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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第三章 アクティウム
18/57

第三章 ‐4

 


 4



 オクタヴィアヌスはアントニウスに使者を送り、対決か和睦か、決断を迫った。しかしアントニウスは、それに答える間も惜しんでほうぼうから軍勢を呼び寄せた。オクタヴィアヌスのほうも和睦など期待していなかったのだろう。軍団兵を防衛線の外に並べ、敵を挑発した。だがアントニウスは、軍勢が集結し終えるまで決して応じなかった。そして集結し終えるや、騎兵隊に湾をまわらせ、防衛線に迫った。新鮮な水の供給も妨害し、物資欠乏に追い込まんとした。

 今度はオクタヴィアヌスが動かなくなった。西以外の三方を取り囲まれ、逆に執拗な挑発を繰り返される立場になったが、攻撃に打って出る気配は見せなかった。水の供給は厳しくなったが、それでもイタリアと海路二日足らずの距離でつながっていたので、なんとかやりくりできた。

 敵兵が防衛線を脅かす不安の中、ティベリウスとマルケルスは表面上穏やかな生活を送った。午前はネストルの授業を受け、午後は軍団兵たちに相手をしてもらって武芸や馬術の腕を磨いた。合間には家族へ手紙を書いた。

 四月に入った。

 何度目になるか、ルキウス・ピソが防衛線へ出かけるのを見送ったあと、マルケルスが言った。

「叔父上はどうして攻撃しないんだろう?」

 ピソの背中を心配そうに眺めていた。

「きっとなにか、お考えがあるんだよね」

 同意を求められていると感じたので、ティベリウスはうなずいた。

「でもこのままじゃ、お水が無くなっちゃいそうだね。これからどんどん暑くなるのに、みんな苦しい思いをするんじゃないかな…」

 マルケルスは沈んだ顔でつぶやいていた。

 最高司令官の甥と継子はまだそれほど生活に不自由してなかったが、すでに軍団兵たちは飲み水だけはなんとか確保するものの、それ以外の水の使用は極力抑えていた。入浴設備もあってないようなもので、体を拭くのがせいぜいだった。軍医は、このままの状態が続けば、疫病が堡塁内に蔓延するだろうと話していた。

「戻ろう」

 ティベリウスはマルケルスの腕を引いた。二人はとぼとぼとテントのあいだを歩いた。後ろからは、トオンを含む四人の奴隷が続いた。二人とも、護衛なしに堡塁内を歩きまわらないように言われていた。

 テントの前で、炊事をしている軍団兵の組があった。彼らはこのたびの戦が、陸戦になるか海戦になるかという話題で盛り上がっていた。

「カエサルは、ギリシア各市とマケドニアに使者を送っているらしいよ。アントニウスを引き剥がすために」

 ティベリウスは教えたが、これはカルヴィヌスから聞いたことだった。

「だからそのうち事態は打開されるよ」

 それを聞いて、マルケルスは微笑んだ。

「そうだよね」

 だが一部が寝返ったとはいえ、ギリシア諸都市は未だアントニウスの勢力下だった。マケドニアもどちらにつくかわからない。ティベリウスもまた、オクタヴィアヌスとアグリッパが上陸の勢いそのまま攻勢をかけず、戦を引き延ばしている理由を測りかねていた。

 ピソは翌朝戻ってきた。このごろは、今回も敵陣に切り込む機会が巡ってこなかったと悔しがってみせる彼だったが、この日は一つ情報を持ってきた。

「アグリッパ殿と艦隊が、コマルスからいなくなった」

 その夜、レウカス島のアントニウス基地が急襲を受けた。アグリッパの艦隊が、陸に気をとられていた隙をついたのである。すぐ東の岬にはアントニウスの陣営があったが、湾外に港がなかったため、救援に向かうことはできなかった。レウカス島もオクタヴィアヌスの手に渡った。

 夜闇の彼方に、たいまつが陽気にゆれはじめた。それでも確信はできなかったが、まもなく快速船がラッパを吹き鳴らしながら戻ってきた。勝利の音色だ。ティベリウスとマルケルスもこれを聞くために夜更かしをして、岬の先端に出てきていたのだ。二人の歓声は、たちまち周囲のそれにかき消された。

「戦争は有利に進んでいますよね?」

 夜闇を突き破る騒ぎのあと、堡塁に戻りながら、ティベリウスはカルヴィヌスに確認した。まだ興奮が収まらなかった。

「今のところ、主導権は握っているね」

 カルヴィヌスはうなずいたが、慎重な調子だった。

「でもアントニウスはたいして痛手と考えていないと思うね。こちらとしては本国との連絡路がより安全になったが、アントニウスが陸から包囲している状況に変わりはない。レウカス島を捨てたところで困りはしないだろう」

