第四章 ‐13
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「なんだ、おい、まだいたのか?」
声が聞こえたとき、ティベリウスは宮殿に囲まれた広場にいた。カエサリオンが、彼の母親が完成させた霊廟を見せたがったのである。この中にいかに多くの貴重な財宝が収められているかを、彼は嬉々として説明した。母親がこのような建物を造る意味がなぜわからないのだろうと、ティベリウスはただひたすら信じられずにいた。霊廟とはつまり、墓ではないか。
「我が愛しの妻は、まだあきらめていないらしいな。それともちびネロが、あの継父のところへ帰る気をなくしたのか?」
ティベリウスは大股で歩きだした。気づいたカエサリオンがなにか言ってきたが、無視した。
向かう先には、木の幹にだらりともたれるマルクス・アントニウスがいた。男奴隷一人に、大きな葉で扇がれていた。
「聞きたいことが」
真ん前に立ち、ティベリウスは返事を待たなかった。
「なぜローマに戦争を仕掛けた?」
「おお、怖っ」
アントニウスは身震いして見せた。
「まるでネロが墓場から蘇ってきたみたいだな。頼むから俺にかまわず、あの世暮らしを楽しんでくれ」
「ふざけるな」
アントニウスはまた酔っぱらっているように見えた。青白い顔にうつろな目つき。おそらく昨夜も飲み明かし、つい今しがた起きたばかりなのだろう。
「ローマに戦争を仕掛けたわけを聞いている。あなたはなぜ故国を裏切ったのか」
「俺は裏切ってなんぞいない」アントニウスはさらりと言った。「故国に戦争を仕掛けてもいない。仕掛けてきたのは、あの小僧のほうだ」
思ったとおりの言い分だった。ティベリウスは目つきを鋭くした。
「カエサルのせいにするな。あなたがこの国の女王と組んで、故国を脅かしたのは事実じゃないか」
「あの小僧がカエサル?」
アントニウスは鼻を鳴らした。
「神君ユリウス・カエサルへの侮辱は慎め。あいつのどこがカエサルだよ?」
「カエサル・オクタヴィアヌスは神君カエサルの正統な後継者だ。あなたがその目で見たように、遺言状に明記されていた」
「それが解せんのだよなぁ…」アントニウスはうんと伸びをした。「なんであの人は、あんな実績皆無の小僧っ子を養子にした? 女とはもう遊びつくしたので、美少年にのめり込んだからとしか思えんのだが――」
だんっと地面を踏み鳴らし、アントニウスに迫った。そばにいた奴隷が、あわてて抑えに入った。カエサリオンの従者たちも色めき立った。
アントニウスだけが動かなかった。
「落ち着けよ、ちびネロ。すぐかっとなるのは、昔からクラウディウス一門の悪い癖だぞ。お前の親父は、もう少し自制していた」
そのにやけ顔をにらみ、ティベリウスは唇を噛んだ。
「しかし真面目な話」アントニウスは飄々と続けた。「お前はあのオクタヴィアヌスに、美貌以外のなんの取り柄があると思うんだ? やれ戦を前にしては臆病風にやられて寝込み、やれ元老院では三流の演説をぼそぼそぼやく。アグリッパがいなければ戦争もできず、マエケナスがいなければ政治もできない男だぞ」
「その男に負けたのはだれだ?」
いまいましがりながら、ティベリウスは思い出させた。アントニウスは肩をすくめてみせた。
「俺は負けてなんぞいない。ただ部下どもが次々と病などでいなくなったので、戦争続行が困難になっただけだ。戦略的撤退に成功したんだ」
「いい加減にしろ」
ティベリウスは地面に両膝をついた。身を乗り出し、アントニウスの顔をまともに見据えた。
「病など? あなたがもたもたしているあいだに包囲され、なんの手だても取れず犠牲が増えたんだろう? そして、病気でなければ皆あなたの下から脱走したんだろう? あなたはその人たちの気持ちを考えたことがあるのか?」
「たいした度胸だな」アントニウスは平淡な声で言った。「子どもの分際で、仮にも最高司令官である俺に説教とは」
ティベリウスは一瞬言葉に詰まったが、すぐに持ち直した。恐ろしくないわけではないが、恐れる理由などなにもないと思った。捕らわれて、いつ奪われてもおかしくない命だ。なによりこの最高司令官にあるまじき男には、言いたいことがたくさんあった。
