最後に一つだけ教えろよ。さっきも訊いたが、また虜囚の身に戻るつもりなのか? まぁ、さすがにインド行きはあんまりだと思ったが、だからといって、結局オクタヴィアヌスに支配される運命を選ぶのか?」
「ぼくは、虜じゃない」
ようやくティベリウスは言葉を発することができた。これだけは言っておかねばと思っていたからだ。
「自分の意志で決めたんだ。ぼくはこれからもカエサルといたい」
「よっぽど強い呪縛みたいだな」
そう決めつけ、アントニウスは首を振った。
「マルケルスの件は気にするな。オクタヴィアヌスがあの子を贔屓するのは、甥だからだ。つまり、自分の血を引いているという一事だけが重要なのさ。俺が言いたいのは、オクタヴィアヌスが恐ろしい男だってことだ。人の形をして生まれた、史上最も冷血な怪物だ。あいつは本当の意味でだれかを愛することなんて永遠にないんだ。魂の端まで冷えきってやがる」
以前にも、似たような言葉を聞いた気がした。しかしティベリウスもまた断固として首を振った。
「そんなことはない。あなたには見えないだけだ。カエサルには愛がある。絶対不屈の意志がある。あなたや女王や、ほかの多くの人間を凌いでなお満ちるほどの」
「いいや、それは非情な打算だ。神をも欺く巧妙な偽善だ」
エロスを押しやり、アントニウスは大股で迫ってきた。
「そんな男がこれから世界を担うっていうのか? あいつの造るローマが、これから始まるっていうのか。なんと哀れな我が祖国だよ。俺ならば息苦しくて、生きておれない」
「見ようともせず、勝手に絶望か?」
少しもひるまず、ティベリウスは食ってかかる。
「あなたにはできなかった。逃げないことも、認めることも。でもぼくは信じる。カエサルは、歴史上のどの統治者も成し得なかった偉業を遂げてくれる。不断の努力で、世界をこれまでよりすばらしくしてくれる」
「俺たちの犠牲の上に」
冷厳と、アントニウスは知らせた。
「そしてお前も犠牲になるんだ。あいつの冷酷に、とことんまで利用されてな」
「ぼくは惜しまない」
ティベリウスはきっぱりと言った。
「それが、ローマがもたらす平和のために必要なことならば。ぼくはこの魂をかけて、国家とカエサル・オクタヴィアヌスを守る男になる」
「ご立派なこったな。傷ついて、傷ついて、また傷つけられて」
胸倉をつかみ上げ、アントニウスは青い双眸を覗き込む。
「ティベリウス・ネロ、俺には見えるぞ。あいつの傍らで、魂をずたずたにされているお前の姿が。お前は家族と平穏に暮らすことなどできない。友へ献身することも、女へ愛を貫くこともできない。そういう道だ、お前が選ぶのは。報いの無い孤独の生だよ。それでもお前は、オクタヴィアヌスを信じ続けるのか?」
「信じる!」
まっすぐに見つめ返し、ティベリウスは叫んだ。
「信じるために、ぼくはだれよりも強く、魂のゆらがぬ男になる!」
アントニウスは身じろぎ一つせず見下ろしていた。ティベリウスもまた少しもまぶたを震わせなかった。
先にゆるんだのは、アントニウスだった。静かに眠るように目を閉じると、胸倉から手を放す。
「ブルートゥス!」
首をまわすと、落ち着きはらった声で呼びかけた。
「俺のブルートゥス! 近くにいるんだろう?」
すると階段横の列柱に、細い影が現れた。
「はい…」
「ここへ来い!」
アントニウスが手招きすると、その人影は石床へ下りてきた。跳ねた金髪を無造作に束ね、ローマ市民の戦時服を纏っている。
「お前だけは逃げないと思っていた」
アントニウスは誇らしげにその男の肩を叩いた。
「友に迎えて十二年か」
にやりと微笑みを浮かべ、彼はティベリウスに言った。
「こいつはお前の同志だ。フィリッピの戦いで、こいつは縄を打たれて俺の前に連れられてきたんだ。自分こそがマルクス・ブルートゥスだと叫んでな」
片目をその男へ閉じてみせる。
「おかげで本物のほうは見事に自刃を果たした。こいつはすでに殺される覚悟を固めていたが、すっかりしてやられた部下たちに、俺は教えてやった。『お前たちは俺の仇よりもすばらしい男を連れてきた。それすなわち友である』とな。そして実際、そのとおりになった」
