第三章 ‐3
3
「坊ちゃん、見ていてくださいね」
そう言葉をかけてきた翌朝、アグリッパはブリンディジからいなくなっていた。ティベリウスは継父から、彼が完全武装したターラントの艦隊を率いて出撃したと聞いた。
三月初旬。前月ほどではなくとも、海はまだ荒れていた。しかしアグリッパは、一日また一日と過ぎても帰って来なかった。ティベリウスは、いよいよ始まったのだと知った。
それまでと変わらない風を装いながら、毎日海を眺めて過ごした。アグリッパが残した言葉を反芻しながら、彼の無事な姿が見えるのを待ち続けた。地平線に連絡船が姿を現わしたのは、十日後だった。
――将軍アグリッパ、メトネで勝利。マウリタニア王ボーグドを破り、敵基地を陥落。
勝報が届くや、ブリンディジの港は歓喜に沸いた。オクタヴィアヌスの初戦勝利である。軍団兵たちは拳を突き上げて最高司令官を讃え、神々に感謝の祈りを捧げた。
ティベリウスはこれまでにも継父とアグリッパの戦勝に喜んだことはあった。けれどもこれは、自分が従軍する戦争で初めてもたらされた勝利である。感激もひとしおで、マルケルスやユバと手を取り合って跳ねながら、未来の義父へ、誇らしさと尊敬の念を新たにした。
だが戦争はまだ始まったばかりである。興奮が落ち着くと、ティベリウスはギリシアの地図を広げた。マルケルスとユバが、不思議そうに左右を挟んできた。
アグリッパが陥落させたのは、ペロポネソス半島南西の岬メトネである。ブリンディジの対岸にあるコルフ島ではない。アントニウスにとっては予期せぬ襲撃だったのではないか。数週間前に、オクタヴィアヌスはコルフ島を狙って、引き返していたのだから。
「カエサルのコルフ島行きは、この布石だった…」
「フセキ?」
マルケルスが小首をかしげた。
「自分たちはコルフ島を狙っていると、わざと思わせておいたんだよ」
ティベリウスは説明した。
「アントニウスにしても、イタリアから一番近いコルフ島周辺はどこよりも警戒していたに違いない。だからそこへ行くと思わせておいて、カエサルとアグリッパは南を狙ったんだ。本営のあるパトラスさえ越えて、さらに南を」
「でもどうしてメトネなんだい?」
ユバが尋ねた。
「メトネのほかにも、北のサギュントス島や、ギリシア最南のタイナロン岬がある。アグリッパ殿は、この二基地の敵から挟まれてしまうんじゃないかい?」
「その危険はあるけど」ティベリウスは少しだけ顔を曇らせた。「でもここを押さえれば、東方から本営パトラスまで船で行くことができなくなる。ペロポネソス半島を縦断するか、一度アテネで船を下りてコリント地峡を横切るかしかなくなるんだよ」
「そのとおり」
びっくりして振り返ると、後ろにカルヴィヌスが立っていた。彼はにやっと笑いかけてきた。
「勉強の甲斐があったみたいだねぇ。そう、つまりメトネを落とすことで、敵の補給路を妨げることができるんだ。敵は自慢の船を十分に生かすことができず、金と時間をかけてえっちらおっちら、陸路で食糧なんかを運ばなきゃならなくなる。もちろん、ギリシア内で徴発することはできるが」
「でも、確保した基地は、ギリシアでここだけでしょう?」
マルケルスが言った。
「このままでは敵の総攻撃を受けて、また奪い返されてしまうのではないですか?」
「あまりぐずぐずしてはいられないね」
カルヴィヌスはうなずいて同意を示した。
「だがあわてる必要もない。敵はおそらく今ごろになって、ようやくメトネでなにがあったか把握しただろう。さて、我々が次に打つ手はなんだろうか? どこを狙うべきと思うかね?」
カルヴィヌスの問いかけに、若い三人は真剣な目つきで地図をにらんだ。
ティベリウスはまずメトネから南に視線を向けた。メトネの安全を確保する以外に、タイナロン岬を狙う理由はない。すでに海からの補給は十分遮断されている。それに、もしかしたら航海の難所で有名なこの岬から、まだ海が荒れがちなこの時期、メトネが攻撃される危険は大きくないのかもしれない。
サギュントス島は? 敵本営に近づくが、これもたいして意味がないし、危険だ。それよりパトラスを北から挟むようにしたほうが絶対良いはずだ。ではレウカス島なら? いや、すぐ北のアンブラキア湾には敵艦隊の主力が待機している。挟むなら、そのさらに北からでないと意味がない。となると――。
ティベリウスは顔を上げた。カルヴィヌスを見る目は、緊張で見開かれていた。満足げなうなずきに迎えられた。
「そう、そこしかない」
歴戦の将軍の面影も濃い、沈着な微笑だった。
新たに軍靴の音が近づいてきた。
「いよいよだ、マルケルス、ティベリウス、ユバ」
正面にオクタヴィアヌスが現れた。紅紫のマントを翻すその姿は、宣戦式のときと同様、神々しく輝いて見えた。
「アグリッパが戻ったら、全軍で出撃する。目指すは、コルフ島だ」
三日後、アグリッパが戻った。ペロポネソス半島の拠点を一つ陥落させたにしては、驚くべき速さだった。彼はまるでなに事もなかったかのように、いつもの気の良い笑顔でティベリウスに接吻した。東方自慢の艦隊を叩きつぶし、マウリタニア王を戦死させたことなど、嘘のようだった。
「これからですぞ、坊ちゃん」
