第四章 ‐16
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「カエサリオン、そちらにいるのですね?」
カエサリオンとティベリウスは同時に振り返った。風呂から上がったところだった。『大王のマント』よりずっと小ぶりの、丸い露天風呂で、露台をくり抜いて造られている。
外には、アレクサンドリアの海岸線が広がっていた。沈みゆく太陽に赤く赤く重ね塗られていく。
贅沢な、息を呑む光景だった。けれども入浴中、ティベリウスはそれを見ようともしなかった。黙ったまま久しぶりの熱い湯に浸かり、カエサリオンが一方的に語るのを聞いていた。
この時の話題は神話だった。上機嫌に、彼はオシリスとイシスの物語を語った。
オシリスとイシスは兄妹の夫婦だった。オシリスは慈愛あふれる善き支配者だったが、王位を狙う弟セトに箱詰めにされた。箱は海の彼方へ流れ去るが、妻イシスは不屈の意志を胸に、夫を探す旅に出た。そしてついにシリアの地で遺体を見つけ、奇跡の魔術で復活させた。ところがオシリスはまたもやセトに殺され、今度は遺体をばらばらにされてしまった。イシスは再び夫の遺体を求めて各所をめぐり、もう一度奇跡の復活を実現させた。そして最後には息子ホルスが、邪悪なセトを倒し、父の仇を討つのである。
疑いなくカエサリオンは、自分をホルスに、母をイシスに見立てていた。オシリスはアントニウスか。パルティアとアクティウムで二度も敗戦を喫しながら、クレオパトラ・イシスの力で奇跡の復活を果たすというわけだ。そしてセトはオクタヴィアヌスだ。一家の正統な王位を強奪する、悪の化身。王位継承争いのさなか、イシスはその魔術で何度も息子の窮地を救い、悲願を遂げさせた。カエサリオンもまた、自らが母の助けを得てオクタヴィアヌスを倒し、神話を再現すると信じていた。
ローマにも神話があるだろう、とカエサリオンは訊いてきた。ロムルスとレムスよりもさらに前、ローマの礎を築いた男の話が、と。
ティベリウスは重い口を開いた。カエサリオンがうれしげに指摘してくるのは、アエネイスのことだ。
オデュッセウスの策略により、木馬からギリシア勢があふれ出た。滅びゆくトロイヤの将軍アエネイスは、父と息子を連れて、かろうじて炎の中を生き延びた。そして長い放浪の末イタリアにたどり着き、ローマの基礎を築き上げた。
アエネイスは女神ヴェヌスの息子である。そしてアエネイスの息子の名はイウールス――ユリウス一門の始祖とされる人物である。
ローマ人は元々自分たちがトロイヤ人の子孫であると誇ってきたが、この神話が最近になって人々の口の端に上る機会が多くなったのは事実だ。
カエサリオンは大変満足した様子だった。自分がエジプトだけでなく、ローマの正統な支配者であることの裏づけになると考えたのだろう。
「ぼくはアエネイスの子孫ユリウス・カエサルの息子。オクタヴィアヌスは平民オクタヴィウスの息子」
さえずるようにつぶやいていた。
そこへ、声が聞こえてきたのだ。
「母上?」
カエサリオンがはずんだ声を返した。
ティベリウスは入浴前と同じ衣服に袖を通したところだった。驚きの目を向けると、背後の室内に垂れ込めた天幕が、霞が晴れるように一枚ずつめくれ上がっていった。
侍女たちがいた。薔薇の花びらが一面に浮かんだ浴槽があった。そして、そこに身を浸している人物は明白だったが、ティベリウスには信じられなかった。
「あなたも」
冷淡な声と、翠緑の双眸だけが、一昨日と同じだった。
白い肌に赤みが見えるだけなので、これが生まれたままの姿か、あるいはそれに限りなく近い状態なのだろう。その女人は、まったくエジプトの女王に見えなかった。つまりファラオと聞いて他国人がすぐに思い浮かべるような、黄土色の肌も、たっぷりの黒髪もなかった。白肌と金髪。ギリシアによくいる女の一人だ。強い意志を知らしめるような鼻と、威厳を響きわたらすような大ぶりの目のほかは。
しかし当然のことではあった。プトレマイオス家はギリシア人の家系である。創始以来、被支配民であるエジプト人の血は一滴も混じらなかったとされる。あのイシス神の姿は土着の民向けの装いなのだ。地中海世界へ向けては、アレクサンドロス大王の後裔として、ギリシア人の装いをする。そのようにして、プトレマイオス家の王は、ファラオであり、ギリシア人の王でもあることを知らしめてきた。
しかし今の彼女は、王然とした装いをしていなかった。きらびやかな衣装もまとっておらず、化粧っ気もない。けれどもそれだからこそいっそう、ティベリウスが受けた印象は強烈だった。
