第三章 ‐5
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六月に入った。この期に及んでも、敵は決戦を急ぐ様子を見せなかった。オクタヴィアヌスが応じなかったからでもあるが、積極的な行動をほとんど起こさずにいた。何度か包囲網を突破しようという試みはされたが、結局足並みが乱れたようで、不発に終わるのだった。
アントニウスが脱走者を捕まえては拷問と処刑をくり返しているという話を、ティベリウスは聞いた。怒りの感情は残っているようだが、果たして最高司令官としての自覚とか気概とか意欲はあるのだろうかと、ティベリウスでさえ疑問に思えてきた。それとも元からそのような男だったのだろうか。「意志薄弱の権化」と父ネロが言っていたように。
女王のほうはどう思っているのだろう。自分がまずい状況に追い込まれているとは考えていないのか。逆転の秘策でもあるのだろうか。まさかとは思うが、総司令官気取りの振る舞いをしておきながら、戦争のことより『王宮殿』での豪遊生活に忙しいのだろうか。下の者は皆、物資不足に苦しんでいるだろうに。
オクタヴィアヌス側に保護された脱走者たちは、だれもかれも『最高司令官』女王を嘆いてはばからなかった。軍議では歴戦のローマ将軍を押しのけて幅を利かせ、自説を主張して譲らない。陸戦を望む彼らの意見に耳を貸さず、自国艦隊を頼んだ海戦に固執する。頼みのアントニウスはといえば四六時中酔っ払い、なにを考えているかわからないという。
これを聞いたオクタヴィアヌス側の者は言った。女王は勝利すれば手柄を独り占めにし、アントニウスさえ脇にのけて自分が世界の王者に君臨するつもりなのである、と。
脱走兵に加え、このごろ本営内では、ギリシア諸都市からの使者が列を作っていた。オクタヴィアヌスへの寝返りだった。東方同盟国の王たちも次々離反し、オクタヴィアヌスに恭順を誓ってきた。アントニウスとエジプト女王による連合軍は崩壊しはじめていた。
一方、オクタヴィアヌス側から脱走する者は、今のところ一人もいないという。
「叔父上が正義である証拠ですね」
誇らしげに言う甥に、叔父もまた自信あふれるうなずきを返した。マルケルスは喜んでいた。
「叔父上が優勢に進んでますよね。このまま敵をやっつけてしまわないのですか?」
「いや、まだだ」
きっぱりした叔父の言葉に、マルケルスの顔から一瞬笑顔が消えたのを、ティベリウスは見逃さなかった。
「まずアグリッパが戻ってきていない。それに、ここで勝負に出ては包囲網を設けた意味がなくなる」
「どういうことです?」
マルケルスはなにも感じなかったかのように尋ねた。
「エジプト方が陣営を構えている場所は、湿気が多く、疫病が発生しやすい地域だ。この春までの漕ぎ手減少も、それが原因だった。これから暑くなれば、さらに流行るだろう。補給路も断っている。夏が終わるころには、もっと戦力が減っているだろう」
マルケルスは絶句した。立ち直るのにしばらく時間がかかった。
「…敵が病気や空腹で倒れるのを待つというのですか?」
「残酷に聞こえるか?」
叔父は甥の衝撃にようやく気づいたようだ。
「確かにそうだな。だがこれは、我が軍の勝利を確実にするための戦略だ。敵の力が弱まれば、決戦において我が軍の犠牲が少なくて済むことになる。味方の命を守るためなのだよ。それに彼らには脱走や離反という選択肢もあることを、忘れてはいけない。彼らはまだ、自分の運命を自分で決められるのだ」
「…そうですね」
浮かない顔ながら、マルケルスはこくりとうなずいた。
「叔父上は優しい人だもの。逃げてきた人の命はみんな助けてる。だからこれが、一番良い方法なんですよね…」
それでもティベリウスは空恐ろしい感覚をぬぐえなかった。戦略そのものにではなく、これを美しい顔の眉一つ動かさないまま、淡々と語るオクタヴィアヌスに。そのなにも映らない灰色の双眸に。
「お前たちにはもうしばらく苦労をかけることになる。辛いのなら、ひとまず本国に戻ってもかまわないが」
叔父のこの言葉に、マルケルスはぶんぶん首を振った。それから目に染みるような笑顔で、大丈夫と朗らかに請け合った。
叔父のテントを出たあと、マルケルスはティベリウスに話した。この戦略を続ければ、もしかしたらアントニウス軍全体が降服してくるかもしれない。そうなれば一番良いのに、と。
だが、事態は彼の期待どおりには運ばなかった。
