第三章 ‐2
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アグリッパが両腕を広げ、くしゃくしゃの笑顔で迎えてくれた。
「お待ちしてましたよ、坊ちゃん」
胸いっぱいにティベリウスを抱きしめた。
「道中大変だったでしょう? とんでもない長旅だったでしょう?」
「カルヴィヌス殿と、いっぱいお話をしました」
腕の中で、ティベリウスは報告した。冬でも日に焼けている肌のにおいが、とてもなつかしかった。
「ほう」輝く目を見張るアグリッパ。
「それはいやはや、すばらしいお相手を見つけましたな」
彼の背後には、見渡すかぎりブリンディジの港が広がっていた。規模はイタリア本土最大で、ターラント湾よりも海が深く、風にさらされにくい場所にある。順風ならば、ギリシアまでほんの一日の船旅で着く。
二百数十年のあいだ、この港はローマから東方へ数多くの人間を見送り、同じくらい数多くの人間を東方からローマへ迎え入れてきた。歴史に名を残す人物たちが、訪れては去りゆく姿も目撃した。
今でも彼らの足音が聞こえてきそうなこの都市では、首都ローマと同じなに不自由ない生活を送ることができる。およそ二週間の旅を終えた次の日、ティベリウスはアグリッパに連れられて市の大浴場に行った。聞けばこの施設は、集結した兵たちに憩いの場を提供するため、彼が拡張工事をさせたのだという。
「そのうち、艦隊を見学させてください」
アグリッパに心地よく頭をもまれながら、ティベリウスは頼んだ。
「船の中まで、全部」
「もちろんですとも。この私自慢の秘密兵器をぜひとも披露したい」
ティベリウスの頭に湯をかけて、アグリッパは洗い終えた。奴隷にやらせるからいいといったのに、ときおりわざと力いっぱいぐしゃぐしゃかきまわしては、ティベリウスを笑わせたのだった。
それから二人は並んで湯につかった。温泉ではないが、湯は適温で、長旅の疲れと緊張がすっと流れ落ちていくようだった。
「坊ちゃん、カルヴィヌス殿とはなにをお話しされたのですか?」
「色々。今回の戦争のこと。敵の戦力と戦略のお話を、かみくだいて話してくださいました」
「そうでしたか。いやはや、私が説明して差し上げたかったのに」
先を越されたと、アグリッパは目尻を下げた。うっすらかかる湯煙ごしに、ティベリウスはその横顔を見上げた。そして、ふいに激烈な衝撃に打たれた。
今目の前で屈託なく笑うこの人物が、ローマ軍九万の戦力を率いる事実上の総大将なのである。ローマの運命は、彼の指揮如何にかかっている。
アグリッパの責務を頭ではわかっていながら、今の今までティベリウスは、戦場に立つ彼の姿をまったく想像したことがなかった。できなかったのだ。アグリッパはただの一度も、ティベリウスに将軍の顔を見せてこなかったのではないか。
「どうしました、坊ちゃん?」
見つめてくるアグリッパは、まったくいつもの陽気なアグリッパで、無邪気にさえ見える。
「アグリッパ…」
そのむき出しの腕を、ティベリウスはつかんだ。手を上に伸ばしても、その肩に背負った想像を絶する重責は、影も形も見えない。
なにかを言いたかった。だがなにを言えばいいのだろう。がんばって、負けないで、ローマを、カエサルを守って――。
すべてが空しくこだまして消える。つかんだはずの姿が歪む。白くかすんでいく。
行かないで、だったのかもしれない。
「坊ちゃん」
アグリッパの腕が、濡れた頭に乗った。
「カエサルは負けませんよ」
湯煙が、吹き込む風に飛ばされて晴れた。ティベリウスは相好を崩した。泣き顔に近かった。いつでも心にカエサルがいるアグリッパは、やはりアグリッパだった。
「いやいやいや、なんともはや」
浴室にひときわ大きな声が反響した。開いた扉から人影が三体現れ、ざっぷりと湯船に沈み込んできた。向かい側にいたティベリウスとアグリッパには、気づいていないようだ。