彼女は雌獅子に見えた。動物園の柵の向こう側にいる姿しか見たことがなかったのに、ティベリウスは広大な平原に座すそれをありありと想像した。たてがみを誇らしげに振るう雄の後ろで、一糸乱れぬ黄金の毛並みを輝かせる真の王者。百獣を睥睨する静かな熱い魂。
その躍動を伝えるのは、生まれたままの白肌か。くすみもなく、ふっくらとしていた。豊かな金髪は、侍女の手で入念に香油を擦り込まれ、たてがみよりも優雅に艶めいていた。
けれどもその雌獅子は、少しだけ疲れているように見えた。目の下に、ただれたような赤みが差している。躍動する情熱は、印象的な一瞬のあとに、たちまち引いていくようだった。まるで青空が、嵐を前に厚い雲に覆い隠されていくように。
動いた唇は、入浴しているにしては薄い色味だった。
「先ほど、オクタヴィアヌスから手紙が届きました」
ティベリウスは石をぶつけられたようになったが、女王は気に留めるそぶりも見せず続けた。
「わたくしの手紙への返り言です。ティベリウス・ネロ、わたくしはあなたのことを知らせました、不幸に見舞われたあなたを、我が王宮で大切に保護しています、と。カエサル・オクタヴィアヌスのために、わたくしはあなたをどのように遇するのがよろしいでしょうか、と」
そこで、女王は言葉を切った。底光りする目に見据えられたまま、ティベリウスは微動だにしなかった。カエサリオンのほうはそわそわと母に近寄り、浴槽の縁にひざまずいた。
「それで、オクタヴィアヌスはなんと?」
「なにも」
ティベリウスから目を逸らさず、女王は言った。
「彼はなにも書いていませんでした。あなたのことを、なに一つ」
ティベリウスの頬は、ごっそり肉が削げ落ちたようになった。女王は少しだけ顎を反らした。
「彼はわたくしの手紙を読まなかったのではありません。無視したのですよ、あなたのところだけ。まるで目に入らなかったかのように。あなたなど、はじめから存在しなかったかのように」
青い目が、炭化して死にゆくように艶を無くしていった、
「どうやら、アントニウスの言うとおりだったようですね」
女王は軽くため息をついてみせた。侮蔑の中に哀れみを込めたような目で、子どもを眺めていた。
「ひどい」
憤慨したのは、カエサリオンだった。
「継父とはいえ、それでも親か! 無視した? 見捨てるより残酷だ! ティベリウスはあの男の甥を命がけで守ったのに、情けなさすぎる!」
「言うとおりですよ、カエサリオン」
相変わらずティベリウスから目を離さず、女王は淡々とつぶやくように言った。
ティベリウスは唇を引き結んだ。これ以上打ちひしがれた姿を見せてなるものかと思った。復讐心を満足させることも、哀れませることも許したくない。ただその思いだけで、ばらばらに崩れそうな体を支えていた。
「かわいそうな子」
それでも女王は、そっけなく言葉を投げてきた。
カエサリオンのほうはずっと熱かった。駆け戻り、ティベリウスを抱き寄せ、大いになぐさめた。けれども心に抱く感情は母のそれと大差ない。傲慢な哀れみと、皮肉な喜びだ。ティベリウスの気持ちは、かえって逆撫でされるばかりだった。
「気を落とすなよ、ティベリウス! お前はたまたま悪い継父に当たったんだ。かわいそうに、あんなやつのために傷つくな! オクタヴィアヌスなんて、もう忘れてしまえ。お前には、このぼくがいるじゃないか!」
我が胸に押しつけ、頭も体も激しくさすってきた。ティベリウスは逆らわなかった。自分の気持ちを押さえ込むのに必死だった。
ふと、カエサリオンの腕のあいだから、女王の姿を見とめた。相変わらず胸から下を湯に浸けて、正面を見据えていた。けれども今なら息子と捕らわれ子の目には留まらないと、油断したに違いない。ほんの一瞬、表情がげっそりとやつれて見えた。年不相応なほど翳ってさえいたかもしれない。薔薇の湯も枯れ果てたかのようだった。
彼女は失意のどん底に沈んでいた。
そうなのだ。オクタヴィアヌスが人質を無視したということは、女王は一縷の望みも絶たれたことになる。いや、もっと悪い。子どもを拉致した暴挙を償うことはおろか、釈明する機会さえ与えられず、さらなる仮借ない処置を覚悟しなければならなくなった。
大きな賭けだったことは、彼女もわかっていたのだろう。卑劣な手段であり、もし失敗した場合には オクタヴィアヌスからはもはや一切の情けも期待できなくなると、予想はしていただろう。だがそれでもなお、彼女はこの賭けに乗り出さざるをえなかった。我が命も、アントニウスの命も、財宝も、王朝の命運さえも、無条件で差し出す。それですらかなわない願いを託していたのだ。