「あなたはアグリッパとマエケナスがいなければと言う。けれどその二人を片腕にできたのは、カエサルの徳だ。一方あなたときたら、有能な仲間に次々見捨てられた。彼らがどんな思いで去ったか、あなたは本当にわかっていないのか? あなたから身のまわりの物を届けられて、アヘノバルブスは泣きながら死んでいった。そんな結末になるまで、あなたは大事な仲間を失望させたんだ。あの女王のために!」
「ティベリウス」
背後からカエサリオンの咎めるような声が聞こえたが、無視して続けた。
「挙句、あなたは最後までつき従ってくれた部下たちまで見捨てた。アクティウムの海から逃げ出す女王を見て、あなたは正気を失ったのか? それとも、元々女王と財宝を抱えて逃げる作戦だったのか? どっちでもかまわないが、あなたがしたことは同じだ。あなたの部下は戦場のど真ん中に置き去りにされた。限界まであなたを信じて待ち続けていたのに…」
「感傷に負けては名将にはなれんぞ、小僧」
抑揚のない声で、アントニウスは口を挟んだ。
「戦略的撤退だと言ったはずだ。最高司令官が死んではなにもかも終わりだろう。それこそ部下たちの忠誠心が無駄になる」
「あなたが生き延びて、部下たちは報われたと思っただろうか?」
ティベリウスはうめき声で続けた。
「女王の尻を追いかけて逃げる、ただの情けない男にしか見えなかったんじゃないか? ぼくはあなたが生き延びたから責めてるんじゃない。部下たちの誇りを裏切ったから、許せないんだ」
「俺をそんな情けない男にしたのはだれだ?」
うつろな目が、ふいに焦点を合わせた。
「女の尻に敷かれた、無能で、狂気の、惨めな敗軍の将にしたのはだれだ? 全部あのオクタヴィアヌスの宣伝だろうが」
ティベリウスはまた一瞬言葉を詰まらせた。すぐに口を開いたが、アントニウスが手のひらを掲げて制した。
「そうだ、あいつはアクティウムで戦うずっと以前から、俺を陥れる策略を練っていた。俺のほうが強くて、才能にあふれ、愛されていて、カエサルの後継者にふさわしいことを知っていたからだ。なぜ俺が故国に戦争を仕掛けたかと訊いたな? それはあいつが俺を殺そうとしてきたからだ。俺が戦争をしかけたのは、ローマではない。あの悪党オクタヴィアヌスただ一人にだ。俺はあの独裁者から故国を救ってやるつもりだった」
「たわ言を」
ティベリウスは吐き捨てるように言った。思っていたとおりだと、口にしないためだった。アントニウスの立場から見ればこうなるのだ。けれども、そのような言い分を認めるわけにはいかない。
「もし戦争に勝っていたら、あなただってローマで独裁者になる気だっただろう? 女王と一緒に。そんな馬鹿げたことは、ローマ人のだれ一人許さなかっただろうけど」
「俺だってそんなに馬鹿じゃないぞ」
うすら笑いが応じる。
「俺はだれがローマの頂点に立つ男が、皆がわかっていてくれるだけでよかった。こまごまとした煩わしい仕事は、統治したがりのご優秀な元老院議員どもに任せて良いと思っていた。もっとも、我が愛しの妻はそれに満足したかどうかわからんが…」
彼は目を閉じた。苦笑を飲み込んでいるように見えた。
「だが俺としては、我が身の上にふさわしい名誉を頂戴して後は、クレオパトラと二人、アレクサンドリアでのんびり暮らせればそれでよかったんだ。潔く引退したよ、ルクルスみたいに」
ティベリウスは歯噛みをした。アントニウスは自分を謙虚な男のように語っていた。彼の言い分は嘘ではないかもしれない。しかし、それはやはり無責任ではないのか。自分は名誉だけ受けて、煩わしいことは元老院に丸投げ。女王の野心を抑えておく自信もない。
わだかまりが、胸の内でふつふつとくすぶった。しかし言葉に整理されるより早く、アントニウスが目を開いて続けてきた。
「そんなささやかな希望を、オクタヴィアヌスが台無しにした。なんとしても俺を亡き者にしたかったんだ。俺が首都を留守にしているのをいいことに、俺のちょっとした過ちを、あたかも世界を転覆させる大罪みたいに宣伝した。何度も何度もだ。それで俺が少しばかり咎めに向かえば、裏切りだ戦争だとぎゃあぎゃあ騒いだ。そんなのが十年も続いたら、だれだって我慢の限界になるだろうが」