 ティベリウスは前を見た。オクタヴィアヌスと手をつなぎ、マルケルスはうれしそうに歩いていた。幸い今の言葉は耳に届かなかったようだ。

「パトラスにはまだ敵艦隊が残っているんですよね。サギュントス島にも」

 ティベリウスの声はすでに落ち着いていた。

「そのとおり」

 カルヴィヌスはもう一度うなずいた。

「君の未来の義父が無事に戻るまで、我々は持ちこたえないといけないね」

 夜が明けても、アグリッパは戻ってこなかった。





「いったいなにをしとる?」

 馬屋の前で棒を片手に動きまわっているティベリウスに、ドゥーコが声をかけてきた。

「地面にお絵かきか? 子どもはのんきでいいわい。儂らが毎日軍規に服し、敵に警戒を怠らずにおるというのに――」

「踏まないで!」

 ティベリウスは叫んだ。

「地図を描いてるところなんだ!」

 ドゥーコは静止した。片足を上げた状態で数歩後方に下がり、そのままティベリウスの横へ来た。ティベリウスは額にへばりついた髪を満足げに払ったところだった。ドゥーコは眉間に皺を寄せて地面を、それからティベリウスを見た。

「これはギリシアの地図か?」

「そうだよ」

「あんたは地図を持っておらんのか?」

「ぼろくなっちゃって」

 蟹のように横に動いて出来栄えを確かめながら、ティベリウスは言った。

「こんな日差しの強い日に外に出したら、余計劣化が進むでしょ。それに一度描いてみたかった」

 フンと、ドゥーコは鼻を鳴らした。ティベリウスはその場にしゃがみ、つくづくと自分の地図を見た。アグリッパの次の行動のことを考えていた。

「このあいだ、兵たちが陸戦か海戦かの話をしていた」

 地図を見たまま、ティベリウスはドゥーコに話しかけた。

「あなたはどちらが良いと思うの?」

「陸戦だ」

 ドゥーコは即答した。

「儂ら軍団兵の力を存分に発揮できるのは、陸戦だ」

「でもあなたたちは、ガリアで海戦をやったことがあるでしょう?」

「海上から攻めたというほうが正しい」

 ドゥーコが訂正した。

「あのときはデキムス・ブルートゥスが優れた作戦を展開したが、それでも苦しい戦いだった。儂は船など好かん」

「でもエジプト女王は、きっと海戦を挑んでくるよね。あれだけ大がかりな艦隊を用意したのだから」

「可能性はある」

 ドゥーコは慎重に言った。

「そこをアグリッパが迎え撃つ」

 ティベリウスは輝く目で、地面のアンブラキア湾口を指した。

「ここから敵が出てくるのを、待ち構えればいいんだね。ナウロクスの話を聞いたことがあるでしょ? アグリッパは海戦に強いんだよ」

「だったら敵は陸戦でくるだろう」

 ドゥーコは無愛想に言った。

「アントニウス殿は陸に強い。儂もよく知っている」

 少しだけ顔を曇らせ、ティベリウスはドゥーコを見上げた。

「アグリッパは陸戦にも強いよ。それにカエサルは、アグリッパが戻ってくるまで会戦に応じないよ」

 それからもう一度地図に目を落とし、棒先で湾口をつついた。

「戻ってきたら、きっとここで決着をつけるんだ」

「このままでは挟まれるぞ」

 ドゥーコは教えた。

「湾口からは女王の十段櫂船と大艦隊、南にもまだ艦隊基地が残っとる。海で挟み撃ちにされたら、もう逃げ場はない」

「だから今アグリッパが手を打ちに行ってるんだよ。それまでここでカエサルが持ちこたえれば――」

「今のうちに艦隊が出撃したらどうする?」

 ドゥーコは短剣の先を湾内に向け、それから湾口へ動かした。

「今全艦隊で動けばだれにも止められん」

 ティベリウスは仰天した。

「そんなことしてどうするの? カエサルは陸にいるのに」

「西から包囲できる」

 ドゥーコは冷淡に言った。

「それからイタリアに直行できる」

 ティベリウスは地図を踏みつけて駆けだした。

「おい、待て。どこへ行く」

 左腕をつかまれた。

「カルヴィヌス殿のところ!」

 ティベリウスは足をじたばたさせた。

「馬鹿な坊主め」

 ドゥーコの手はびくともしなかった。

「旦那や将軍たちがそんな危険も考慮してないとでも思ったか」

 ティベリウスはぐいと首をまわし、ドゥーコを見上げた。ドゥーコは無表情だった。

「そんなことは起こらないという根拠があるんだろう。儂ら下の者には、上の考えなどようわからんが」

「だったらその根拠を聞きに行く! 離して!」

「…不思議だな」

 再びばたつくティベリウスを捕まえたまま、ドゥーコは怪訝な目をしていた。

「どうしてあんたはドミティウスの旦那に聞きにいく? あんたは最高司令官の家族だろう? 若カエサルに直接聞けばいいものを」

 ティベリウスはぴたりと固まった。

 足の下の地図は滅茶苦茶になっていた。





 ところがその日の午後、思いがけない機会が訪れた。オクタヴィアヌスが甥と継子に作戦会議への同席を許可したのである。二人は初めて軍の中枢を見学することになった。ピソとユバに両脇を挟まれ、総司令部テントの隅に腰を落ち着けた。

