第十五章 甘酸っぱい勝利
何者かに乗っ取られたチカは俺との距離を五メートルほど隔てて、ゆっくりとおれを囲むように回っている。獲物をとらえた猛獣のようである。しかも元からあるチカのオーラに被せ増幅させているからたちが悪い。今のチカのオーラはオーロラのように揺らめいている。
それにしても、チカ程の手練の黄泉戻師がなんの抵抗もすることなく意識を乗っ取られ、ゴミとカメも精気を吸われた。こいつら新宿地区最強チームの筈なのに、いともあっさりと全滅させられた。
俺だけは精気を吸われ無かったが、まともに攻撃を受けていれば、今頃は鼻から上が切捨てられ、死亡してたところだ。九死に一生を得たかと思うとゾッとする。だが、不思議と体は竦んでいない。むしろ来てみろと戦いに喜びさえ感じている。他人の大きな懐に守られているような感覚だ。そうなると心にも余裕が出てくる。アイツ(ここでチカと呼ぶのはいささか気が引ける。姿形こそチカだが、アイツは俺を殺そうとしたのだ。しかもチカを人質にしてやがるのだからアイツでいい)が手にしている刀は、チカの前に乗っ取った奴が持っていたものだとしたら、そいつも黄泉戻師だったのだろう。アイツはあの刀を【震電】と言ってた。そして、俺の【紫電】とは兄弟と言っていた。同じ刀鍛冶が生み出したものということなのか。
アイツは少し前かがみで、青白く光る目でじっと俺を見つめている。刀は構えていない。隙だらけにも見えるが気のオーラは強い。きっと自由形というか、動きに臨機応変に合わせるといったものなのだろう。
チカの身長は、百六十五センチというところだろう。十六夜咲夜よりやや低い。だからリーチも短い。多分、突進しては後退する攻撃を仕掛けるだろう。瞬時に懐に入って来られたらリーチの長い俺は不利になる。更にやばいのはこれは剣道の試合じゃなく、なんでも有りの喧嘩だということだ。
アイツは剣の戦いを楽しみたい節はある。だが、いつ気が変わるともわからない。なにせ、精気を吸えなかった俺を無言で背後から斬ろうとしたんだからな。感情に任せて無茶を仕掛けるタイプだ。
「小僧、意外に慎重だな」
アイツがチカの声で乱暴に話しかけてくる。ドラマならドスがきいた声になってそうだが、まんまチカの声なのでいささか拍子抜けだ。
「俺の隙を見てけしかけて来るかと思ったが、そこまで単純ではないらしいな。ならば、」
アイツはそう言うなり、急に間合いを詰め突進してきた。雷ババア、いや、美香さんの螺旋導攻撃を縦横無尽な動きで防御した時に一度見ているが、この暗さではどう立ち回ればいいのか皆目見当がつかない。もしも、刃先がチカに触れればケガでは済まない。腕が飛ぶとか最悪のことを考えてしまう。そんなことを考えれば、気負けだ。とにかく、迫り来るアイツの動きに集中しよう。
暴れ猪の時は必死に走り回ったが、ここは受けに徹することにした。とにかくアイツの動きを予測して徹底的に受けるのだ。アイツは真っ直ぐに接近中だ。だが、手前一メートルくらいで、ふいに左に曲がり、壁を登って蹴り、斜めに斬りつけて来た。いきなりの変則攻撃だ。
だが、俺の目は自分でも信じられない光景をとらえだした。アイツと刀の軌道がまるでコマ送りされるストロボ写真ように見えたのだ。僅か数秒の短い時間を十倍近い長さに感じているのだ。どうして、こんなことが出来るのか分からない。いや、今は分かる必要などない。アイツが来る方向は、
右上だ!
次は、左斜め下だ!
真横に来たぞ、壁を登って蹴って反転して、縦に受けろ!