「あなたは自分が不当なことはしていないと言いたいのか?」
ティベリウスはようやく噛みついた。
「自分で認めたように、あなたは過ちを犯した。ぼくはここに来るまでのあいだに、あなたと女王がやった失政の数々を目の当たりにしてきた。その尻拭いを全部やったのは、カエサルだぞ。だいたいあなたはカエサル個人に対し、はじめから意地悪だったじゃないか。遺言状を読んだ日から、あなたこそがカエサルを亡き者にしたかったんだろう? その証拠に、先代の遺産を横取りしたし、本国内で刃も交えたし、東西に分かれたあとだって――」
今度は、自らの発言の途中で言葉を切らした。この先を言うことはできなかった。言えば、足元の土台が音を立てて崩れてしまう。
そんな子どもを見て、アントニウスはなにも指摘しなかった。ただ目に注意深げな色を宿しつつ、やんわりと続けた。
「それでも俺は戦争なんてしたくなかったぞ。ローマで、俺自身から攻めかかったことが、一度だってあったか? 俺はあいつと正当に分け合った土地である、ギリシアにいただけだ。それなのにあいつが、勝手に人を狂人呼ばわりして、ずこずこ乗り込んできたんだろうが」
俺自身から攻めかかった――その言葉が、ティベリウスの頭で震えた。アントニウスはなにも気づいていないように、鷹揚な様子で腕を広げた。
「東方にいながら、俺の側には六万の軍団兵がいた。元老院議員だって二百人もいたぞ。俺がいかに正義の守護者であったか、これだけでもわかるだろう? 皆あいつの独裁なんて御免だったんだよ」
やれやれとばかりに息を吐く。
「部下たちが脱走したのは、オクタヴィアヌスの宣伝にだまされたせいだ。それに人間ってのは、いざ少しでも旗色が悪くなると、すぐさま名誉より命を取りがちだからな。こればっかりは、責めたってどうしようもないさ」
「あなたは自分に都合の良いことばかり」
「それはオクタヴィアヌスもお互い様だ」
アントニウスは片目を閉じてみせた。ティベリウスは目に無念をたぎらせ、もう一度にらみつけた。
「部下たちは宣伝にだまされたんじゃない。彼らはあなたを見ていた。女王の影響下からずぶずぶ抜け出せないあなたを。それで涙ながらにあなたから離れたんだ」
手の指が地面をえぐっていた。どうしてこの男はへらへら笑っていられるのだろう。
「あなたのために泣いたのは部下たちだけじゃない。あなたは家族を裏切ったんだ。マルケルスはあなたのために泣いていた。アントニアも、父親と叔父が戦うことに涙していた」
「アントニアか」
少しだけ、目を細めた。
「二人いたな。オクタヴィアに似て、美人に育っているか? 性格も彼女に似てほしいが、マルケルスの泣き虫まで似ないよう、俺のたくましさも継いでおいてほしいところだな」
「黙れ」
低く、突き刺すように言った。
「あなたは子どもの苦しみを考えたことがあるか? ユルスのことだ。ぼくには語る資格なんてないが、だれかが教えなきゃ、あなたは考えもしないのだろう? あなたは、ユルスが今どんな思いで暮らしているかわかるか?」
「オクタヴィアのもとにいたほうが、あいつは幸せだ。あいつにもそれがわかっていた」
ゆっくりと語りながら、アントニウスの目線は空へ上がっていった。
「だが俺は、いつでもあいつを迎えていたぞ。いや、俺のもとへ来なくたって、責める気なんかなかった。ローマに帰ったら、この両腕で力いっぱい抱きしめてやるつもりだったよ、俺が、勝っていたら……」
この言葉を聞いたら、ユルスはどう思うだろうか。父は自ら息子に伝えてやるべきだった。ティベリウスは目の端を歪めた。
アントニウスは少しだけ語気を強めた。
「だが忘れるな。そもそも俺たち家族を引き裂いたのは、オクタヴィアヌスだ」
「違う! あなたがオクタヴィア様を裏切ったからだ。女王のもとへ走ったからだ」
「いや、あいつにはわかっていたはずだ。世界を我がものにするために、俺とはいずれ決着をつけねばならんと。遅かれ早かれこうなることは計算済みだったんだよ」