「見ましたか? カエサルが甥のマルケルスと一緒に馬車に乗るところを」
「ええ、ええ、まるでかつての神君カエサルと彼のようですな。ヒスパニア戦争からの帰り道、大叔父殿は寝ても覚めても彼をそばから離さなかったとか」
「これはいよいよマルケルスで後継者確定ですかな?」
「なんの後継者だね? アントニウスを倒したら、若カエサルはついに王になるというわけかね? おお、嘆かわしい! 我らが古き良きローマよ、帰らん。共和政万歳!」
「おいおい、口を慎みたまえ。さもないとこの戦争のどさくさにまぎれて殺されるかもしれんぞ」
「かまうものか! 我らは自由人だ! カエサルの奴隷じゃない!」
「声がでかいって!」
「では君は、エジプト女王の奴隷になるのですかな?」
「それも嫌だ! ああ、絶望だ! 我らローマ市民にはその二者択一しかないのか!」
「もしくは、また第二・第三のブルートゥスが現れる…かもな」
「現れてどうするというのです?」
飛び出しかけたティベリウスの肩を、アグリッパが押さえつけていた。
「――また内戦のくり返しですかな? いやいやそれまた真っ平御免です。ここは一つ、カエサル家の繁栄を応援しようじゃありませんか。なに、案外今のカエサルは、そのうち病でぽっくりいくかもしれない。できれば面倒事の一切を片づけてから召されてほしいが。そしたらあの無邪気で素直そうな甥っ子を持ち上げて、我々の話を聞いてもらいましょう」
「どうしてほうっておくのですか!」
アグリッパに引きずられるように浴槽を出てから、ティベリウスはくってかかった。アグリッパは無表情で首を振った。
「坊ちゃん、君はまだ若いし、そのうえ入浴中では頭に血も昇りやすいでしょう。でも、あの程度のたわいもない会話に目くじらを立てるのは無粋ですよ。言わせておけばいいのです。ここは皆の憩いの場なのですから」
二月は、なに事もなく過ぎた。ティベリウスとマルケルスは首都にいるときと変わらない生活を送った。午前は教師ネストルの授業を受け、午後はこのブリンディジが誇る大きな体育場で体を動かした。マルケルスにとって喜ばしいことに、オクタヴィアと娘たちもようやく後着した。ユルスは、バイアエの別荘に預けられたそうだ。
ただ一度だけ、オクタヴィアヌスがブリンディジ艦隊の半分を率いて出撃したことがあった。アントニウスの最北の陣営である、コルフ島を狙ったようだ。ところがこのときは、予想はされていたのだが、悪天候のため近づけず、翌朝には引き返してきた。なにも知らなかった継子と甥は、傷ついた顔で詰め寄ったが、オクタヴィアヌスは沈着に言っただけだった。荒れることがわかっている海に、お前たちを連れていくつもりはない、と。
ティベリウスもマルケルスも、断固として従軍するつもりでいた。オクタヴィアは息子に、恐ろしいならば母がカエサルに話して止めさせるから無理はしないようにと話していたが、マルケルスは決して弱気を見せなかった。戦争がどうしても避けられないのなら、自分は行きたい。そう伝えた。
同じことを、母リヴィアはティベリウスには言わなかったが、まわりの奴隷たちは口を酸っぱくしてきた。だがティベリウスもマルケルスと同感だった。自分が本当に見なければならないものは、この先にある。なんとしてもついて行きたかった。
だが、ドルーススを見るたび、その決意がゆらぎそうになることは否定できなかった。ドルーススは残された時間を惜しむかのように、兄のそばから離れなくなった。体育場にまでついてきて一緒に遊んだ。兄の背中に乗ってじゃれつくことが、以前より多くなった。何度か、ティベリウスはたしなめようとした。もうすぐ自分がいなくてもやっていかなければならなくなるんだぞ、と。けれどもその楽しそうな笑顔を見ると、結局くじけてしまうのだった。