そうささやいた。
ティベリウスにもわかっていた。実際にこの目に映さなくとも、アグリッパが展開する戦略を見ることができる。その真髄は、これからなのだ。
真昼が近づいていた。イタリアの踵には、すでに春のあたたかさが漂いはじめている。だが出撃するすべての男たちは、今年、故郷で咲き誇る花を見ることはない。そして永遠に、見ることがない者もいる。
すでに全軍が乗船を終えていた。ローマ艦隊は、北からの順風を待って、一路ギリシアへ出撃する。
ティベリウスとマルケルスは、オクタヴィアヌスの旗艦に乗ることになっていた。質素な五段櫂船は港の桟橋につけられ、北風を待つあいだ、彼らは家族との別れを惜しんだ。周りを囲む大勢の見送りには、ブリンディジ市民だけでなく、首都ローマから駆けつけた者もいた。
「なんだい。どうしてぼくを連れていってくれないんだい?」
そう文句を垂れているのは、ドルーススではなく、彼より三十歳は年上のガイウス・マエケナスだった。彼は房飾りがたくさんぶら下がった緑のマントに、黄金色の甲冑姿だった。さらに手首には金銀何重もの腕輪、指には宝石輝くいくつもの指輪。腰に携えた剣の鞘も、宝石だらけだった。
向かい合うオクタヴィアヌスは、友人を上から下まで眺めた。
「最も善良な男でさえ追剥ぎの欲に負けてしまいそうな格好の君を、連れていけと?」
「この日のためにあつらえたんだよ。こうでもしないと、ぼくが留守のあいだに妻が全財産を使ってしまいかねないから。この格好のまま、イオニア海の藻屑と消えてもかまわないよ。妻に無駄遣いされるよりは」
「そんなことを言うな、マエケナス。君にもしものことがあったら、テレンティアは胸が張り裂けてしまうだろう」
「うん、すでに張り裂けているよ。ぼくが留守で、好き放題できる期待に。ぼくはそんな陽気な妻と泣きすがる詩人たちを、色々な意味で涙ながらに振りきってきたんだよ。それなのにぼくを置き去りにするのかい?」
「まぁ、まぁ」
オクタヴィアヌスは微笑みながら、自分の左手から指輪を抜き取った。スフィンクスの柄が彫られていたが、不思議なことに、右手にもまったく同じ指輪がはまっていた。両方とも彼の印章なのである。彼は双子の一方を、マエケナスに差し出した。
「私が留守のあいだ、スフィンクスを預けられるのは君しかいないのだから」
その指輪を渡すことは、本国におけるオクタヴィアヌスの権力委任を意味する。マエケナスは首都ローマの統治者代行となるのである。しかし彼は元老院議席を持たず、騎士階級に属する。法の枠を超えるが、オクタヴィアヌスの信頼がだれよりも厚い証拠だった。
マエケナスのほうも、はじめから同行する気はなかったのだろう。右手を広げ、実にあっさりと受け取った。ティベリウスは彼の右手には指輪が一つもはまっていなかったことに気づいた。「これでぼくのオデュッセウス計画もご破算だ」などといつまでも愚痴をこぼしつつ、真摯な瞳でオクタヴィアヌスと微笑み合っていた。
後方の憂いはなくなった。
オクタヴィアは見ていて気の毒なほど悲しみに暮れていた。最愛の息子をいつまでも腕の中から離しそうになかった。そんな母をなるべく元気になぐさめていたマルケルスだが、ついに自分もこらえきれずに涙をこぼした。彼をひしと取り囲む四人の妹が、それに輪をかけた。
港で最も注目を集めた光景だった。見送る人々は、そんな家族の姿にもらい泣きしていた。
ティベリウスのほうは、もう少し陽気に事が進んでいた。
二歳のヴィプサーニアが、とことこと前に進み出た。両手になにかを大事そうに包んでいたが、石敷の上で転びやしないかと、ティベリウスは内心ひやひやした。
「娘はティベリウス様のために贈り物を用意したのですよ」
母ポンポーニアが説明したが、ティベリウスは内心困惑した。二歳がだれかのために贈り物を用意するわけがないと思った。たぶんポンポーニアかアグリッパか周りの従者の意図だろう。
最近、アグリッパ家の面々はヴィプサーニア嬢に言葉を覚えさせることに成功していた。彼ら曰く、彼女の初めてのつながりある言葉が、「おおきくなったら、ティベリさまのおよめさんになるの」だったらしい。当主を筆頭に、一家はティベリウスを大歓迎態勢だ。
結局仏頂面をしているティベリウスに、ヴィプサーニアはにこにこしながら両手を差し出した。小さな小さな手のひらには、卵形の石が乗っていた。赤や緑や黄色で、ほとんどでたらめに彩色されている。未来の花嫁自身の手で塗られたに違いなく、虹色に見えなくもなかった。
聞けば、最近のヴィプサーニアは面白い形の石を集めるのに夢中なのだという。これは、その収集品のなかでもとりわけお気に入りのものらしい。
ヴィプサーニアは、少しはにかんでいるように見えた。
「あれ、あれ、ヴィプサーニア? 父の分はないのか?」
大げさにうろたえて見せるアグリッパの姿が、見送る人々の笑いを誘った。
「あ、ありがとう…」
やや気後れしながら、ティベリウスは丁重に受け取った。すると、横からドルーススがにやにや面を割り込ませてきた。
「チューは? チューはしないのか?」
ティベリウスは一瞬目を閉じたが、婚約者に対して、それぐらいの礼儀は果たしてしかるべきだと思った。しゃがんで頭の高さを合わせると、二歳の頬にそっと口づけした。周囲から、軽い冷やかし声が上がった。