 テントが歴戦の将軍たちでいっぱいになると、マルケルスは背筋をぴんと張った。

「緊張するね」

 隣のティベリウスにささやく。表情も強張りがちだったが、目はきらめいていた。叔父の厚意がうれしいのだろう。

 ところが、彼の友人のほうは頭を抱えて苦悶していた。

「大丈夫、ティベリウス?」

「頭でも痛いのかい? 無理しなくていいんだよ?」

 ユバも心配そうに声をかけた。ティベリウスには苦悶しているつもりはなかったが、ピソまでが訝しげに眉をひそめたのに気づいて、気持ちを切り替えなければならないと思い至った。ぐっと顔を上げ、中央の卓をにらんだ。その上に、ギリシアの大地図が広げられていた。さらに重ねて、東地中海の地図、さらに地中海全域の地図も載っていた。

「先程アグリッパから報告が届いた」

 オクタヴィアヌスがまず口を開いた。

「無論勝報だ、レウカス島の。我が軍の損害はごくわずか。五隻ほど修理が必要とのことだが、すぐに次の行動に移れる」

 幕僚たちが口々に祝いの言葉を述べたが、すぐに収まった。大げさに讃える者も、浮ついた顔を見せる者もいなかった。微笑を返した最高司令官その人にも、興奮の色はまったくなかった。

 この人は最高司令官なのだ、自分みたいな子どもが煩わせるわけにいかない、カルヴィヌスならば煩わせていいというわけではないが、そういうことなのだ。ティベリウスは自分に言い聞かせていた。

 だがオクタヴィアヌスに拒まれたわけではない。むしろ自分やマルケルスに早い時期から積極的に学んでほしいから、この場に同席させてくれたのではないか。だったら――。

「アグリッパはこのまま南下する。彼が戻るまで、我々はここを動くつもりはない」

 するとルキウス・アルンティウスが手を挙げた。最高司令官に発言を許されてから、口を開いた。

「敵は我々の動きをどの程度察知しているのです?」

「それは私の担当だな」

 答えたのは、執政官同僚のメッサラだった。

「情報によれば、エジプト方はレウカス島を落としたのがマルクス・アグリッパだということさえまだ確かめていない。確かめようという気があるかさえ疑問だ」

「だからこの隙をついて行動を起こそうとも思いつかない」

 オクタヴィアヌスが付け加えた。

「アントニウスが、私だけになら勝てると思っていたとしても」

 アルンティウスは肩をすくめた。

「そのようなつもりで言ったのではありませんよ、最高司令官。私はただ、湾のすぐ向こう側にいる敵が、どうしてこうも動きが鈍いのか信じがたいだけです」

「我が軍が上陸したときからな」ルキウス・タリウスが言った。「レウカス島は、もっと防備を固めておくべきだった。時間がなかったわけではないのに」

「マルクス・アントニウスはおかしくなっているんでしょう。酒だか薬だか女王の色香だか、その全部だか知りませんが」

 軽蔑もたっぷりに吐き捨てるのは、キケロの息子マルクスだった。

「彼はここにいる全員をなめてますよ。いまだに自分がローマ一の将軍だと思っているから、こんな余裕をかましているんでしょう」

 そうだったことなど一度もないのに、とキケロはぶつくさ言っていた。彼は父と叔父と従兄弟の仇が憎くてしかたないのだ。

「色々聞いたところ、どうもキケロの言うとおりとしか言えない」

 メッサラは苦笑まじりだった。次に口を開いたのは、スタティリウス・タウルスだった。

「敵はこのまま陸上から包囲を続けるつもりか?」

 メッサラはうなずいた。

「そうらしい。もっとも、レウカス島の奪取で西の安全は確保されたので、我々もそれほど困らなくなったが」

「だから今後も陸の会戦には応じない?」

「そのとおり」

「だがもし敵艦隊が、湾内を飛び出してきたらどうします?」アルンティウスがアンブラキア湾をなぞった。「敵もいずれは知るでしょう、アグリッパの留守を。我が方の艦隊が減っている今こそ好機と考えたら?」

 これはドゥーコが口にした可能性と同じだった。

「我々を無視し、イタリアへ直行というわけか」メッサラは笑い声を上げた。「ちょっと面白いな」

 マルケルスの横で、ピソは口元を覆っていた。やり過ごされ、馬鹿面を下げて岬に立ちつくす自分たちを想像して、思わず吹きそうになったらしい。

「敵は西から包囲することもできますよ、一応」

 発言した当人のアルンティウスまでが笑みを浮かべていた。メッサラは陽気に首を振った。

「まず第一に、我が軍の艦隊はまだ半分残っているから、そう簡単に外へは出さない。第二に、敵はアクティウムより西の状況をなに一つ知らない。我々がコマルスとレウカスから湾口に目を光らせ、いつでも挟み撃ちにする意図でいると考えているだろう。第三に、今のところ敵は、乗船準備をする気配をまったく見せていない」

「どうしてそんなことがわかるの?」

 マルケルスが小声でピソに尋ねた。

「もちろん、敵陣に密偵を送ってるんだよ」

 ピソが秘密めいた口調で教えたが、なんだか芝居がかっていた。マルケルスは目をまんまるにした。

「密偵!」

「そのうえ毎日みたいに脱走兵が逃げてきてはべらべらしゃべってくれるからな。楽なもんだよ」

「脱走兵? アントニウスのところから? 全然気づかなかった」

「君たちには会わせないようにしていたんだよ」今度はユバが教えた。「万一のことがあったりしたら困るだろう」 

「万一のこと?」

「たとえば、君たちをこっそり袋に入れて、アントニウスのところへ戻っていくとか」

 マルケルスはびくりとなった。

「おっと、これは笑い事じゃないぞ」

 ピソがつぶやく。ユバは申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんよ。怖がらせるつもりはないんだ。君たちには護衛がついているし、脱走兵にも見張りがついてるから」