こんなことじゃだめだ。そう思う。自分もドルーススも、成長して将軍になったら、何ヶ月も、もしかしたら何年も離れて任務につくことだってあるのだから。耐えられるようにならなければ。
「ちゃんと字の勉強をするんだぞ」
あるとき、ティベリウスは言った。
「いっぱい手紙を書くからな」
背中のドルーススの顔は見えなかったが、体が強張ったのは伝わった。
「そんなの、当たり前だぞ」
ドルーススは言った。
それでも、軍団兵たちが相手をしてくれたので、ドルーススの心も慰められただろう。ドルーススは彼らの人気者になっていた。らんらんと目を輝かせ、ヴォレヌスとプッロのような勇者を探して走りまわる。軍団兵たちは、剣や盾を見せびらかしながら、ドルーススをかまって楽しんだ。
ティベリウスは、少し離れたところからその様子を見守っていた。
「ネロ」
呼びかけられたときは、一瞬自分のことだとわからなかった。父が亡くなって一年が過ぎるのだから、そろそろ慣れなければと思う。成人前だからというのもあるが、ティベリウスを家名で呼ぶ人はまだごくわずかだ。
その一人であるドミティウス・カルヴィヌスが、いつもののんびりした所作で近づいてきた。
「今日は君に、新しい話し相手を連れてきたよ」
それで、ティベリウスは申し訳なくなった。やはり自分はカルヴィヌスに迷惑をかけていたのだろう、と。だが、カルヴィヌスは例の飄々とした笑みを浮かべ、目をいたずらっぽく光らせていた。またなにかからかいの種でも見つけたのか。
カルヴィヌスの後ろには、鎖かたびら姿の男がいた。
「この小僧っ子ですかい?」
その男は言った。ティベリウスはむっとしたが、その男のほうも憮然とした顔でにらみつけてきた。
男は、カルヴィヌスよりもだいぶ小柄だった。軍人であるならば、入隊資格ぎりぎりの体格だろう。筋張った体つきで、全身が頭頂部に至るまで日に焼けている。首から上には深い皺が刻まれているが、むき出しの腕と足にはまだ張りがある。若いころは腸詰め肉のようにはち切れんばかりの筋肉を誇っていたのだろう。年の頃、五十過ぎに見えた。
男とティベリウスは、しばし互いに一歩も譲らぬ訝しげな目で、あからさまに品定めし合った。その様子を、カルヴィヌスはおかしそうに眺めていた。
「思ったとおり、仲良くなれそうだな。紹介しよう、ティベリウス・クラウディウス・ネロ、この男は――」
言いかけてから、カルヴィヌスは男を振り返った。
「自分で話すほうがいいかな?」
「元第十三軍団、ガイウス・ユリウス・ドゥーコ百人隊長」
男はぶっきらぼうに、だが堂々胸を張って言った。
「ガイウス・ユリウス・カエサルの戦士である」
ティベリウスは目と口を丸々と開けた。
「あなたは、神君カエサルのベテラン兵なの?」
「そのとおりである。恐れ入ったか小僧。この儂こそ、総大将がガリアに入って以来、片時と離れずおそばで戦い抜いた最古参の部下――」
「最古参?」
ティベリウスは首をかしげた。
「第十三軍団は、たしかガリア戦役の二年目に編成されたのでは――」
「それがいったいなんだというんだ!」
だしぬけにえらい剣幕で怒鳴りつけられ、ティベリウスは思わずびくりとした。男は拳を振りまわした。
「二年目! 二年目! どいつもこいつも、儂らを二年目と! 儂らがたったの一年、第十一と十二軍団に遅れをとったからなんだ! 儂らが武勇と総大将の信頼において遅れをとっているとでもいうのか? 馬鹿な! 儂らはあやつらはもちろん、本国からついて来たというだけでベテラン中のベテラン面しておるあの四個軍団にも劣らんわい! だいたいあの第九軍団と十軍団ときたら、総大将に対してストライキを起こしておきながら、なにいつまでもえらそうに――」
「まぁ、まぁ、まぁ」
カルヴィヌスが彼を押さえていた。彼はティベリウスに苦笑を向けた。
「『二年目』という言葉は、彼には禁句だ」
よくわかったと、ティベリウスはうなずいた。
「一緒にルビコン川を越えたのは、だれだと思っておる!」