その夜、ティベリウスはまたもドゥーコのところで、話を聞きながら眠ってしまった。ところが今回は、トオンに抱かれてテントに戻る途中で目を覚ました。トオンはこのまま連れていくつもりだったが、ティベリウスは下ろすように命じた。目をこすりながら歩きだし、ふと上を見上げると、満天の星空が広がっていた。
「今夜はひときわ美しいですね」
トオンの言葉に、ティベリウスはうなずいた。
「坊ちゃまは星が好きでしたね?」
「うん。大きくなったら、天文学をいっぱい勉強したい。アレクサンドリアのムセイオンで研究してみたい」
「坊ちゃま――」
「わかってる。ぼくはクラウディウス・ネロ家の長男だもの。まずは国家を担う立派な男にならなければ。いつでもカエサルやマルケルスのそばにいて、力にならなければ。でも、もし、いつか…すべてやるべきことを終えて、引退する時が来たら――」
「坊ちゃま!」さすがにトオンものけぞった。「まだ十歳の御身で、引退ことを考えるだなんて!」
「はは、変かな」
ティベリウスも気恥ずかしくなって、微笑んだ。
「でも本当にそう思うんだよ。いつか国家が平和になって、カエサルが戦争に行かなくなって、マルケルスが立派な指導者になって、カエサルの娘と結婚して、子どももたくさん生まれたら――」
「そのときは私もお供します。まだ命があれば、ですが」
トオンは若主人に微笑み返した。それからもう一度、星空へ目を向けた。
「私には難しい学問はよくわからないのですが、この星々はきっと、世界のどこでも同じように輝いているのでしょうね」
「うん」
「星には物語があるのでしょう、神々の?」
「そうだよ」
「でも、それにしても数が多い。人間も、死を迎えれば魂が天に昇るのですよね。そして輝く星の一つになるのだと、言う者もおりますね」
「うん」
「亡き旦那様も、きっとあそこにおられますよ。いつでも天から坊ちゃまを見守っておいでです」
「そうかな…」
「そうですとも」
トオンは大きくうなずいた。夜空を見上げたまま、ゆっくりと足を進めていく。まるで目に見えない、果てなく伸びた道の上を、一歩ずつ、そこへ近づいていくように。
ティベリウスは、トオンの指に自分のそれをからめた。
「ところで、私ども奴隷はどうなのでしょう? ほんの小さなひとかけらの星にでもなれるのでしょうか?」
「トオン、死ねば主人も奴隷も関係ないよ。だってぼくたちは運命が違うだけだもの。人間世界では不運を経験することになっても、神々の世界では同じ人間だよ」
「そうおっしゃっていただけてうれしいです。もっとも私は、自分がそれほど不運だとも思っていませんが」
二人はいつのまにやら帰るべきテントを通り過ぎていた。気づいた時には、後門の前まで来ていた。
「外に出たいな」ティベリウスはわがままを言った。「防壁がなくなれば、もっとたくさん星が見えるよ」
「…やってみましょう」
トオンも同じ気持ちだったらしい。見張りの門番と交渉しにいった。
後門の先には、アクティウムの果てがあるだけだった。敵が入ってくる場所ではない。二人はそろそろと堡塁の外へ出た。後ろから軍団兵が二人ついてきた。
地平線まで続く星座の競演に目を奪われながら、ティベリウスとトオンは岬の先端へ進んだ。
「坊ちゃま、天文学では生まれた日の星位を読めば、その人物の運命がわかるそうですね」
「うん。カエサルも見てもらったことがあるんだって、アグリッパと一緒に。アグリッパもすごい話をされたんだけど、カエサルはもっとすごい運命を予言されたんだって」
「坊ちゃまも見てもらったことがあるのですよ。お生まれになったときに」
「本当?」
「ええ。その星読みはこう申しました。『この子はいずれ王になるだろう。ただし王である証は一切持たず』」
「そういう占い師は、だいたいみんな大げさなことばかり言うんでしょ? 家の主人に気に入られたいから。ぼくはインチキ占いは信じないよ」
「旦那様は『ローマに王などあってはならぬ』と気分を害された様子でしたね」
そうだろうとうなずきかけたとき、ティベリウスは目をしばたたいた。
空が晴れわたっているにもかかわらず、眼下の湾口は靄に包まれていた。湾の奥までずっと。そこで、何かが動いた気がしたのだ。
「坊ちゃま?」
ティベリウスは湾口に近づいた。くの字に曲がった食道に、しきりに目を凝らす。靄の向こうで、ムカデのように蠢いていた。黒い影が、何匹も、何匹も。音もなく静々と、湾口めがけて這ってくる。胃袋の奥から、途切れることなく。
