第二十三章 吾輩は千代である
悪夢だ。
マユの生乳の感触が生々しく残る右手に田上が頬ずりしている。玄関を出るなり、油切った田上がいたのだ。俺を見るなり、右手に擦り寄って来たのだ。あああ、気持ち悪い!
たく、ガキの頃はマユなど見向きもしなかったくせに、中学からころりと変わりやがって。マサは姉貴命とか言い始めるし。俺の右手のひらにマユの乳の残り香など無いというのに、マジでキモいぞ。
しかも、噂は妙な感じに広まったのか、鈴葉が俺を障子の僅かな隙間からそ~っと見てやがるのだ。混浴も平気な兄妹で、こうまでの警戒というのは、巷では一体、どんな噂が渦巻いているのやらだ。
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時刻は、三時を過ぎていた。ノックアウトされてから蘇るには過去最短かも知れないが、目撃者も多数いて不可抗力とはいえ、現役女子高生の生乳もみとは滅多にないアクシデントだった。
とりあえず、擦り寄る田上を気絶させた。殴った訳じゃない。詠御師の螺旋の気道の力を使ったのだ。田上はまるで無邪気な赤子のようにすやすやと眠ってしまった。自分にこんな力が備わり、自在に使えるようになったことにしたいささか恐怖も覚えた。ほんの数ヶ月でこうなったのだ。これも咲夜のおかげなんだろうけど、木村一族がこういう家系であると初めて認識した。
澪ならもっと凄い事ができるということだ、あの黄泉の力をも吸収してしまうのだからな。増幅師あっての黄泉戻師なのだから。
俺は道場の風呂に入って汗を流した。風呂にマユや紗希姉の気配は無かった。俺は敷居を男女枠の間仕切りを最大限にして大風呂に入った。やっぱり広い風呂はいい。風呂から上がると、井戸水に手拭いを浸し、絞って左目のアザに当てる。とても、気持ちいい。今日は練習が無いこともあって静かなんだが、気のせいか俺の周囲だけが故意に静かに感じてならない。
廊下に上体を寝せているところへ、マヤがやってきた。ミイ、ミイと俺の頬に擦り寄って来る。こいつだけがいつも俺の味方だ。
「どうしたマヤ。いつになく俺にべったりじゃないか。ゴメンな極上煮干しは切らしちまってるだ」
『結構、猫というのも居心地がいいものだな』
頭の中で声がした。この感じは、マユとの一戦で具現化した千代婆ちゃんのイメージボイスにそっくりだ。だが、婆ちゃんがいる気配は無い。そう言えば、猫と言わなかったか?
猫と言えば、目の前のマヤしかいない。だが、マヤに異変は無い。いつものマヤだ。気のせいか、白昼夢でも見てるのか?
『夢じゃないぞ、健児。私はこのマヤとかいう猫におるのだ。お前に憑依してたんだが、この猫との相性が良くてな移動できたんだ。食事が猫のものということだけはいただけんが、味覚は旨いと感じておるから問題は無い』
「千代婆ちゃん!」
俺はマヤを抱え上げ歓喜したが、突然に引っかかれた。
『アホ、婆ちゃんじゃない、千代様だろうが!』
なんと千代婆ちゃんは、マヤに居るだけじゃなく、マヤの体も動かせたのだ。これはニャンコ師匠になってしまうのか?
なんにしても、心強いトレーナーが居てくれるのはありがたい。でも、人でないことに婆ちゃんは問題ないのだろうか?
『案ずるな健児。猫の寿命はヒトほど長くは無い。私もいつ転生するかわからんのには変わりは無い。
人としての私は短かったが十分に生きた。二十七年なら、黄泉なら大往生じゃ。それに姿は違えどこうして、家族を見守れるのはむしろ過ぎた喜びだ』
あれ? どっか引かかるところがあったぞ。どこだ、そうだ千代婆ちゃんの年齢だ。二十七って、十七の間違いじゃねーのか。
『なんだ、年齢の話か。デリカシーの無い男だな。うちの親は世間一般とは離れた感覚だったんでな。戸籍登録も随分と遅れててな。おまけに間違ったまま登録しおったんだ。
だが、ショウと婚約したのは十二の時だぞ。私は結構、大人びた成長しとったから薄化粧すれば高校生くらいには見られてたな』
VOBで見せられた婆ちゃんと爺ちゃんの記憶は嘘じゃないってことなのか?