男はまだわめいていた。男が本当に第十三軍団の百人隊長だったとしたら、確かに彼らこそが、神君カエサルとともに運命の境界線を越えた歴戦の軍団兵である。そして少なくともファルサロスまで、神君カエサルの絶大な信頼の下、最前線で戦い続けたはずである。
ティベリウスはしだいに胸の高鳴りを抑えられなくなってきた。
男の尖がった肩をなだめながら、カルヴィヌスが言った。
「ドゥーコはギリシアに渡ってから、私の部下になった。ファルサロスでも、私の指揮する中央で戦った」
「違いますわ!」
収まりかけていたドゥーコの興奮が、また噴火した。
「儂は最精鋭として総大将に選抜され、騎兵隊の後ろについた! そして総大将直接の指揮の下、ラビエヌス殿の七倍の騎兵を粉砕してやったんですわ!」
「そうだった、そうだった。どうりで私から君に褒章をあげた記憶がないわけだ。うっかりしてた」
冷や汗をかきだしたカルヴィヌスだが、ティベリウスのほうは今やらんらんと目を輝かせていた。ファルサロスで神君カエサルがとった逆転の秘策。その担い手であったということは、このドゥーコは間違いなく、最精鋭のベテラン兵だ。彼らなしに、神君カエサルの勝利はなかった。
カルヴィヌスがティベリウスに向けた笑みは、弱りきっていた。
「彼は一度引退したんだがね。君の父上が建設した南ガリアの植民地に自宅がある」
「なんですって!」
ティベリウスは新たな驚きをもって、この老兵を見た。老兵はフンと鼻を鳴らした。
「覚えてますよ、あのおひとのことは。無口で、儂らにはめったに言葉をかけてこんかった。貴族らしく、お高くとまった感じでね、この小僧とそっくりじゃありやせんか」
カルヴィヌスへ向けられたその言葉に、ティベリウスはまたむっとした。
「彼は君の話を聞きたがっているんだ」
カルヴィヌスはドゥーコに知らせた。
「なんでも話してやってくれ。彼はローマの将来を担う男だ。優れた将軍を目指しているんだ」
「我らが総大将のような、ですかい?」
ドゥーコはせせら笑った。
「あのお方のような将軍など二度と現れるもんですか。旦那だってわかってるでしょう?」
「ぼくはぼくだ」
ティベリウスは苛々とにらみつけた。
「神君カエサルとは違う」
ドゥーコの額から、一瞬皺が消えた。彼はぎょろ目をしばたたきながらティベリウスを見つめ、それからカルヴィヌスへ首を傾けた。
「『私は王ではない、カエサルである』」
「とにかく、頼んだよ」
微笑んで首をすくめると、カルヴィヌスは踵を返した。
「ちょっと、ドミティウスの旦那――」
「その子は最も由緒正しい貴族の子弟だぞ。あまり品のない振る舞いはしないように」
ひらひらと手を振り、彼はさっさと港の人混みのなかに消えた。残されたティベリウスとドゥーコは、途方に暮れて立ちつくした。
先に口を開いたのは、ドゥーコのほうだった。
「まったく…」
彼は額を押さえてしゃがみ込んだ。
「老体に鞭打って駆けつけてみれば、待っていた仕事が子守りとは。儂も落ちぶれたもんだ」
ティベリウスは貫くような視線を送った。お前などこちらから願い下げだと言ってやりたかったが、それでもなんとか自制したのは、この老兵こそ、彼が話を聞きたくて待ち焦がれていた人物だからにほかならない。
「あなたの経歴を話してください」
抑揚のない声で頼んだ。
ドゥーコは横目でティベリウスをねめ上げ、それから深々とため息をついた。同じような抑揚のない調子で話し出した。
