19.呼び覚まされる思い
昼休憩になって直ぐに教室を飛び出した聖花は、いち早く図書室へと訪れた。教室の離れの建物にあるそこは、外から見ても分かるくらい大きくて威圧感があった。
やはり有名なだけあって規模が他とは違う。
聖花は、硝子張りの扉に手を伸ばした。鍵が既に開いているようで、入って直ぐの辺りに女性一人が座っていた。図書室の職員であろう。忙しげに書類を纏めている女性は、明らかに不機嫌そうだ。
ピリピリとした雰囲気が痛いほど伝わってきて、暗に話しかけるなと言っている。それ程までに、仕事が大変なのだろう。
聖花はそんな彼女を一瞥して、どうしたものかと頭をひねった。腫れ物には出来るだけ触れたくないが、勝手に使って良いものなのか、と。
そうして固まっているうちに、女性から刺すような視線が飛んできた。何か用かと言いたげで、早く行けと言わんばかりの圧だ。視界に入ることすら気に障るのかもしれない。
態度の悪い職員に呆れを覚えつつも、気に掛けないことにして視線をそらした。特に害が有る訳でもないし、わざわざ言及するつもりはない。何より、今はそんなことを気にしている暇はなかった。
(ついでに聞きたいことがあったけれど、これじゃあ無理ね)
聖花は、誰にも聞こえないくらい小さく息をついた。虫の居所が悪い女性に軽く会釈して、奥へと進む。
初めは手っ取り早く目的のものの置き場所を尋ねるつもりだったのだが、既にそんな気も起きない。どうせ直ぐに見つかるだろうから、と高を括っていたのだ。
が、図書室の中は聖花の想像以上に茫々としたものだった。
一体何冊置いてあるのか。無駄なく整列された本棚に、びっしりと埋め込まれた本。本棚は見る者を圧倒するように聳え立ち、おまけに沢山の紙が音を吸収するのか、辺りは異常なくらい静まり返っている。
仄かに黴の匂いが漂ったその空間は、図書室で留めておくには勿体ないくらい厳かで、歴史の名残があった。
本一つ探すだけでも骨が折れそうである。
おまけに、『○○コーナー』のように、何処に何があるかを示すプレートなどはない。つまり、一つ一つ背表紙を確認して、地道に探していくしかない。
加えて、図書室は上の階も存在し、正直言って直ぐに見つけることなど不可能だ。
(さっきの女性の気持ちが少しだけ分かった気がする)
遠い目をして、聖花はぼけっと突っ立った。何を拘って、しきりに案内を貼らないのか意味が分からない。
「何かお探し?」
そんな聖花に、ふと誰かが話し掛けた。狙ったかのようなタイミングの良さだ。
「は―――」
返事をしようとして、聖花はピタリと言葉を止めた。振り返った途端に、声を発することを止めてしまった。
心の中で何かがじんわりと広がる。それから、何処からともなく想いが込み上げて来た。心の奥底に存在する、普段は意識できない心の動きだ。
そして遂には
「フィー‥‥‥姉様―――」
ポツリと、無意識に言葉が溢れた。まるで自分が自分でないように、聖花の胸がチクチクと痛んだ。彼女の意志とは関係なく、勝手に涙が溢れそうになった。
(可笑しい。可笑しい。どうしてこんなに胸が締め付けられるの?)
こんなことは前にもあった。確か、身体が入れ替わった時。いや、それよりも前かもしれない。時々、聖花自身が別人であるような気がするのだ。
だが、さして意識することはなかったし、ここ最近はそんな気も起こらなかった。だから、なぜ今になってそんな感情が湧き上がるかすら謎である。ギルガルドと再開したとき、こんなにも心が揺らぐことはなかった筈なのに。
「どういたしましたの?様子が変ですわよ」
フィリーネが不審な目を向ける。心配している‥‥‥というよりは、怪訝に思っているようだ。幸い、失言は聞かれていなかったように見える。
「い、いえ。何でも。それよりも、私に何かご用でしょうか」
小さく首を振って、聖花は態とらしく話題を逸らした。目をパチクリとさせたフィリーネに気を揉みながら、聖花は彼女の返事をじっと待った。明らかに不自然だったかもしれないと。
けれどもそれは杞憂に終わりそうだ。表情を崩さぬまま、フィリーネは穏やかに言葉を続けた。
「ええ。お困りのようでしたので。‥‥新入生よね?