最悪、泣かれるかもしれないと思ったが、ヴィプサーニアはまだにこにこしていた。それどころかいっそう大輪の花のような笑顔になると、ティベリウスの目の下に、ちょんっと接吻を返してきた。
「……」
目を白黒させるティベリウス。今度は周囲もどっと歓声を上げた。
「いやはや、ヴィプサーニア!」
アグリッパが両腕を広げて天を仰いだ。
「頼むからもう少し、私だけのお前でいておくれ!」
それでも、うれしそうではあった。
「二人はアツアツだな。顔がマッカッカだな」
周囲と一緒になって、ドルーススがやんやとはやしてきた。ティベリウスはじろりとにらみつけた。確かに顔が熱い気がしなくもないが、それは周囲の冷やかしがうるさいせいだと思った。
アグリッパが娘を抱き上げて別れを惜しんでいたので、ティベリウスもドルーススに向き直った。
「ネロ・クラウディウス・ドルースス」
ゆらがぬ目で、まっすぐ見下ろす。
「お前もネロ家の男だ。ぼくがいなくても、ちゃんと自覚ある行動ができるな?」
「できるぞ」
とたんに、ドルーススはふてくされたように応じたが、それでも兄から目は逸らさなかった。兄はなおも厳格に続けた。
「ぼくたちがいないあいだ、家の男はお前とユルスだけだ。母上をしっかりお助けするんだぞ。マルケッラとアントニアを守ってあげるんだぞ」
「当たり前だぞ」
ドルーススは拳を突き上げた。
「アントニアもマルケッラも、ぼくが守ってやるぞ。ユルスにばっかイイカッコさせないぞ」
「年上の言うことは、ちゃんと聞け」
指で弟の額をはじいた。
「いてっ」
両手で額を押さえる弟を、今度は胸いっぱいに抱きしめた。
「ぼくの片割れ、一番大事なお前」
愛の言葉を、耳元でそっと唱える。
「必ず帰ってくるから、待っていて」
「当たり前だぞ!」
ドルーススは怒鳴りつけた。両腕で兄の首をわっしと締めたまま、激しく地面を踏み鳴らした。
「早く帰って来いよ! でないと、ぼくは兄上より大きくなってるぞ! 強くなってるぞ! ちびの兄上をだっこしてよしよしして、頭のてっぺんにチューしてやるぞ!」
「わかったよ」
微笑みながら腕をゆるめ、赤い跡がついた額に接吻した。強情な顔のドルーススは、まだ泣いていなかった。ティベリウスはその手にある物を握らせた。
「…なんだよ?」
「ファレラエかな。木彫りだけど」
ティベリウスは答えた。少し照れ臭かったが、ドゥーコのファレラエを見て、思いついたのだ。
「お前の顔とぼくの顔が向かい合うように彫ってもらった。同じのをもう一枚、ぼくも持ってる」
「こんなの、いらないぞ」
ドルーススはぶっきらぼうに言った。
「形見みたいで、いらないぞ。こんなのすぐに傷だらけにしちゃうぞ」
「傷だらけで見えなくなるころには、ぼくが戻ってくるから」
「……」
ドルーススは手のひらに目線を落とした。
「なんであにうえのほうがイイ男なんだよ?」
「忠実なんだ。そこは我慢しろ」
「このっ」
「こらこら、出発前に兄弟喧嘩か?」
兄の胸に弟が拳骨を喰らわせたところで、オクタヴィアヌスが現れた。彼は面白そうに微笑んでいたが、ティベリウスは笑みを引っ込めた。いよいよ発つときだ。
北風が、最高司令官のマントをゆらしていた。
「ドルースス、将来必ずお前も連れていくから、今は良い子で待ってるんだよ。元気でな」
ドルーススを抱き上げ、オクタヴィアヌスは別れを告げていた。ティベリウスはすぐ横の母の下へ行った。最高司令官の妻であり、ローマ屈指の貴族の娘である女人は、幼い長男の出立にもまったく取り乱す気配がなかった。毅然と背筋を伸ばし、息子を待っている。
「母上、行って参ります。どうか御身ご自愛のほどを」
「母のことは心配無用です」
リヴィアは両手に黄金のブッラを乗せていた。厳かな手つきで、それを息子の首にかけた。
「中に父上の指輪が入っています」
母は教えた。
「母のお守りも。父上は天上から、いつもお前を見守っていますよ」
「はい。わかっております」
ティベリウスは大きくうなずいた。頭上にはいつでも青い空があるのだ。
「お前は立派に育ちました」
母の顔が、少しほころんだ。
「昔から手のかからない子でした。だから母も、安心してカエサルに託します。でも忘れないように。母は一日の海を隔てた、すぐ向こうにいるのですよ」
そう言うと息子に接吻し、胸の中に抱いた。
時が止まったように感じたのは、それが自分の願いだったからなのか。ティベリウスは目を閉じた。
カエサル家に嫁いだあとも、母はティベリウスのそばにいてくれた。それがどれほど自分の心を守ってきたか、この瞬間に苦しいほど実感した。母との別れは二度目。一度目は、すんでのところで救われた。
自分の病気知らずの体は、母譲りであることを知っていた。だからこれが今生の別れであるはずがない。カエサルは必ず勝つし、自分も必ず帰ってくる。悲しむ必要なんてない。そう言い聞かせて、感情を抑え込んだ。
もう無知な三歳の幼子ではなかった。
ティベリウスが離れると、オクタヴィアヌスが妻と睦まじく別れを交わした。これで最後だ。