直感しているのか、知らずに心の中で叫んでいるのかわからないが、頭の中で響く声に合わせるように、俺は体を動かし、【紫電】の刃で【雷電】の刃を受ける。
お互いの刀が打ち合うたびに、火花が飛び、キーン、キーンと鋭い金属音が鳴り響く。時には接近戦も仕掛けて来る。それも正面とは限らない、下から、上から、真横、背後からと縦横無尽である。恐怖に震える時間さえも無い。
そして今は、真正面で鍔競り合いをしている。チカの顔で不気味に笑らっている。俺の反応が嬉しくてしょうが無いといった感じだ。
「お前、思った以上に凄いぞ。まるで正盛だな、」
正盛? 誰のことだ。
「知らぬという顔だな。まあ、いいさ。俺を楽しませてくれるなら、なんだってな」
アイツは刀を横にいなして、俺を引き寄せると金的を軽く入れ、左側面に飛び、壁を伝って後方に逃げた。金的は警戒してたので、股をすぼめクリーンヒットをさせなかった。
「その技、俺には出せんぞ。この体、女だからな。あははは」
別に金玉なくても、直腸に強い蹴り入れりゃ、女でも動きは止まるぜ。でも、女の子の体にそんなエゲツない真似出来るかよ。
アイツはその後も攻め合いがうまく行かないと、後方や側面に突然に逃げた。俺が隙を見せた時に、腕か、足を切り落とす寸法だろう。もちろん、そうなる訳にはいかない。かと言って、チカを斬る訳にも行かない。どうやって、この難局を乗り切るか、俺には策らしいものが立てられていない。
衝撃波を打とうにも、そこまでの時間がない。チカの姉の美香さんのように強力な螺旋導の気流を連発で放つにはまだまだ相当な修行が必要なのだ。
俺は一か八かで、接近して離れようとする時に、寄って右肩に峰打ちを放ってみた。少し力が入り過ぎてしまった感じもあった。アイツは一瞬よろけたが、立ち直って、後方に逃げた。
アイツは肩を押さえながら、鋭い眼光で睨みつけて来た。肩が外れたのか左手がだらんと垂れている。アイツを攻め込めない俺は、距離を保ちながらそのまま十分間、膠着状態となった。だが、その間にアイツの肩は徐々に治癒し、次第に自由に動くようになって来た。左腕に自由が戻ると再びアイツは、天井や壁を使って、俺に斬りかかって来た。俺はアイツの攻撃を全て刀で受け、全ての攻めを止めた。
そして、もう一度、今度は腹部に峰打ちを入れた。チカには済まない、傷が残るかもしれないが命を奪うよりはいい。今度は流石に応えたようだ。アイツは、血反吐を吐いた。
『すまん、チカ』
苦悶するチカの形相に俺は、恐怖した。まさか、致命傷を与えたのでは無いかと、気が気では無かった。何せ手応えアリの感触だったからだ。
アイツは悶絶して、血溜まりを吐いた。血の匂いが周囲に立ち込めた。アイツは千鳥足となり、目を大きく見開いて、ゆっくりと俺の方を見た。勝負あったのかと思ったが、アイツは笑みを浮かべている。
「凄いな小僧。どうやって、俺の先手を捉えているんだ。この暗闇で。しかも、殆ど息が上がってねえときた。
おまけに強烈な峰打ちとは恐れ入る。お前を見てると正盛を思い出す。嬉しいぞ」
アイツの驚きは俺自身の驚きでもあった。
「さあな。俺も知りたい。だが、お前の動きの先は面白いように見える。俺を殺れ無くて残念だな。
それにそんなに重い刀を小さな体でぶん回して、飛び回っていたら、そのうち足腰に来るぜ」
俺は大見得を張った。実際は、チカの体に致命傷を負わせてしまったので無いかと、焦っているのだ。ここでアイツが倒れたら即刻病院へ行かないと死んでしまうかもしれないんだ。
「心配には及ばん、この娘の身体能力は異常だ。おまけに俺は意識だけでなく、アドレナリンの分泌をもコントロール出来るのさ。
それにこいつは増幅師の力もある。こうして、お前と剣を交えていない時は、回復させてやってるのさ」
チクショウ、アイツを動揺させるつもりが、俺の方が動揺させられちまっている。睨みあいを長引かせれば、アイツを回復させてしまうのか、かといって回復出来ないよう攻めたててもその先の手立てがねえ。どうしたらいいんだ。
《なんだ、もう降参なのか。情けねーな、それでもあたしの使いっぱか?》
黄泉・・・・?
