第四章 ‐14
14
夕暮れが近づくと、カエサリオンはティベリウスを連れて、王宮殿に戻った。ロキアス岬の一角を占める小ぶりな建物の中に入る。階段を上り、扉を開けると、中にいた小さな顔たちがぱっと光を放った。
「兄上!」
「お兄様!」
たちまちカエサリオンは身動きがとれなくなった。
「ヘリオス、セレネ、プトレマイオス! 今日も良い子にしてたか?」
へばりつかれ、うれしそうに悶えながら、一人一人を抱きしめていく。
「プトレマイオスが、セレネのお化粧箱をひっくり返しちゃったのよ」
「あねうえが、いつまでもひとりでおけしょうごっこしてるからだもん。ぼくだって、おめめをみどりにしたかったんだもん」
「セレネはお化けみたいになってた」
三人の子どもが口々に報告し、挙句に女児と大きいほうの男児が取っ組み合いをはじめた。
「こらこら、待て待て」
カエサリオンが二人をなだめに入る。
「三人とも退屈してたんだな。来るのが遅くなってごめんよ。でも今日は、素敵な友だちを連れてきてやったぞ」
カエサリオンはティベリウスの肩を引き寄せた。
「これはティベリウス・ネロ。ローマから来たんだ」
たちまち三対の好奇の目が、ティベリウスに集中した。
「ローマ!」
「お父様の国から来たの?」
「ブッラは? ブッラは持ってるのか?」
戸惑いつつも、ティベリウスは子どもたちの輪の中に呑まれていった。彼らはカエサリオンの異父兄弟だった。十歳のアレクサンドロス・ヘリオス、その双子の妹クレオパトラ・セレネ、そして六歳のプトレマイオス・フィラデルフォス。女王クレオパトラがマルクス・アントニウスとのあいだにもうけた王子と王女である。
三人は、ギリシア語でティベリウスを質問攻めにした。ローマはどんなところか。どんな人たちが暮らしているのか? 汚くて、うるさいところか? 文化がないのは本当か? じゃあ、どんな文化があるのか? 建物はどんな? 図書館はあるか? 学校は? 風呂が多いのか? カエサル神殿に行ったことは? ティベリウスはどこで育った?――
三方から浴びせられる質問に、ティベリウスはギリシア語で答えていった。訊かれてみると、我が故郷のことながら、返答に詰まる質問があることに気づく。まだまだ勉強不足のようだ。故国の魅力を雄弁に語ったカエサリオンには劣ると認めざるを得ない。けれども彼の話を聞いているときも思った。故郷を離れて、あらためてそれを知ることもあるのだと。自分にはまだ、知りたいことがたくさんあるのだと。
「なんだ、ティベリウス。結構ギリシア語が話せるんじゃないか」
ますます気に入ったとでも言うように、カエサリオンはにんまりしていた。ティベリウスは自分の語学力に全然満足していなかった。こちらもまたカエサリオンのラテン語には及ばない。身振りとラテン語の単語で補いつつ、なんとか会話を成立させているのだ。
それでも子ども三人は十分満足しているようだった。やがてローマ人への質問攻勢がひと段落するや、彼らは床に地中海世界一帯の地図を広げ出した。そして口々に自分の国がどこにあるか、得意顔で説明した。エジプトのことではなく、女王がアントニウスから贈られ、子どもたちに配分した土地のことだった。ティベリウスはあ然としたが、抗議はしなかった。
「ティベリウスの国はここね」
キレナイカを所有する、クレオパトラ・セレネが言った。自分のときと同じく、まるでイタリア全体がティベリウスの土地であるかのように、指でなぞっていた。
「ローマの王子様なのね」
「馬鹿だな、セレネ。ローマには王がいないんだから、王子もいないよ。ティベリウスは貴族の一人だって言ってたじゃないか」
ヘリオスが訂正したが、セレネは意味深げな目でティベリウスの顔を見つめていた。
「ティベリウスは王子様に見えるわ」彼女は言った。「どうしてもって言うなら、結婚してあげてもいいのよ」
ティベリウスは反り返った。
「あねうえは、カエサリオンあにうえとケッコンするんじゃないの?」
六歳のプトレマイオスが言った。彼ですら、プトレマイオス王家では近親間の結婚が慣例であることを知っていた。
「どうかな」
カエサリオンはにやにや笑っていた。セレネはすまし顔だ。
「カエサリオンお兄様はお兄様よ。セレネはセレネの王子様と結婚するのよ」