肩を組み、その男をぐいと引き寄せる。
「あれからたくさんの友人に去られたが、このブルートゥスだけはいつもそばにいてくれた。俺が喜ぶ時も悲しむ時も、変わらず。パライトニオン岬でも、片時も離れてくれなかったな」
ひとしきり笑うアントニウス。なにかを予感しているのか、そのブルートゥスの顔は強張っていた。
パライトニオン岬で、失意のアントニウスに寄り添っていた友は二人いた。一人はギリシア人のアリストクラテス。そして残るローマ人のほうの友が、この偽ブルートゥスだったのだ。
いつのまにか、ティベリウスの肩にもアントニウスの手が置かれていた。彼は比類なき友に言った。
「ブルートゥスよ。この俺が、友として最後に願う。この立派な少年を、無事オクタヴィアヌスの陣営へ送り届けてほしい」
「アントニウス! 私は――」
「とてつもなく重要な任務だぞ」
友の抗弁をさえぎり、アントニウスはひどく真剣な顔つきで言った。
「お前の友が保証する。この少年こそ国家の未来だ。必ずローマを背負って立つ男だ。この気高く穢れない魂を、どうか守り抜いてほしい」
「私はあなたと一緒です!」
男は叫んだ。
「十二年前のあの日、そう誓ったではありませんか! 私はこれからもあなたのそばを離れません!」
「もう十分に誓いは果たした」
アントニウスは穏やかに言った。
「心から感謝する。そしてこれからは、俺よりも優れた男のために尽くしてほしい」
それから友とティベリウスの手をつかみ、がしりと重ねさせる。
「お前の手には、ローマの未来が握られた」
彼は友に言った。
「頼んだぞ。これが俺の最後の忠義だ。祖国への愛だ。その末永き栄光は、お前にかかっている」
男はしばらくのあいだ、必死で逆らおうとするように唇を動かしていた。目でも懸命に訴えていた。しかしやがてがっくりとうなだれた。
アントニウスは彼の身に両腕をまわした。
「達者でな」
ティベリウスの手を引き、男は駆け出した。ひとときもつれたあと、か細い足は動き出す。
「アントニウス!」
ティベリウスが振り返ると、アントニウスは目元をくしゃくしゃにして手を上げていた。
「オクタヴィアヌスに伝えろよ。俺は幸せだったと。男として愛に生きることができたと」
ティベリウスは歯を食いしばった。抗えない運命が遠ざかっていく。ローマの最高司令官マルクス・アントニウス。神の化身で通った、剛勇の将。その魂は時代の荒波の中に生まれ、ときにあてもなく漂い、ときに深みに溺れ、勇敢に戦い抜き、ついに岸辺に倒れ、波に引かれて去り行く。
「ネロ、俺は見ているからな」
最後に耳に残ったのは、そんな言葉だった。
友から離れるにつれて、その足取りは落ち着いていった。男は黙りこくってティベリウスを引いていった。ティベリウスもまた無言で従っていた。
王宮殿の中はすさんでいた。怒り狂ったローマ将軍に破壊されたからだが、人影一つ動く気配もなかった。
男はすたすたと広場を突っ切っていった。ティベリウスがちらりと横へ視線を向けると、赤い太陽が王宮港のアーチにめり込んでいた。もう夕日に変わる時間が来ていた。
黄金のスフィンクスの門は、半開きになっていた。アントニウスが飛び込んだ時のまま、放置されているのだろう。門番さえもすでに見当たらない。
二人は門をくぐった。だがティベリウスをスフィンクスの傍らに立たせると、男はそっと手を離したのだった。
「この道をまっすぐに行けばいい」
砂色に染まる通りを指差す。上体を傾けて語りかけるそのまなざしが、とてもやわらかだった。
「わかるよね? 君はこのアレクサンドリアまで一人で戻ってこられた子だ。オクタヴィアヌスの陣営までも、一人で帰れるね?」
「あなたは…?」
ティベリウスはまじまじと男を凝視した。男は微笑して首を振った。
「私は友のところへ戻らなければ。最後までお供すると、すでに自分に誓っているのだから」
