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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第四章 エジプト
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第四章 ‐24

 


 24



 港に降り立ち、ティベリウスは五日ぶりにアレクサンドリアを目にした。カノボス支流から引かれた細い運河を挟み、市壁が東西彼方まで伸びている。物静かに、気品を保ってたたずんでいるように見えた。攻撃を受けた様子が少しもない。

 王都はまだ陥落していなかった。プトレマイオス王家もまだ命を繋いでいた。ティベリウスはそのことを港に集う民衆から聞いた。

 王都の南門は閉められてもいなかった。民衆は恐慌をきたしてはいなかったが、沈んだ顔をしてぞろぞろ港へ出てきていた。女子どもや老人が多かった。

 声を大にして言ってやりたかった。ローマ軍はあなたがたに暴力など振るわない、と。しかしここはローマに宣戦布告された国の王都である。彼らにしてみれば身を守る当然の行動なのだろう。

 それでも彼らはなかなか船に乗り込む様子がなかった。名残惜しそうに王宮のほうを振り返ってはぐずぐずしていた。

「俺はお前さんたちローマ人を信じるよ、ティベリウス」

 ようやく顔色が良くなったペルペレスが言った。彼ら一家は、民衆とは逆に王都の中へ入っていくつもりでいた。

「家は都のどのへんだ? 俺たちが送っていってやるから」

 ティベリウスは首を振った。するとそこへ、人の群れを蹴散らすようにして馬がやってきた。その背中には、やたらときらめく胸をした男が乗っていた。

「この船は空くのか?」

 下馬もせず、男はギリシア語でがなった。

「だったら俺を向こう岸へ連れていけ。いますぐに」

「あなたは王宮の兵かね?」

 マカロンが穏やかに訊いた。なぜなら男は帯剣し、黄金の胸当てを纏っていたからだ。マントの下に抱えた兜も、同じ色の輝きを放っていた。

「文句あるか?」

 男は喧嘩腰で言い、背後へ腕を振った。

「あの様を見ろ。もう王都には市門を守る人員さえいないんだ。今朝アントニウスが、残りの手勢すべてを率いて出撃していった。まったくみじめなもんだったよ、泣けてくるほどに」

「あなたはアントニウスのところから逃げてきたのか?」

 ティベリウスが訊くと、馬上の男はきっとにらみつけてきた。

「俺を裏切り者呼ばわりする気が? 俺はもう十分に役目を果たしたんだよ。この黄金の鎧兜は、女王陛下から直々に賜ったんだ。俺が昨日、一番活躍した戦士だってんでな。ほかのだれでもない、アントニウスが証言してくれたんだぞ」

「昨日の戦いに行ったのか?」

 ティベリウスはますます鋭い口調で訊いていた。

「アントニウスはローマ軍にどのくらい被害を与えたんだ? 陣営にまで攻撃を仕掛けたというのは本当か?」

「なんなんだ、この餓鬼は?」

 男に問われ、マカロンは首をすくめた。

「私の親戚の子だよ。どうか質問に答えてやってくれたまえ」

「オクタヴィアヌスの騎兵は尻尾を巻いて逃げていったよ。この俺とアントニウスに恐れをなしてな。アントニウスは敵陣営に矢文を打ち込んで、オクタヴィアヌスに一騎打ちを申し込んだ。でも、オクタヴィアヌスはこう返してきやがったよ。『死ぬ道はほかにいくらでもあるだろう』」

 ティベリウスはまばたきを忘れていた。

「まったくごもっともなご回答だよ」

 男は吐き捨てた。

「それでアントニウスは、もう自分には討ち死に以上に名誉な死に方はないと腹をくくっちまった。どうしてオクタヴィアヌスは、あの時陣営の門を開け放ってくれなかったんだろうな。そうすりゃあの人の望みは、考えるまでもなくかなっただろうに……」

 ティベリウスの目にも、男の顔がしだいに歪んでいくのがわかった。口調はだけは変わらず荒々しく、彼は話し続けた。

「昨夜は俺の肩を叩きながら、さんざん飲んで食って楽しく過ごしたよ。そしてついに今日、泣きすがる友人たちをみんな置き去りにして、見事な死に花を咲かせに向かった。俺にそこまでつき合う義理があるってのか? ええ? 友人でもなんでもない俺が、死ぬと宣言している男と一緒に戦う理由があるってのか?」