カエサリオンの命を救う術は、これ以外に考えられなかった。
これは女王の顔ではない。四人の子をなした、母親の顔なのだ。
ティベリウスの体からすうっと強張りが抜けていった。自分の個人的な悲しみよりも重い絶望を背負った女が、目の前にいた。
そしてこれは、ティベリウスも望んでいたことのはずだった。自分のために継父に迷惑をかけることなく、正義の処断が下されることを。
これで良いはずだった。
「オクタヴィアヌスなんて、このぼくがやっつけてやる!」
母とティベリウス、どちらの心の内にも気づかないのだろう。カエサリオンは息巻いていた。
「あいつがこのアレクサンドリアまで来たら、ぼくが打って出てやる。アントニウス殿より先に一騎打ちしてやる! そうすればどちらが正真正銘のカエサルか、世界じゅうが知ることになるさ!」
カエサリオンの気勢は、王宮じゅうに響くようだった。彼は力強く拳を握り、太陽のようにまぶしい顔をして、胸を張った。それを受け止める母は、すでに女王の顔に戻っていた。
彼女の目には、愛しい長男が映っていた。自分の能力も未来も信じて疑わない、無垢な我が子が。
「そうでしょう、母上? けれどもオクタヴィアヌスは、冷酷なくせに臆病者だからな、ぼくとの一騎打ちにも応じないかもしれない。けれども、それならぼくは陸と海の両方から大軍を率いて、ローマ軍に攻めかかってやるんだ。アレクサンドロス大王の子孫で、神君カエサルの息子であるぼくが指揮を執れば、アレクサンドリアじゅうの、いや、エジプトじゅうの民が一斉に立ち上がる! 世界の国々からも続々応援が来る! ローマなんてひと捻りだ! ねぇ、母上、そうでしょう?」
母は、かすかに口の端を上げてみせた。きっとそれが精一杯だった。
息子は、とてもうれしそうに笑い返した。
「だからなにも心配にはおよびませんよ、母上。ぼくが必ず、母上と弟妹たちを守ってみせます! そして、ぼくたちのものになるべき世界を、オクタヴィアヌスの手から取り戻してみせます!」
もうティベリウスは、女王の顔を直視できなかった。誇り高く王然としていようと、見ていられなかった。
これが、残酷でなくてなんだと言うのか。
「カエサリオン」
母の声は、ひどく優しかった。
「夕食はまだですね? ならば今宵は、母とともにしましょう。アントニウスも、珍しく側近の者とだけで済ませるようだから」
「はい」
カエサリオンは幸せそうにうなずき、それから横のティベリウスを見た。
「お前も――」
「カエサリオン」母はやんわりと言った。「あなたとわたくしは、この国の王なのですよ。それに母は、あなたと二人だけで食事を楽しみたいのです」
カエサリオンは眉尻を下げてきた。
「ごめんよ、ティベリウス」
「すでにわたくしの館で用意を整えています。先にお行きなさい」
カエサリオンは、また明日迎えに行くと言い残して去った。ティベリウスはじっと立ちつくし、女王の視線を感じていた。自分が用済みになったことを知っていた。
「イラス」
女王に指示され、侍女の一人が近づいてきた。
「あなたにもはや話すことなどないのですが」打って変った、微塵も優しさを込めない声で話す。「思い出しましたよ、あなたの父上を」
ティベリウスは顔を上げた。丸い目でもう一度、女王を凝視していた。
「いましたね、十七年前」彼女は平淡に語った。「わたくしとカエサルが二人、ナイル上りを楽しんでいるというのに、彼はいつも邪魔をしてきました。のんきにどこまで行くつもりなのか、こんなことをしているあいだにもシリアは、アジアは、ローマは――。無粋な男でした。あなたと同じく」
ティベリウスは今さらながら、父のトーガが擦れる音を聞いた気がした。父ネロは、確かにこの王宮にいた。
「あなたに危害を加えるつもりはありません」
尊大に、女王は知らせた。
「役に立たないからといって、オクタヴィアヌスのところへ帰すつもりもありません。カエサリオンに仕えなさい。あなたの父がカエサルにしたように。あなたがマルクス・マルケルスにしたように」
「あなたはなにもわかっていない」
初めて、ティベリウスはエジプト女王に言い返していた。
「ローマ人はだれにも仕えはしない。上に立つ者は認めるが、それは仕えることとは違う」
女王は鼻を鳴らした。
