1.黒い球体
「いらっしゃいませ~」
「ありがとうございました。またのお越しを」
今日もコンビニでの仕事が終わった。青と緑のラインが特徴の四角い箱と、薄黄色の箱。
コンビニとアパートを往復する生活も、数えてみれば五年目になる。俺は、この変わらない日常を結構気に入っている。
今日の夕飯は何にするかな。ここ最近、廃棄になったコンビニ弁当ばかり食べていたし、食物繊維とかビタミンとか、足りていない気がする。
ゴーヤを買って、ゴーヤチャンプルーにしようと考えて近くのスーパーへ向かう途中のいつもの石畳の坂を登っていた。
「なんだ、あれは」
坂の上から、何かが転がってくる。黒い球体だった。それも、道幅を埋めるほど大きい。
とっさに脇へ逃げようとしたが、坂の両側には塀が続いていた。
引き返そうと足を動かしたときには、もう目の前まで迫っていた。
あ、死ぬ。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、亡くなったオーナーの小椋さんの顔だった。
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痛くない。
あんなものに轢かれたのに、どこにも痛みがない。恐る恐る目を開けると、見慣れたレジがあった。その向こうには、煙草の棚。
俺の働いている店だ。ただ、何かが違う。レジは古い型で、棚の配置もリニューアルする前のものだった。
「烏川久太くん」
名前を呼ばれた方向をみた
おむすびの販売コーナーで、おむすびを並べている見慣れたエプロンをつけている人がいた。
「……小椋さん?」
学生だった俺が、この店でアルバイトを始めた理由は、家から近いというだけだった。
初めての仕事で、何も分からなかった俺に、小椋さんは一つずつ仕事を教えてくれた。
困ったときには頼れる、優しいオーナーだった。
その小椋さんが、不慮の事故で亡くなったのは、俺が働き始めて三年目の夏だ。
俺も、死んだのか。そう思いながら、目の前の顔を見つめた。
「俺がいなくなったあとも、店を続けてくれてありがとね。家内のやつが一人だと、何かと心配だったから。久太くんが経営を手伝ってくれて、助かったよ」
「そんなことないですよ。俺なんて、まだまだですし。オーナーにはお世話になってばかりで、感謝しかないです」
そう答えながら、自分の手元に目を落とした。傷もない。痛みもない。それでも、あの球体が目の前に迫ってきた瞬間は、はっきり覚えている。
「……やっぱり、俺、死んだんですか?」
小椋さんは何か言いかけて、事務所のほうへ目を向けた。
「まあ、まずは座ろうか」
事務所から丸椅子を二つ持ってくると、その一つを俺に差し出した。昔、小椋さんが休憩のときに使っていた椅子だ。
座面の端に貼られた補修用のテープまで、覚えているままだった。
「その言い方、嫌な予感しかしないんですけど」
「立ったまま話すことでもないからね」
俺は椅子に腰を下ろした。小椋さんも、隣にもう一つの椅子を置いて座る。
色々聞きたいことがあったのに、次の言葉が出てこなかった。
「……奥さん、元気ですよ」
先に口から出たのは、そんな言葉だった。
「うん」
小椋さんが笑った。その笑顔を見た途端、ようやく、この人に会っているんだという気がした。
「小椋さん」
「うん」
「俺、もう帰れないんですか?」
小椋さんは眉を下げた。急にシフトに穴が空いて、休みの日に出てくれないかと頼まれたときも、こんな顔をしていた。
「まず、これだけは言っておくね。久太くんは死んでないよ」
詰めていた息が、ゆっくりと出た。
「……そうなんですか」
自分でも驚くくらい、ほっとした。手を握って、開いてみる。
さっきと何も変わっていないのに、自分の身体だという実感が戻ってきた。
「じゃあ、帰れるんですよね?」
小椋さんは、すぐには答えなかった。
「久太くん。ここに来る前に、黒い球にぶつかったのは覚えているかい?」
「覚えてます。あれ、なんだったんですか?」
「あれは、魔力の塊なんだ」
「……魔力?」
聞き返すと、小椋さんはうなずいた。
「地球にも魔力はあるんだけど、こっちでは使い道がなくてね。地球の神様が集めて、千年に一度、異世界の神様に渡しているんだ。向こうでは必要なものらしい」