オクタヴィアヌスの手が肩に置かれた。その自信に満ちた顔を見上げ、ティベリウスは微笑んだ。二人はそろって踵を返した。
割れんばかりの激励の言葉を浴びながら、桟橋を進み、旗艦に乗り込む。群衆は、リヴィアとオクタヴィアを先頭に、桟橋の先端まで詰めかけた。
船首に立ったオクタヴィアヌスが出航を叫ぶ。各船の指揮官たちがそれに唱和し、ラッパの合図が高らかに鳴り響く。漕ぎ手たちが鬨の声を上げ、およそ三百隻の船が海原へ乗り出す。陽光を浴びた櫂は黄金色に輝いている。だがまもなく櫂はいったん役目を終え、先頭の船から順に帆を広げていく。北からの順風が、船をイオニア海の東南へ運んでいく。
オクタヴィアヌスが右手を上げた。妻リヴィアがうなずき、マエケナスが悠然と手を振った。口元を覆い、今にも崩れそうなオクタヴィア。その周りでマルケッラとアントニア姉妹が、何度も兄を呼んで飛び跳ねていた。
桟橋が離れていく。
ドルーススの顔が、見る見る歪んでいった。口をへの字にし、鼻をすすり、うるんだ目にもう兄の姿はまともに映っていないに違いない。それでも顔をぬぐいもせず、ファレラエを握った手を懸命に振っている。もう片方は、母の手と固くつながっていた。
ティベリウスは母と弟が見えなくなるまで手を振り続けた。見えなくなるとすぐに船首のほうへ移動したのは、イタリアが消える最後の瞬間を見たくなかったからだ。厳しい顔つきで、青きイオニア海をひたすらにらんだ。この先に待ち受ける残酷な戦いのことを考えようとした。
いつのまにか、辺りは海と艦隊以外なにも見えなくなっていた。ティベリウスはまだ動かなかった。
ふと、左の拳が包まれた。見ると、マルケルスが微笑んでいた。
「ふふ」
頬には涙の跡があったが、もう気持ちは落ち着いたようだ。ティベリウスと五指を絡め、肩を並べ、ともに海の彼方を眺める。
「どうしたの?」
なんだかうれしそうなその横顔に、ティベリウスは問いかけた。頬の筋肉がつられてやわらいでいた。
「なんでもないよー」
にこにこしたまま、マルケルスはつないだ右手をしきりに振った。
「うふふ」
しかしその後、ティベリウスは長いあいだ船室にこもることになった。船酔いに苛まれたのである。ぐったりと寝台に伏し、胸のむかつきとめまいに耐えた。船に大きな波が寄せ来ると吐くことができたが、楽になるのはその一瞬だけで、またどうにも収まりのきかない不快感に苦しめられた。マルケルスとユバとトオンに介抱された。
マルケルスは元気いっぱいだった。幼いころから一度ならずローマとアテネを行き来したため、今ごろ船酔いに苦しむことはないのである。ユバもどういうわけか、元気だった。最後に船に乗ったのは、ローマに人質として連れてこられた四歳のとき以来のはずなのだが。
悔しくて歯がゆくて、自分に腹が立ってならないティベリウスに、トオンが船酔いに効くという飲み物を飲ませてくれた。
「奥様も昔、坊ちゃまを抱いてギリシアへ出航されたときは、同じように苦しい思いをなさいました。少しの辛抱です。じきに慣れますから」
ティベリウスはできればトオンと二人きりにしてほしかったのだが、マルケルスもユバもしきりに心配し、彼の手をしっかと握って励ましながら、そばを離れようとしなかった。ユバにいたっては、最近出版されたらしい、マルクス・アントニウス著『酔いの快楽』なる本を読み聞かせてきた。船酔いの苦しみを酒酔いの心地良さに昇華させようとしたのか。まだ酒をたしなまないティベリウスには意味がわからなかった。
夜になっても、苦しみは続いた。ついに意識も朦朧とし、眠りという解放にようやくたどり着けそうになったころ、ずいぶん遠くから声が聞こえた気がした。
「――このくらいの可愛げはあってしかるべきだよな」
同時に、背中をなでられる感触がした。声の主は、すぐ傍らにいるようだ。マルケルスでも、ユバでも、トオンでもなく――
「私も、最初のころは散々な思いをした」
「そうでしたな、カエサル」
なんてことだ。カエサルだ。カエサルと、アグリッパ。
よりにもよっていちばん見られたくない相手に見られているのだ、この醜態を。
目を開けようとした。目を開けて、体を起こし、自分はまったく問題ないと知らせようとした。しかしまぶたは蝋を塗りたくられたかのように開こうとせず、体も寝台に縛りつけられているかのようにぴくりとも動かない。そして細い指に背中をそっと撫でられるたび、意識がますます遠のいていく。
カエサル――。
「――そういえば、ティベリウスは君によくなついているな。今にも君を義父上と呼びそうだ」
面白げな声。五本の指先が、軽快に背中を叩く。それで意識が少し戻る。
「君さえよければ」苦笑まじりのような、アグリッパの声。「私はいつでも準備万端だ」
「私に遠慮はいらない」
軽い笑い。そこでまた声が遠のく。
夢の入り口で、ティベリウスは毒ついた。
トオンはどこにいったんだ。なんとか遠ざけておくことはできなかったのか。主人がいちばん望まないことぐらい、わからないのか。
とにかく早く、遠ざけてくれ。ぼくは本当に、大したことないんだから。すぐに元気に、なるんだから――。
「――君にくらいだものな、無邪気な顔を見せるのは」
「――」
「――。――。――」