イラスの手が、強く背中を押してきた。ティベリウスは口を閉じて歩き出した。浴槽をまわり、出入口へ向かう。
「ローマ人は嫌いです」
声が追いかけてきた。見ると、女王は振り向きもせず、花びらの海からすっくと立ち上がっていた。
「エジプトを苛み、裏切り、強奪するばかり。わたくしは、その傲慢な裏切りに対し、正当な償いを要求したにすぎません」
「裏切り?」
ティベリウスは問いかけた。裂けるほど目を剥いていた。
「まさか、神君カエサルのことか?」
女王は答えなかった。黙ったまま露台を向いて、星がまたたきはじめた景色を見つめていた。
外へ出ると、イラスはティベリウスを張り倒したそうににらみつけてきた。けれどもそこへアポロドロスが現れ、速やかに子どもを引き継いで去った。今度もティベリウスは、大人しく連れられていった。
夜を過ごす部屋へ戻ると、アポロドロスは自分とティベリウスのあいだに、どんと大きな籠を置いた。食べ物と飲み物が満載されていた。
アポロドロスが先に食べはじめた。その無言に強くうながされ、ティベリウスもそうした。固いパンを一口ちぎった。
「カエサルは、女王の脅しに屈しなかった」
報告した。アポロドロスはパンから目線を上げ、そうか、とだけ言った。
とたんに涙があふれ出た。幾筋も流れ、唇を伝い、顎から零れ落ちていく。空虚に耐えかねたように胸が収縮し、しゃくり声が漏れる。大変きまりが悪かった。これで三日連続だ。ティベリウス・ネロはどうしてしまったんだろう。
それでもどうしようもなかった。しきりに拳でぬぐうのだが、涙は止まろうとしなかった。あとからあとから流れ出た。
アポロドロスがこんがり焼けた豚肉を突き出してきた。
「食べろ」
それで、ティベリウスは食べた。かぶりついて、噛みつぶして、呑み込んで、それからまたかぶりつきながら泣いた。野菜もむしゃむしゃと食べた。牛乳もごくごく飲んだ。果物をかじり、種を砕いてから吐き出した。どれもこれもしょっぱい味しかしなかった。でも少しもかまわなかった。
やがて、籠の中身は空になった。するとアポロドロスはティベリウスの横に来て、口に杯をあてがった。なにかの薬湯だったのだろう。ティベリウスは抵抗もせずにゆっくり飲んだ。すると不思議と心身が落ち着いていった。
今日もアポロドロスは、子どもが眠るか出ていけと言うまでそばにいるつもりらしかった。寝台に背中を預けて座った。横たわったティベリウスは、彼の横顔を眺めた。
「女王は…ローマ人が嫌いだと言っていた」
まだ少ししゃくりがちに、話しかけていた。眠ってしまいたくないためでもあった。
「エジプトが苛まれ、裏切られ、強奪されてきたからと…。ぼくは逆恨みだと思うが、どうして女王はそんなふうに言うんだろう…?」
「先代プトレマイオス王はお気の毒な方だった」
アポロドロスは口を開いた。
「妾腹の子で、思いもかけず王位に就くことになったが、常にローマの影におののく日々を送った。在位中、ローマは二人の傑出した将軍を産み落とした。大ポンペイウスとユリウス・カエサルだ。王は、同じアレクサンドロス大王から生まれたセレウコスの国が滅ばされるのを見た」
感情を交えない語りだった。王のことも、まるで叙事詩の一登場人物であるかのように、余計な敬意を省いて述べた。
「王は恐慌を来した。エジプトもまた同じ運命をたどるのではと。それで必死でローマに取り入った。ポンペイウスに援軍を送り、盛大な宴を張り、エジプトの忠誠を約束した。その後は三頭がローマを牛耳る時代を迎えたが、王は彼らに莫大な金を送り続けた。自らの王位を守り、そしてエジプトの独立を守るために。結果、王は途方もない借金を背負わされ、首がまわらない状態になった」
「首がまわらない?」ティベリウスは聞き返した。「借金で? どうしてそんなことになるんだ? エジプトは地中海一豊かな国じゃないか」
「ローマが要求した額はそれほど途方もなかった。そう聞いている」
「そんな…」
ティベリウスはローマが不当な仕打ちをしたとは信じたくなかった。覇者として、保護すべき弱者に対して。いや、本当に不当な仕打ちだろうか。
「…それでも、この宮殿は黄金であふれているじゃないか。それらを使えば――」
「どうして王が金策に苦しんでいたのかは、私にはわからない」
アポロドロスはあっさり認めた。