 男は馬から飛び下りた。顔を伏せたまま、マカロンとペルペレスのあいだを強引に通り抜けようとした。

「さぁ、とっととどけ。この俺様に船を明け渡せ」

「だったら、あなたの馬をぼくに寄越せ」

 ティベリウスは言っていた。

「どうせ王宮から支給されたものだろうし、惜しくはないだろう。それにこの船は、馬を乗せるには小さすぎる」

 あ然とする男の返事を待たず、その膝を踏み台にして、ティベリウスは馬によじ登った。

「待て、待て、待て!」

 マカロンが大あわてで馬首に抱きつく。

「まさか戦場に向かう気か? さすがにそれはだめだ! 子どもの行くところではない!」

「マカロン」ティベリウスは落ち着きはらって言った。「あなたには大変世話になった。これは、ぼくの感謝の気持ちだ」

 残るすべての金貨が入った袋を、マカロンの腕に落とす。マカロンはあんぐり口を開けた。

「こんなの、受け取れない」

「今のぼくには、これくらいしかできないんだ。元はぼくの金じゃないから偉そうなことは言えないが、もし足りるのなら、今後のあなたの旅に役立ててほしい。それからそこの夫婦にも――」

 ティベリウスは惚けているペルペレス一家へ上体を向けた。

「一緒に食事をして、楽しかった。あなたがた家族の幸せを、心から祈る」

 それからマカロンを押しやり、馬首を返し、人の群れへ分け入っていく。

「ティベリウス!」

 振り返ると、マカロンが追いかけてきていた。だが人混みに邪魔されて、見る見る遠ざかっていく。

「君は、いったい――?」

「ありがとう」

 港を飛び出し、運河を飛び越え、ティベリウスの馬は東へ急いだ。





 ずっと平行していたアレクサンドリアの市壁が途切れた。騎乗のティベリウスは平原に躍り出た。

 開け放しのカノボス門を尻目に、なおも馬を駆る。すると左手の海に、いくつもの黒い影が見えた。艦隊だ。ティベリウスと同じ方向に向かっているので、アントニウス側の戦力だとわかる。カエサリオンが自慢していた船庫の軍船を総動員したに違いない。だが、ファロス島付近にいたコルネリウス・ガルスの艦隊はどうしたのか。もっぱら西への逃亡を防ぐのが目的なので、東への出撃は黙認したのだろうか。

 アントニウスは陸と海から総攻撃をかける作戦のようだ。確かに艦隊がカノボス河口に入り込めたら、オクタヴィアヌスの陣営を挟み撃ちにできる。だがその前にオクタヴィアヌスの艦隊も待ち構えているはずだ。きっとアグリッパが率いているのだろう。

 ティベリウスの馬が艦隊を追い越した。ずっと運河に寄り添っていたが、やがてなだらかな丘陵に差しかかった。

 怒声と馬のひづめの音が耳に届く。しだいに数が多く、激しくなっていく。

 ティベリウスは肩をそびやかせた。馬体を挟む太腿に震えるほどの力を込めた。

 もちろん戦場へしゃしゃり出るつもりはなかった。これ以上継父たちに迷惑はかけたくないし、いたずらに命を危険にさらす気もない。馬もあるのだし、戦場を確認したら、遠く迂回して、オクタヴィアヌスの陣営に近づこうと考えていた。必要ならばもう一度運河を越え、しばらく安全な場所で待機してもいいと思った。

 それでもこんなに急いできたのは、一刻も早く帰る場所を目にしたかったからなのか。

 けれど――

 丘陵の中腹で、ティベリウスはいつのまにか馬を止めていた。

 帰る場所は、迎え入れてくれるのだろうか。待っているのは継父のあの冷たいまなざしと、皆の気まずい沈黙ではないのか。不名誉にまみれた元捕虜が、どんな顔をして帰れば良いのだろう。