「違うっ! こんなことにならないように、カエサルは大事な姉をあなたに任せたんだ。あなたが女王とこんな情けないことになるなんて、だれが予想した?」
そう反論したにもかかわらず、ティベリウスの頭には自らの思考が甦っていた。
――マルクス・アントニウスがいるかぎり、オクタヴィアヌスは志を遂げられない。
「いずれにしろ、時間稼ぎだった」
アントニウスは厳として言った。
「お前もわかっているように、俺たちはお互いが邪魔だった。あいつはこうなってもいいと思っていたんだ。ちびネロ、お前たち親子みたいな真っ正直者は信じたくないだろうが、世の中には、こんな冷たい血の流れる怪物がいる」
そしてふと、目が深みを帯びる。言葉の下で葛藤する魂を見透かしたように、問いかけてくる。
「ネロは…あいつをどう思っていたのかな?」
「なにが怪物だ。負け惜しみだ」
ティベリウスは顔を土に向けていた。ほとばしったのは、わめき声に近かった。
「あなたがもっとしっかりしていたらこんなことにはならなかったのに。なんであなたは女王から離れなかった? あの人にいったいどんな魅力があるっていうんだ?」
「女を愛したことがあるか、小僧よ?」
尋ねるアントニウスは、いかにも熟練者然とした自信をにじませていた。
「愛する者でなければ、そのすばらしさはわからないし、馬鹿にする資格もないぞ」
それからたまらず吹き出し、声色を軽くする。
「ネロのやつもとてつもない奥手だったからなぁ。トゥッリアを横取りされたときなんか、俺が夜通し酒を注いでなぐさめてやったもんだ。あの堅物め、女に甘い言葉一つささやくより前にまず父親に挨拶に行くとは、どこまで不器用なんだよ」
破談になった、キケロの娘との結婚話のことだった。思わずぽかんとなるティベリウスに、アントニウスは気合を入れてきた。
「おい、その年で初恋もまだみたいなちびネロ。この色恋の第一人者から忠告してやろう。親父を見習うな。好いた女がいるのなら、絶対に離すな。たとえなにがあろうとも――」
「いくらあなたが女王を愛そうと、ローマ人を侮辱していいことにはならない」
ティベリウスは苛々と割り込んでいた。なにかが胸に突き刺さったが、気づかないふりをした。
「あなたはローマの家族を裏切り、異国で凱旋式を挙げ、女王へ領土を勝手に分け与えた。愛がそれらの言い訳になるか?」
「愛とは与えることにあり」
芝居がかった大声とともに、両腕を広げた。
「天下のローマの最高司令官ともならば、気前よく与えることこそ美徳だろうが。ましてや贈る相手は、可愛い妻と子どもたちだぞ」
「愛人に貢いだことのなにが美徳だ」
ティベリウスは切り捨てた。
「あなたは国家の最高司令官たる責任をなんだと思っている」
「わぁ、わぁ、やめろぉ」
耳を塞ぎ、首を振り、アントニウスは悲鳴を上げた。
「まるであの堅物石頭みたいなことを言うな。お前もモテない男になっちまうぞ、ちびネロが」
「あなたと言う人は――」ティベリウスは噛みしめた歯を剝き出しにした。「いったいどうしたらまともに考えるようになるんだ? あの欲深い女王が永久にいなくなればいいのか?」
「ティベリウス!」
鋭い声と同時、背後から腕をつかまれた。
「もう行くぞ。これ以上母上に対する非礼は許さない」
「あなたはこれからどうするつもりだ!」
カエサリオンに引きずられていきながら、ティベリウスはしぶとく問い続けた。
「飲んだくれる前に、やることがあるだろう? あなたには責任があるんだ。アンテュルスは――」
「お前を使うのも一興かと思い直している」
気楽に手を振るアントニウスは、干乾びたような笑みを浮かべていた。
「お前を十字架にくくりつけて、オクタヴィアヌスの軍の前に突き出す。こいつの命が惜しければ最高司令官が俺と一騎打ちをせよと伝える。応じれば、俺は死に花を咲かせられるし、拒否すれば、オクタヴィアヌスは史上かつてない臆病者の冷血漢として語り継がれるわけだ」
「史上最悪の卑劣将軍として語り継がれたいなら、そうすればいい」
きつく言い捨てたとき、相手の姿はアーチの蔭に消えていた。