「大変だ!」ティベリウスは叫んだ「敵船だよ!」
「なんですって?」
岬から転げ落ちかねない若主人を支えながら、トオンが眉根を寄せた。
「ほら、あそこ!」
ティベリウスは指差したが、トオンの目にはまだ見えないらしい。焦れたティベリウスは何度も飛び跳ねてはトオンの肩を叩き、大声を上げ続けた。そこへ見張りの軍団兵たちが近づいてきた。
それから、堡塁は大騒ぎになった。
岬の真ん前まで来たアントニウス軍は、今やだれの目にもはっきり確認できた。その数およそ六十。全艦隊が飛び出してきたわけではない。すぐにでも出航できる数だけ動かしたのだろう。夜闇にまぎれ、たいまつも灯さず、完全に不意打ちをくらわせてきた。目的はおそらく包囲網突破。だが六十隻は、なすすべなく湾外脱出を許すアクティウム本営の目の前で、まっしぐらに突撃を開始した。行く手には、たまたま警備に出ていたオクタヴィアヌスの軍船十隻がいた。
アクティウム本営は盛んにラッパを吹き、たいまつを振りまわし、緊急を伝えた。だが遅かった。海上の将軍ルキウス・タリウスはただちに船を方向転換し、コマルス港に引き返そうとした。だが悪いことに南風が吹きつけ、敵は勢いを増す。撤退するタリウスにとっても順風だが、方向転換に手間取っているうちに追いつかれた。
岬のすぐ西で海戦がはじまったが、結果火を見るより明らかだった。タリウスの軍船は次々沈められていった。
大地を揺るがすような轟音が轟いた。ティベリウスが振り向くと、岬対岸の敵陣営が、初めて活気を見せていた。幾多のたいまつが破裂したように輝くそこから、十万人が歓声を上げていた。その大声援に押され、六十隻はさらに勢いづいたようだ。
それでもタリウスはあきらめていなかった。迫り来る敵艦隊を振りきって、コマルス港までたどり着こうとしていた。残るはあと三隻だ。敵は追撃してくる。
「ああ、タリウス殿…!」
ユバが両目を覆った。
「間に合わないだろうな。残念ながら」
カルヴィヌスが無表情でつぶやき、ピソが苛立たしげに腕を振った。
「たいした損害じゃないでしょう。こっちはほんの少し軍船を失うにすぎません」
「だがあの六十隻がこのあとどうするつもりか。まさかコマルスに攻撃はかけてこないだろうが、このまま闇に姿をくらまし、コルフ島を狙うつもりか。それとも本土へ赴くか」
ぎょっとしてティベリウスはファルサロス副将を見上げた。
「補給や援軍を求めるつもりかもしれない。いずれにしろ、行方がわからなくなるのが厄介だ」
「たった六十隻になにができますか!」
ピソの悔しげな声が岬に響いた。
「アルンティウス、敵陣の動きは?」
オクタヴィアヌスは奴隷の肩を借りて立っていた。敵の奇襲に衝撃を受けているというよりは、夜中に叩き起こされたがために、体が目覚めきらないらしい。おぼつかない足取りで、何度も重たげに頭を振っていた。
アルンティウスが答えた。
「動きはありません。ですが包囲網突破が果たされれば、勢いに乗じ、さらに敵艦隊が出撃してくると予想されます」
その言葉で、岬にいる全員に戦慄が走った。ティベリウスは、継父がうつむいたまま歯を食いしばるのを見た。
「我々もコマルスに向かう」
オクタヴィアヌスは頭を上げた。だがその顔はひどく青ざめていて、具合が悪そうだった。それでも奴隷を促し、本営に戻ろうとする。
「軍団兵もただちにあとに続け。このまま、敵をイオニア海にのさばらせるわけには――」
「あれは…なんだ?」
スタティリウス・タウルスの強張った声が聞こえた。全員が彼の見つめる先に目をやった。
南の海に、黒い山が出現していた。震動しながら、しだいに大きくなる。こちらに向かってくる。
「まさか……敵がさらに出てきた…?」
岬が凍りついた。奴隷までもが硬直し、オクタヴィアヌスがすべり落ちる。ティベリウスはあわてて継父の腰に飛びついた。ティベリウスの肩をつかんだ手は冷たく、小刻みに震えていた。
「違う」ピソがすぐに首を振った。「湾口よりも向こうじゃないか。じゃあ、あれは――」
火の玉が、山の先端で踊った。
「アグリッパだ!」
ティベリウスが叫んだ。
「アグリッパが帰ってきた!」
信じがたい偶然だった。だがその黒い山は見る見る近づき、星明りの下で、帆を広げた艦隊の姿を露わにした。アクティウム本営に向けて、盛んに合図を送ってくる。岬には一転、歓喜が爆発した。