うめき声をもらしたのかもしれない。苦しみよりも、不満の。醜態を見られている不満。なにを話されているのか聞き取れない不満。
背中の手が、なだめるように首筋をさすった。
「――ティベリウスのことは君に任せるよ。そのほうが上手くいきそうだ。もう一緒に暮らして七年になるのだがな。年々父親に似ていく。ドルーススのほうはそんなことないのだが。やはりこの子にとって、私は――」
波の動きに合わせるかのように、意識は浮上と沈下をくり返す。
しかしティベリウスは抵抗をやめ、むしろ自ら眠りの暗闇のほうへ沈んでいこうとした。そうすればもうなにも聞こえないだろう。夢のように忘れてしまうだろう。
だが、アグリッパの声が言った。
「オクタヴィウス、君はわかってない」
継父の、昔の名前。暗闇のなか、低く、そっと、わずかに悲しげな笑みをこぼしているようにこだました。
「君は彼の、――」
浮き上がったのは、体のほうだった。船が大波に乗り上げ、ティベリウスは継父の膝の上に転がり落ちた。しかし継父もよろめいたのだろう。ティベリウスの頭は床にぶつかった。
遠くでいくつも声がした。体をつかまれる感触がした。けれども強引に振りきり、必死で床を這い、寝台傍らの壺へ顔を突っ込んだ。ありったけの胃液を吐き出したあと、とうとう意識を手放した。
未明、オクタヴィアヌスの艦隊は、ギリシアのエピルス地方に上陸を果たした。アントニウスの艦隊と一戦も交えることなくである。コルフ島の基地に駐留する敵は、だれ一人通過に気づかなかった。艦隊が夜闇を縫うように静々と進み、ケラウニア山脈の蔭に入ったからであるが、彼らの油断が最大の原因だった。
アグリッパの目論見どおり、アントニウスの注意はペロポネソス半島南に逸れていた。そのうえメトネ陥落を知った諸都市が早くも離反に走り、南の防衛線はずたずたにされた。ひっきりなしに届く援軍要請に対応を決めあぐねているうち、オクタヴィアヌス軍はギリシアの南ではなく北から、平穏無事に上陸したのである。
あとで伝えられたことだが、この事実をようやく知った女王クレオパトラは「カエサルが柄杓に腰かけているからどうだというのですか」とせせら笑ったという。上陸地が柄杓型の場所だったからだが、この嘲笑が響いたときには、すでにオクタヴィアヌスは次の行動も終えていた。
『柄杓』に軍勢の大半を上陸させたのち、オクタヴィアヌスとアグリッパは艦隊をコルフ島の基地に向けた。夜明けとともに突如敵艦隊を前にしたアントニウス軍は仰天した。基地はあっという間にオクタヴィアヌスの手中に落ちた。
最高司令官の旗艦から、マルケルスは遠目ながらコルフ島陥落の様子を見物していた。それから船室に戻ってきて、興奮気味に報告したのだった。相変わらず船酔いに苦しみながら、ティベリウスは自分に言い聞かせていた。
今でよかったんだ。大人になってからこんな様をさらして許せるものか。耐えろ。耐えるしかない。今のうち、体を慣らしておかないと……。
このあと、アグリッパは海路、オクタヴィアヌスは『柄杓』の軍勢と合流して陸路、ギリシアを南下すると話した。子ども二人はオクタヴィアヌスに同行するよう言われたが、ティベリウスはアグリッパについていきたいと頼み込んだ。もう少しで船に慣れそうだからまだ降りたくない、と。アグリッパがオクタヴィアヌスを説得してくれ、願いはかなえられた。
マルケルスはティベリウスと叔父を何度も交互に見た。しかしティベリウスが意志を曲げないのを見てとると、結局彼もアグリッパの船に乗ることに決めた。
アグリッパの艦隊は、コルフ島から逃亡した一部の敵艦隊を追走していった。翌日早朝、ティベリウスが目を覚ますと、艦隊はすでに岬の前に来ていた。ここがアクティウム――岬を意味する言葉がそのまま地名になった場所だ。
だいぶ気分が良くなっていて、トオンが用意してくれた朝食もおいしく腹に収めることができた。そこへマルケルスが飛び込んできた。
「大変だ!」
彼は顔面蒼白だった。
「戦闘がはじまるよ!」
ティベリウスたちが甲板に出ると、完全武装したアグリッパと軍団兵が、一様に緊迫した面持ちで地平線をにらんでいた。薄暗い空の下、しだいに朝靄が晴れていき、アンブラキア湾口が姿を現わす。
「見て! アントニウスの艦隊がいる!」
マルケルスが指差す。ティベリウスは船の右舷から身を乗り出した。
湾口に、アントニウスの軍船が並んでいた。船首をこちら側にまっすぐ向け、臨戦態勢である。
アグリッパはさらに船を近づけた。陸の彼方に朝日が輝きはじめ、ティベリウスの目に、敵船乗員の姿が確認できた。屈強な男たちが、いつでもかかって来いと言わんばかりに武器を構えている。
それにどこか違和感を覚え、ティベリウスは目を凝らした。敵兵は準備万端に見えるが、防具が、ローマ軍団兵のそれではなく、ずいぶん軽装に見える。同盟国の援軍なのだろうか。
そこで目が疲れたので、船縁から体を引き、何度もまばたきをした。視力には自信があったが、朝日が甲冑に照り返してさらに強烈になっていた。
そのとき、左腕がきつく絡みとられた。見ると、マルケルスの青白い顔がすぐそばにあった。
「どうしよう…。このまま戦闘に突入したら…アントニウスと……」