「そうそう」ピソはうなずいた。「そんなこと言ったらカエサルだって、敵の密偵にいつ襲われてもおかしくないんだから。ただ、注意はしろよ」

 オクタヴィアヌスが安全なはずの味方陣営で命を狙われた経験があることを、ティベリウスは知っていた。彼は腕を絡めてくるマルケルスに言った。

「ぼくがついているから心配するな」

「そういえば、まだ私はアントニア号をこの目で見ていなかった」今はマルクス・ルリウスが楽しげに話していた。

「今度物資調達のついでに見物に行こうか。噂の十段櫂船がいかばかりかを」

「それに加えて敵は五段櫂船が主力なんだ」メッサラが続けた。「乗船準備にはかなり時間がかかるだろう」

「なのにその気配もないと」アルンティウスは呆れた様子だった。

「したくてもできない、というのもある」

 今度はオクタヴィアヌスが話しだした。

「敵は現在、漕ぎ手不足に悩まされている。病や脱走で減ってしまってな。それで五百隻すべてを動かすことは到底できない状況だ。だから今は海戦を挑むどころではないのだろう」

「漕ぎ手を求めてギリシアじゅうを奔走している」メッサラがつけ加えた。「無論、兵の数でも少なからぬ損害を被っている。戦準備が早すぎたために、敵はこの肝心な局面で綻びてきたわけだ」

「もしくは我々が上手い具合に引き延ばしに成功したかだ」オクタヴィアヌスは微笑んだ。「さらに我が軍は敵の補給路も絶ちつつある。この後彼らはますます厳しい状況に陥るだろう」

「なんとまぁ、世界一の金持ち国が、貧困に苦しむわけですか」

 ルリウスが両腕を広げ、タウルスがそれに応じた。

「金ですべてが買えるわけではないからな」

「ギリシア人だって、もういいかげん疲弊しているでしょうな。十一万人を養うのに」腕を下ろし、ルリウスは首を振った。「呼びかけを強めるべきでしょうな。喜んで我らの側に与する都市が、もっと現れるでしょう」

「そちらは任せる」

「承知、最高司令官」

 ルリウスが敬礼する。その横から、カルヴィヌスが初めて口を開いた。

「我々は、海戦での決着に持ち込むつもりかな?」

「まだあらゆる可能性を検討中です」

 オクタヴィアヌスは慎重な答えを返した。

「敵はどう考えているのだろう?」

 いつもどおりの、のんびりとした口調で問い続けた。この人はファルサロスの副将、だから自分はこの人に話を聞きはじめ、その流れで今に至るのだ。ティベリウスはそう考えようとした。

 だからぼくは、カエサルを避けているわけじゃない。

「それがかなりもめているらしいのです」メッサラが答えた。「ローマの将軍らは陸戦を、エジプト女王は海戦を主張して、軍議は大わらわ」

「女王は二百隻もの船を引き連れてきたのだからね、使いたくてしかたないのでしょう」タリウスが鼻を鳴らした。「まるで総司令官気取りだ」

「当然だ。女王が敵の総司令官なのだから」

 オクタヴィアヌスがさらりと指摘すると、タリウスは一瞬言葉に詰まった様子を見せた。それからあわててうなずいた。

「そうでした。これで楽になりますね。女に司令官が務まるものか」

 アルンティウスがため息をもらした。

「気の毒にな。女に顎で使われるローマ人も」

「それで毎日のごとくこちらに逃げてきているんだ」メッサラは苦笑した。「私は毎日、彼らの愚痴を聞いている。カエサルが情け深くも彼らを無事にローマへ送り返しているから、数は減っていくはずなのだが、その噂を聞きつけた脱走者が、またさらに押しかけてくるというわけだ」

 脱走はしたもののアントニウスと敵対する気にはなれない者たちを、オクタヴィアヌスは本国に送り返していた。寛大な処置だったが、情報さえ聞き出せれば、あとは下手に堡塁に留まって協力されるよりも帰国してもらったほうが助かるのだ。ティベリウスはそう思い至っていた。

「自称ディオニッソス君の腹はどうだろう?」

 カルヴィヌスが質問を続けた。

「決まっていないようです。ローマの友人と愛する女人の板挟みになって」メッサラは額を押さえた。「まったく嘆かわしい。彼がここまで優柔不断になってしまうとは。このところののろまぶりは、まるでまともに戦略さえ考えていないのではないかと思うほどだ」