だれもかれもがアグリッパの名を呼んだ。拳を突き上げ、盾を叩き、ラッパを吹きまくり、タリウスの船に喉も枯れよとばかりに励ましの言葉を叫んだ。反対に、対岸のアントニウス陣営は静まりかえった。
「カエサル! アグリッパですよ! アグリッパが来てくれました!」
ティベリウスは嬉々として継父の腰をゆさぶった。南の海を見つめながら、オクタヴィアヌスは青ざめた唇をつり上げた。
見慣れたローマ軍の帆は、南風を受けてたっぷりふくらんでいた。その勢いのまま、アグリッパの艦隊は敵六十隻の只中に突入した。
「いやはや坊ちゃん、お手柄でしたな」
翌日の昼、ようやく本営に腰を落ち着けたアグリッパが、ティベリウスを抱き寄せた。
「ぼくは知らせただけです」
長椅子の上で、まだ興奮冷めやらぬティベリウスは頬を紅潮させていた。
「アグリッパが来てくれるなら、ぼくは知らせないほうがよかった。そしたらこんな大騒ぎにならずに済んだのに」
「なにをおっしゃいますか」
アグリッパは頬ずりしてきた。
「坊ちゃんが早くに知らせたおかげで、タリウスの船は全滅をまぬかれたのです。私も騒ぎに気づくのがあと少し遅ければ、間に合わないところでした」
「アグリッパ、痛いよ」
「おっと、これは失敬。昨日から髭を剃っておりませんでした」
二人は笑い合った。およそ三ヶ月ぶりの再会だった。昨日の逆転勝利のおかげもあるが、この未来の義父が堡塁内にいてくれる安心感は格別だった。
アグリッパの艦隊は無事コマルスに帰港した。タリウス本人を乗せた生き残りの三隻も一緒だった。敵は六十隻の半分を失いながら、かろうじてアンブラキア湾内に逃げ戻っていた。もちろんこれ以上の動きは起こさなかった。
アグリッパはそっとティベリウスのまぶたに触れた。
「この青いお目は不思議ですな。夜闇のなかでもよく見えるようだ」
「そうみたい。眠って起きたあとの、少しのあいだだけなんだけど」
これが人と違う特性だと気づいたのは、最近のことだった。夜空の星も、ほかの人には見えない小さなものまで見ることができた。
アグリッパはティベリウスの頭をなでた。
「神々は坊ちゃんに神秘の力を授けたようだ。今回はそのおかげで救われましたな」
アグリッパが奴隷に髭をそってもらうあいだに、ティベリウスは長椅子の上で眠り込んでしまった。目を覚ました時には、夕暮れが近づいていた。
奴隷が、アグリッパは軍議に出かけたと教えた。それでティベリウスはアグリッパのテントを出て、自分のへ戻ることにした。だが昨晩は徹夜してしまったので、まだ体がすっきりしなかった。調子を狂わせないために、少し運動をしなければと思った。
辺りを駆けていると、マルケルスの姿を見つけた。二人の軍団兵と立ち話をしていた。
「こんにちは、マルケルス。ご機嫌いかが?」
丸い体格の軍団兵が挨拶した。
「こんにちは。ぼくは元気だよ。ちょっと寝不足だけど」
「びっくりしたでしょう。昨晩はえらい騒ぎだったからね」
四角い体格の軍団兵がうなずいた。
「うん。ちょっと怖かった」
「かわいそうに」丸い軍団兵がマルケルスの頭をなでた。「君のような可愛らしい子が恐怖に震えているのを想像するだけで、我々はいてもたってもいられなくなる。我々は君を守るために戦っているのだよ、マルケルス」
「ありがとう」
マルケルスはにこっとした。
「安心していいんだ」丸い軍団兵の手が、マルケルスの頬に触れた。「怖がることなんてないんだよ。我々がついているからね」
「うん」
マルケルスは元気よくうなずいた。
「なんて健気なんだ。いじらしいんだ」丸い軍団兵はため息をもらした。「君はこの薄汚れた堡塁に咲く、穢れなき一輪の花だ」
「見ていてたまらなくなる」
四角い軍団兵がつぶやいた。丸い軍団兵の手が、マルケルスの頬から首筋、それから肩を伝い、腕まで下りてきた。じっくり動くそのあいだ、指先がしきりにもぞもぞ動いていた。
「なんと柔な…」丸い軍団兵がうっとりと言った。「うずまってしまいたいよ。我らの可愛い、可愛い、世界一のマルケルス。さぁ、こっちにおいで。君に見せたいものがあるんだ」
「なぁに?」
マルケルスは無邪気に目をぱちくりさせた。
「とても良いものだ。きっとびっくりする。辛いことも忘れて、楽しくなる」
「さぁ、さぁ…」
すでに四角い軍団兵の手が、マルケルスの腰の下の膨らみにぴたりと添えられていた。丸い軍団兵のほうは空いている手を伸ばし、テントの入り口をめくった。腰を押され、腕を引かれ、マルケルスはテントの中へ向かおうとした。
「!」