『ショウの奴と来たら、婚約した途端、早速求めてきおってな』
あのう、そういう身の下話は結構です。
『なんじゃ、お前、何赤くなっとるか。カマトトか?
お前の年頃なら興味あるだろ。遠慮するな』
それから千代婆ちゃんは、およそ聞きたくもない若い頃の爺ちゃんとの床話を詳細に語ってくれた。全く、なんて婆ちゃんだ。ものの見事に孫のイメージを崩してくれるな。こんな濃い話を聞かされた後じゃ、今晩から爺ちゃんの顔がまともに見れないじゃないか。
『おや、健児ちゃんは意外とうぶだな。エロ本やビデオじゃ何本見ても実話には勝てんぞ。
後は、実践じゃ。だが、気お付けろよ。許嫁であろうが、相思相愛であろうが藤崎の家は増幅師の中でも名家でな、邪な心、落ち着きの無い心を見せると容赦なく攻撃が入るからな。気は抜くなよ』
そう言うと、千代婆ちゃんが取り憑いたマヤは廊下の中央に座り込んだ。マヤは、瞑想するかのように両目を閉じて、鼻と耳をピクリと小さく動かし始めた。山から吹き降りてくるそよ風に身を委ねている。マヤは何かを探り当てたのか急に鼻をひくひくさせ、耳をそばだてると、カッと目を見開くと、弾丸のように廊下を全速力で走って行った。マヤが向かった先はどこあろう、爺ちゃんの書斎である。素行調査か、はたまたは浮気調査だろうか。いや、これ以上は関わるまい。千代婆ちゃんからは修行の教えを乞うだけにせねば。
鈴葉が俺を避けている空気を感じるので俺は、とりあえず屋根に上がることにした。二階の建屋の影になっているところが丁度、涼しくてうたた寝するには丁度いい場所だ。俺はなんとはなしに千代婆ちゃんから聞かされた話を思い起こす。
***
爺ちゃんは婆ちゃんには、かなりの甘えん坊だったというのは非常にショッキングな話だった。二人の婚約は家同士が決めたようになってはいたが、それ以前から相思相愛だった事がせめてもの救いだ。
馴れ初めは、親族交流会の剣道の試合で、爺ちゃんが婆ちゃんにコテンパンにやられた事がキッカケだったらしい。婆ちゃんが十歳、爺ちゃんが十七歳の時だそうだ。十歳の年齢差に関しては嘘じゃないみたいだ。婆ちゃんは十二の時に爺ちゃんと婚約し、十六の時に結婚。翌年、父ちゃんが生まれているのも事実なんだそうだ。
だが、助平な爺ちゃんは、ちょくちょく婚前交渉をしてしまい、婆ちゃんが十五の時に女の子を生ませてたらしいのだ。つまり、父ちゃんには姉ちゃんがいることになるのだが、そういう話はちらりとも聞いたことがない。けれども、黄泉戻師の潜在性を見出され、生後三ヶ月で比良坂本家に奪われたそうだ。婆ちゃんは本家の出身ではあったが木村家に嫁いだ身なので、どうすることも出来なかったらしい。
本来なら婆ちゃんが爺ちゃんを婿養子に取るはずなのだろうが、幼い頃、その潜在能力の高さ故に生死の縁をさまよった婆ちゃんは、すでにその権利を失っていたんだな。
婆ちゃんの命を救った婆ちゃんの姉ちゃんは、婆ちゃんの力を一時的に内側へ埋没させてたのに、子供にはその影響力が及ばなかったようで、婆ちゃんは父ちゃんまでも本家に取られぬよう、詠御師の力を抑えるのはなく、体内に発散させて、かつ、制御できぬようにしたらしいんだな。婆ちゃんは本家に逆らって子供を守ったという訳だ。
婆ちゃんが父ちゃんにかけた術は、俺達にも影響して、御詠の力を出せる時期が後天性になった。そのおかげで本家は俺達の潜在能力を見抜けず、俺達はこうして平和に暮らせている。その影響なんだか、本家の動きは、防衛省が間に入っていても動きが読めない。いったい、本家は何もをしたいのだ。
この仕事が人知れず多くの人命を助けているのは分かるが、所詮は人がすること。その範囲は限りなく小さい。大型の自然災害などは当然止めようも無い。言っちゃ悪いが、存外、気象予報士が武道家になったようなものと言っても当たらずしも遠からずってところだろう。