その言葉の意味するところは明白だった。ティベリウスはなにも言えずに立ちつくした。
「君に一つお願いがある」
男はおもむろに首から紐を外した。そして両手でそっと、汗で冷えた小さな手を包み込む。
あたたかな感触が離れると、ティベリウスの手のひらに指輪が載っていた。黄色い石が、真昼の太陽のように輝いている。
「これを、ローマにいる息子に届けてほしいんだ」
見つめる目が、溶けそうだった。
「名前は私と同じ、ルキリウス。ルキリウス・ロングス」
瞬間、ティベリウスの喉を抜けた音は聞こえなかったのだろうか。男は表情を変えなかった。
「父親らしいことをなにもしてやれなかった」
目尻だけが、自嘲で下がる。
「最後に会ったのは二年前、エフェソスでだった。一緒にローマへ帰ろうとすがりつくあの子を、私は追い返した。悪い父親だ。息子より友のそばにいることを選んだのだから」
「……あ………」
「恨んでいるだろうな、今も。ぼくは絶対に父さんのようにはならないと、大声で怒鳴っていたから。祖父の腕の中で暴れ、船尾から身を乗り出して泣きじゃくって…。そんな顔ばかりさせてきたんだ。きっと永遠に許してはくれないだろう」
「…あ……あ………」
「でも、息子にもいずれわかる時がくると思う」
引きつるティベリウスの頬を、男の大きな手が包んだ。
「友とはすばらしいものだ。ただ存在していてくれるだけで、どんな苦難をも凌ぐ喜びをくれる。私は、友と生きて幸せだった」
額をティベリウスのそれに当て、目を閉じる。
「お前も良き友に恵まれて、幸福な生涯を送りますように」
静かな祈りは、永遠のように続いた。飛ぶように地中海を越え、はるかなるローマへ届くのを待つように。
ぬくもりが消えるのを感じた時、すでに男はスフィンクスの門をくぐっていた。
「…待て! 待って!」
ティベリウスは突進した。馴染んだ微笑は愛しげに見送っていた。
「ルキリウス!」
鼻先で、門は閉まった。
ティベリウスは叩いた。三百年立ち続けた門はびくともしなかった。
ティベリウスはもう一度叩いた。取るに足りない衝撃は響き渡らなかった。
ティベリウスはそれでも叩いた。右拳を力任せに打ちつけた。叩いて、叩いて、叩き続けた。
なんでだ。
なんでだ、なんでだ、なんでだ!
殴って、殴って、殴りまくった。拳が腫れ上がり、血がにじみ出ても続けた。声なき叫びを吐き散らした。
なんでだ。なんで、なんで、なんで、なんで――。
なんであいつは、一言もぼくに言わなかった。
機会ならいくらでもあったはずだ! あれだけたわ言を並べる暇があったじゃないか! どうにもならないと思ったのか。それでも言ってくれれば良かった!
どうしてなんだ? どうしていつも飄々と笑っていた。胸のつぶれる悲しみも苦しみも、すべて隠してたわ言ばかり。卑怯にもほどがある! 他人の気持ちを聞き出しておきながら、自分の本心は決して見せなかった。ただの一度も。
本当に、ただの一度もか。
――友人の役に立つべからずっていうのが、ルキリウス家の家訓なんだけど。
――最近では、『我こそがマルクス・ブルートゥス!』と大ぼらを吹いて、アントニウスに身を投げだした馬鹿野郎もいる。
拳を突き立てたまま、ティベリウスはずるずると地面に沈んだ。
あいつは卑怯者だ。卑怯者で、大嘘つきの、大馬鹿野郎。
肝心なことをなにも言わなかった。なにも欲しがらず求めず、ただただ故郷を離れる友人のそばでたわ言を並べることを選んだ。出世だの、元老院議員の椅子だの、空虚な隠れ蓑を使って。『友』という言葉さえ、道具にしたがって。
なにも求めなかった。本当にそうか。彼が唯一真面目な顔をしてしゃべったのは、なんだった。
――まぁ、ともかく、無事で帰ってこいよ。
ティベリウスは目を閉じた。両拳を握りしめながら、じっとうめいていた。
西風が、その背中をさらりと撫でていった。波のようにくり返し、気まぐれにくすぐっていった。
……帰ろう。
手のひらに指輪を埋め込み、ティベリウスは足を地面に突き立てた。