「大雑把にはあるんだろうがね。彼は細かいことが苦手だから」

 笑みを浮かべるカルヴィヌスに、今度はオクタヴィアヌスが問いかけた。

「敵が取り得る妥当な戦略はなんでしょう?」

「アルンティウスが言ったように、今この機会に海上へ打って出る気がないのなら、陸だ」カルヴィヌスは相変わらずのんびりと、だがよどみなく答えた。「数はいくらか減ったかもしれないが、それでも戦力は我が方を上回っていることに変わりない。まず陸で会戦。勝利すれば最高だが、悪くても引き分けて、こちらの戦力を削いだうえで、今度はただちに艦隊を動かす。漕ぎ手の問題だが、金は十分あるし、勝利が知れ渡ればすぐ集められるだろう。それで一路イタリアへ向かい、完勝となる」

 マルケルスとユバが目を剥いていた。やり過ごされるよりはいい、とピソは指を鳴らす仕草をした。彼は本気で敵に切り込む気満々であると、ティベリウスは危機感を覚えた。

 オクタヴィアヌスは沈着にうなずいた。

「敵艦隊がアンブラキア湾に収まっている利点ですね。向こうから外に出てこないかぎり、こちらからは手が出せない。だが手を出せない代わりに、こちらは湾から出さないこともできる」

 カルヴィヌスは微笑を浮かべてオクタヴィアヌスを見た。

「最高司令官は我慢比べが得意と見える」

「意外に思えるかもしれませんが、はい」





 情報を知るのは良いことだ。作戦会議に同席させてもらったおかげで、ティベリウスは今後の動向について、必要以上にあれこれ思い悩むことがなくなった。それはマルケルスも同様らしく、顔つきが堡塁暮らしをはじめた当初より晴れやかになった。生来の気さくさも発揮されるようになり、堡塁で暮らす多くの人と仲良くなった。

 ティベリウスがすごいと思うのは、マルケルスがいつも嫌な顔一つ見せないことである。まず、だれにでも笑顔で挨拶する。挨拶はするが、笑顔は作れないティベリウスとは違った。そしてだれにでも分け隔てなく親切だ。相手が元老院階級の幕僚だろうと、一介の軍団兵だろうと、変わらず朗らかだ。奴隷にまで優しい。ティベリウスなら嫌悪を露わにするおべっか使いにさえ、丁重な態度を崩さない。そんな連中につきまとわれる機会がだれより多いのに。それでいて歯の浮くようなおせじに惑わされることなど一切ないのだ。

 マルケルスが傷病兵のもとを訪ねようと言い出した時、ティベリウスは最初止めた。君が病気にでもなったらどうするのかと。彼の叔父ほどではないが、マルケルスはときどき体調を崩して寝込むのだ。だがマルケルスは退かなかった。そして、自分は子どもだけれど、叔父上のおかげで従軍を許されたのだから、なにか少しでもお役に立てるようなことをしたい――そう熱を込めて語った。医療テントで患者一人一人の手を取り、感謝と励ましの言葉をかけていく姿を見た時、ティベリウスは頭を上げられない思いがした。

 マルケルスは義務感でそうしているのではない。飾らない真心からの思いやり、そしてなによりオクタヴィアヌスの甥であると言う責任感が、彼を奮い立たせているのだ。

 どんな人物にも長所を見いだす。分け隔てなく優しい心で接する。無防備にさえ思えるほど心を開く。それは勇気の一つの形だと、ティベリウスはわかっていた。ごく一部の者と話すことしかしない自分にはできそうにない。たとえその素直さがときに感情のゆらぎをもたらそうと、勇敢で純粋である故なのだ。

 守ってあげなければ。

 二週間後、アグリッパがパトラスを陥落させたという知らせが届いた。





「飯時にやってくるとはあざとい坊主め」

 開口一番、ドゥーコはそう言った。ティベリウスはむくれた顔をした。別にドゥーコの夕食を相伴するためにこの時間に訪れたわけではなく、午後の肉体鍛錬のあと、マルケルスがユバやネストルと話し込んでいたので、暇ができたのだ。

 それでもドゥーコは、手作りの豚肉入りの粥を振る舞ってくれた。ベテラン兵の手料理に興味があったので、ティベリウスも遠慮せずいただくことにした。

「今度はなんだ? このあいだ話したファルサロスの話だけでは足りんのか?」

 堡塁暮らしがはじまってから、ティベリウスは暇を見つけてはドゥーコのところに通っていた。前回は、ファルサロスの戦いを詳細に語ってもらった。お前さんのような貴族の小僧っこは、儂らが顔めがけて槍を突き上げたらすぐに逃げ出しよったわ、などとかなり乗り気でしゃべってくれた。

 だから最初のこの憮然とした態度も、ティベリウスは慣れてきていた。

「聞きたい話はまだまだあるよ」

 口を動かしながら答えた。大味だが、おいしい。がつがついきたくなる。

「ガリアの話、ゲルマニアの話、ブリタニアの話、ヒスパニアの話、それからアフリカの話」

「儂の喉をつぶすつもりか」

 にこりともせず、ドゥーコは言った。

「これだから貴族は。儂ら下っ端の都合など考えもせず、わがまま放題ぬかして平然としておる」

「神君カエサルだって、貴族でしょ」

「そうだ」

 ドゥーコはあっさりうなずいた。

「あの御方のわがままも、すがすがしかった」

 この日はアフリカの話を聞かせてもらった。とくに面白かったのは、軍団兵たちに象の扱い方を伝授する神君カエサルだった。最高司令官が手ずからである。一体どこで覚えたのだろう。