「たぶん、王は、王家の財宝には手をつけたくなかったのだろう。あるローマの騎士は、この国に長年退蔵されたままになっている膨大な富を、世界に流すべきだと言っていた。一人でも多くの民に行き渡るように。そうすれば世界はずっと豊かになる。ローマはそれを望んでいるのだ、と。だが私には金の論理はわからない。いずれにしろ王は、ローマ人から借金し、ローマ人にばらまくことをくり返した。一番の取引相手はユリウス・カエサルだったらしい」
「なっ…」
神君カエサルは、自らも莫大な借金をしていたことで有名だった。債権者は、彼が破産しないために金を貸し続けざるを得なかったらしい。だから神君カエサルも、プトレマイオス十二世に借金を負わせることに関して醒めていたのかもしれない。一貴族の身分である自分でも大丈夫なのだから、国王陛下は屁でもなかろう、と。
しかし、十二世がどのように考えていたかは別問題だ。
「王が自己保身のために、勝手に金をばらまいたのだろう?」
ティベリウスはいささか躍起になって非難していた。
「そうかもしれない」アポロドロスはまた認めてきた。「だがローマの機嫌を取り結ぶために、王にはこれ以外に手段がなかったのも事実だ。そんな王を、国民は無能とののしった。ローマの言いなり。奴隷。犬。勝手に借金をこしらえ、国民に負担を強いる売国奴。不満は、王がキプロス島をあっさりローマに譲渡したことで、ついに噴火した。先の十一世はアレクサンドリア民衆に打ち殺されていた。だから王も身の危険を感じ、とうとうローマへ亡命した。そこではまた、金策に苦しむ毎日が待っていた」
アポロドロスの口調は相変わらず平淡だったが、ティベリウスは急いで知らせた。
「ローマにはエジプトを属州にするつもりはなかった。元老院はそう明言していた」
「らしいな。だが欲深な者たちが、野心をたぎらせていたのも事実だ。しかし結局ローマは王を支持した。十二世がエジプト王でなくなれば、借金が返済される見通しが立たなくなるからだろう」
「十二世が、神を名乗るプトレマイオスの血を引く男で、ローマと近しかったからだ」
「そうだな」アポロドロスの口元に、かすかな皮肉の笑みが浮かんだ。「ローマは正統で、これからも搾取させてくれる王を歓迎したんだ。おかげで王は無事復位できた。以後もローマに逆らわないよう気を遣う、従順な同盟者であり続けた」
復位できたのは、ポンペイウスの副官ガビニウスと、その配下の将軍アントニウスのおかげだった。アントニウスは、十二世を護衛して初めてエジプトに入った。そのときアレクサンドリア市民は、王女ベレニケを新王に据えていた。王は、その実の娘を処刑して玉座を取り戻したのだ。
「私が王家にお仕えしはじめたのはこの頃だったが、私のような下々の者でも、王をよくお見かけした。王は、そもそも望んで王位に就いた方ではなかった。我が代でプトレマイオスを終わらせてはならぬという責任が辛かったのだろう。奇行が目立った。笛吹き王――アウレテスと呼ばれるほど、芸事に夢中になった。自ら競演会を開いて庶民と腕を競った。化粧をして、人前で歌い、ときには女の服装で踊りまわったりした。結果、国民はますます不信を募らせ、実際に統治もなおざりになっていった。ローマと国民の狭間で、王はさけずまれながら務めを終えた」
ティベリウスは固い表情で黙り込んでいた。件の王の噂は耳にしていた。プトレマイオス十二世アウレテスは、決して評判の良い国王ではなかった。それどころか歴代プトレマイオスのなかで、最も無能な王の一人とさえ言われていた。
しかし東方世界の民の目にはどう映ろうと、彼はプトレマイオス十二世である務めをまっとうしたのだろう。自らの技量が許す手段でもって、彼はエジプトを守り抜いた。彼の在位中、国家の存亡は脅かされなかった。彼の忠義に満足したローマは、エジプトの属州化にきっぱりと否を出した。ユダヤやほかの小国と同様、エジプトはローマの同盟国として存続することになっていたのである。
ローマには決して逆らわない。これだけが、十二世アウレテスが生涯一貫して守り抜いた統治方針だった。周囲がなんと言おうと、すでに久しく前から衰退していた国家の統治者として、現実的だったと言わざるを得ない。おかげで二国は、友好関係を保った。ローマ式に言えば、パトローネスとクリエンテスの関係だ。そして王が亡きあとも、続いていたかもしれなかった。
「女王陛下は、そのような父君をご覧になりつつ成長された。王は聡明な陛下を大変寵愛なさっていた。それは、王の人知れぬ苦悩を、陛下だけが理解しておられたからだと思う。陛下は常に王のそばで、心をなぐさめて差し上げていた。ついに死に別れる日には、胸がつぶれる思いに耐えねばならなかったが、生前から王の共同統治者に指名されていたこと、そして王位を譲り受けたことに、このうえない誇りを抱かれたことだろう」