《技の組み立てだ、組み立て。
あたしとの打ち込み稽古でもしょうちゅうやってたじゃないか。実践で使えなくてどうするんだ。この大うつけが》
いや、だがアイツには峰打ちが効かないんだぞ。他にどうやりようがあるんだ。
《あーもう、皆まであたしに言わせるのか、あたしの課外授業料は高いぞ!》
すまん、黄泉。俺に力を貸してくれ。チカたちを助けたいんだ。
俺はもう無我夢中だ。頭に聞こえている黄泉の声が、妄想だとしても、今の俺は藁をも掴む思いなんだ。
《健児、お前も美香のような螺旋導攻撃を連続で撃って、うずくませ、衝撃波を撃てば憑依した淀みはチカからぬける》
そんなこと出来てりゃ、とっくにやってるよ。
《チカ、いやアイツが回復したぞ。今は時間稼ぎだ。もう一度、峰打ちを入れてやれ》
黄泉が言うそばで、アイツは変則的な縦横無尽の打ち込みを繰り出して来た。本当に回復しているのか、俺には心配だった。アイツはチカの体を制御できるなら痛覚を麻痺させることも可能かもしれないし、筋肉の使い方も通常よりも上げてる可能性もある。もしもフルパワーなら俺では敵わない。
迷っている暇はなく、俺はとにかく刀を合わせ、全てを受けてやった。アイツは接近戦では、蹴り意外に投げも出して来たが、これは黄泉師匠と散々やりあったおかげで意外と取り乱すことなく対象できている。
《すごいぞ、健児。乳見せ乱取りの特訓の成果ありだな》
黄泉の言葉に、俺はちょろっとよろけたが直ぐに体制を立て直した。
黄泉のやつ、こんな時に笑ってやがる。受け損なえば、俺は五体満足で無くなるという瀬戸際なのに酷いやつだ。俺はアイツが離れる時に今度は右肩に峰打ちを入れてやった。
「スマン、チカ」
アイツは、再びよろけたが刀を落とすほどでは無かった。
《これでは拉致があかんな。最後は紙一重の差でアイツが勝ってしまうだろう。何せアイツは、いざとなればチカのリミッターを外してしまえるからな。
でも、そうなればチカの体はそう持たん。結果、お前もチカも死ぬ事になる。奴の狙いはそこにある。究極に遊べるからな》
まったく、人事だと思って冷静に語ってくれるなこのお師匠様はよ。
《まあ、そう言うな。わたしも辛いのだ。地下の結界に阻まれて、先へ行け無いのだ》
結界、あの磁場のようなところか。お前ほどの者が何故抜けられない。
《いや、わたしとしたことがあの後、西園寺家で宴会があってなあ。賢治パパがいろんな酒を振る舞ってくれるんで、ついつい調子に乗ってなあ、本体は本部のVIPルームであられもない姿で眠ってるってことさ。あれはテコでも起きんだろうな。
だが、お前の危険を察知して、魂だけがやってきたという訳だ。霊体の状態では結界は抜けられない。だから、こうしてお前に思念を送ってるのさ。
生きて帰れたら、わたしの寝込みを襲っても構わんぞ》
色気ある褒美には正直嬉しいけどな。それは意識がある時にお願いしたいな。それよか、酒の飲み過ぎで泥酔だとー、お前、十九じゃ無かったんだっけ?
《まあ、バレなきゃ問題ないさ》
けれど、あれだけの峰打ち受けて回復するなんて、どうなってんだ。チカはいくら増幅師の力があるとは言っても、澪程は無いのだろうに。
それに通信が切れちまってるのに、本部から人が来る様子もねえぞ。
《淀み溜が小さくなってるからだろな。淀み溜は本部から探知出来るしな。
アイツは淀み溜から淀みを吸い出してチカの体の修復に当てているのさ。それで淀み溜が段階的に小さくなったんで、本部は作戦成功と思っているのだろう。それに淀み溜には普通の人はそうそう近寄れないのさ》
クソ、なんてことなんだ。
《もうじき、淀み溜も薄くなる。もう一度アイツに峰打ちを当てれば、確実に回復不能となる。そうなればアイツはチカの体のリミッターを外さざるを得なくなる。
その瞬間だけ、奴は動けなくなる。その時に衝撃波を食らわせろ。そこしか勝ち目は無い》
なんかスゴイ手のようだが、俺も結構、ガタついてるんだぜ。今の俺にそんな強力な衝撃波など出せないぞ。
《ちょっとしたエネルギー補助があればいいんだ。例えば、ここに居る虫や苔を食うとかな。命のエネルギーは生き物の個体の大小は関係ない》
冗談きついぜ、床の虫や苔を食えってか。
《お前はまだ、増幅師のように命の光だけを集める技を使えないからな。直接喰うしかないだろ。味は保証できんが、生きるか死ぬかなら選択肢はなかろう》
おうおう、何というアドバイスだよ。愛弟子になんちゅうこと強要してくれんだよ。
《うまく行けば、わたしがお前の童貞を奪ってやると言ってるのだからいいじゃ無いか。しかも、ゴム無しだぞ》
まったく、健全な高校生を何エロい褒美で釣ってんだよ。この公務員の姉ちゃんはよ。
《アイツが来たぞ、仕掛けろ健児》