カエサリオンはティベリウスに向かって言った。
「ぼくの母上は、必ずしも兄妹間の結婚にこだわっていない。実際、プトレマイオス家には外国から王妃を迎えた例もあるからな。初代クレオパトラがそうだった」
そうであるらしかった。それに現女王も、神君カエサル、それからアントニウスと恋仲になり、後者とは結婚式を済ませた人である。今は亡き弟たちとの結婚は、形式上のものでしかなかったのだろう。
「だからセレネのことは真面目に考えてくれていいぞ。ぼくはローマにいるアントニウス殿の娘をもらうかもしれない。可愛い子か?」
ティベリウスの頭に弟ドルーススの姿が浮かんだ。十歳近く年上のカエサリオンに決闘を申し込もうとしていた。姉のほうであってくれればいいが……いや、そんなことはそもそも起こり得ない。
「ぼくには婚約者がいる」
口にした瞬間、自分が一番仰天した。
王族四人も色めきたった。
「ははっ、セレネがさっそくふられたぞ」
ヘリオスが冷やかすと、セレネはぷうっとむくれた。
「ふられてないわ。先に約束してたってだけよ」
「さすが由緒正しき貴族の嫡男だな」
カエサリオンは感心した様子だった。
「その子はどんな子?」セレネがぐいと迫る。「セレネより美人? 可愛い? 色っぽい?」
その剣幕たるや、カエサリオンとは比較にならなかった。それでついにティベリウスは、最後に見たときは二歳だったことを白状してしまった。
今度はどっと笑いが起こった。
「ティベリウスは真面目だな! 純情だな!」
「オトコって、なんで若いオンナに目がいっちゃうのかしら」
セレネだけが唇をとがらせていた。侍女たちの雑談からでも聞き覚えた台詞なのか。そして拳を固く握りしめるのだった。
「負けないわ。お母様の名にかけて、必ず魅力のトリコにしてみせるんだから!」
なんでこんな話になってしまったんだろうと、ティベリウスは途方に暮れた。それにしてもこの子ども三人は、ローマ人に対する敵意をまったく見せない。半分はローマ人の血を引くからか。父親の敵は、オクタヴィアヌスただ一人だと教えられているからか。しかし、そうはいっても現在自分たち家族が置かれている危機的状況を、まったく知らないということがあり得るだろうか。
「ティベリウス! ちちうえのことをしらないか? ぼくはもっとちちうえのことがしりたい! ゆうかんで、つよぉいしょうぐんなんだろ? それから、カエサリオンあにうえのちちうえのこともききたい!」
幸いプトレマイオスが、話題を変えてくれた。しかしティベリウスにあのアントニウスのなにを語れというのか。実の子どもたちが誇らしく思うような話ができるだろうか。そして、神君カエサルを語ることなどできるだろうか。
それで考えた末、神君カエサルの著作について話すことにした。彼らもファルサロスの戦いの話は、父親から、おそらくは誇張も多分に交えて、聞かされているようだった。それで『内乱記』ではなく、『ガリア戦記』を選んだ。さらに物語の最高潮と言うべき、ヴェルキンゲトリクスとの決戦に話をしぼった。若きマルクス・アントニウスが活躍を見せるからだ。
神君カエサルの名文を、自分の言葉で語るのは大変な侮辱行為に思えた。けれども聞き手は十歳以下の子どもであるし、なによりラテン語が通じなかった。ティベリウス自身も子どもで、ガリアに行ったことがあるわけでもない。それでも以前ドゥーコのもとに通ったことが、作品の理解を助けていた。ところどころカエサリオンの通訳に助けられながら、あらましを説明した。
子ども三人は大興奮だった。とくにアレシア包囲は、部屋にあった積み木などのおもちゃを模型にして教えたので、上手く伝わったようだ。騎馬人形を父アントニウスに見立てて防衛線を走りまわらせ、三人ははしゃぎどおしだった。カエサリオンもまた爛々と目を輝かせていた。
「ぼくも父上の本は読んでいた。でも外国だから、なかなか想像しにくい場面も多かったんだ。おかげで父上がいかにすごい人だったか、実感が湧いたよ」
感に堪えない様子で、ティベリウスの肩を叩くのだった。