彼は両腕でティベリウスを抱き寄せた。
「叔父上――」
震えるその姿に、ティベリウスは突如罪悪感に駆られた。オクタヴィアヌスもアグリッパも、陸路のほうが安全だとわかっていた。それを自分が無理を言って、海路のほうについて来たのだ。そんな自分のわがままのせいで、マルケルスまで危険な目に遭わせようとしている。
なにがあってもマルケルスだけは守ると固く決めていたのに、海上ではなす術がない。無力で、責任もとれないくせに、なんて思い上がった真似をしたのだろう。
ティベリウスは無言でマルケルスの頭を抱いた。それ以外、なにもしてあげられなかった。
「撤収する」
アグリッパの言葉に耳を疑ったとき、朝日はすでに陸を離れて浮かび上がっていた。
艦隊はアンブラキア湾口から離れ、ゆっくりと北へ戻っていく。
アグリッパが踵を返した。きびきびと船尾へ向かいながら、鋭い眼差しで南を見つめていた。遠ざかる湾口。さらにその向こうには、アントニウスの基地があるレウカス島が見える。
「アグリッパ…」
マルケルスと身を寄せ合っていたティベリウスは、司令官を凝視した。まさか自分とマルケルスがいるから撤退するのかと無言で問いかけた。
ところが、アグリッパは甲板にいる二人にたった今気づいたように、きょとんとなった。
「おや、坊ちゃんがた、早起きさせてしまいましたな」
それはもはや、いつもの顔だった。
艦隊はコルフ島には戻らなかった。アクティウムの西側に位置するコマルスの港に入った。
「見て!」
今度のマルケルスの声は弾んでいた。
「ローマの陣営だよ!」
ティベリウスが船から見上げると、靄が晴れきった岬の端に、防壁が確かに見えた。オクタヴィアヌスが建設させたに違いないが、それにしても迅速だ。厳しい軍規の下、効率を極めて組織的に機能するローマ軍だからこそなせる業である。
「あそこが我々の本営になりますよ」
アグリッパが教えた。
オクタヴィアヌスが迎えに来ていた。陣営からこの港までの安全は、すでに確保済みらしい。マルケルスは一直線に叔父の下へ駆けていった。
「岬から様子を見ていた」
オクタヴィアヌスはにやにやしながら教えた。
「真実を暴露すると、君たちが現れた時、アントニウスの兵はまだ陸で眠っていた。それで大いにあわてたアントニウスは、船上にいた漕ぎ手に武装させ、あたかも臨戦態勢に入ったかのように見せかけていた」
「いやはや」
アグリッパは目玉をぐるりとまわした。だまされたことに苛立っているのではなく、敵がのんきに眠っていたことに呆れているようだった。
マルケルスは叔父を見上げた。
「ぼくたちは好機を逃してしまったのですか?」
「いや、そんなことはない」
そう言うと、オクタヴィアヌスはティベリウスに微笑を向けた。
「船には慣れたか?」
「はい」
それから、ティベリウスはマルケルスに言った。
「ごめん。君に怖い思いをさせた」
マルケルスはびっくりした顔になった。それからぶんぶん首を振った。
「大丈夫だよ。ティベリウスが元気になってよかった」
子ども二人はオクタヴィアヌスとともに本営に入ることになったが、アグリッパはコマルス港に残ると言った。
「どうか心配せず、見ていてくださいね」
そう言って、ティベリウスの頭をなでた。
オクタヴィアヌスに導かれ、ティベリウスとマルケルスは本営に向かった。岬の先へ上っていくと、やがて防壁で囲われた堡塁が見えてきた。一歩ずつ近づくたび、二人の驚きは増した。真ん前に立った時は圧倒されていた。
万単位の人間を収容するのだから大きくなければいけないのはわかっていたが、それにしても想像を超える規模だった。堡塁は四角形になっているが、正門のある一辺だけを前にしてもその長さに目を見張る。オクタヴィアヌスと軍団兵たちは一夜で街一つ建設してのけたかのようだった。
防壁前に張り巡らされた二重の塹壕に目を奪われながら、ティベリウスとマルケルスは正門をくぐった。そこにはさらなる驚きが待ち構えていた。
戦車競走ができそうなほどの空地。その向こうに、どこまでも整然と続くテントの群れ。すでに木造の建物まで立ち並びつつある。あいだを走る通路はまっすぐで、きちんと区画整理されている。
「広いねぇ…」
マルケルスの感嘆に、ティベリウスもうなずくばかりだった。想像以上だが、もっと驚くべきはこれを一夜で完成させた技術と組織力である。
軍団兵たちは今も堡塁整備に動きまわっていた。動きはだいぶ緩慢に見えたが、それはエピルスからの行軍に続けて夜間工事をやりぬいたあとだからだろう。交代で休息をとりながら、仕事を完成させつつあるようだった。
オクタヴィアヌスに続いて、二人は空地を横切った。ティベリウスは振り返り、背後にそびえる防壁を眺めた。テオドルスもルキリウスも、矢の雨降る陣営暮らしなど御免と言っていたが、これだけの空間を設けていれば、テントにまで飛び道具が届くことはないだろう。
テントの列に挟まれた、正面の通路を行く。作業に従事している軍団兵たちは手を休め、最高司令官に敬礼した。それからティベリウスとマルケルスに物珍しげな目を向けてきた。ベテラン兵のテントもこの列らしい。ティベリウスは井戸の脇で、見知った気難しい顔を見つけた。ドゥーコはティベリウスに目を留めると、そのままにらみつけるようにじっと見送っていた。