 ここまで来て、逃げ出したい衝動にかられた。西の地平線にずぶずぶと沈んで、二度と姿を現わしたくないと思った。居場所がどこにもないのなら――。

 ティベリウスはぶんと首を振った。

 ――決断したからには、ゆらいではならぬ。

 手綱をぎゅっと握り直した。馬の腹を蹴り、一気に丘陵を登りきる。するとその瞬間、眼下にすべてが広がった。

 今まさに激突しようとしていた。こちらに尻を向け、アントニウスの騎兵隊が槍を構えている。きちんと隊列を組んでいるわけではなく、ただ漫然と横に並んでいるだけのように見えたが、先頭で騎乗する将軍の背中は威風堂々としていた。紅紫の最高司令官用マントをなびかす、マルクス・アントニウスだ。

 そこへオクタヴィアヌスの騎兵隊が突撃してきていた。数は多くない。紅紫のマントも見えない。陣営を背後彼方に、猛然と走ってくる。大地を震わす雄叫びを上げ、アントニウス軍へ突っ込む。

 ティベリウスの目に飛び込んできたのは、その先頭で激しくゆれる、緑と白の縞模様だった。





「マルクス・アントニウス!」

 コルネリウス・レントゥルスは怒鳴り散らしていた。

「出て来い! ぼくが殺してやる!」

 竜巻のように振りまわす槍は、背後の味方まで巻き添えにしかねなかった。周囲を退かせながら、レントゥルスはさらに怒声を張り上げた。

 紅紫マントのアントニウスはぽかんとしていた。文字どおり血眼を剥いて猛進してくる若者を、不思議そうに眺めている。

 しかし突き出された槍は、がしりと受け止めた。

「初陣か、小僧?」

 交わる柄越しに、不敵に笑いかける。

「ずうずうしくもこの俺に挑んだ度胸は褒めてやる。それにしても、なぜこれほど死に急ぐ?」

「ティベリウス!」

 レントゥルスは歯茎を剝き出しにした。

「ぼくの友だちを返せ!」

 事の始まりは、もちろん二週間前に遡る。

 ペルシオンの浜に降り立ったレントゥルスは、久しぶりにティベリウスの顔を見るのを楽しみにしていた。心配しない日は一日もなかった。やむを得ず離れることになってしまったが、このたびはできるかぎり長い時間を一緒に過ごそうと決めていた。気まずいほとぼりもそろそろ冷めたと思うし、勇気を出してオクタヴィアヌスに頼んでみようと思っていた。自分を陸上勤務に戻してほしいと。

 ところが、彼の友人はペルシオンのどこにもいなくなっていた。明かされた事態は、衝撃どころではなかった。

 十七年の人生で初めて、コルネリウス・レントゥルスは怒り狂った。

 さらわれた? ティベリウスが? たった独り、マルケルスの身代わりになって? そんなこと、あっていいはずがない!

 だれもかれもなにをしていた。なんでそばにいてやらなかった。こんなあり得ない事態を起こしておいて許されると思っているのか。

 どうしてティベリウスなんだ。あの子がいったいなにをした。あの子はローマ軍のだれよりがんばっていた。まだ十一歳の、軍内最年少者だ。家族と長いこと離れ、周囲に甘えることもできず、継父にたいして気にかけてももらえないなか、それでも懸命に気を張っていた。この残酷がその報いか。

 最高司令官はなにをやっていた。こんなことになったのは、ほかでもない、全部最高司令官の責任じゃないか。それなのに、あたかもティベリウスの勝手な行動が原因だと責めるように、じっと難しい顔で固まっている。どうして取り乱さない。早く女王に懇願しない。あなたはティベリウスの父親なのに。ティベリウスはあなたのためにじっと耐えてきたのに。

 どうしてわからないんだ。ティベリウスはずっと独りぼっちだった。シリアですでに限界を迎えていた。あそこまで追いつめておいて、どうして放置しておけるんだ。

 レントゥルスの怒りをさらに逆撫でしたのは、オクタヴィアヌスが継子の拉致を隠そうとした事実だった。最高司令官は関係者全員に、厳重な箝口令を敷いたのだ。破った者は死刑に処すとまで言った。それでレントゥルスは、マルケルスとユバを半ば恫喝して聞き出さなければならなかった。継子の幼馴染にさえ、オクタヴィアヌスは詳細を教えることを拒否したのだ。

 こんな人だとは思わなかった。信じられない冷酷非情だった。カエサル・オクタヴィアヌスは、捕らわれの継子のためになにもしなかった。

 この人はティベリウスを見捨てるつもりだ。レントゥルスはそう思った。そしてますます荒れた。その豹変ぶりに、オクタヴィアヌスが海軍に戻ることを禁じたほどだった。手元に留めておかなければ、なにをしでかすかわからないと思ったのだろう。レントゥルスは檻に閉じ込められた猛獣のようだった。