ティベリウスは投げ槍のように飛び込んだ。マルケルスと丸い軍団兵のあいだに割って入った。
「マルケルスに触るな!」
怒鳴りつけ、後ろの四角い軍団兵を力任せに突き飛ばした。
軍団兵たちはあっけにとられた顔をした。マルケルスもまたぽかんとしていた。そんな彼を両腕の中に守り、ティベリウスは血走った目で、軍団兵二人をにらみまわした。牙を剥く猛獣さながら、全身の毛を逆立てていた。
「お前たちのような下衆が、マルケルスに近づくな!」
それからマルケルスの手首をつかみ、憤然と歩き去った。
「ねぇ、ティベリウス、どうしたの? なに怒ってるの?」
背後からマルケルスの声が聞こえたが、答えなかった。腸が煮えくり返っていた。
「痛いよ」
マルケルスが言ったが、ティベリウスはさらに力を込めていた。テントに帰りつくや、引き倒すようにマルケルスを中に入れた。
「どうして一人で歩きまわるんだ?」
大声で叱りつけた。手首を押さえ、マルケルスはまだわけのわからないという顔をしていた。
「護衛も連れずに、だめじゃないか!」
「で、でも…ちょっと軍団兵の人と話してただけで――」
「軍団兵だからなんだ! 全員信用できるとでも思ってるのか? あの二人がどんな目つきで君を見ていたか、わからないのか!」
「な、なに――」
「君は不注意だ。無防備だ」ティベリウスはまくし立てた。「カエサルの甥が、そんな自覚のない行動をとっていいと思っているのか?君のまわりのすべてが善人じゃない! 簡単に気を許すな。ついていくな。自分の安全を、もっと真剣に考えろ!」
マルケルスは打ちひしがれた顔で聞いていた。肩で息をしながら、ティベリウスは彼が悄然とうなだれていくのを見た。
少しだけ、言い過ぎたかもしれないと悔やんだ。不届きなのはあの軍団兵二人であって、マルケルスではないのに。君はいばらで滅多打ちにするような言葉を使うと、以前テオドルスに注意されたことがあった。
ただ、マルケルスにはもっと気をつけてもらわなければならないのは事実だ。だから――
「……だって…ティベリウスが……」
マルケルスの両腕がわなないた。
「ティベリウスがいなかったからじゃないか!」
マルケルスが怒鳴った。ティベリウス以上の大声だった。驚くティベリウスに、マルケルスは怒りのたぎる目に涙を溜め、猛然と食ってかかった。
「どうしてそばにいてくれなかったの! 昨日の夜から、ずっと!」
「そ、それは――」
「ぼくはずっと待ってたのに! ティベリウスが帰って来るの、待ってたのに!」
「あ…」
「なんでだよ?」
マルケルスは地団太を踏んだ。
「ぼくはだめで、自分はいいの? 怖い顔の軍団兵と、毎日みたいに話しに行っても!」
「トオ――」
「ぼくについていてくれるんじゃなかったの? ティベリウスの嘘つき! 嘘つき!」
「マルケルス!」
泣き叫び、怒り狂うマルケルスは、テントにあるものを次から次へと投げつけてきた。混乱しながらも反射的に、ティベリウスは腕を顔の前にかざした。
「ティベリウスの薄情者! ぼくが昨日どれだけ心細かったか、わかりもしないで!」
「なん――」
「なにが起こってるのか、だれもぼくに教えてくれなかった! 叔父上もみんなも青い顔で飛び出していって…ぼくはだれもいない堡塁で、奴隷と二人っきり…! 真っ暗、真っ暗……! ティベリウスは帰って来なかった! ぼくが、ぼくがどれだけ心配して…何回名前呼んだと……!」
「……!」
「ティベリウスなんか大嫌いだ!」
矢筒を投げつけ、マルケルスは絶叫した。
「あっちへ行け! 二度と戻って来るな!」
「マルケルス――」
ティベリウスは両腕を前に突き出した。なんとかマルケルスに近づこうとした。
「来るなぁーーっ!」
マルケルスはティベリウスが贈った腕輪をもぎとった。顔面に、力任せに叩きつける。
「っ――」
ティベリウスが左目を押さえた。マルケルスははっと息を呑んだ。時が止まったように、動きがぱたりと静止した。
「ティ…ティベリウス……?」
血の気が引いていく音が聞こえるようだった。マルケルスは足からがくがくと震えだした。
「ご、ごめんっ……」
ティベリウスに飛びついた。指先まで真っ白な手で、ティベリウスのそれをのける。まぶたから細く一筋、鮮血が流れ落ちていた。
「あっ…ああっ……」
紫の唇がわなないた。充血した目がぐらぐらゆれた。
「ごめん、ティベリウス! ぼく、そんなつもりじゃ……」
「大丈夫――」
「ごめん……! ごめんごめんごめんごめんごめんっっ――!」