本を探しているのではなくて?」
瞬間、聖花は胸がじんとするのを感じた。フィリーネが他人として接していること分かっていても、どうしようもなく心が満たされるのだ。目の前にフィリーネがいて、こうやって会話することが叶った。と。
けれども今は全くの他人で、初対面。ましてや家族ですらない。その事実に、込み上げてくる衝動を抑えながら、聖花はコックリと頷いた。
そんな聖花の気持ちを知ってか知らずか、フィリーネは続ける。
「案内しましょうか?どんなジャンルかさえ教えてくだされば、大体の場所は分かりますわよ」
「そんな‥‥‥‥」
出会ったばかりの相手に。聖花がそう言う前に、フィリーネがにっこりと微笑んだ。
「私も入学当初、目当ての物を探すのに苦労しましたの。だから貴女の気持ちはよく分かるのよ」
そう言うと、彼女は聖花をじっと見つめた。それがまるで心を見透かしているかのようで、聖花はどきりとして息を潜めてしまった。
(やっぱりフィー姉様は凄い。こんな広い図書室の本の位置を把握しているんだもの)
そう思う最中、フィリーネは再び口を開いた。
「何より――――」
そう続けた彼女は、不意に言葉を詰まらせた。
暫くの間、気まずいような、何とも言えぬ空気が辺り一面に漂う。黙って話を聞いていた聖花にとって、その時間はいたく長く感じられた。
話してはいけないような、そんな雰囲気だ。
「いいえ。何でもないわ」
程なくして、フィリーネが沈黙を破る。不意に表情を曇らせた彼女は、視線を聖花からスゥと反らした。とは言っても、じっと見ていても気付かないくらいだ。
それでも聖花は気付けた。きっとマリアンナの経験そのものが、姉の微細な変化に気付かせてくれたのだ。
小首を傾げて、聖花は彼女の姿を見返した。が、話したくないことを無理に引き出すつもりはない。それに、そんなことをすればフィリーネから不信感を抱かれることだろう。
切りの良いところで話を切り上げて、話題を戻してフィリーネの意識を反らす。
「この辺りよ」
「ありがとうございます」
案内を受けた聖花は深々と礼をした。
「良いのよ、そのくらい。役に立てなら良かったわ。
では、私はこれで‥‥‥」
すっかり元の様子に戻ったフィリーネは、そう言うと踵を返した。これ以上話すこともないのだろう。
どうしてか聖花は、そんな彼女を引き止めようと思った。が、これ以上話すことも見つからない。
聖花は暫くの間、立ち去ろうとするフィリーネの後ろ姿を見つめていた。
「あの‥‥‥」
程なくして、意を決したように聖花は振り絞るような声を出した。とても小さく、今にも消えていしまいそうだ。
しかし、その声がフィリーネの耳に届くのには十分だった。静まり返った図書室では些細な音でもよく響く。
ピッタリと足を止めた彼女は、不思議そうな表情を浮かべて振り返った。一体何の用かと言いたげである。
そう、用などなかった。ただ彼女と話したくて。もう少し長くいたくて。聖花はそんな衝動に駆られて堪らなくなったのだ。
「マリアンナさんのお姉様ですよね?」
だから、突拍子もなくこんな言葉が飛び出した。
フィリーネが大きく目を見開く。まさか道案内しただけの相手に、名乗ってもいない相手に聞かれるなどと思ってもみなかったのだろう。それも、突然に。
明らかに動揺しているフィリーネ。きっと頭の中では彼是と模索していることだろう。マリアンナとはどんな関係なのか、どこで知り合ったのか。
が、直ぐに彼女は何時もように微笑んだ。動揺を心の中に仕舞い込むためか、感情を悟られないためか、フィリーネは何事もなかったかのように続けた。
「はい。そうですが‥‥‥妹をご存知ですのね」
「実はつい最近、話す機会があったのです。それで、お姉様のことを知りました。まさかとは思いましたが、こんな偶然あるのですね」
所々に嘘を織り交ぜて、あたかもマリアンナから話を聞いたように見せかける。話す機会があったのは嘘ではないし、偶然出会ったことに驚いたのも事実だ。
この話題を選んだのは、皮肉なことに、今のところ唯一共有できる話題だったから。それに尽きた。
フィリーネは聖花の話を真剣に聞いていた。それほど真面目な話でもないのに、暫くの間黙り込んでいた。
聖花もそれに合わせることしか出来ず、ただただ静かに彼女を見つめていた。余りに都合の良すぎる展開だったのかもしれないと、薄っすらと冷や汗を浮かべて。
が、遂にフィリーネが沈黙を破った。
「マリー、いえ。マリアンナはどうされていましたか?言動は、雰囲気は、仕草は‥‥‥?」
「え‥‥‥‥‥‥」
聖花が思わず声を漏らす。突然の剣幕に、突然の圧に、動揺を隠すことなど出来なかった。フィリーネの表情も声色も、いつもと全く変わらない。けれども何処か様子が変なのだ。まるで何かを疑っているような、いないような‥‥‥。
こんなフィリーネの様子を見たのは初めてだった。
「申し訳ございません。忘れて下さい」
やや引き気味の聖花を見て我に返ったのであろう。フィリーネは直ぐにいつもの様子に戻った。対面の相手に何を言っているのかしら、と呟いて。
言葉を失った聖花は、無言で彼女を見つめるばかりだ。
今度こそフィリーネがその場から立ち去った。聖花は、彼女の姿が見えなくなるまで、じっとフィリーネを見つめ続けた。
彼女がいなくなってから暫く時間が経過した。妙な燻りはいつの間にか綺麗さっぱり消え去っていて、聖花の心にはわだかまりだけが残っていた。
(駄目だ。フィー姉様と話すと、変になる。何だか‥‥‥自分が自分じゃないみたい)
折角フィリーネと話せたのに、何処か釈然としない。聖花はそんな思いを振り切って、ゆっくりと本棚に手を伸ばした。