それからしばらくは模型と人形を使って『ガリア戦記ごっこ』につき合うことになった。カエサリオンがカエサル役、プトレマイオスがアントニウス役、ヘリオスはラビエヌス役を務める。ティベリウス自身はヴェルキンゲトリクス役を割り当てられた。そしてセレネは、両陣営総司令官のあいだで揺れ動くどこかの姫役をねつ造した。
なんて子どもじみたことをしているんだろうと思いながら、あたたかな心で楽しんでいるティベリウスがいた。久しぶりに味わう気持ちだった。もう長いこと、無邪気な子どもの世界とはかけ離れた場所で暮らしていた。
初めて会った気がしないのは、子ども三人がアントニアたちの異母兄弟だからなのか。背中に乗ってばたばた動くプトレマイオスに、きゅうっと胸を締めつけられる感覚がした。
日が完全に沈むと、カエサリオンが弟妹たちに暇を告げた。これから母とアントニウスが主催する宴会に参加せねばならないからと。夕食はティベリウスと一緒にとるようにと言った。
兄が去ったあとも、子ども三人はティベリウスから離れなかった。そこへ召使いたちが、食事を持って現れた。ティベリウスも先程から嫌でも気づいていたが、この子ども部屋には、なん人もの召使いが控えていた。
「これ、きらい」
プトレマイオスが、ティベリウスの皿に小魚を一匹載せてきた。ヘリオスはそれにもう一匹を加えたうえで、弟の皿に戻した。
「お客と一緒の食事なんて久しぶりだ」
ぎゃんぎゃん文句を言っている弟を尻目に、ヘリオスはティベリウスに話した。
「とくにぼくらと同い年くらいの子どもとは。だって王宮にいるのは大人ばっかりなんだもの」
王子と王女の暮らしは、かなり閉鎖的であるらしかった。プトレマイオス王家の者は神の血を引く一族とされているのだから、気軽にほかの子どもと遊ぶわけにもいかないのだろう。
ティベリウスは、自分のことを「友だち」と呼ぶ若き国王の気持ちを、少し知らされた気がした。
食事のあとは、盤上ゲームをして遊んだ。幼い王子と王女は、ティベリウスにエジプト式のルールを熱心に説明した。世界に広まる盤上ゲームの起源は、エジプトのセネトと呼ばれるゲームなのだとも誇らしげに教えた。ティベリウスは言葉少なく駒を動かした。ヘリオスには何度か勝ちを収めた。
そのうちに、プトレマイオスがうとうと船を漕ぎはじめた。しかし寝室に引き取ったほうがいいと言うティベリウスの提案を、彼は断固拒否した。駒を持つ手を伸ばしたまま、こくりこくりと首を動かし、とうとうティベリウスの膝にひっくり返った。
気持ちよさそうな寝息が聞こえた。ただちに召使いが寄り、彼を抱きかかえて去った。ヘリオスが苦笑しながらあとについていった。
「しょうのないやつだな。駒くらい置いていけよ」
そんな光景を、ティベリウスはぼんやりと眺めていた。目の奥がどうしようもなくじんわりした。
そのとき、複数の声が聞こえてきた。ティベリウスは開け放しの窓へ目をやった。立ち上がり、露台へ出ると、香草をふんだんに使ったに違いない肉の焼けるにおいが上ってきていた。手すりから下を覗くと、そこでは野外の宴会がはじまっていた。
主催者二人は、臥台に寝そべっていた。アントニウスはそばの男たちとなにやら大声でしゃべっては、葡萄酒をあおっている。その傍らではベールを纏った女王が、なまめかしい肢体を横たえている。白い肌が、暗がりの中でうっすら浮かび上がっていた。さらにその傍らにはカエサリオンが座し、料理を口へ運びながら、母になに事かを楽しげに話していた。
臥台に伏す者はほかにもいた。きっと未だアントニウスのもとに留まっているローマ人なのだろう。ギリシア人やアレクサンドリア市民と思われる男たちも見えた。それでも客は全部で十人足らずだ。床と水瓶には薔薇の花びらが散らされ、灯火が大理石の壁に光のひだを重ねていた
「明かりを消せ」
いささかろれつのまわっていない、アントニウスの大声が聞こえてきた。
「今宵の見事な月が台無しだろうが。この俺が人生で最後に眺める満月だぞ。なぁ、女王陛下?」
アントニウスは妻の足に手を添えた。
ティベリウスは目を閉じた。
灯火が消されても、彼らの騒がしい声は止まなかった。
「セレネは強い王子様が好きよ」
いつのまにか、十歳の王女が後ろに来ていた。ティベリウスと肩を並べ、にぎやかな闇を見下ろす。