「正論ばかり通じるのが世の中じゃないんだよ、小僧」
ぼそりとしたそんな言葉だけが、なぜか耳へ届いた。
さすがのカエサリオンも気を悪くしたかに見えたが、長続きはしなかった。それどころか、「アントニウス殿相手に少しも遠慮しないなんて」と、ますますティベリウスを見る目を輝かせてきた。
驚いたことに、彼はティベリウスを連れたまま、あの黄金のスフィンクスの門をくぐった。王宮殿の外へ出たのである。ティベリウスは思わずきょろきょろした。カエサリオンの話によれば、この辺りはまだ王宮の敷地になるのだ。
カエサリオンは、ムセイオンとは反対方向へ歩いていった。少し控えめにしたが、ティベリウスは油断なく辺りに目を配り続けた。
もちろん逃げ出すことを考えていた。けれどもやはり国王が捕虜と二人きりで外出するわけがない。周りには七人ほどの従者がいた。世話役と屈強な護衛が三人ずつ。彼らをたばねているのは、ロドンというカエサリオン専属の教師だった。ローマの家庭教師と違い、生活全般の面倒を見る乳母のような役目を担うらしい。もっとも、ロドンは男だが。
「どうしましたか、お坊ちゃま? なにかお困りで?」
ロドンがにこにことティベリウスに話しかけてきた。彼は捕虜に対し、妙に愛想が良かった。本当にカエサリオンの友人と見なしているのか。それにしてもティベリウスの嫌うおべっか使いのにおいがぷんぷん漂ってくる。
「もしや、お怪我が痛むのでは? それとも心細い日々が続いてお疲れに? なんなりと申してくだされ」
ティベリウスは無視して歩いた。
ほかにも各所に番人が立っていた。それでも思ったより数が少ない。もしかしたらローマ軍接近を前にして、下の者たちも逃げ出したのかもしれない。
しかしながらティベリウスの逃亡については、成功の望み薄と考えざるをえなかった。概観はつかんでいるとはいえ、アレクサンドリアは見知らぬ都市だ。全力で走っても、ファロス島にたどり着く前に取り押さえられるだろう。万一たどり着けたとしても、ガルスの艦隊にすぐさま拾われたなら奇跡である。あるいは、カノポス門から都市の外へ出る手もあるが、ローマ軍本隊はまだ近くに来ていないだろう。
それでももし、隙があれば――。
「着いたぞ、ティベリウス」
カエサリオンが笑顔で振り向いてきた。鉄柵と鬱蒼とした生垣が、行く手に伸びていた。
「ここが我が王宮の動物園だ」
それからしばらく、ティベリウスは逃亡計画を忘れて過ごした。あとでまたもおのれの現金さを恥じ入ることになるのだが、無理もなかった。なにしろワニも、カバも、ヒヒも初めて見たのである。それも柵越しに間近で観賞する機会など、この先一生恵まれないかもしれない。ローマの競技場でも珍しい動物は披露されるが、最前列からの景色もこれにはかなわない。
おっかなびっくりの様子でライオンと見つめ合うティベリウスを、カエサリオンは愉快そうに眺めていた。伸びてきたヒヒの手からあわてて飛びのくのを見ると、声を上げて笑った。カバの眠る池に無理矢理背中を押しやっては、はしゃいでいた。ついには「セレネにはできた」と話しながら、ワニの口を飼育係に押さえさせ、赤肉を放り込むように言った。ティベリウスは恐る恐る近づいたが、焦れたワニが尻尾を動かしたのを見て、顔に赤肉を投げつけて下がった。あわあわする飼育係の傍らで、カエサリオンは手を叩いて喜んでいた。
「獲物を捕らえたら、ぐるぐるまわりながら食いちぎるんだ。見たくないか?」
ティベリウスはぶんぶん首を振った。
おかげで、大変に胸躍る体験をしたのではあるが、ぐったり疲れてしまった。
「実は植物園もあるんだ」
カエサリオンのほうはすこぶる元気だ。
「案内してやりたいけど、こっちは神官とか学者とか、王宮でも限られた者しか出入りできないんだ。なんでだと思う?」
答えを待たず、上体を傾け、低い声でささやいてくる。
「そこで我が国の神秘の魔術が生まれるんだ。お前もすでに力を感じているはずだ。薬の研究をしてるんだよ」
ティベリウスが顔を反らせると、カエサリオンは深々と満足げにうなずいた。秘密めいた微笑を浮かべ、ティベリウスの包帯にそっと触れてきた。