あれこれと悪い頭で考えていたら、眠くなってきた。本格的に寝入ろうかすると頭の上に人の気配を感じ、首をのけぞらせて見上げれば、白い布地の横に三つホクロが見えた。
「紗希姉!」
叫ぶや否や顔面を素足で踏まれる。これはご褒美と言うべきか。
俺の真横にちょこんと座り、赤錆た金属の棒らしきものを差し渡された。ニッコリ笑う紗希姉にホッとしながらも、棒の形状を見てぎょっとした。L型の筒がついたその中にはレンズとガラスが入っており、小型潜望鏡のようなものだったのだ。
「今日ね。大掃除してたのよ。ご厄介になってるし、子供の頃もお世話になってたからアタシなりのご恩返しのつもりでね。そしたら、道場のお風呂の床下からこんなものが出てきたのよ」
俺にはこれがなんだかもう分かっていた。田上が子供の頃に工作した、紗希姉のジャングルを覗く為の秘密アイテムだ。あの時、急いでたんで落としてしまったのだ。
「それで、指紋をとったらケンちゃんのと一致したのよ。指紋の大きさは小さかったから、子供の時のやつかな」
紗希姉は、怒りを抑えた笑みを浮かべいる。もう気づいちまってる。あのことに。
「確か、ケンちゃん、小さい頃あたしのお風呂、覗こうとして窓からお湯かけられたでしょ」
紗希姉、皆まで言わないでくれ。俺が下にいて、この潜望鏡で紗希姉のデルタ地域の草原をしっかり見ていたんだよ。三つホクロも視界の隅に見つつも。
「あたし、てっきり外から覗こうとして、未遂に終わったのかと思ってたけど。違ったようね。
このエロガキ!こんな精巧な道具まで使って、しっかり見てたのね。無防備なアタシのアソコを!」
「ひえー、紗希姉、ゴメン!つい、出来心で。紗希姉のアレが物凄く綺麗だったから見惚れてたんだ」
俺の体は脊髄反射的にその場で土下座をし、頭を垂れた。
「紗希姉、すまねー」
無意識に謝罪の声が出てしまっていた。
「そ、見惚れてたの?」
「はい、左様でございます。小学三年生の俺には紗希姉の草原は、桃源郷に見えました!」
「桃源郷に、ねえ」
頭を下げている俺の視界には紗希姉の綺麗な素足しか見えないが、声の調子は何やら暖かく優しそうに感じられた。俺はそうっと頭を上げると、紗希姉はしゃがんで優しそうな笑顔で俺を見ている。思わず、エヘとしてしまう俺。
だが、この笑みは怒り爆発寸前の笑みであることは体が感じて分かっていたが、既に体は金縛りになっていたので、どうにも出来なかった。胸ぐらをひん握られた俺は身動きできず、往復ビンタをくらい、最後は膝蹴りで意識はぶっ飛んでいった。なぜいつもこういう展開なのか。だが、今度はちょっと違っていた。意識がもうろうとする頃、俺は屋根から裏庭の池に投げ落とされ、引き上げられ縛られて、裏山の木に吊るされたのだ。
その下で、紗希姉が木刀を振りかざし、切々と説教を始めたのだ。眠ろうとすると、木刀でしばかれるのだ。これってDVでは無いのか?
そして二言目には「貴様はそのなりでアタシの婿養子になるつもりか!」が飛んで来る。その話は生きていたのか、確か無効になったのではなかったのだおうかと、記憶をたどれば、それを言ったのは咲夜だったのだ。咲夜は紗希姉のふりをしていただけだ。あいつは偉い立場らしいから、縁が薄かったとはいえ、血縁者だから知り得たのだろう。ってことは、俺を婿養子に迎える証文も生きてるのか?
それはいかん。
澪とはまだえっちもしとらんというのに、これはやらねばならんぞ。小ダネのひと雫くらい発射しとかねば、強引に婿養子に引き取られかねんぞ!
とはいえ、生胸さえ、タッチした事ない今の俺には高すぎるハードルだ。
いや、ここははっきりと婿養子にはなりたく無いというべきだろう。恋人もいると言って、子供の頃の一方的な約束など無意味だと言ってやろうと紗希姉を睨みつけてはみたが、俺の熱い気持ちをも萎縮させる紗希姉の眼光とオーラにひれ伏し、ただただ謝罪をする自分が情けなかった。