帰ろう。帰ろう。帰ろう。無事に。元気に。たとえどこにも居場所がなくても。
ティベリウスには、ずっと帰りを待っている友がいる。
アレクサンドリアが燃えていた。
女王が火を放ったのではないことを、ティベリウスは知っていた。そのような暴挙に出ることなく、彼女はもはやこの世を去ってしまった。実際は燃えているわけではないこともよくわかっていた。ただの夕日だ。夕日が街を染め上げているにすぎないのだ。
それでも、ティベリウスはこの光景が嫌いだった。もっとはっきり言えば、怖かった。
ずっと昔からだ。理由は判然としない。母は、かつてギリシアで逃亡生活をしていた頃、火事に巻き込まれたのが原因だと考えていた。おそらくはそのとおりなのだろう。だが、ティベリウスはその時のことを覚えていないのだ。覚えていないはずなのに夢に見るのだ。何度も、何度も。
もしかしたら覚えていたのかもしれない。けれどもその時心に受けた傷は、継父によって癒されたはずだった。実際、あの三歳の誕生日以来、ティベリウスは極度に火を恐れることはなくなった。日常生活を送るうえではなんの支障もなく、かまどの火を見ても、灯火を見ても、平然としていられた。それでもあまり近づいてじろじろ見たいとは思わなかったが。
父の遺体を焼く炎でさえ見届けた。少し嫌悪感がくすぶっているだけで、自分はもう大丈夫だと思っていた。
愛する人がそばにいてくれたからにすぎなかったのに。
橙色を濃くしていく街並みの中を、ティベリウスは駆けた。ムセイオンと体育場を右手に、アーチの連なりをくぐり抜ける。独りきりだった。すれ違う人はおろか、辺りにはその気配さえ皆無だ。世界で二番目に大きい都市は、すでに骸と成り果てて、悄然と荼毘にふされているようだった。
だが無理もない。まだ女王の自害は知らなくとも、人々は単騎で敗走してくるマルクス・アントニウスを目撃したのだ。ローマ軍の侵入はもはや時間の問題だった。
ティベリウスは走り続けた。足取りは着実で、力強かった。帰るという断固とした意志が働いていた。
自分の足で帰れると思った。カノボス門まで、王都を駆け抜ければいいだけだ。門番が逃亡していなければ閉められていることだろうが、かまわない。近くで待てばいい。敵艦隊を吸収したのだから、継父は今日を王都の陥落日と決めているはずだ。帰れる、あと少しで。
しかしその意気込みも、大通りへ折れた瞬間に挫かれそうになった。
体育場という大建造物に遮られていたから耐えられたのだ。まるで氾濫する火の川だった。周囲の建物をなぶりながら、怒涛の勢いで押し寄せてくる。
全身が呑まれたと思った。汗が吹き出す。悲鳴のような耳鳴りがする。ティベリウスはすぐに東を向いた。
火の根源へ向かうのではなくて幸いだと思った。だがそれは間違いだとすぐに気づいた。西日を浴びた街並みは、鮮烈な赤一色だ。空へ届く猛火に、本当になめ上げられていると錯覚する。そして見上げた東の空には、すでに邪悪な闇がうごめきつつあった。
この対照が、自分には最もおぞましいのだと悟った。特にこの大きさは駄目だった。頭上に覆いかぶさる黒となぶる赤。空が焼けただれて朽ちていく。
一瞬たりとも同じ形を保たない巨体で、黒い怪物が迫りくる。ティベリウスはいつも逃げられない。闇の淵に埋め込まれたかのように、体が動かなくなる。怪物が倒れる。つぶされる。悲鳴が耳を貫く。燃えていく母と焼け焦げた父を見せられながら、ティベリウスは火柱の中で立ちつくす。
幻だ。
ティベリウスは激しく首を振った。そして目元を歪めつつ、あらためて眼前の光景をにらみつける。大股で踏み出す。だれもいない通りを再び走りはじめる。
けれどもその威勢など取るに足りないとばかりに、ただ黙して赤々と、街は燃え続けるのだった。
ティベリウスの顎が下がった。まもなく頭ごと地面に垂れた。足を止めなかったのは、あたかも火に撫でられているように、背中がやたらと熱かったからというだけかもしれない。