「そう、塗ったり、飲んだり、吸ったり、薬はいろんな方法で使われるな。そして、いろんな効果を生むな。たとえば病を癒す。傷を治す。けれどそれだけじゃない。薬は、人の心を操ることができるんだ」
翠緑の瞳は、まばたきもしない青い瞳を覗き込んでいた。
「嘘だと思うか? でもお酒を飲むと、人はどうなる? 大声で笑ったり、怒ったり、泣いたり、裸で踊りまわったり、まるで馬鹿みたいになるよな? あるいは、なにかの香りを嗅いだときはどうなる? おなかが空いたり、眠くなったり、どきどきしたりすることってあるよな? 薬の研究っていうのは、つまりそういうことだよ」
噛んで含め、浸み込ませるように語る。
「上手く使えば、世界を意のままに操れる力だって、神官たちは言ってる。なにしろ薬は、人の命も操ることができるのだから」
瞳が、きらりと閃光を放った。
「そう、怖い怖い毒のことだよ。でも彼らに言わせれば、毒と薬は本来同じものらしいぞ。恐ろしい毒も、使い方次第では、不治の病を癒す奇跡の薬になるんだって。そしてもちろん、その逆も然りだな」
ティベリウスは、包帯の下がうずき出すのを感じた。鼻の奥がひくひくした。それでも長めにまばたきした以外は無表情を保ったのだが、カエサリオンはまるでその意識外の反応を感じ取ったように、笑みを深くした。
「ぞくぞくするよな。人の肉体も魂も、思うがままにできるなら」
そこで上体を反らせ、誇らしげに胸を張る。
「ぼくの母上は、この薬の魔術を自在に使いこなす人だ。神官たちもお墨付きを出してる。エジプト三千年の歴史が伝える魔術を、母上は我がものにしているんだ」
ティベリウスは、宮殿の隅々にまで漂う芳香を思い出していた。昨日より意識しなくなっていたが、こうして外に出てみると、この吹きつける潮風や樹木の香りは今までどこへ行っていたのだろうと驚かされる。女王の魔術だというのか、宮殿そのものが。
長いあいだ浸っていたらどうなるのだろう。
「わかるよな? 母上の思いどおりにならないものなんてないんだよ」
見下ろす目は、世界を睥睨しているようだった。ゆらぐことを知らない自信に満ちていた。
ティベリウスはアントニウスを思った。彼の部下たちの嘆きを思い返した。すっかり女王の意のままにされる、狂人、虜囚、下僕――
「オクタヴィアヌスも、もうじき母上の虜だ」
その言葉で、ティベリウスはようやく動き出した。目に見えない呪縛を破り捨てるように、首を振り、声を上げる。
「あり得ない」
「お前だって、もうまもなくぼくたちの魔力に支配されるぞ」
カエサリオンは告げた。いたずらっぽい、不敵な笑みを浮べていた。
「ぼくはすでにお前に魔術をかけてる。この国が好きになるように。ローマのことなんか忘れて、ぼくといつまでも楽しく暮らしたいと思うように」
「ぼくには効かない」
ティベリウスは厳と宣言した。
「カエサルと同じ、変わらない」
きっと見上げる顔を、カエサリオンは顎を反らし、尊大に受け止めた。ゆらぐまいと踏ん張る青い瞳を、じっと眺めていた。それからしだいに頬の筋肉が引きつり、目が三日月になり、とうとうぷはっと吹き出した。げらげらと屈託なく笑いこけながら、ティベリウスの頭を撫でる。
「そういうところが気に入ったんだよ」
気に入らない動作だった。ティベリウスはむくれてしまった。その腕を取って、カエサリオンはすたすたと歩き出す。秘密めいた翳は、もうどこにも見えなくなっていた。
「植物園の近くには、もう一つ秘密の研究所があるぞ。薬が採れるのは、なにも植物からだけじゃないからな。そっちのほうは見たければ見せてやってもいい。蛇に餌をやるのは、ワニよりも楽だろう」
ティベリウスはぴたりと足を止めた。カエサリオンの哄笑がさらに高らかに空へ抜けた。
「冗談だよ、可愛いやつ」
ティベリウスは昨日の惨劇を思い出していた。衝撃のあまり、まわりはほとんど見えていなかった。毒蛇と、苦しみ悶えて死んでいくクィントゥスとデキムス。眉一つ動かさない女王。目に焼きついているのは、それだけだ。けれどもカエサリオンも、確かにあの場にいた。
彼は今、笑っているのだ。