 どいつもこいつも心がないのか。しかしだれよりも許せないのは自分自身だった。ティベリウスの苦しみも脆さも、すべてわかっていながらそばを離れた、このコルネリウス・レントゥルスこそ最も罪深い。守ってあげられなかった。ティベリウスに唯一助けを求められていたのに。しかも、ティベリウスはレントゥルスに会いたがって要塞の外へ出たというではないか。

 以来レントゥルスは、総司令部のテントに四六時中張りついた。何度引きずり離されても戻ってきた。そうして盗み聞いた情報は、耐えがたいものしかなかった。

 メンデシオン支流で、ティベリウスは自殺を図った。危ういところで引き上げられた彼に、拉致犯どもは暴力を振るった。怒りまかせ、縛られて動けない、絶望した子どもに。

 解放奴隷のケラドゥスが、重傷を負いながらも帰営し、涙ながらに報告した。暗い部屋に閉じ込められ、ティベリウスは毎日大声で泣いている。あのティベリウスが。そして包帯だらけの姿で、女王の息子に連日連れまわされている。マルケルスでないとばれたため、さんざんに痛めつけられたとのことだった。

 そんな目に遭わされてなお、ティベリウスはあの気高い誇りを失わなかった。自らの体を盾に、命がけでケラドゥスを逃がしたのだ。

 もうレントゥルスは正気を保っていられなかった。何日も眠らず真っ赤になった目は、涙を溜めるには熱すぎた。歪みに歪んだ顔で、獣じみたうなり声を上げ続けた。

 必ず助けると誓った。エジプト軍を皆殺しにし、女王を血祭りに上げ、アレクサンドリアを焦土にしてでも絶対に救い出す。ティベリウスをこの腕に抱きしめるまで止まるつもりはない。

 そして今日、レントゥルスは部隊編成を無視して騎兵隊に混ざった。周囲の制止を振りきり、これが自身の初陣であることも忘れ、猛然と陣営を飛び出した。

 目の前には、ティベリウスを虐待した共犯者いた。





「返せ! 今すぐに!」

 アントニウスと槍を突き合いながら、レントゥルスは吠え立てた。

「ぼくの大切な友だちだ! 早く返せよ、卑怯者! 恥ずかしくないのか!」

「…ひょっとして、ちびネロのことを言ってるのか?」

 ひょいとばかりに穂先を避けながら、アントニウスは破顔した。

「良い知らせだな。あいつにもこんなに怒り狂ってくれる友人がいたわけだ。けれども頭に血が上って命を粗末にする、こんな馬鹿野郎で残念だ」

「ティベリウスはどこだ!」レントゥルスは聞いていなかった。「これ以上酷い目に遭わせたら、絶対許さない!」

「酷いのはどっちだよ? お前らがあいつを見捨てたんだろうが」

「違う!」

 レントゥルスは力任せにアントニウスの槍を押した。馬上から身を乗り出し、凄絶な形相をぐいと近づける。

「やめとけ、小僧」

 刃に迫られても、アントニウスは鼻を鳴らしただけだった。

「ちびネロを、あの継父のところへ戻す気が? それこそあいつの不幸が増すばかりだろうが。それにな――」

 落ちくぼんだ眼窩の奥が、鋭く一閃する。

「お前じゃ、俺の死に花を咲かすには不足なんだよ!」

 アントニウスは槍を払いのけた。そしてのけぞったレントゥルスの肩に、柄をしならせて叩き込む。

「がっ…」

 レントゥルスが前につんのめる。アントニウスの斬り上げが、さらにもう一度のけぞらせ、体を宙に飛ばす。背中から地面に落ちた瞬間、レントゥルスの頭から兜が外れた。

「俺がだれだか思い出させてやる」

 穂先をレントゥルスの首に突き出し、アントニウスは声を張り上げた。

「マルクス・アントニウス! かのヘラクレスの子孫にして、ディオニッソスの化身! ローマで最も強い男だ! その最期の戦いを、お前ごときが止められると思ったか、若僧が!」