現女王への敬意は、さすがに忘れなかった。少しだけ、彼の声に熱がこもりはじめたように聞こえた。
「しかし陛下もまた、苦労を重ねられた。外よりも内の敵に虐げられたのは、痛ましいことだった。その末に結局はローマの内乱にまで巻き込まれることになったが、そこで陛下は、かの将軍とお会いになった」
ティベリウスは、そこではっとなった。
「お前が…女王を神君カエサルに会わせたのか?」
女王を敷物にくるみ、神君カエサルのもとへ運び込んだのは、アポロドロスという男ではなかったか。
アポロドロスはちらりと子どもに目線をやっただけだった。
「ユリウス・カエサルのそばで、陛下は生まれて初めて心の平安を得ることができたと思う。かの将軍は、父君を金で苦労させた張本人だった。だがその彼が、なんの見返りも求めず陛下に味方をした。陛下を脅かす者どもを片づけ、王位を取り戻したばかりではない。先代に負わせた債務を免除し、キプロス島まで返還した。陛下はお喜びになった。王家の未来は、もうなにも案ずることなどなかった。後援者となったのは、ポンペイウスを倒し、元老院を屈服させ、ローマの頂に燦然と立つ男。陛下が――あの世界で最も才知に恵まれた御方が尊敬してやまないほどの大器。それがユリウス・カエサルだった」
問いの答えは明らかだった。声には沈痛の色が交じりつつあった。
「父君の苦労が報われるときがきた。もうプトレマイオスの名が泣くほどの、みじめな思いに耐える必要はない。エジプトは再び空前の栄華を迎えるだろう、ローマ最高司令官と歩みを同じくして。幸福の中で、陛下は父君の霊にそう報告されたかもしれん」
顔つきが、かすかに強張りを見せた。
「それが裏切りになった」
ティベリウスは思わず体を起こした。
「違う! 神君カエサルは殺され――」
「遺言状に名前がなかったのは事実だ」
アポロドロスは投げつけるように言った。
「陛下がどれほどの傷をお受けになったかわかるまい。ローマ人にも、だれにも…」
ティベリウスは口だけ動かしたが、結局なにも言葉が出てこなかった。
女王の凱歌が聞こえる気がした。彼女の安堵を、喜びを感じる気がした。そして、それらを裏切られた果てなき失望も。
ティベリウスは、もう一度女王のことを考えた。
輝かしい歴史を紡ぎながら、衰退に抗えずにいる国家。身に余る責務を背負い、心労を重ねた父。そんな父を、娘は愛し、哀れんだ。幼い身でありながら、だれよりも彼を助ける存在になりたかった。ただ一人の理解者であろうとした。
父の存命中、娘はその心を慰めることしかできなかった。しかし父は、女の身である彼女に国を託してくれた。
だが女王は父の方針を続けなかった。それでは結局、父と同じだからだ。彼女は父を越えたかった。それこそ父の愛娘にふさわしい功績だと思ったからだ。彼女をだれより愛し、期待をかけてくれた父。彼が存命中に夢見ることさえできなかった栄光。支配からの脱却。彼女は父が本当に喜び、誇ってくれることを成し遂げたかった。
もしそうならば、ティベリウスにも気持ちはわかる。父に誇りに思われる子でありたいと思う。父を助ける存在でありたいと思う。父を理解したいと思う。その志を継いで、だれより、父を――
父。
神君カエサルの支持を確信した瞬間、女王はもはや父の方針を継がなくて良いと思った。エジプトはもはやローマの事実上の属国ではない。かぎりなく対等に近い、名実ともの最重要同盟者である。そう信じた。
彼女には神君カエサルの息子までいた。可能性は際限もなく膨らんだ。神君カエサルは、だれもが認める覇者ローマの覇者。東方ではそれは王しか意味しない。彼は世界の王だった。その妻の座につくならば、彼女もまた世界に君臨できるかもしれなかった。そうなればプトレマイオスの歴史も、三千年のファラオの歴史さえも凌ぐ姿に、エジプトは生まれ変わる。衰退する国が、復活を遂げる。エジプト神話がくり返し讃えるがごとく。
多くの夢がそうであるように、彼女の目もくらむばかりの夢も、すべてが希望どおりにいかなくともかまわなかったのかもしれない。幸福と誇らしさのなかで、いつまでも追いかけていられるなら。
しかし、神君カエサルは夢を見ていなかった。空前絶後の栄光は、彼の遺言状公開とともにはかなくも崩れ去った。
この瞬間、すべてかなわなくてもかまわなかった夢は、絶対にかなえなければいけない野望へと変わった。彼女は裏切られたからだ。幸福も誇らしさも、幻と言われたも同然だったからだ。