 神君カエサルはまた、馬の扱いも得意だったことで知られている。手放しで、曲芸師さながらに乗りこなしたと伝えられる。彼は人間だけでなく、動物の心まで見通すことができたようだ。

「儂はゲルマニアの森で一角獣を見たぞ」

 このように、ドゥーコの話題はときどき逸れた。ティベリウスは身を乗り出した。

「本当に?」

「ああ。もう少しで捕まえて総大将の下へ引きずっていけるところだったが、やつは凶悪な角を突き出し、隊列のあいだを流星のような速さで突っ走っていきよった。儂らは夢中で追いかけたが、危うくあの果てのない森で迷子になるところだった」

 戦争と同じくらい、彼らは冒険に熱心だったようだ。心が当時に遡った語り手と一緒になって、ティベリウスも興奮しきりだった。

 それでも鍛錬のあとで疲れていたのだろう。夜がふけるころには、すやすやと御座の上で眠ってしまっていた。トオンが若主人をそっと抱き上げ、総司令部のテントに戻っていった。

 翌日の同じ時間、ティベリウスは小麦の袋と葡萄酒の瓶を持って、ドゥーコのところへ行った。

「これはなんだ?」

 ドゥーコは顔をしかめた。今度はたき火で魚を焼いているところだった。ティベリウスは答えた。

「食料は配給制だと聞いた。昨日ぼくが食べた分を返す。あなたの食事がなくなってしまうから」

「儂がそんな間抜けだと思ったか。客は厚意をありがたく受け取るもんじゃろうが、子どものくせに。そっちは葡萄酒か?」

「うん」

「もらおう」

 受け取るや、ドゥーコは瓶から直に飲んだ。ティベリウスは目をしばたたいて見守った。

「割らないの?」

 ティベリウスのまわりの大人は、だれでも葡萄酒を水で割った。

「割らん」

 拳で口をぬぐいながら、ドゥーコはきっぱりと言った。それから串刺しにして焼いていた魚を取り上げると、ティベリウスに差し出した。炎越しに、ティベリウスは手を伸ばさなかった。

「食え、遠慮するな」

 ドゥーコはさらに突き出してきた。

「これは配給じゃない。さっきコマルスで釣った」

 誤解していたが、ドゥーコはそう言ってくれた。ひょいと串を放り投げ、子どもの膝に乗せた。

「…ドゥーコが釣ったの?」

「そうだ。儂のようなベテラン兵は、日頃の肉体労働が免除されておる。それで暇があった」

 ティベリウスは改めてドゥーコの体躯を見た。軍団兵は年齢別にプリンキペス、ハスターリ、トリアーリに区分されるが、もう五十一歳になるドゥーコは、トリアーリの年齢も越えていた。だから彼らの参戦は、神君カエサル下ベテラン兵の力を頼む、オクタヴィアヌスの求めによるのだろう。ドゥーコ自身、カルヴィヌスの誘いを受けてはせ参じたと言っていた。

 ドゥーコは戦士として、体格に恵まれているとは言えなかった。ガリア人やゲルマニア人には馬鹿にされる、ローマ人の短躯の例に漏れない。それでも強くて勇敢な戦士だったので、百人隊長にまでなれたのだろう。日に焼けた肌に走る幾筋もの白い線は、彼が長年前線で戦い続けた証の傷痕だった。だがそんな彼も、首席百人隊長の地位ではなかったようだ。彼は不完全な身一つ、短所を抱え長所を奮い、ここまで生き残ってきた男だった。

「アントニウスの側にも、ドゥーコのようなベテラン兵がいるの?」

 ティベリウスは魚をかじった。

「何人かな、行った」

 ドゥーコもむしゃむしゃと口を動かしていた。

「あいつらは、アントニウス殿が総大将の代わりになってくれると思ったんだろう」

 ドゥーコの目は、以前神君カエサルについて語ったカルヴィヌスと同じ色をしていた。たしかに軍事の才という点では、アントニウスのほうがオクタヴィアヌスより恵まれていることを、ティベリウスでさえ認めざるをえない。世界最強の将軍の影を追い求めるなら、アントニウスに従うほうが自然だろう。遺言状にどう書かれていようと。

「総大将と若カエサルが似ている点と言えば、酒を飲まないことぐらいだな」

 ドゥーコは酒瓶に笑いかけ、それからすっかり飲み干した。ティベリウスはオクタヴィアヌスが飲まないのではなく、飲めないのだということを知っていたが、わざわざ口には出さなかった。

「似ても似つかない人を息子にしたもんだ」

 ドゥーコのつぶやきに、ティベリウスも反対できなかった。

「ドゥーコはアントニウスのほうに行こうとは思わなかったの?」

「思わんね」

 ドゥーコは即座に言った。

「どうして?」

「総大将が決めたことだからだ。あの御方の命に従うのが、儂らの務め。だから亡きあとも、その遺志に従う。儂にもあの若カエサルのどこを見込んだのかよくわからんのだが、そんなことはどうでもいい。儂はただひたすら、あの御方についていくまで」