「ガイウス・ドゥーコは北イタリア属州の農村で生まれる。ユリウス・カエサルがローマ市民権をお与えくださった二年後、二十五の年、軍役に志願する。以来、どこへでも総大将に従った。ガリア全土はもちろん、ライン川を越え、ゲルマニアの森にも踏み込んだ。荒波をものともせず、ブリタニアにも上陸し、未開の蛮族を相手に冒険した。三十の年、百人隊長に任命され、難攻不落のゲルゴヴィアを、次いでアレシアを戦い抜いた。総大将の前にぬかずいたヴェルキンゲトリクスを、この目で見た。ルビコン川を越えたあとも、総大将から片時も離れんかった。ブリンディジまでポンペイウスを追いかけ、そのあとはマルセーユ、ヒスパニアと転戦した。残念ながらギリシアに渡ってからは、別動隊に入れられたが。ドミティウスの旦那と、あんたの父さんがいたなかにな」
ティベリウスの胸は再び高鳴り出していた。この男は、ティベリウスが見たいと望んだあらゆるものを見ていた。
「儂らに言わせれば、ドミティウスの旦那だって、戦の場数はまだまだヒヨっ子だわい」
ティベリウスの静かな興奮を感じ取ったのか、ドゥーコの口調は少しずつ熱を帯びはじめた。
「もちろん、総大将が選んだ人だから、有能ではあるんだが。あんたの父さんとは、ガリアでも何年か一緒だった。頭が固すぎるのかねぇ、いちいち総大将に文句ばっかりつけとった。『元老院に許可なく勝手に軍を編成するのはいかがなものか』だの、『いったいブリタニアまで行くことになんの意味があるのか』だの。『この石頭め』と総大将は笑ってたがね」
ティベリウスは地面を凝視したまま、唇を引き結んでいた。いかにも父らしかった。
その様子をちらりと見てから、ドゥーコは自分の歴史語りに戻った
「ファルサロスのあと、総大将は儂らに休暇をくださった。エジプトへ行って、なかなかお帰りにならんかったが、お帰りになるや、首を長くしとった儂らはアフリカまでついていった。第十軍団の阿呆どもだけは違うが」
第十軍団のストライキは、有名な話だった。彼らは給料を値上げしなければ退役すると主張して参戦を拒否したのだが、神君カエサルはただの一言で騒動を沈めた。
「退役を許可する、市民諸君」
精鋭中の精鋭は、長く苦楽をともにした総大将その人に、ただの一市民呼ばわりされた。それ以上なにも言わずに、神君カエサルはアフリカに向かったが、彼らはすっかり打ちひしがれた様で、涙ながらに最後尾から従ったという。第十軍団は、その後これまで以上の活躍で総大将を助けることになるのだが、ドゥーコにとってはこの一事が、最古参の最精鋭に対抗するごく限られた材料なのだろう。
「ローマに帰って、総大将の凱旋式に参列した。儂らは叫んだもんだ。『市民らやい、女房を隠せ! 禿げの女ったらしのお帰りだ!』 四頭馬車から振り返り、総大将は、それはそれは傷ついた顔で、儂らに文句を垂れた」
凱旋式では、主役が、ほかの場合なら侮辱になる言葉を散々浴びせられるならわしがある。栄光の頂点にいる凱旋将軍が、神々の嫉妬を受けないようにという配慮である。
ドゥーコは遠い目になっていた。口調も顔つきも幾分柔らかくなっていた。
「総大将は年々薄くなっていく頭を大変気になさっていた。いつぞやは儂にこうおっしゃった。『ドゥーコよ、お前もだいぶ寂しい頭になったが、私が同じ歳のときにはまだマシであった』『アントニウスのやつめが、俺の家系は禿げないんですよ、などと自慢していたので、私の家系の血も引いていることを思い出させてやろう。やつが酔いつぶれた隙に、ドゥーコよ、この短剣で丸刈りにしろ』」
ティベリウスが思わずもらした笑い声に、ドゥーコははっと我に返ったらしい。すぐにまたぶっきらぼうな口調に戻った。
「ヒスパニアでのポンペイウス残党討伐が、儂らと総大将の最後の戦いになった。その帰り際、総大将は儂らをねぎらい、多額の報酬をくださったうえで退役を申し渡した。『お前たちはもう十分に働いた。ガリアに土地を用意したので、そこで女房をめとり、達者に暮らせ』と。そのとき総大将は、儂にユリウスの家門名までくださった。だから儂は、それに従った」
ティベリウスは、ドゥーコが総大将から受けた愛情と信頼を、当人の口から語られた言葉だからと割り引く気にはなれなかった。彼は、いや、彼らは確かに愛されていた。総大将と一心同体で結ばれた思いでいたのだろう。だから最後の愛情を、涙ながらに受け入れることにしたのだろう。