「マルケルス! 大丈夫だから!」
だがティベリウスがいくらなだめても無駄だった。マルケルスは大声で泣き出した。膝から崩れ落ち、地面にうずくまり、全身を痙攣させた。ティベリウスは彼を抱きしめ、背中をさすった。実際傷はほんの小指の先ほどで、まったくたいしたことはなかった。何度も大丈夫だと請け合い、自分が悪かったのだと詫びた。だがマルケルスには通じなかった。ただひたすら、ごめん、ごめんとくり返しながら、むせび泣いていた。
ユバと奴隷たちが駆けつけた時、ティベリウスは狂乱状態のマルケルスを抱えたまま、自身も困惑の極みにいた。
オクタヴィアヌスが子どもたちのテントを訪れたのは、マルケルスが泣き寝したあとだった。ようやく軍議が終わったのだ。
「なにがあった?」
ティベリウスは一瞬ためらったが、話すしかないと思った。マルケルスはもう限界だった。痛々しく腫れたまぶたを閉じ、ティベリウスの手をしっかとつかんだまま眠っている。彼をここまで追いつめたのも、オクタヴィアヌスを煩わせることになったのも、この自分の責任であると思った。
一部始終を説明した。
「わかった」
オクタヴィアヌスは言った。少し沈痛な表情をしていたが、顔色は変えなかった。
「お前が責任を感じずともよい。過酷を承知で、お前とマルケルスをここに連れてきたのは私だ。責任はすべて私にある」
「カエサル、ですが――」
「どの道、マルケルスはもう限界だっただろう」
オクタヴィアヌスは甥を見下ろした。どんな生き物も棲まない透きとおった池のような瞳。ティベリウスにはその感情が読み取れなかった。
「長いあいだ堡塁に閉じ込められ、子どもの身には相当こたえたのだろう。軍団兵たちでさえ欲求不満を抱えている状況なのだから」
オクタヴィアヌスはティベリウスに目を上げた。
「お前が軍団兵を下衆呼ばわりしたという噂が流れていたぞ。そういうことだったのか」
ティベリウスはあ然となった。もちろんのこと、彼が罵倒したのはあの軍団兵二人のみであって、ほかの真面目な者まで貶めたつもりはなかった。あの二人が腹いせに悪意ある話を広めたに違いない。
「ぼくは――」
「わかっている。だが言葉には気をつけるように。言葉は凶器だ。相手にとっても、自分にとってもな。この世で最も慎重に扱わなければならないものだということを、心しておけ」
瞬き一つせずに、継父は言った。ティベリウスはうなだれた。怒りは、自分への戒めに変わっていった。
「お前は強い」オクタヴィアヌスは淡々と続けた。「自信もある。勉強熱心なのもわかる。だが、すべての者がお前のように強いわけではないのだ。なにもかもお前の基準で勝手に動いていては、それは傲慢と思われてしかたないのだぞ。わかるな?」
穏やかであるからこそ、仮借ないまでに厳しく響く言葉だった。しかしそれは突き放すようで、微塵のあたたかさも感じられない。
「……はい」
ティベリウスは唇をそっとマルケルスの手に当てた。胸中で、これからはいっときもそばを離れずにいると誓った。
「とはいえマルケルスのことは考えねばならない」
オクタヴィアヌスは甥の体に手を乗せた。
「ローマに帰さねばなるまいな。先程の軍議で、決戦はあと二ヶ月は先送りするという方針が決まった。もちろん敵が動き出せば別だが」
ティベリウスはその理由を知っていた。まもなく夏の盛りである。暑さが厳しくなるほど、疫病は猛威を振るう。総司令部は、疫病で敵がさらに弱体化することを期待しているのだ。アグリッパが設けた包囲網に閉じ込められて。
「それまでは身も心も持たないだろう。したがってここまでにする。完全ではないが、この子をここへ連れてきた目的は果たされたのだから」
オクタヴィアヌスの言う目的とは、皆が口々に話しているとおり、凱旋式で甥を市民に披露し、栄誉を与えることなのだろう。最後までそばに置くつもりだったのだろうが、たとえ決戦に立ち会えなくとも、もう三ヶ月も従軍した。十分である。
だがティベリウスは悲しい目で、なにも知らない寝顔を眺めた。
「…マルケルスは承知するでしょうか?」
この戦の行方を見届けることに、だれより使命感を燃やしていたマルケルスである。首を縦に振るだろうか。かえって無理をしてでも残ろうとするのではないだろうか。
ティベリウスが目線を上げると、継父の醒めた目がじっと見つめてきていた。それで、ようやく察した。
「ぼくが帰ると言えばいいんですね?」
「無論、私からも命じる」