「弱い人は嫌。ヘラクレスみたいに強くって、ディオニッソスみたいに豪快な人が好きよ。一人でも百戦練磨の戦士だけど、セレネのために大軍を打ち破ってくれるような無敵の将軍がいいの。麗しいお顔で、背が高くってたくましいのも絶対ね。つまりセレネは、お父様みたいな人と結婚したいのよ」
そう語るセレネは、意外にも平淡な表情をしていた。下を覗き込む目も冷静で、沈んでいるようにも見えた。
「でもときどき、お父様はちょっと豪快すぎるかもって思うこともあるわ。お酒をいっぱい飲むのはかっこいいけど、酔っぱらうとお父様はちょっとだけかっこ悪くなるのよ。本当はもっと上品で、教養もあるのに、全部忘れたみたいになっちゃうの。だからセレネは、もうちょっと控えめな王子様を選んでもいいかと思うのよ」
それから首を横に向ける。
「ティベリウスは教養は合格よ。お顔も問題ないし、気品もあるから無くさないようにして。あとは、今言ったようなオトコになるように、がんばるのよ」
「…だからぼくは、君と結婚すると、言った覚えは――」
「明かりをつけろ。早くしろ!」
下から怒鳴り声が聞こえてきた。露台の子ども二人はそろって空を見上げた。珍しくエジプトの空を雲が横切り、満月を覆い隠しているところだった。
二人は、どちらからともなくため息をこぼした。
「あれじゃあ、ローマに勝てっこないわよね…」
つぶやきに、ティベリウスは目を丸くした。紺碧の瞳に一つまた一つと灯火を映しながら、セレネはじっと動かなかった。
「あのお食事会の名前を知ってる? 『死をともにする会』って言うのよ。前はもっとお友だちが多かったのに、みんないなくなっちゃった。先に死んじゃったわけじゃないのよ」
ティベリウスは、言うべき言葉を見つけることができなかった。
「私たちはこれからどうなっちゃうのかしら…」
その横顔が、姉アントニアのそれと重なっていく。戦争がはじまる前、叔父の敗北を恐れていたときの顔だ。けれどもセレネのそれは、不安よりも沈痛の色を濃くしていた。もはや運命を待つしかないと悟っているのか。
「家族全員首を斬られちゃうのかしら。オクタヴィアヌスに」
「そんな――」
ティベリウスは否定しようとした。けれどもすぐに言葉に詰まり、首だけしきりに振った。願いだった。無責任な気休めなど言えなかった。
今のティベリウスには、オクタヴィアヌスがどのような手段をとるのか推測さえできなくなっていた。
それでも、セレネは気持ちをしっかりくみ取ってくれたようだ。
「ティベリウスは優しいのね」
握りしめた拳に、そっと手を添えてくる。
「あなたみたいな王子様が助けに来てくれるといいのに」
「……ごめん」
「馬鹿ね、謝らないでよ。ティベリウスがもう十歳、ううん、五歳くらい大きくなったらお願いするんだから」
それでも、彼女たちよりは年上だ。なにもしてやることができないのだろうか。オクタヴィアヌスがここに来たら、懸命に慈悲を願うことくらいはできるのではないか。マルケルスに協力を頼んで。
そこで、ティベリウスは胸中ひそかに自嘲の笑みをこぼした。捕虜にされた身で、迷惑をかけまくっている身で、なにを願う資格があるというのか。自分の面倒さえ見ることができていないではないか。
ぼくは無力なままだ。相も変わらず。
「心配しなくていいのよ」
セレネはなぐさめるように言ったが、これでは立場が逆だった。
「ティベリウスがすぐに大きくなれなくても、きっとお母様がセレネたちを助けてくださるわ。お母様はとっても頭が良いのよ。だからきっと今度も、鮮やかに逆転してくださるに違いないわ」
セレネは、兄カエサリオンとは違う言葉で母を評した。それに気づき、ティベリウスはまたひそかに苦笑した。
女のほうがずっと現実的にものを見ている。
けれども、彼女も結局は希望を述べているにすぎないのだ。
「お母様にかなう人なんていないのよ」
セレネの言葉に熱が入りはじめた。
「世界じゅうの女はもちろん、男だって勝てっこない。だってお母様は、だれよりも優れてるんだもの。頭が良くて、魅力的で、そのうえがんばり屋なんだもの。お母様ほどたくさんの国の言葉を操る人が、この世界にいるかしら? 教養も最高なのに、美貌も最高で、どちらもめいっぱい発揮できる人がいるかしら? 女なのに、十七歳から二十年も王様を続けている人がいるかしら?」