テントの列を抜けると、ひときわ大きく整備の行き届いた道が現れた。堡塁の右門と左門をつなぐ中央道路で、これを横切ると総司令部のテントがある。正門の突き当りで、堡塁の中心に位置する。ここで幕僚たちを集めて軍議が行われ、最高司令官も寝泊まりする。ティベリウスとマルケルスの寝床も、オクタヴィアヌスのそれのすぐ隣に設けられていた。
総司令部の出入口には紅紫色の天幕が掛けられていた。その前に近づくと、完全武装を整えた軍団兵が一人、直立不動で敬礼した。馬毛の飾りがついた兜を目深にかぶり、筋肉の象眼を施した胸甲を身につけている。これはロリカ・ムスクラと呼ばれ、身分の高い者の装備である。オクタヴィアヌスが彼にうなずき、天幕をくぐる。ティベリウスとマルケルスもあとに続こうとすると、その軍団兵が颯爽と前に割り込んできた。
「ローマ軍堡塁へようこそ!」
軍団兵は声を張り上げた。行く手を塞がれた二人は面食らった。軍団兵がそんな二人を交互に見ると、兜飾りが犬の尻尾のようにうきうきとゆれた。
「おや、緊張している顔だね、可愛い少年たち! 大丈夫。今日からここを我が家と思っていいんだよ。ここにはなんだってあるんだ。おいしい水もパンも、心地よい寝台も、くつろぎの風呂も。寂しくだってないぞ。君たちの父親代わりも、それに友だちだっているんだから!」
ぽかんとする二人に、軍団兵はいよいよにんまり白い歯を見せた。
「おやおや、親愛なる君たち。ぼくがだれだか、忘れちゃったのかな?」
軍団兵は両手を兜に添えた。
「この男前を見忘れたか!」
兜が脱げる。現れた顔に、ティベリウスとマルケルスは堡塁中に響く大声で叫んでいた。
「ピソ!」
ルキウス・ピソは満足このうえもない笑顔で、二人を見まわした。
「なんで?」
「どうして?」
「知らなかったのか?」
彼は畳みかける年下二人に言った。
「ぼくは今年で十七歳だ」
あっとばかりに、二人は息を呑んだ。
「というわけでこのとおり、大はりきりで軍に志願した。軍団副官ルキウス・カルプルニウス・ピソをどうぞよろしく!」
友人二人はあんぐり口をあけるばかりだったが、考えてみれば十分あり得る状況だった。国家の中心人物を目指すなら、軍務経験は不可欠である。元老院階級の子弟ならば、早いうちから軍団長次席となる副官の地位を与えられ、身内の監督下、将軍見習いを体験できる。十七歳のピソが、自身の初陣を飾るにこの戦争を選んで不思議ない。むしろこれ以上にふさわしい場はない。
だが、自身の従軍で頭がいっぱいだった二人には、思いがけない再会以外のなにものでもなかった。
「なんでなにも言ってくれなかった?」
ティベリウスは詰め寄った。去年の暮れから見かけなくなったと思っていたが、それまでに話す機会はいくらでもあったはずだ。
「うん」
ピソは大きくうなずいた。
「驚かそうと思って黙ってた」
「もうっ」
二人は代わる代わるピソと抱擁を交わした。怒ってはみせたものの、最も頼もしい友人の登場に、安心感に包まれたのは確かだった。
「カエサル。二人に陣営を案内して参ります」
ピソが天幕に首を突っ込むと、オクタヴィアヌスの笑いまじりの返事が返ってきた。もちろん彼も、ピソの参戦を以前から知っていたのだ。ピソは先代カエサルの義理の弟である。実父はすでに他界しているので、もしかしたら最高司令官その人が、新入りピソの監督役なのかもしれない。
ティベリウスとマルケルスは、うれしそうな先輩に先導されて歩いた。
「いやー、それにしても戦争が始まったのが今年でよかった。もし来年にまで延びてたら、レントゥルスのやつまでついてくるところだった。あいつも腕が立たないわけじゃないが、右見て左見て次の瞬間には敵に囲まれてるだろう。もしくは味方の矢に当たるか、騎兵の突撃に轢かれるかだろう。ぼくはあいつのために特別護衛部隊を組織するつもりだった」
ピソの冗談に二人も一緒に笑った。あまり冗談にも聞こえなかったが、ティベリウスはあののんきな顔をした友人も、ピソの参戦を知っていながらとぼけていたのだとわかった。このくらいは許されるだろう。
「ピソ、カッコいいなぁ…」
マルケルスは甲冑姿のピソを見上げ、目をきらきらさせた。
「そうだろう、そうだろう」
ピソは遠慮なくうなずき、拳でロリカ・ムスクラを叩いた。
「君たちも知ってのとおり、ぼくはこれを着けなくても見事な肉体の持ち主だ。だからいらないと言ったんだけど、裸で戦場に出るつもりかと姉上に叱られ、結局実物にはやや劣るが、これを纏うことにした」
二人はまた笑った。けれども彼の姉カルプルニアを思い浮かべた時、ティベリウスは少しだけ気持ちが曇った。カルプルニアと父親のピソは、神君カエサル暗殺後、アントニウスに力添えをしていた。だから目の前にいるこの友人も、もしかしたら今アントニウスの側に立っていたとしてもあり得ない話ではなかった。アントニウスとオクタヴィアヌス、両者の対立の狭間で、この友人を失わずにすんで本当によかった。
だがマルケルスが次に口にした言葉が、新たな現実を思い出させた。
「ピソも戦うの? 女王の軍に立ち向かっていくの?」