ところが、それでもマルケルスは承知しなかった。話を持ちかけたのは騒動の翌々日だったが、マルケルスはもう自分は大丈夫だと言い張った。彼にはティベリウスが帰国を望むふりをしていることなどお見通しだった。どうか自分に気を遣わないようにと頼み、もう取り乱したりはしないとくり返すばかりだった。
命令権を振りかざす叔父にも、必死の形相ですがりついた。
「ぼくは母上とユルスの代わりにここにいます。このままおめおめと帰っては、二人に申し訳が立ちません!」
ティベリウスが見やると、継父は指の関節を噛んで思案していた。
それで、まずはローマに手紙を送り、オクタヴィアをブリンディジへ呼ぶことにした。そうすればコマルスからほぼ二日の航程で行き来が可能になる。万一の危険がないわけではないが、今やアグリッパも戻り、敵の全艦隊はアンブラキア湾内に収まっている。イオニア海は、完全にオクタヴィアヌスが掌握したと言って良い状態だった。
つまり、盛夏を母と過ごし、決戦のはじまるころにギリシアへ戻ることが可能なのである。
となると、オクタヴィアと一緒にリヴィアもローマを発ってくるだろう。おそらくはドルーススも。ティベリウスはマルケルスにばかり苦労させて、自分はちゃっかりといいとこ取りをした気がして、申し訳なくなった。それでもやはり、うれしかったのではあるが。
七月が来た。堡塁に照りつける陽光は、日に日に強くなった。それでも海風のおかげで、オクタヴィアヌスの堡塁では疫病が流行らずに済んでいた。ただ、暑さに弱いオクタヴィアヌスは、テントの中に引きこもり、奴隷に介抱されている日が多くなった。ティベリウスもマルケルスも、彼の体調こそが心配でならなかった。
子ども二人のほうは悪くなかった。暑さにもめげず普段通りの暮らしを続けていた。色々もめはしたが、それでももうじき母に会うのが待ち遠しいのだろう、マルケルスはすっかり明るさを取り戻していた。ティベリウスもまた、彼に心配をかけないようずっとそばにいた。
ある日、トオンにドゥーコを呼んできてもらった。ティベリウスは泥まみれの顔で迎えた。
「しばらく見なくなったと思ったら、泥遊びに夢中だったか」
ドゥーコは相変わらずだった。
「この暑いのに貴重な水を浪費しよってからに」
「海水を使った」
ティベリウスは教えた。隣では同じように泥で汚れた顔のマルケルスが、おっかなびっくりドゥーコを見つめていた。
二人の前には、胸の高さまである土の壁ができていた。
「城を造った」
壁越しに、ティベリウスは目をきらめかせた。
「こっちに来て。まっすぐに。出来栄えを見て」
ドゥーコは顔をしかめた。彼とティベリウスたちのあいだには、土の壁のほかにも、奇妙なものが横たわっていた。
ドゥーコが地面に目線を落とせば、まず足元に土から先端を出す尖った石。次に飼葉を敷いた絨毯。よく見ると草のあいだから尖った木の枝が突き出している。次に、今度ははっきり見える尖った枝を並べた溝。次に泥水を溜めた細長い池。そして最後にもう一つの溝を挟み、ようやく土の壁に至る。壁の側面にはやたらに枝が突き刺してあり、頂上はのこぎりの刃のようにでこぼこしている。さらにティベリウスとマルケルスの顔の両脇には、これまた木の枝を細かく重ねて作られた塔らしきものが置かれていた。
「これは城などではない」ドゥーコは言った。「塹壕だ。それも下手くそな」
ティベリウスは笑みを深くした。ドゥーコはしかめ面を上げた。
「儂を罠にかけるつもりだったな?」
「ほらね」ティベリウスはマルケルスに歯を見せた。「ぼくたちは上手くやった」
「本当にひっかかったらどうするつもりだったの?」
マルケルスがびくびくしたままティベリウスを見た。
「ドゥーコが神君カエサルのベテラン兵なら、ひっかからないよ」
右腕を大きくまわし、ティベリウスは自分とマルケルスの作品を示した。
「ドゥーコにはこれがなんだかわかったんだ。ぼくたちは再現できた。神君カエサルのアレシア封鎖施設を」
「どこがだ」
ドゥーコは腕組みをしてにらんできた。
「この石ころのどこが『牛の角』じゃ」
足元の尖った石を軽く蹴とばした。
「だって鉄の鉤を用意するわけにいかないもの」
ティベリウスは陽気に言い訳した。
「馬鹿にしよって」
石を蹴飛ばしながら、ドゥーコは飼葉の絨毯まで進んだ。飼葉を持ち上げ、下を覗き込む。そこには底がすぼんだ穴が掘られ、中には先端を尖らせた枝が埋め込まれていた。
「全然『百合』に見えん」