セレネはティベリウスを見つめた。それから灯火を吸い込んでいくような夜闇へ、挑むように向き直った。
「わかるでしょ? お母様は本当にすごい人よ。すごいうえに、いっぱいがんばってきた。だからだれにもできないことができたのよ。頼れる人がいなくて、ずっと独りぼっちだったのに。お母様のことを悪く言う人がいるみたいだけど、その人たちはみんな、お母様に嫉妬してるんだわ。どうして独りでもがんばってきた人が、なにもできなかった人に悪く言われなきゃならないのかしら?」
怒りをにじませ、セレネは夜闇へ問いかけていた。けれども女神ヌーの腹は漆黒の雲を纏ったまま、彼女に光を送ってはくれない。
「どうしてお母様が、こんな辛い思いに耐えなければならないのかしら…?」
しんみりした声が、太陽の死んだ世界に溶けていった。
ティベリウスはうつむきがちになっていた。
女王クレオパトラのことを、娘セレネが評するほど頭が良いとは思わなかった。ローマ人であるティベリウスの目には、冷酷で、野心家で、傲慢な女に映る。それゆえに今、敗北どころか、王家滅亡の危機に直面する羽目になっている。
けれども娘が言うとおり、彼女が非凡な人間であることは事実なのだろう。
一方、マルクス・アントニウスはどのような人間か。腕っぷしだけが取り柄のだらしのない男。自身の才能にも努力にも強い自負がある女の目には、そう映って当然だったのではないか。豪快だが単純で、ちょっと色目を使えばたやすく意のままになる。彼女より頭の回転が鈍く、努力もしない。そして少しでも目を離せば、彼女に赤ん坊をはらませておきながら、オクタヴィアと結婚する裏切りを働くのだ。覇者ローマの最高司令官は、決して全幅の信頼を寄せるに足る男ではなかった。
それでも、アントニウスはまだましなほうだ。アントニウスの周囲の男たちとなると、彼女には奴隷も同然に見えたのではないか。だからアクティウムでも、彼女は素人であるのに、軍事に介入して反感を買うことになった。そうではないのか。自分のほか、だれも信用できなかった。いや、自分が一番優れていると信じて疑わなかったのだ。なに事においても。
セレネは母を「独りぼっち」と言い表す。確かに昔から、女王には頼れる人間がいなかった。謀反を企む側近。それに操られる幼い弟たち。エジプトの神になり得る存在は、彼女しかいなかった。だからこそ懸命に努力し、才を振るったのだろう。その末に精神に傲慢が宿ろうと、だれを当てにすることもなく、孤独を自負に変えて。
彼女が本当に心から尊敬できた人間がいたとしたら、それはガイウス・ユリウス・カエサルただ一人だっただろう。
ヘリオスが戻ってきたので、セレネとティベリウスは室内に戻った。教師たちはそろそろ寝室に引き取るように言ったが、双子は聞き入れなかった。セレネは自慢のお化粧道具一式を広げた。
「大変だ」ヘリオスが苦笑を向けてきた。「今夜は眠らせてもらえないぞ」
ティベリウスはそれらに目をしばたたいた。眉墨や染料を載せた器は、サルに抱かれ、カバやアヒルの背中に載せられ、獅子に蓋をされていた。どの動物も表情豊かだ。誇り顔で構えているものもあれば、思わず頬をゆるめてしまいそうな愛嬌を浮かべているものもある。母リヴィアの化粧道具には、こんな珍妙な器はなかった。妹のアントニアなら大喜びしそうだ。
アントニアには、兄と姉がまだいた。そして弟もいた。もしも会えたなら、興味津々でまとわりつくに違いない。
そんなふうにもの思いにふけっていると、部屋の扉が開いた。
入ってきた人物がだれなのか、ティベリウスは一瞬わからなかった。それくらい見違えていた。こぼれ落ちんばかりの笑顔で、彼は両腕を広げた。
「ヘリオス、セレネ、プトレマイオス、ただいま!」
「アンテュルス兄様!」
双子も顔を輝かせ、飛び跳ねながら走った。アンテュルスは、カエサリオン以上に胸いっぱい二人を抱きしめた。一人ずつ、頬に額に念入りに接吻し、それからまた愛おしくてしかたがないとばかりに激しくさする。
「なんだぁ、プトレマイオスは寝ちゃったのかぁ」
無邪気な笑顔のうえで、眉だけが下がった。
「もっと早く抜けてくればよかったな。お客が帰ろうとするから、父上がご立腹でさ。ぼくまで退席するわけにはいかなかったんだよ。お前たちも、ちゃんといっぱい食べたか?」