漫画は読まないと言っていた小椋さんの口から、魔力だの異世界だのという言葉が出てくる。冗談を言っている様子はなかった。
「じゃあ、あの黒いのは、千年分の魔力ってことですか?」
「そういうことになるね。魔力は種類によって色が違うんだけど、高い密度で集まると黒く見えるんだそうだ」
あんなに大きなものが、圧縮された状態だったらしい。もう一度、自分の手を見た。
「それにぶつかって、なんで俺は無事なんですか?」
「魔力の塊が、久太くんの身体と融合したんだ。今は、その全部が君の中にある」
思わず胸に手を当てた。痛くもないし、膨らんでもいない。いつもと同じ、少し腹が減った身体だった。
「……取り出せないんですか?」
「安全には、取り出せない。もう、君の身体と一体になってしまっているからね」
「無理に取り出したら?」
小椋さんの表情を見て、それ以上聞くのはやめた。
「このまま帰ったら、どうなるんですか?」
「自分では何もしていないつもりでも、魔力が外へ漏れ出すことがあるんだ。
地球では、周りの物を壊したり、人を巻き込んだりするかもしれない」
「ここでは、大丈夫なんですか?」
「今いる場所は、大丈夫だよ。ただ、ずっとここにいるわけにもいかないんだ」
俺は膝の上で両手を固く握った。
家に帰って、飯を作って、寝る。起きたらまた店へ行く。
少し前まで当たり前だった予定が、急に遠くなった。
「俺、このあとどうなるんですか?」
「申し訳ないんだが、異世界へ行ってもらうことになる」
小椋さんは、俺の顔を見ながら続けた。
「向こうは、もともと魔力がある世界だからね。君の中にある魔力も、地球に置いておくより安全に扱える。受け入れたあとのことは、向こうの神様が面倒を見てくれるそうだ」
「でも、渡すのは千年に一度なんですよね?」
「今回は、まだ受け渡しのための通路が開いているんだ。閉じてしまったら、次に開くのは千年後になる、君の寿命が尽きても、融合した魔力まで消えるとは限らないそうだ。地球に残れば、次の千年分と一緒にたまり続けることになる。だから、通路が開いている今のうちに、向こうへ移したいという話なんだ」
話の内容を、頭の中で並べ直した。
俺は死んでいない。けれど、身体の中には千年分の魔力がある。
取り出すことはできないし、そのまま帰れば、周りに被害が出るかもしれない。
だから、魔力ごと異世界へ行く。
「……いまさらなんですけど」
「うん」
「なんでオーナーが、そんなことを知ってるんです?」
小椋さんは口を結んだ。それから、座ったまま深々と頭を下げた。
「本当に、申し訳ない」
「ちょっと、オーナー?」
「順番に話すよ。俺が死んだあと、どうしても店のことが気になってね。
しばらくしてから、地球の神様の仕事を手伝うようになったんだ。その傍らで、こっちでも店をやらせてもらっていた」
俺は店内を見回した。古いレジも、煙草の棚も、補修した椅子もある。
「じゃあ、ここは……」
「俺が覚えている店を、再現してもらったんだ。どうせなら、慣れた場所で働きたかったからね」
死んでからもコンビニで働いているなんて。驚いたけれど、小椋さんらしいとも思った。
「そこへ、異世界の神様がお客さんとして来たんだ。いい店だって喜んでくれてね。
自分の世界にも作ってほしいから、来てくれないかと頼まれた」
「オーナーが、異世界でコンビニを?」
「そのつもりだった。今回の魔力の受け渡しに合わせて、俺も向こうへ行く予定でね。だから、受け渡しの場にもいたんだ」
そこで、小椋さんは一度言葉を切った。
「双方の神様の間で魔力を渡すとき、一瞬だけ、どちらの管理からも離れるらしい。そのときに、落としてしまったんだ」
「それが、俺のところに?」
「受け渡しの場は、地上ともつながっていてね。落ちた先が、あの坂道だった。俺も追いかけて止めようとしたんだけど、間に合わなかった」
「神様も止めようとしたそうなんだけど、地上へ落ちてから君にぶつかるまでが、あまりに短かった。それで、融合した君をここへ連れてきたんだ」
小椋さんの手が、膝の上で固く握られていた。
「君には何の落ち度もない。俺が、もう少し早く止めれていれば……」