それでも前へ行かなければならなかった。この悪夢のために、すでにトオンの命を犠牲にしていた。あの日以来、恐怖はいっそう増したが、だからこそ必ず断ち切らなければならなかった。二度と同じ過ちはくり返せない。永遠に悪夢の虜となっているわけにはいかない。
この二週間、死ぬほどの恐怖を何度も味わった。これを乗り越えられないはずがあろうか。
こんなものを抱えたままかなうというのか。国家を担う男になることが。継父を守る男になることが。立ち向かわなければ。
しかしいかに強い意志を抱こうと、どうにも扱えない恐怖というものがある。
熱さが増した。息苦しさも増した。それはもう二キロ近い距離を走り続けているからだが、悪夢に追い立てられている身にはわからない。紅焔に呑み込まれつつある錯覚に、いっそう囚われるばかりだ。歯を砕くほどきつく食いしばった。同じ動きをくり返すのがやっとで、腕を上げて、滝のような汗をぬぐうことさえできなかった。
生命の気配さえも消え去った、世界一の大通り。民すべてを家に閉じ込めたまま、王都は火の海に沈みつつあるようだ。抗う子どもが一人、力尽きて倒れようと、実際に火に呑まれようと、顧みられることはないだろう。
ティベリウスは走り続けた。熱くて燃え上がりそうだった。カノボス門まであとどのくらいかと確認するため、地面から顔を上げた。汗が、赤い光景を蜃気楼のようにゆらめかせていた。
ティベリウスはまたうつむいた。それからまたふと顔を上げた。カノボス門らしからぬものが、ちらりと映った気がしたからだ。
浸みる目を凝らすと、確かに細長いものが行く手に現れていた。ほかのすべての存在と同じく夕日に染まって、大きな蝋燭の火のように見える。大通りの真ん中にぽつんと立って、さらに伸びる。近づいてくる。
ティベリウスは一瞬足を止めた。向こう側から来るそれは、頭頂から足先までをすっぽり覆った人間だった。出歩いている住民がまだいたのだ。それにしてもやけに落ち着きはらった足取りだ。ティベリウスはまた走りを再開させた。
「ティベリウス?」
今度こそ、ティベリウスはぴたりと止まった。すでに同じく立ち止まっている蝋燭をまじまじと見た。それ以外に言葉を発する存在が周囲にいない。そしてなにより、その声に耳を疑っていた。
「私だ」
蝋燭から腕が伸び、頂点を撫でると、夕日の赤を跳ね返すようなまばゆい金髪が現れた。
「カエサル…」
ティベリウスは茫然となった。
「どうして……?」
「聞いたら笑う」
オクタヴィアヌスはくすくすと笑った。夕焼けよりも赤い頬をぽりぽり掻いた。
「だが、これでも私は彼より二十歳も年下だ。老齢寸前の酔っ払いと、今が盛りの美貌の青年だぞ。考えてもみろ」
ティベリウスは立ちつくしていた。継父は勇ましくマントをはらったが、すぐにまたばつが悪そうに首をすくめた。人っ子一人いない景色を背負って。
「おまけに、お前は私よりさらに二十歳年下だ。今はまだ、守ってもらうよりも勇気に応えるほうが父親だろう? そんなに気短じゃないのだから、私は……」
継父が右腰に手を当てると、カチャリという音が鳴った。三本目の足がひくりと動いた。
「それでも、やっぱり命拾いしたことは否めないか」
肩と胸が大きく上下した。輝く夕日のなかで、オクタヴィアヌスの顔がくしゃくしゃになった。
「無事でよかった、ティベリウス」
赤きアレクサンドリアに咆哮が轟いた。それは滅亡を前にした怒声でも、哀号でも、断末魔の絶叫でもなかった。ティベリウスは走った。飛びかかられたオクタヴィアヌスは、両足を踏ん張ってこらえ抜いた。両腕を震わせてきつく、継子を挟んで動かなくなる。
咆哮は止まなかった。ひんやりした頬と唇が寄せられ、そっと確信させていた。初めて思いが届いた。その瞬間が訪れた。今、魂を振り絞ってそれを伝える時だ。
頭から背中へ、オクタヴィアヌスの腕が何度も下りていく。うながすように、一指一指をがっしりと押しながら。
ティベリウスの旅は終わった。多くとかかわりながら独りで歩き抜いた、その果てで、最も望んでいた人に迎えらえた。