「もちろん」
うなずくピソは意気揚々としていた。
「危ないことはしないでね」
マルケルスはすぐに言った。
「大丈夫だ。ぼくの武芸の腕前は君たちも知ってるだろう。東方連合なんかにひるむもんか。皆ぶっとばしてやる!」
「ピソ、命を大事にしなきゃだめだ」
今度はティベリウスが言ったが、ピソはわかってるとうなずくだけだった。
「言っておくけど、ぼくは後方でえらぶってどっしり構えているつもりはないぞ。お坊ちゃん扱いされるのは嫌いだ。だから果敢に前線から敵に切り込んでやるんだ、どんどんどんどん――」
「ピソ!」
「大丈夫だって!」
自信満々に言ってのけるピソだが、ティベリウスとマルケルスは不安の色濃い視線を交わした。仲間内ではいつもだれより泰然として思慮深いピソだが、今はいつになく気持ちを高ぶらせているように見えた。初陣を前にはりきるのは当然だが、最高司令官のオクタヴィアヌスでさえ、けがを負ったことがあるのだ。軍団副官が大丈夫だと言えるはずがない。
戦争の勝敗がどうなろうと、双方に必ず犠牲者は出る。その一人がこの十七歳の友人になる場合を想像して、ティベリウスは初めて戦の恐ろしさを身近に感じた。
「ほら、ここがぼくの軍団のテントだ」
不安がる友人二人の気を逸らそうとしてか、ピソはいちだんと陽気な声で教えた。
「軍団兵は八人で一つのテントに入るんだ。テント組と言ってね、つまりこれが十組で一百人隊になるんだ。中はかなり狭いけど、いつも全員そろっているわけじゃないんだ。軍事訓練以外にも、色々な仕事があるからね。見まわりとか、塹壕造りとか、井戸掘りとか、薪割りとか、便所掃除とか。食料調達に外へ出ることもある。隊ごとに勤務表を作ってるんだ」
ピソは堡塁内の各所をまわり、二人にあらゆる施設を案内した。まだ作りかけのも多かったが、それでも街に滞在していると同様の、何不自由ない生活を追求していることがよくわかった。思っていたより快適な暮らしを送ることができそうだ。
それからピソは、後門から堡塁の外へ出た。二人はびっくりしたが、きょろきょろしながらあとを追った。
アクティウムの先端まで来た。眼下はすぐ、アンブラキア湾口である。ピソによれば、こちら側の岬は、すでにコマルスのすぐ北に防衛線を設けて掌握したという。だから本営となるこの堡塁は、その周辺も含めてひとまず安全なのだ。そして対岸の岬にも、同じような堡塁が見えた。
マルケルスが指差した。
「もう一つ陣営があるの?」
「うん。敵の、だけどね」
ピソの答えに、マルケルスは思わず一歩退いた。あいだを抜ける湾口は七百メートルほどだろうか。
「近いね」
つぶやくマルケルスに、ピソは笑いかけた。
「心配ないって。丸見えだけど、敵の飛び道具はここまで届かない」
「でも船の上からなら? ここから敵が登ってきたら?」
「不可能だよ、絶壁だから。まぁ、万一そんな超人的な努力を見せつけてきても、登って来る前にこちらが石で狙い撃ちだ」
それでも、初めて敵陣営を目にすれば脅威を感じるのが自然だ。マルケルスはピソの腕の後ろに入った。それから恐る恐るという感じで、もう一度向こう側の岬を覗く。
「ほうっておいていいの?」
「高台にあるからね、攻めにくいんだ。でも平気だって。こっちのほうがさらに高台だから、地の利はある」
「あそこにアントニウスがいるの?」
「おそらくね」
ピソは沈着に応じた。
「あそこは彼と女王の『王宮殿』だからな。それとももしくは、もう少し湾の奥に入った港にいるのかも。ちょっと今は靄でかすんでいるけど、アンブラキア湾には敵の大艦隊が待機してるんだ。ほら、こちら側とあちら側に、同じような塔が立っているだろう? 今朝、君たちを乗せた艦隊が現れた時、あそこにいた見張りが大急ぎで湾内に戻り、アントニウスに有事を知らせたわけだ」
そしてオクタヴィアヌスは、ここから漕ぎ手を武装させたアントニウス艦隊が進むのを眺めていた。この岬に立てば、周囲のあらゆるものが見渡せる。対岸の岬だけでなく、イオニア海も。そして、くの字に曲がった湾口の先にある、アンブラキア湾まで。
「巨大な食道と胃袋みたいだって、医者曰く」
笑いながらピソは、湾口をなぞるように指を動かした。それを追って、ティベリウスは目を凝らした。以前にカルヴィヌスが話した情報のとおりなら、敵側は補給船を含め、総勢八百隻を保有しているはずだ。もちろんパトラスやほかの基地にも分散しているから、この湾内にすべて停泊しているわけではないが。
ピソによれば、アントニウスはギリシア各地に散らばった軍勢を、大急ぎで呼び寄せているところだという。オクタヴィアヌスがこれほど迅速に、それも眼前に姿を見せるとはまったく予想外だったのだ。
ローマの敵はエジプトである。だが実際、これから相手にする敵を指揮するは、同じローマ人であるアントニウスである。そしてその部下は、ローマ軍団兵六万人である。背後の堡塁にいるだれもが、そのことを知っていた。ティベリウスたち三人ももちろんのこと。
戦の原因は、多くの者が同じことを信じていた。女王の大いなる野心と彼女に籠絡されたアントニウスの乱行。
両軍はギリシアのアンブラキア湾で相対した。