カエサリオンは言っていた。「ぼくたちのものになるべき世界」と。彼女は取り戻すことにした。そうしなければエジプトは、父アウレテスが耐えた時代に逆戻りだ。今になって、そんなことを許しておけるわけがなかった。娘の誇り、王の誇り、女の誇り、彼女のすべてが許さなかった。
勇将だが、神君カエサルには決して及びもつかない男、アントニウス。彼を虜にしながら、女王はなにを思ったのだろうか。父王に誓っただろうか。やはり憎い仇だったローマを、必ず支配してみせると。神君カエサルに宣言しただろうか。あなたがともに行うのを拒んだことを、ただ独りで成し遂げてみせると。
ティベリウスはまどろんでいた。薄れていく意識のなかで、アポロドロスはなぜ話してくれたのだろうと考えた。子どもの寝物語のつもりか。彼の衣服の端をぎゅっとつかみながら、それなりに満たされた気持ちで眠りについた。
覚醒したのは、立ち上がる気配を感じたからだ。びくりと目を開いたとき、アポロドロスはすでに扉口へ向かっていた。そこに侍女がいて、なにかあったのか、緊迫した様子で話しかけていた。アポロドロスは固い顔でうなずき、侍女と二人、扉を閉めて姿を消した。
「……」
ティベリウスは扉に背を向けた。すると壁しか見えなかったが、唇をきつく結んでにらんだ。それから耐えきれず、枕の下に手を入れて、大事な形見たちを取り出した。きつく胸に抱き、体を丸めてもう一度目を閉じる。
扉が開く音がした。
希望の光る目で、ティベリウスは振り返っていた。しかし立っていたのは、最も望ましくない人物だった。
「毎晩泣いていると聞いてさ」
アンテュルスがせせら笑った。
「今夜の分はもう済んだのか?」
引きつりながらティベリウスが体を起こした時、アンテュルスはもう眼前に来ていた。
「オクタヴィアヌスがお前を無視したんだってな」
ランプをかざし、アンテュルスはティベリウスの顔を確認した。彼自身の顔は光と陰影に塗り上げられ、背筋が凍りつくほど酷薄に見えた。
「思った以上だな。ざまぁみろだ。自分がどれだけ馬鹿だったか、これでやっとわかったか?」
背中を壁に押しつけ、ティベリウスは硬直していた。
「おい、傷ついて声も出ないのか? なんとか言えよ」
アンテュルスがもう一歩進み出てくる。そこで、彼は気づいた。
「なんだ、それ?」
言うが早いか、手を伸ばしてきた。
「やめろ!」
ティベリウスは声を上げ、両手を胸元に押しつけたが、それがかえってアンテュルスを本気にさせた。彼は力ずくで指を食い込ませてきた。
「嫌だ! 嫌だ!」
懸命に抵抗した。卵石のほうは拳の中に収めて、握りしめた。けれどもファレラエのほうは、片手では守りきれなかった。もぎ取ったアンテュルスは、それを掲げ、怪訝な顔で眺めた。
「これは…?」
「返せ!」
ティベリウスは飛びかかった。頭と両拳を叩きつけた。ランプを落とし、アンテュルスはよろめいた。
「おいっ、ちょっ――」
「返せ! 返せ! 返せ!」
叫びながら拳を振るった。卵石を握ったまま。アンテュルスは驚きの顔でそれをかわしつつ、後退した。ファレラエは頭上に掲げていた。
「返せよぉっ!」
ティベリウスが腹に殴りかかると、アンテュルスは怒りの形相になった。ティベリウスを蹴り飛ばしたが、また向かってきたので、もう一度同じことをした。ティベリウスはまたも向かっていった。
「なんなんだよ?」
アンテュルスはわめき、腕に噛みついてくるティベリウスを叩き落とした。するとティベリウスは、彼の両足にしがみついた。
「うわっ!」
アンテュルスは転倒した。ティベリウスはすかさずその上に乗った。叩きまくりながら這い上り、ファレラエに近づこうとした。
「返せ! 返せ! 返せ! 返せ!」
「いい加減にしろよ!」
怒鳴りつけ、アンテュルスはティベリウスの首をつかんで押し上げた。ティベリウスは締められる首を気にも留めず、血走った目をして、ひたすらに拳を振り続けた。
「馬鹿か!」
アンテュルスはそのまま起き上がった。足を絡め、あっという間に位置を逆転させた。もう勝負はついたが、首からは手を離し、横暴な拳を押さえつける。もう片方は腕で挟み込む。ファレラエは持ったままだ。ティベリウスは絶叫した。無駄であるのに、足をばたつかせた。
「落ち着けよ、馬鹿野郎!」
アンテュルスはもう一度怒鳴りつけた。
「だれが取り上げるなんて言った?」
ティベリウスは、ぴたりと動きを止めた。