「あんたの父さんが造った町で、新しい生活をはじめた。故郷から家族を呼んだ。女房をめとって、娘も一人生まれた。それでも一年後、総大将がパルティアに行くと知ったとき、儂らはあわててローマに向かったんだ。置いていかれてなるものかと。ローマに着いた儂らは、総大将に泣きながら頼み込み、復帰を許可していただいた。だが結局、あのお方は、儂らを置いていってしまった…」
悲しみにうるんだのは、ほんの一瞬だった。ドゥーコの目はたちまち血走った。歯茎をむき出しにして、両腕をわななかせた。
「ブルートゥスとカッシウスを、この手で殺してやりたかった。なにより許せんかったのはデキムス・ブルートゥスだ。総大将があの人を、どれだけ愛していたか…。そんな儂らを押しとどめたのは、ドミティウスの旦那とあんたの父さんだった」
「なんだって!」
ティベリウスは仰天した。初耳だった。
ドゥーコは冷たくにらみつけてきた。
「『カエサルは復讐など望まない』と、あんたの父さんは言ったよ。方便だったのかね? その一方で、『暴君殺しには褒美をとらせるべきだ』などと発言しておったんだろう?」
憎き仇を眼前にしているかのような、目。
「あんたも父さんと同じ考えかね?」
それは、ティベリウスにとって究極の問いだった。怒りに燃える老兵を見つめたまま立ちつくし、たった独り、冷たい闇の中へ落ちていく感覚を味わう。
真っ逆さまに落下していく彼に、両側から手が差し伸べられる。一方は青白く、皺の刻まれた手。もう一方は黄色で、滑らかな手。
どちらかの手を取らなければいけない。その選択の答えに、責任を持たなければいけない。
わからない。答えられない。
答えれば、どちらかの父を失う。
どちらの手も取ることができず、そのまま果てしなく暗闇の淵へ向かう。
彼は、独りぼっちだった。
打ちひしがれる子どもを、ドゥーコはしばらく眺めていた。それからフンと鼻を鳴らして顔を背ける。
「優柔不断は将軍には向かんぞ」
それだけ言うと、話の続きに戻った。
「それでも儂らは収まらんかった。若カエサルがローマに帰られたとき、一目散に駆けていった。総大将を殺した連中を皆殺しにしてやろうと、儂らは誓い合った」
その誓い合ったなかには、つまりオクタヴィアヌスもいたのだろうか。ティベリウスは考えたが、ドゥーコに問いはしなかった。
「ドミティウスの旦那について、ギリシアに向かった。仇討ちにな。復讐は望まないとか甘ったれたことを言っとった旦那も、抜き差しならない事態になって、ようやく腰を上げる気になったんだろう。ところが、いよいよ復讐も目前というところで、アヘノバルブスの野郎に阻まれてしまった」
ドゥーコは目を閉じた。そのときの惨事を思い出しているのか。
「ひどい負け戦だったが、儂は旦那と一緒に生き延びた。総大将の仇討ちが果たすまで、死ぬわけにいかんかったからな。しかし儂らがもう一度ギリシアに向かう前に、決着はついてしまった。仇は皆死んで、儂に残ったのは脱力感だけだった…」
次に目を開けたドゥーコの顔は、十歳は老け込んで見えた。冬の日差しが、その乾ききった肌をさらに干上がらせていくようだった。
「復讐は空しいなどと言うやつは、綺麗事好きの甘ったれだと思っておったが、すべて終わってみて、それが本当だとわかった。仇を皆殺しにしても、総大将は帰って来んかった。若カエサルもアントニウスの旦那も、ユリウス・カエサル総大将ではなかった。長年苦楽をともにした仲間も、もうほとんど先に逝ってしまった。残ったのは、戦士としての盛りも過ぎたこの身一つ…。ドミティウスの旦那は、儂に公職を提供すると言ってくださったが、断った。儂は今度こそ引退すると決め、故郷に戻った。女房と娘だけは、空っぽのこの身を待っていてくれるはずだった。