「はい。でもプトレマイオスがお魚を残そうとしました」
「悪いやつだな。ところで、魚嫌いのお前はきっちり食べたんだよな?」
ヘリオスはあさっての方向を見た。その両頬を挟み、アンテュルスは思いきり揺さぶった。
「悪賢いやつめ。明日はぼくがきれいに骨を取って食べさせてやるからな。覚悟して――」
そこで、彼は部屋の異邦人に気づいた。
「おい」
顔つきが、たちまちなじみあるそれに変貌する。
「なんでそいつがここにいる?」
声からも、一切のあたたかみが消えていた。
「ティベリウスは一緒に遊んでくれたのよ」
早くも緊張を察したのか、セレネの口調には弁護するような響きがあった。
しかしアンテュルスは聞いていなかった。
「カエサリオンだな。あの能天気め」
そうぼやくや、弟と妹を押しのけ、ティベリウスの腕をつかみ上げる。
「出ていけ。ここはぼくたち家族の部屋だ。お前みたいな裏切り者が足を踏み入れていい場所じゃない」
ぞんざいに蹴飛ばした。それから自分の奴隷たちへ顎をしゃくる。
「つまみだせ」
「お兄様…!」
「お前たちは知らないんだ。こいつがどこのだれか」
さすがに衝撃を受けている双子に、兄はきつい口調で教えた。
「ティベリウス・ネロ。これからぼくらを殺しにくる、オクタヴィアヌスの継子だ。間抜けにも捕虜にされたんだ」
新たな衝撃が双子を襲った。ティベリウスは目を伏せた。痛いほどの視線を感じながら、アンテュルスの奴隷に引き立てられていった。
「連れていくのはカエサリオンの部屋だぞ」
部屋から出る間際、アンテュルスは奴隷たちに教えた。ティベリウスが横目を向けると、彼は冷笑を浮かべていた。
「夜もせいぜい可愛がってもらえ」
ティベリウスは表情を無くした。次の瞬間、猛然とアンテュルスに飛びかかったが、すんでのところで奴隷二人に取り押さえられた。
「アンテュルス!」
アンテュルスの高らかな嘲笑が、扉が閉まるまで続いた。
廊下に出されたあとも、ティベリウスは暴れまくった。本当にカエサリオンの部屋に連れていかれることを恐れたわけではない。ただもうたくさんだった。だれにも触れられたくなかった。奴隷二人を大声で威嚇した。なんの当てもなかったが、足を踏みつけ、脛を蹴り上げ、腕に噛みつき、抵抗した。
最初、奴隷たちは遠慮がちだった。けれども子どもがあまりに凶暴に振る舞い、自分たちを傷つけるので、しだいに不穏な空気を纏っていった。もはや強硬手段に出るしかないと考えたのだろう。拳を振り上げ、二人同時に迫ってきた。ティベリウスは天井を突き破るような声を上げて、じたばたした。
「なにをしている?」
沈着な声が、すべての動きを止めた。アポロドロスがわずかに眉根を寄せて立っていた。
奴隷二人はギリシア語で弁明をはじめた。
「わかった」
アポロドロスは最後まで聞かなかった。
「この子のことは私が引き継ぐ。君たちはもう主の下へ戻れ」
そう言うとティベリウスの手を取り、さっさと廊下を歩き出した。
ティベリウスはもう暴れなかった。それどころかアポロドロスの手をぎゅっと握り返しさえしながら、素直についていった。
建物の外は、完全に夜闇の支配下にあった。ぽつぽつと立つ灯火のあいだを、アポロドロスは終始一定の歩調で進んだ。
二人ともじっと無言でいた。そのまま、ティベリウスが一夜を過ごした部屋まで戻ってきた。
「食事を口にしていなかった」
燭台に火を灯しながら、アポロドロスは指摘した。
「どこかでちゃんと食べたのか?」
ティベリウスはこくりとうなずいた。
「朝も晩も?」
ティベリウスはもう一度うなずいた。その様子を見て、アポロドロスもうなずき返した。
「包帯を替えよう」
すでに部屋の片隅には薬箱が置かれていた。ティベリウスを寝台に座らせ、アポロドロスは黙々と作業をはじめた。包帯を解かれ、また薬を塗られるとき、ティベリウスは少しだけ唇を引き締めた。けれどもなにも言わなかった。
アポロドロスも、ティベリウスの傷が増えていることに関してはなにも言わなかった。そっと念入りに薬を塗り込みながら、これだけ口にした。
「君に見張りをつける。なにかあったら大声で叫べ」
ティベリウスはうなずかなかった。アポロドロスが必ず来てくれるのでなければ嫌だった。