俺は、再びアイツと剣を交えた。アイツとしては誤算があったのか、顔から笑みは失せていた。予定としては、俺の腕か、足をふっ飛ばし、最後に狼狽しているところで、首を斬ろうと思っていたのかもしれないが、まさか現役の黄泉が霊体化して俺と一緒に居るなど想像できまい。
さて、腹を決めるか。虫や苔を食えってか。食ってやりましょう。カラーで見えてないのが幸いか。
その前に、右、左、左下、ぐるっと天井回って右上っと。アイツの動きは完全にとらえた。ここでアイツはまた戻る。後ろを向いた瞬間に左脇腹に軽く峰打ちを入れてやる。そして、トドメに姉貴直伝の飛び蹴りだ。
アイツは、勢い良く吹っ飛んで壁に背中を打ち付け、倒れた。だが、気絶はしてくれない。四つん這いになり、俺の方を睨み付けた。
「小僧、俺は少々貴様を侮り過ぎたようだ。もう容赦はせん。覚悟しろ」
《健児!》
黄泉の掛け声より前に俺は床に這いつくばって、虫と苔を喰うかという寸前だった。だが視界にチカの光によく似た青白く光る物体を確認した。それはゴミの手の中ににぎられている。俺はそれにものすごいエネルギーを感じた。気づけば猛ダッシュで這いより、ゴミの手から取り出し、袋を破いてそいつを口に含んだ。甘酸っぱい味と心地良い気のエネルギーが体を染み渡る感覚を得た。
アイツが今まさにチカのリミッターを外そうかという瞬間、俺は【紫電】から強力な螺旋の気道を放っていた。螺旋の気道は竜巻のようにチカを包み中空に押し上げた。チカは悶絶し、【雷電】を落とした。やがて、気絶しガクリと頭を落とすと、その場に倒れた。
《健児やったな。わたしも疲れた、ベットで待ってるからあとはお前の好きにしろ》
黄泉の声は、力尽きたように抜けていき全く聞こえなくなった。
好きにしろと言われても、この場所ではどうにもならない。本当に。それよりも、チカ達を助けるのが先だ。
俺は無線機のケーブルを繋いだ。モニタの向こうには海景の顔があった。
『健児お兄ちゃん、大丈夫?』
海の声に返答できない俺は口の中に異物を入れていた事に気づき、口から指で引き出して、ズボンの右ポケットに突っ込んだ。
『海ちゃん、任務完了だが皆、酷い怪我をしてる。大急ぎで救護班を頼む』
そう連絡した途端、俺は意識が朦朧となり、金縛りにでもあったかのように体が全く動かなくなった。眠りに落ちるでも、気絶するでもなく体だけが動かなくなったのだ。まぶたは開いたまま、音も聞こえている。マムシが目の前を這って行き、得体のしれない虫が頬の上を這いずり回っている。
時間はもはや分からない。周囲が騒がしくなっているのは理解したが、体を動かせないのではどうしようも無い。
「健児さん、大丈夫ですか」
これは前御巴の声だ。薄目を開けてるから意識があるかを確認してるのだろう。あいにくと体は動かないのだがな。
周囲が明るくなっていることには気づいた。黒いブーツの足がいくつも行き来しているのが辛うじて分かる。どうやら、救護班が駆けつけたのだろう。これでチカたちも助かる。
俺は前御に起こされ、喝を入れられた。意識は朦朧としながらも大きくふらつくことなくすっくと立ち上がれた。
周囲を見渡すと、丁度、チカたちが担架に乗せられているところだった。チカは衣服がボロボロで、ほとんど半裸だった。体のあちこちにアザもあり、酷い状態だった。
「すまない、チカ」と、俺は担架で運ばれていくチカに深々と頭を下げた。
気がつけば俺も酷い状態だった。骨折や打撲痕こそ無いが、体中に細かな切り傷があり、服も柵状に破けていた。おそらく、剣圧で皮膚が切れていたのだろう。無我夢中で感じている余裕が無かったが、今頃、づきづきと痛みが出てきた。
救護班が担架を持って来たが、俺はいらないと手を振り、前御の肩に手をかけた。どうして、そうしたかったのかは自分でも分からないが、前御の世話になりたかったのかもしれない。
俺は、前御の肩を借りながら、長い階段をゆっくりと登っていった。チカに憑依していた思念体や、黄泉戻師の霊刀、【震電】を持っていた元の宿主が誰なのかとか、知りたい事は山ほどあったが、口が思うように動かせ無かった。
一時間程かけてどうにか外に出られた。俺も治療が必要だと救急車に乗せられた。前御は俺をベットに寝かすと、仕事に戻りますと敬礼をして出ていった。
意識が朦朧とする中で、俺はズボンの右ポケットに突っ込んでいた不思議な光の物体をおもむろに取り出していた。それは布を丸めたようなもので、口に入れた時に甘酸っぱい味がした。広げてみると細かな刺繍が施され、生地はシルクのようだった。形は三角形だ。ここまで来ると、もうそれが何であるかわかってしまった。
それは、チカが地下道に入った時に脱ぎ捨てたパンティーだった。