儂は総大将と約束した、達者な生活を送った。昼には土地を耕し、夜には家族と語らった。ガリア人と商いし、村や道路の建設に出かけもした。連中にローマのすばらしさをわからせてやった」
ドゥーコは腰に下げていた皮袋に手を突っ込んだ。そこから取り出したものを、ティベリウスに見せた。
「娘だ。今年で十三になる」
見たところそれは、ファレラエと呼ばれる金属の円盤のようだった。上官から授けられる勲章で、百人隊長はそれを甲冑につけて戦に臨む。しかしドゥーコのこれは、個人的にこしらえたものなのだろう。女児の横顔が丹念に彫られている。
「可愛いだろう?」
皺だらけの顔をぐいっと近づけられ、ティベリウスはうなずくしかなかった。
「だがお前さんにはやらん。結婚相手はもう決まっておる。フィリッピで死んだ、儂の戦友の息子でな、儂に言わせれば気弱だが、それでも心の優しいやつだ。式は来年。娘はきっと幸せになるだろう」
戸惑い気味にティベリウスが見たドゥーコは、父親の顔をしていた。父親というよりは、祖父の顔にも見えた。
「あなたは、どうしてここにいるの?」
ティベリウスが問うと、ドゥーコはまた老兵に戻った。主君を失くした戦士の顔だ。
「旦那は今でも、儂に負い目を感じておるらしい。フィリッピへの参戦を逃したのは、自分のせいだからと。それであれから十年も過ぎた今になって、声をかけてきた。儂は迷ったが、結局参戦を決めた」
「なぜ?」
さらに問いかけた。
「カルヴィヌス殿はおっしゃっていました。自分は神君カエサルの亡霊を探しているのかもしれないと。あなたもそうなの?」
「総大将が亡霊だと?」
ドゥーコはにやりと歪んだ笑みを浮かべた。
「似合わんよ、そんなの。あのお方はこそこそ亡霊などやっとる暇などない。今ごろは世界を飛びまわっておるだろう。この人間の世界か、天上の神々の世界かわからんが、どこへでも、自由に。儂らを置いて……」
歪んで崩れそうな顔で、ドゥーコは世界の彼方を眺めていた。海と空は地平線でつながり、どこまでも澄んで、果てしなかった。
ティベリウスも同じ彼方を見つめた。青の世界は、自分をひどくちっぽけに思わせた。人間が生きるには大きすぎる場所なのかもしれない。
ドゥーコがうつむいた。
ティベリウスは横目で彼を見た。
そこへだしぬけに衝撃を受け、彼にぶつかった。
「あにうえ!」
ドルーススだった。体当たりの勢いそのまま、兄に乗りかかってくる。
「このじいちゃんはだれ?」
「ドルースス」ティベリウスはうめいた。「驚かすな」
肩の上に倒れたティベリウスを、ドゥーコは軽々と支えていた。ドルーススもろともひょいとばかりに立たせ、自分も身を起こす。
ふと、一瞬だけその体が引きつった。顔をしかめたようにも見えたが、すぐさますっくと背筋を伸ばした。
「これで儂のことは話した。満足したかい、貴族のお坊ちゃん?」
何気ない、元通りの憮然とした調子だった。
「…ありがとう」
皮肉には目をつむり、ティベリウスはまっすぐ見上げて礼を言った。するとドゥーコはなぜだかはたと静止した。思いもかけず、なにかに気づいたかのように。
彼は子どもを凝視した。
「あにうえ! おなかすいた! お肉が食べたい!」
「わかった、わかった。もうちょっと待ってろ」
飛び跳ねるドルーススに、ティベリウスはやれやれと言った。するとドゥーコはにやにや笑った。
「そうしていれば、ちっとも貴族には見えないんだがなぁ」
「なに?」
「いや」ドゥーコは首を振って、踵を返した。「あばよ、坊主。次に会うとき、儂は死体になっとるかもしれんが――」
「ちょっと待って!」
遠ざかるその背中に、ティベリウスは噛みつくように言った。
「まだ話は終わっていない。ぼくはまたあなたに会う。あなたはどこにいるの?」
ドゥーコは足を止めた。
「そのへんの奴に、最古参兵の部隊と訊けばわかる」
それから、人混みにまぎれていった。