 ティベリウスは伏し目になった。ドゥーコの上官は今でもたった一人だ。

 ドゥーコはまた笑みを浮かべていた。

「『お前たちに私に尋ねたり、自らで考えたりする義務があるとでも思っているのか』とは、総大将の言葉だよ」

 それはティベリウスも『ガリア戦記』で読んでいた。

「アントニウスのことを残念に思うよね」

 ぼそっと問いかけた。だがドゥーコの口調は醒めていた。

「戦というのはそういうもんだ。あのラビエヌス殿だって、総大将の敵になった」

 ラビエヌスとは、神君カエサルが最も信頼を寄せていた男だった。ガリア戦役一年目から、首席副将として激戦を戦い抜いた。それより以前から、神君カエサルにとっては苦楽をともにした無比の右腕であったという。ところがラビエヌスは、ルビコン渡河と同時にポンペイウスの側へついた。そして以後、ヒスパニアで壮絶な最期を遂げるまで、最も過激な敵の一人であり続けた。

 ポンペイウス側の者は、神君カエサルが最も親しい友にまで見捨てられたと吹聴した。国法を犯し、元老院を踏みにじり、ローマを我がものにせんとしたカエサルの暴挙に、ラビエヌスでさえ耐えられなかったのだと。だがラビエヌスは、自分の真情をなにも語らずに死んだ。ただ、敗走の末に捕らえられた元部下に向かい、こう叫んだことが伝えられている。

「お前たちはそれでもカエサルの戦士か!」

 そしてかつての部下を一人ずつ槍で串刺しにしていったという。

 恐ろしい考えに囚われた。ティベリウスの目には絶対の信頼関係で結ばれたオクタヴィアヌスとアグリッパ。彼らのあいだにも、このようなことが起こり得るのだろうか。さらにはマルケルスと自分にも。そして――

「馬鹿な…」

 ティベリウスは我知らず声を漏らしていた。ドゥーコが眉根を寄せた。

「なにが馬鹿だ?」

「なんでもない!」

 ティベリウスは激しく首を振った。脳裏をちらついた父ネロの顔をかき消すように。そして急いで次の言葉を口にした。

「ドゥーコは、どうして神君カエサルがルビコン川を越えたと思う? 一緒にいたんでしょ?」

 話題がだいぶ変わったが、ドゥーコは驚くそぶりも見せなかった。

「知らんよ」

 そっけない答えが返ってきたが、ティベリウスはかまわず続けた。

「元老院をつぶしたかったのかな?」

「そんなことをするつもりなら、敵をことごとく許しはせんかったろう。挙句、その許した連中に自分が殺されてしまったんだ」

「…そうだね」

「若カエサルはその前轍を踏むまいと考えているのか、以前に政敵を皆殺しにしたそうだな」

「カエサルじゃない!」

 ティベリウスはだしぬけに叫んでいた。

「アントニウスとレピドゥスがやったことだ。カエサルは、しかたなく――」

「得をしたのは皆同じだろう」

 ドゥーコは淡々と言い、ティベリウスを凝視した。

「なぜそんなに怒る? 儂は若カエサルたちのしたことに、反対するつもりはないぞ。あれも総大将の仇討ちだ。それにああでもせんと、今ごろ若カエサルも元老院に殺されとったかもしれん」

 ティベリウスの顔が青ざめていった。

「それでもあまり気分の良いものでないことは確かだが…」ぼそりとつけ加えるドゥーコは、ティベリウスから目を逸らしていなかった。「それともひょっとして、お前さんの父親もあの処罰者名簿に載せられたのかね?」

「ちが、う…」

 膝に乗せた両拳が震えていた。

 ドゥーコはしばらくその様子を眺めていたが、やがて視線をたき火に逸らした。

「なぜルビコンを越えたのかと、お前さんは尋ねたが――」あっさりと話を戻す。「あの時、ほんの一瞬だけ、総大将の笑みがおびえているように見えた。儂は一生忘れんだろう。それからあの御方はこう言った。『ここを越えれば人の世の地獄、だが越えなければ我が破滅』」

「…神君カエサルは、自分のためにルビコンを越えたと?」

 声にぎこちなさを残してはいたが、ティベリウスは目線を上げた。

「綺麗ごとはなに一つ言わんかった。儂らが総大将を好く、数多くの理由の一つだ」

 でもその一線を越えて以来十八年、ローマではローマ人同士が争う内乱が続いている。おそらく責任の半分は暗殺者たちに帰せられるだろうが、もう少し大義名分を語ってよさそうなものだ。だが神君カエサルは、自らの考えを直接語って聞かせる男ではなかった。その代わりこのうえなく明快に、行動で示す人だった。そして『ガリア戦記』などの書物を通じて、自分の考えにつながる材料を提供した。

 ティベリウスは思う。ドゥーコたちにはあのように言っていたが、神君カエサルは「考える」ように求めていたのではないか。国家を担うべき人材に、自分が成そうとしていることはなにか。