「ティベリウス…」レントゥルスの目には悔し涙があふれていた。 「ティベリウス……!」 

「言い忘れたが、ネロはもうアレクサンドリアにいない」

 アントニウスの眉が悲しげに下がった。

「今ごろはエチオピアの砂漠でくたばってるかもな」

「な…に……?」

「可哀そうにな、あいつもお前も」

 打ちのめされるレントゥルス目がけ、アントニウスは高々と槍を振り上げる。

「せいぜいあの世で我が身を省みるんだな」

 その酷薄な笑みが、一瞬で吹き飛んだ。馬が横からまともに突っ込んできたのである。ぶつけられながらも、アントニウスはかろうじて退き、我が身と愛馬の体勢を保った。見開いた目には、信じ難いものが映っていた。

「なにをしてる?」

 アントニウスはあ然と問い質した。

「本物の馬鹿か? ここは餓鬼の来るところじゃねぇぞ!」

「あなたこそなにをしているんだ!」

 ティベリウスはさらに大声で怒鳴り返していた。

「彼がだれだかわかっているのか? コルネリウス・レントゥルスだ! あなたの継父だった人と同じ家の出だ! あなたは、この期に及んでまだ同胞殺しを働く気なのか!」

 叩きつけるような叱責が聞こえているのかいないのか、アントニウスは惚けた目でティベリウスを凝視していた。地面のレントゥルスも同様だった。

「ティベリウス……?」

 瞳だけ後ろへ向けた。レントゥルスの顔からはすでに険が消えていた。やつれきっているが、いつもの彼に近く見える。胸当てに大きな傷が走っているが、にじんでいる血はわずかだ。大事にはならずに済みそうだ。

「戻ってくるとはな…」

 アントニウスがようやく口を開いた。言葉とは裏腹に、どこかでこれを予期していたとでも言うような微苦笑を浮かべていた。

「こんな戦場のど真ん中にしゃしゃり出てきたことといい、二重の意味で大馬鹿野郎だぞ。おい、どうしてだ? 俺にあそこまで言われたのに、また虜囚の身に戻るつもりか?」

「ぼくは――」ティベリウスは、アントニウスをまっすぐに見た。

「あなたに会いに来た」

 それが答えだった。

 ティベリウスはありったけの空気を吸い込んだ。

「全員、聞け!」

 大音声を轟かす。

「ただちに武器を捨てよ! これ以上の殺し合いは無意味だ! 死にたい者は、ただ我が身のみを道連れにするがいい!」

「お前は何様のつもりだ!」

 アントニウスの顔が真っ赤に膨れる。

「すっこんでろ! ケツの青い餓鬼が綺麗事を並べる世界じゃないんだ!」

「綺麗事を言ってるのはあなただ!」

 ティベリウスは少しも声を弱めなかった。

「死に花を咲かせたい? 部下や同胞の命を皆巻き添えにして死ぬことがか?」

「お前になにがわかる?」

 アントニウスは吠えた。

「勇敢な戦士として戦場に散りたい。この当然の誇りを否定するのか? 俺はローマで最高の将軍だった男だ。これ以上望ましい死に方なんてないんだ!」

「そんなのは傲慢だ! 上に立つ者の甘えだ!」

 喉も裂けんばかりに叫びながら、ティベリウスはアントニウスの周囲へ腕を振りまわした。

「この人たちはあなたの部下だ。あなたがすべきことはこの人たちと死ぬことじゃない! 彼らを最期まで守ることだ!」

「こいつらは自ら進んでここに来たんだ。俺は止めたのに、俺のために」

「だからなんだ!」ティベリウスは激声をかぶせた。「あなたは一戦士じゃない、将軍だ! 長いあいだ部下をまとめ上げてきたあなたなら、ぼくなんかに言われるまでもなくわかってるはずじゃないか! 命を失うことがどれだけ辛いか、それを背負うことがどんなに重いか」

 語りかけたのは、苦難の末に幾度も勝利を収めてきた、将軍の魂にだった。パルティアで多くの兵を失いながらも撤退を完遂した、誇りと愛にだった。

「友人だろうが、そうでなかろうが、関係ないんだ。あなたは将軍だから。そして、同胞はもちろんだが、異国人だって同じだ。すべて等しく守るべき命なんだ。なぜならあなたはローマ人だから。世界の覇者たるローマ人の、最高司令官だから!」