アンテュルスは苛立たしげに息を吐いた。それからティベリウスの腕を解放し、ファレラエに眉をしかめた。
「これは、お前か?」
声からは怒りが引いていた。
「もう一人は…弟か? そう言えば、いたっけな…」
アンテュルスが確認を求めて下を見た時、ティベリウスは涙でぐしゃぐしゃの顔をしていた。
「おい……」
アンテュルスは途方に暮れたようになった。ティベリウスの上から降り、握り拳のままの手を引いて起き上がらせた。ティベリウスはまだ泣いていた。肩を震わせて、うなだれて、膝の上にぽたぽたと涙を落とし続けていた。
「おい…」
もう一度、怒ったようにアンテュルスが言うと、ティベリウスは腕で顔をぬぐうのだが、まったく意味がなかった。すすり泣く声だけが、暗い部屋にこだました。
「お前が悪いんだからな。ちびのくせに、ぼくにかなうわけないのに」
ティベリウスは顔をぬぐい続けた。
「みっともない。英雄気取りのネロ家の坊ちゃんはどこいったんだ? 五歳のお前のほうがたくましかったぞ」
ティベリウスは鼻をすすった。
「ったく」
二人のあいだの床に、アンテュルスはファレラエを叩きつけた。
「そんなに弟が恋しいかよ? だったらこんなことになる前に、とっととローマに帰ってればよかったんだ。ぼくなんか、もう五年もユルスに会ってないんだからな。…もう二度と、会えないかもしれないんだからな」
それを聞くと、ティベリウスはわっと声を上げて泣き出した。アンテュルスは目玉を上向けた。
「馬鹿野郎。泣きたいのはこっちのほうなんだよ」
それでもアンテュルスは、感情を高ぶらせる様子はなかった。ティベリウスの真正面にあぐらをかき、むっつり顔で見つめてきた。
「マルケルスに意地を張った結果がこれだろ?」
彼は厳として言った。
「オクタヴィアヌスに犬みたいに従った結果がこれだろ? ついで扱いされてたくせにな、ずっと」
「……情けなくて…」
目をごしごしこすりながら、声をしぼり出した。
「ぼくはなにも守れない…。人も…物も…自分も…なに一つ……。恥ずかしくて…死んでしまいたい……。君たちの情けに…すがらないと、生きていけないのが…辛い……」
「当たり前だろ!」
アンテュルスは逆上したようになった。
「お前は子どもなんだ。まだ十一歳のな。それをどこかのへぼ司令官の失態で、独りぼっちでさらわれてきた。お前になにができたって言うんだ、ええ? マルケルスの身代わりにならない以外のなにができたって言うんだ?」
ティベリウスはアンテュルスを見た。アンテュルスは苛立たしげににらみ返してきた。
「だいたいお前は傲慢なんだよ。少しばかり優秀だからって、独りでなんでもできる気になってやがる。やれマルケルスを守りたいだの、君にひどいことをしただの、いったいどれだけ勝手に背負い込めば気が済むんだよ! 弱虫のくせに。泣き虫のくせに。昔からそうだったじゃないか。それもこれも全部オクタヴィアヌスの教育のせいだ」
口が、ぽかんと開いた。
「…ぼくが傲慢なのは、カエサルのせい?」
「ああ、そうだよ。それ以外考えられるか?」
ティベリウスは惚けた。そんなふうに考えたことはなかった。どこのだれにもそのように言われたことはなかった。
頬に、不思議なむず痒さを感じた。
「…なんでそこで笑うんだよ?」
眉をしかめるアンテュルスに言われ、自分がどういう表情をしているのか知らされた。けれどもどうしようもなかった。筋肉につられるがまま、少しぎこちなく、にいと顔を歪めていた。
アンテュルスのほうも顔を歪めていた。しかしこちらは口の端をヘの字に下げ、困っているように見えた。睫毛をゆらしながら、ティベリウスを見つめては目を逸らし、また見つめては目を逸らすをせわしなくくり返した。それからうなだれ、自分の胸に向かってため息をついた。
ファレラエに手を伸ばす。
「これは情けじゃない」
そう言ってティベリウスの膝に放ると、彼はさっさと立ち上がった。急ぎの用でも思い出したとでも言うように、あわただしい足音を立てる。
「アンテュルス」
ファレラエを握りしめながら、ティベリウスは振り返った。
「ありがとう」
言ってから、気づいた。ずっとこれが言いたかったのだと。
言う資格さえないと思っていたけれど。
扉口で、アンテュルスは半分だけ振り返った。
「ぼくは…もっとお前を笑わせてやるべきだったのかもな…」
「違う、アンテュルス! 君は――」
「わかってるよ」
浮かんだ微笑は、ほんの少し寂しげだった。アンテュルスはすぐに背を向けた。
「明日はまたいじめてやるからな。覚悟しとけ」