アポロドロスも応答を強いなかった。そのままてきぱきと包帯を替え終わると、薬箱を片づけはじめた。
ティベリウスはようやく口を開いた。
「シチリア人が、なんでエジプトの王宮にいる?」
興味よりも強い感情が質問をさせた。アポロドロスが部屋から出ていってしまうと思ったのだ。
「船が難破した」
古い包帯を布袋に入れながら、アポロドロスは淡々と答えた。
「一緒に乗っていた父は、おそらく死んだ。私はただ独りで二日二晩海を漂ったあと、救われた。エジプト船だった」
「それからずっと仕えているのか?」
「ああ。もう二十五年になるな」
「故郷に…帰ろうとは思わなかったのか?」
「帰ってどうする?」アポロドロスは目線を上げた。「父は死んだ。母はいずれほかの男と結婚する。兄弟も、貧しい暮らしの中で失った。私にはもう帰る場所などなかった」
静かな口調だったが、ティベリウスはしばし気圧されたように言葉が出てこなくなった。
「…それでも、王宮に仕えるとは奴隷になることじゃないか。ローマやギリシアの都市でなら、自由に生きられたのに」
「どの道同じだ」アポロドロスは首を振った。「世界に存在するのは王政の国か、ローマの属州のどちらかだろう? どうせだれかの支配下で生きなければならないのなら、おのれが尽くしたいと思う主を選ぶのが当然だ。私にとってはそれが、恩義あるプトレマイオス王家だった。その選択を悔いたことはない」
きっぱり述べてから、自嘲するように口の端をわずかに上げた。
「父はローマの徴税人とギリシア商人にだまされて苦しんだのだ。私と一緒に、奴隷同然の待遇で船の漕ぎ手にされていた」
もうティベリウスにはなにも言えなくなった。
属州税は、神君カエサルの改革により、透明性のある公平な徴収が行われるようになったと聞いていた。けれどもアポロドロスの父親は、なんらかの理由で、その当然の処置を受けることができなかったのか。また、とくに大農園のある田舎で多いらしいが、無一文あるいは借金を抱えた人間を、奴隷として違法に留置し、過酷な労働を強いているとの噂も耳にしたことがあった。このような問題は、ローマが責任を持って解決に乗り出さなければならないことだ。
「もう休め」
沈み込む子どもを励ますように、アポロドロスは肩を叩いてきた。それから壁際の燭台へ近づき、薄緑色の蝋燭を置いた。
「そんなものを使うな」
ティベリウスはうなるように言った。
「ぼくを魔術で支配しようとしたって無駄だ」
昨晩侍女が使ったものと同じ、不思議な香りのする蝋燭だとわかっていた。アポロドロスはまた目線を上げた。
「なにを言われたのか知らないが、これはそんなものじゃない。キフィという、この国に昔から伝わるお香だ。体に害は与えないし、中毒性もない。安らかな眠りへいざなう効果があるんだ」
「いらない。そんなもの、必要ない」
何度も首を振るティベリウスを見つめ、アポロドロスはさらに教えた。
「魔術にしろ、薬にしろ、支配されないために最も重要なことは、健康だ。心身ともに健やかで、おのれを保っていられるならば、どのような支配も跳ね返すことができる。だからそれらの助けを借りようとも思わなくなる。逆に健康を損ねれば、人は容易に蝕まれていく。外の邪悪にも、おのれの内にある邪悪にも。そうならないためには、よく食べ、適度に動き、よく眠ることが肝心だ。今の君には、そのような生活を守ることが困難だろう? 薬の力を借りても良いんだぞ」
「いらない」
「いや、いる」
強情な子どもを、アポロドロスはあっさり押しのけた。ティベリウスは長いうめき声を漏らした。蝋燭に火が灯り、あの香りがすうっと立ちのぼりはじめた。
アポロドロスはもう一度子どもの肩に触れた。
「横になれ。眠るまでついている」
「いらない!」
ティベリウスはその手を振りはらった。右足をぶんと蹴り上げた。
「出ていけ! ぼくにかまうな!」
「わかった」
今度は、あっさりと従った。薬箱を手に立ち上がり、アポロドロスはさっさと踵を返した。その背中を見つめ、ティベリウスはたちまち打ちのめされた。そんなつもりはなかったのだ。アポロドロスに甘えていたかった。ただそれだけだったと気づいた。