 空へ突き抜けるように、知らしめる。

「それが誇りなんだ、だれよりも上に立つ者の! あなたは、絶対にこれから逃げてはいけない!」

 いつのまにか、その場にいる全員が静止していた。剣や盾を構えたまま、射すくめられたように、丸く開けた目を一番小さい人間に向けている。

 将軍でさえそうだった。

「…あの男はどうなんだ?」

 静かに、アントニウスはだらりとした腕を、東の彼方へ向けた。

「陣営にこもりきり、部下だけ戦わせ、お前のことさえ放置しているあの軟弱は」

「好きに死ぬ自由は許されない」

 ティベリウスも声色を落とし、ゆっくりと言った。

「あなたが背負いきれなかったものを、すべて担う責任があるんだ、これから…」

 そして周囲を見渡し、もう一度、今度は地を這うような低い声で呼びかけた。

「皆も考えろ。あなたがたには好きに死ぬ自由があるが、そうでない者がいることを忘れるな。上官だけじゃない。あなたがたの家族や守ろうとした者たちは、耐えるほうの運命を選ばざるを得ないんだ。あなたがたがいなくとも……」

 沈黙が辺りを支配した。そこはもう戦場ではなかった。オクタヴィアヌス側の兵は、武器を持つ腕を地面へ下げていた。アントニウス側の兵も同様にしながら、今にも泣き出しそうな目を彼らの将軍へ向けていた。

 アントニウスはティベリウスを見つめていた。ティベリウスもアントニウスから目を逸らさなかった。

 張りつめた静寂だった。それを破ったのは、遠く海から響いてきた高声だった。

 全員が一斉に海上を向いた。そこでは両軍の艦隊が対峙していた。けれども聞こえていたのは、これから戦を始めようと上げる鬨の声ではなかった。東を向くアントニウス側の艦隊が、一様にすべての櫂を空へ掲げている。

 歓声を上げていたのは、オクタヴィアヌス側の艦隊だった。降服の合図に応え、元敵船を次々と戦列に吸収していく。そうして見る見る両艦隊は一つになり、舳先を西へそろえ、一路アレクサンドリアへ漕ぎはじめたのだった。

「艦隊が……」

 地上のだれかがつぶやいた。そして次の瞬間、とてつもなく重い雨が地面を打ちつけた。アントニウス側の兵が、一斉に武器を捨てたのである。

 すすり泣きが聞こえはじめるなか、マルクス・アントニウスだけは固まったままだった。そして唇まで真っ青になり、ふるふると痙攣しだす。

「クレオパトラ……」

 彼はわななく声で言った。

「あの女が…あの女が俺を裏切ったのだ!」

 直後に響いたのは、獣の咆哮だった。ティベリウスもほかの者と同様にすくみ上がったが、次の瞬間、眼前には大きく槍を振りかぶる巨人が迫っていた。

 悲鳴が出る間もなかった。咄嗟に抜いたドゥーコの短剣は、あっけなく宙へ飛んだ。目を閉じていた。衝撃を感じた。殺されたと信じた。

 次に目を開けたとき、アントニウスの歪んだ形相が鼻先にあった。その巨木のような腕に荒々しく、ティベリウスは締め上げられていた。

 そのまま、アントニウスは猛然と馬を駆った。

「ティベリウスーーーっっ!」

 レントゥルスの絶叫は瞬く間に遠ざかる。裏切りの艦隊を追い越し、アントニウスはまっしぐらにアレクサンドリアへ疾走する。あの女、あの女と、絶えずうなりながら。

「放せ! 放せ! いったいなんのつもりだ!」

 ようやく状況を把握したティベリウスが暴れはじめた。一度ならず二度までも捕らえられ、連れ去られているのだ。こんな屈辱を受けていられるはずがなかった。

 だがアントニウスは聞いていなかった。なにをしているのか、自分でもわかっていなかったのかもしれない。血眼を盛り上げ、唾液を飛ばし、鞭を振るいまくる。平原が激流と化し、馬はその只中を荒れ狂って逆走する。

 ティベリウスはもう声の一つも上げられなかった。馬首にしがみつき、がたがた震えていた。

 限界を超えた速さで驀進し、馬はカノボス門へ飛び込んだ。





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