ドゥーコは批判した。飼葉をすべて除けると、同じような小さな落とし穴が、市松模様状に並んでいた。
穴をよけながら、ドゥーコは尖った木の枝が伸びる溝まできた。うち一本をつかんで引っ張り上げると、ほかの枝も抜けてきた。縄で結ばれていた。
「ちゃんとやった」
ティベリウスは教えたが、ドゥーコは鼻を鳴らした。
「ちんけな『墓標』だ」
泥水の池をまたいで、ドゥーコは土の壁の前まできた。マルケルスは目を見開いて、壁の蔭に隠れた。ドゥーコは壁に突き刺さった枝をいじった。
「逆茂木になっとらんぞ。これでは赤ん坊ですら登ってくる」
「登ったら、この土塁は崩れるよ」
ティベリウスは現実を思い出させた。
この一連の防御施設を、ティベリウスは『ガリア戦記』の記述を基に制作した。もちろん、本物の超小型版ではあるが、ドゥーコなら気づいてくれるはずだと思った。可能な限り正確を期すれば。
それで昨日から、マルケルスを誘って工事に取りかかった。土遊びに夢中になるあいだは、マルケルスはとても楽しそうだった。二人で相談し、工夫をこらし、ときどき泥をぶつけてふざけ合った。ところがいざ出来栄えを測る役が登場すると、その強面にひるんでしまったようだ。
ドゥーコも自分の印象をさらに強める振る舞いしかしなかった。
「中途半端に作ったところで労力の無駄だぞ。一流の将軍は、こんな手抜き工事は許されん」
「わかってるよ」
輝く目のままながら、ティベリウスは真面目な面持ちでうなずいた。
ドゥーコは胸壁を模したでこぼこから首を乗り出した。マルケルスはびくりと飛びのいた。その拍子に接触され、ティベリウスの頭が枝作りの塔をかすめた。櫓を模したそれは、土の壁の上で危なっかしく揺れた。
それを見もせずに支えて、ドゥーコは言った。
「内側にはなにもないのか。総大将は両側に同じものをこしらえたぞ」
「一緒に作って」
ティベリウスは頼んだ。
「完璧なのを教えて」
「なんで儂が子どもと泥遊びなぞせにゃならんのだ」
そう言いながらも、ドゥーコはティベリウスたちの側へまわり込んできた。短剣を抜き出し、地面に線を引きはじめる。
「だいたいやり方が雑でいかん。儂らの仕事は、もっとこう、きっちりと測ってからな――」
それから日が暮れるまで、三人は小型防御施設作りに熱中した。最初はおびえていたマルケルスも、しだいに笑顔を見せるようになった。ドゥーコに小刀の扱い方を教授され、見事に尖がらせた太枝を誇らしげに掲げていた。土を掘り、積み上げて固め、三人とも頭から足先まで泥だらけになった。
胸壁の形を整えるドゥーコは、慣れた手つきで短剣を操っていた。その鞘には、女神ヴェヌスらしき姿が彫られていた。
「それは神君カエサルがくださった剣?」
「そうだ」
ティベリウスの問いに、ドゥーコはにやりと笑った。
「褒美というよりは成り行きでな。アントニウス殿を丸刈りにするために賜った」
それでも、自慢顔だった。
その数日後、オクタヴィアからブリンディジ到着を知らせる手紙が届いた。最高司令官の妻も、次男坊を連れて訪れているという。子ども二人は、およそ四ヶ月ぶりに家族と再会できる見通しとなった。
暑さにやられているオクタヴィアヌスは、テントの中で甥と継子に別れを告げた。マルケルスは叔父の体を気遣いながら、面倒をかけたことをしょんぼり詫びた。
「なにも気にすることはない」
寝台にぐったり横たわったオクタヴィアヌスは、優しく甥の頭を撫でた。
「お前はよくがんばった。だからしばらくのあいだ、母上のそばで休んでおいで。八月になったら、また戻ってくればいい」
それから甥の頬を軽く叩き、なつかしそうに微笑んだ。
「私も昔、父カエサルに無理を言って従軍を許していただいた。毎日様々な苦痛に苛まれ、追いかけていくのがやっとだった。お前はあの頃の私よりずっと若いのだから立派なものだ」
ユバが子ども二人に同行することになった。彼と軍団兵に護衛され、ティベリウスとマルケルスはコマルスに向かった。そこにはアグリッパが詰めていて、二人をブリンディジ行きの補給船に乗せてくれる手はずだった。
ティベリウスは一度だけ堡塁を振り返った。思いがけず恐るべき敵の大攻勢が起こり、本営が壊滅するという悪夢を思い描いた。継父の顔を見るのもこれが最後。
そんなことは起こらないはずだった。起こるはずないと自分に言い聞かせた。大丈夫、アグリッパがついている。
だが、恐るべき災厄に見舞われたのは、ティベリウスたちのほうだった。