言葉が、もう少しで出てきそうだった。けれども扉をくぐる寸前、アポロドロスのほうが思い出したように足を止めた。振り返り、自身のマントの内側から細長いものを取り出す。
「君が言っていたものだな?」
女神の柄が、灯火に照らされた。あっと声を上げ、ティベリウスは寝台から飛び下りる。けれどもアポロドロスの鋭いまなざしが、それ以上の動きを許さなかった。
「悪いが、今これを返すわけにはいかない。私が責任を持って預かっておく。時が来るまで」
有無を言わせぬ物腰だった。立ち向かってかなう相手でもなかった。ティベリウスはその場に両膝をついた。
「ぼくは無力だ」
うめき声には、もう駄々をこねる調子はなかった。途方もない、自分自身への無念と絶望。その深みの中にどっぷり沈んでいく。
「君は子どもだ」
アポロドロスは静かに告げた。
「健やかな君ならば、その務めがわかるはずだ」
ティベリウスは唇を噛んだ。アポロドロスをねめ上げたが、彼はすでに短剣を片手に、扉をくぐろうとしていた。近くにいるのでなにかあれば呼ぶようにと言い残して。
扉の閉まる音とともに、ティベリウスはまた独りぼっちになった。
しばらくのあいだ、そのまま打ちひしがれていたが、やがて腹立ちまぎれにキフィの燭台を蹴飛ばした。火は一瞬で消えた。
苛々と上掛けにくるまった。なぜなら母のマントはもうなかったからだ。寝台の上で丸まり、きつく目を閉じた。そしてすぐに子どもじみた自棄を悔いることになった。
眠れなかった。目を閉じると、暗闇の中に悶絶するクィントゥスの姿が浮かんでくるのだ。壮絶な悲鳴を上げながら迫り来た。
――お前のせいだぞおぉぉ…お前のせいで俺らはこんな…こんな――
その傍らでは、首が壺になっているデキムスが、ひくひく痙攣していた。白い泡が壺の縁から漏れ、ぶくぶくぶくぶくと尋常ではない量に膨れ上がっていく。
――ぎゃあああああああああっっっ!
絶叫するクィントゥスの顔面が、視界に飛び込んできた。
――ああっ、ああっ、あああああああ!
その背後には、一対の巨大な翠緑の瞳が浮かんでいる。
――頼む…女王陛下! 俺は死にたくない!
ティベリウスはたまらず目を開けた。けれども大差なかった。暗く物音一つしない部屋の中では、亡霊たちが這いずりまわり、悲鳴をこだまさせている。
ティベリウスはまたぎゅっと目を閉じた。けれども悪夢を追い払うことはできなかった。どうあがいても、闇の中で独りぼっちだ。すがるものなどなにもなかった。母のマントは持ち去られ、ドゥーコの短剣も奪われ――。
そこではっと息を呑み込んだ。急いで枕の下に手を入れると、そこに小さな皮袋があった。もどかしさのあまり無用に手こずりながら、紐を解く。中から出てきたのは、木片と石ころだった。
ドルーススのファレラエと、ヴィプサーニアの卵石。それらを胸にしっかと押しつけ、ティベリウスは枕に倒れ込んだ。
悪夢は、愛しい者への想いに追い払われた。けれどもそれは、新たな苦しみになった。
最愛の弟を、もう一年半も見ていなかった。可愛くて、大切で、一日も欠かさず目に収めていたかったのに。ドルーススはもう八歳になってしまったのだ。「あにうえ! あにうえ!」とべったり甘えてくる幼さは、もう無くしてしまったかもしれない。兄のいない日々に、とっくに慣れてしまっているだろう。
ヴィプサーニアは、まだ三歳だった。彼女はティベリウスと同じ月に生まれた。太陽を蠍座に持つ者同士が恋すれば、海より深い絆で結ばれる傾向にあると、母ポンポーニアは喜んでいた。けれどもヴィプサーニアは、すでにティベリウスのことなど忘れてしまっているに違いない。そしてこのまま帰らなくとも、いずれはほかの男と結婚し、幸せな暮らしを送るに違いない。
ドルーススもまた、兄がいなくともやっていくに違いない。クラウディウス・ネロ家を立派に継ぎ、国家に貢献する男となるに違いない。
いつのまにか、喉から嗚咽が漏れていた。胸の震えが全身に広がっていった。どちらもしだいに大きく激しくなった。枕が一面に濡れた。ファレラエには爪が食い込んで傷つき、卵石からは色がにじんで消えていく。
泣いても泣いても、だれも迎えに来てはくれなかった。けれどもティベリウスは今、独りぼっちだ。だれにはばかることもなく、大声で泣いた。