 新しいローマとはなにか。

「暗殺者たちが言うように、神君カエサルは王になりたかったのかな?」

「『私は王ではない。カエサルである』 あの御方はそう言っとったぞ」

 ドゥーコは笑い声をもらした。

「まるでカエサルという名が、王を越えるなにかであると言わんばかりだろう?」

 ティベリウスは黙っていた。たき火はすでに煙がくすぶるばかりになっていた。ドゥーコは燃えかすを軽く蹴とばした。

「そんなカエサルの名にふさわしい男が、果たしてまた世界に現れうるか?」

「神君カエサルはもう指名してる」

 ティベリウスは思い出させた。ドゥーコは右肩を少しすくめてみせた。

「そうやってカエサルは受け継がれていくわけか。オクタヴィアヌス殿に」

「マルケルスに」

 ティベリウスの言葉に、今度は右眉を上げるドゥーコだった。

「お前さんと一緒にいる、あの少年か? 『ローマの剣』の子孫という…」

 それから目尻に皺を寄せた。

「確かにお前さんよりはいいだろう。あの子は良い子だ。お前さんみたいにお高くとまったところがなく、人好きがする。見かけより芯も強そうだ」

 そのとおりだと思っていたので、ティベリウスはなにも言わなかった。ドゥーコはうなり声を漏らしながら立ち上がった。筋が強張っているのか、ややぎこちない足取りでたき火をまわってくる。

 その目尻には相変わらず皺が寄っていた。

「だれもお前さんを応援しそうにないので、儂が応援してやろう」

「なんの?」

 ドゥーコはそれに答えなかった。ティベリウスの肩を押し、もう遅いから戻るように言っただけだった。





 敵本営であったパトラスの陥落により、オクタヴィアヌス軍はひときわ大きな歓喜に包まれていた。堂々たる勝利で、アグリッパはクイントゥス・ナシディウス率いる艦隊を海戦で破ったのだという。これで敵は、ギリシアにおいてアンブラキア湾以外の海上戦力すべてを失った。

 さらに敵は事の重大性を認識する暇すら与えられなかった。アグリッパは休む間もなくコリント湾の奥へ進撃した。地峡の都市コリントを占領し、敵地からペロポネソス半島を丸ごと切り離すことに成功した。南からの補給を完全に断たれた敵にはもはや、アテネ経由の頼りない補給路しか残されていなかった。

 そんな五月、マルケルスは十一歳の誕生日を迎えた。本営全体が祝いで盛り上がった。戦勝続きの明るい空気が、さらに華やいだ。

 マルケルスは今や堡塁で暮らす人々の心の癒しになっていた。彼の姿を見かけて目を細めない軍団兵はいなかった。午前には彼が詩を朗読する声を聞きたいがために、テントの周りに人だかりができた。午後も同じく、その鍛錬を見物する人が詰めかけた。そしてマルケルスが剣を振るたび、「さすがはカエサルの甥! ローマの剣の子孫!」と声援を送るのだった。

「やつらはまったくのおべっか使いでもないぞ、坊主」

 ティベリウスの相手をしながら、ドゥーコが言った。

「あの子の筋は本物だ。油断すれば食われるぞ」

 わかっているとティベリウスはうなずき、ドゥーコに次の一太刀を打ち込んだ。

 そんなマルケルスだから、誕生日といえども少しも気ままに過ごせなかった。一日中客に応対していた。彼の手を取っては祝い口上を述べる人々に、感謝の笑みを絶やさなかった。

 ティベリウスはしばらく前から誕生日の贈り物に悩んでいた。堡塁暮らしが続くこんな時だからこそ、なにか心の慰めになる品を渡したかった。だが東西南を水に囲まれ、北を敵に封鎖されている状態でなにを用意できるだろうか。買い物にさえ出かけられない。

 結局、手先の器用な軍団兵の一人に頼んで、腕輪を作ってもらった。木製だが、凝った彫刻を施して、小さな水晶をはめてもらった。あたたかい感じがして好き、とマルケルスは喜んでくれた。

 それ以外にも多くの者から祝いの品が届けられたが、母オクタヴィアによる手作りの焼き菓子にかなうものはなかっただろう。海の向こうから届いた母の味を、マルケルスは食べるのがもったいなさそうに、少しずつ少しずつかじるのだった。

 その夜、ようやくテントから祝い客が消えたあと、マルケルスはさすがにふうっと吐息をもらした。ティベリウスは彼をねぎらい、なにかしてほしいことはないかと尋ねた。するとマルケルスは、とてもはにかんだ様子でこう頼んだ。

「今夜は一緒に寝てくれる?」

 彼の腕をしっかとつかんで眠るマルケルスを眺めて、ティベリウスは思った。堡塁暮らしがはじまってもう二ヶ月。マルケルスも疲れを溜めているし、本当は家族が恋しくてたまらないに違いない。このまま戦が順調に進み、早く決着がついてくれればいいが、と。

 コリント占拠が敵に知れた時宜を得て、本営もついに沈黙を破った。スタティリウス・タウルス率いる騎兵隊が、敵の包囲網を打ち破ったのである。敵はアンブラキア湾の対岸まで敗走していった。これで北の封鎖が解除されたオクタヴィアヌス軍は、より広範囲に動くことができるようになった。物資補給や、ギリシア諸都市との使者の行き来も容易になった。

 反対に敵は、今やアグリッパの展開する包囲網に捕らわれていた。それは西と南、さらには北からも迫り、彼らをアンブラキア湾に閉じ込められたも同然の状態に追い込んでいった。

 すべてが順調に進んでいるように見えた。





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