11.その後のこと
ギルドを離れたあとも、聖花はしばらく王都の中を歩き続けていた。
ヒイラギカナデという名前が持つ意味や、闇属性の罪人には終身刑が下されたという噂、そして、その情報を口にした男が自分を地下牢まで連行した衛兵の一人だったことまで、短い時間の中で立て続けに知ってしまったせいで、頭の中には整理しきれない考えが絶えず渦巻いていた。
もう少しだけ調べてから戻りたいという焦りはあったものの、どこへ向かえば新たな情報が手に入るのかも分からず、気のよさそうな通行人を見つけては足を止めかけ、そのたびに、自分を探しているはずのアデルや護衛騎士の存在を思い出して進路を変える、ということを繰り返していた。
その足取りは、時間が経つにつれて目に見えて重くなっていった。
街へ出てからかなりの距離を歩き、露店街では護衛から逃げるために人混みを縫うように急ぎ、路地裏では見知らぬ道を彷徨ったうえ、十分な休息も取らないままギルドまで辿り着いたのである。もともと体力に恵まれていない身体へ掛かった負担は、聖花が自覚していたよりも遥かに大きかった。
呼吸を整えようとしても胸の奥が重く、石畳を踏むたびに足元が僅かに揺れる。
それでも、ここで立ち止まれば考えている時間まで失ってしまうような気がして、聖花はふらつく身体を無理に前へ進めていた。
(もう少しだけ。せめて、ヒイラギカナデについて、あと一つでも分かれば……)
けれども、どれほど気持ちだけを奮い立たせたところで、身体が応えてくれるとは限らない。
大通りへ差し掛かった頃には、行き交う人々の輪郭が僅かに滲んで見えるようになり、周囲から聞こえていた呼び声や馬車の音も、水の中から聞いているかのように遠くなっていた。
聖花は近くの建物へ手をつこうとしたものの、伸ばした指先は壁へ届かなかった。
急に膝から力が抜け、身体が前へ傾く。
転ぶ、と理解した時には、もう体勢を立て直すことができなかった。
茶色の鬘に覆われた髪が揺れ、掛けていた眼鏡が石畳の上へ滑り落ちる。周囲から驚きの声が上がったものの、それが自分へ向けられたものだと理解するより先に、聖花の意識は深い暗闇の中へ沈んでいった。
王都の大通りで若い少女が突然倒れたのだから、辺りはすぐに小さな騒ぎとなった。
買い物の足を止めて遠巻きに様子を窺う者や、何が起きたのかと人垣の外から覗き込む者は多かったものの、倒れた聖花へ不用意に近づこうとする者はほとんどいなかった。
病気なのかもしれないし、何らかの事件へ巻き込まれた可能性もある。あるいは、下手に関われば後から責任を問われるかもしれない。
そのような不安が、人々の足をその場へ縫い留めながらも、助けるための一歩を踏み出させなかったのだろう。
結局、騒ぎを聞きつけて駆けつけた近くの衛兵が人垣を掻き分け、石畳へ横たわる聖花の状態を確認することになった。
息はある。目立った出血もなく、外傷といえるものは、手のひらや膝へできた擦り傷くらいだった。
しかし、呼び掛けても反応はなく、顔色もひどく青ざめている。
衛兵たちが少女を詰所へ運ぶべきか相談していたところへ、人混みの向こうから、誰かを呼ぶ必死な声が聞こえてきた。
「お嬢様! お嬢様、どちらにいらっしゃいますか!」
声の主はアデルだった。
露店街で聖花を見失って以来、彼女はほとんど休むことなく街中を探し回っていた。最初のうちは偽名で呼ばなければならないという約束を思い出そうとしていたものの、時間が経つにつれてその余裕も失われ、今では周囲の目など気にせず、主人を呼びながら人の間を縫っている。
蜜柑色の髪は乱れ、頬には汗が流れ、履き慣れているはずの靴でさえ足を痛め始めていた。
それでも、立ち止まるつもりはなかった。
自分が髪飾りを選ぶことへ夢中にならなければ、聖花はいなくならなかった。すぐに異変へ気づいていれば、もっと早く追い掛けられた。
そんな後悔が、アデルを休ませることなく歩かせ続けていた。
護衛騎士とも一度は別れてしまったものの、街の捜索を続けるうちに何とか合流し、二人で人通りの多い場所を中心に探していた。
やがて、大通りの一角にできた人だかりが目へ入る。
普段ならば、誰かが大道芸でも披露しているのだろうと通り過ぎたかもしれない。けれど、その時のアデルは、僅かな異変でさえ見逃すことができなかった。
胸騒ぎに突き動かされるように人垣へ近づき、隙間から中央を覗き込んだ瞬間、アデルの顔から血の気が引いた。
茶色の鬘を被り、街へ出た時と同じ服を着た少女が、石畳の上へ横たわっていたからである。
「お嬢様……!」
アデルは周囲の人々を押し退ける勢いで駆け寄り、衛兵が止めるよりも早く聖花の側へ膝をついた。
「お嬢様、聞こえますか。お願いですから、目を開けてください……!」
肩へ触れようと伸ばした手が震えていた。
聖花の呼吸が続いていると分かっても、安心することなどできなかった。顔色は悪く、何度名前を呼んでも返事がないうえ、手足には転倒した際にできたらしい傷まで見える。
少し遅れて護衛騎士も人垣を抜け、衛兵へ自分たちの身分と事情を説明した。
街中で使っていた偽名や変装について、すべてを正直に話すわけにはいかなかったものの、聖花がダンドール伯爵家の養女であり、外出中に同行者とはぐれてしまったこと、屋敷まで連れ帰る必要があることを告げれば、衛兵たちも無理に引き留めようとはしなかった。
伯爵家の名が出た途端、それまで遠巻きに見ていた人々の間へ、別の意味でざわめきが広がった。
アデルはその声へ耳を向ける余裕もなく、護衛騎士が聖花を抱き上げる様子を、祈るような気持ちで見つめていた。
意識を失った主人の身体は力なく腕の中へ収まり、その姿は普段よりもずっと小さく、頼りなく見えた。
馬車へ乗せてから屋敷へ戻るまでの間も、聖花は目を覚まさなかった。
アデルは向かいの席へ座り、揺れる馬車の中で何度も呼吸や顔色を確かめていた。手を握りたいと思っても、自分に触れる資格がないような気がして、膝の上で指を固く組むことしかできなかった。
(私がお側にいるって言ったのに)
今朝、聖花へそう告げたばかりだった。
(ずっと一緒にいるから、寂しいことを言わないでくださいって、自分から言ったのに……私が目を離したせいで、こんなことに)
聖花が意図的に離れた可能性を、アデルは全く考えていないわけではなかった。
髪飾りを選ぶよう頼まれ、その間に姿を消したのだから、偶然人の流れへ押し流されたと考えるには不自然な点が多い。
けれど、今のアデルには、聖花の行動を責める気持ちなど湧かなかった。
何か理由があったとしても、それへ気づかず、主人が一人で危険な街を歩き回ることを許してしまったのは自分である。侍女として側へいる以上、何があろうと守らなければならなかったのだと、ただ自分を責め続けていた。
ダンドール伯爵家の馬車が屋敷へ到着すると、知らせを受けていたメイドたちがすぐに玄関へ集まった。
意識のない聖花を護衛騎士から引き継ぎ、寝室まで運ぶ者。医師を呼びに走る者。湯や清潔な布を用意する者。
普段、聖花へ好意的とは言えない者まで、今ばかりは私情を挟まず動いていた。
アデルも後を追おうとしたものの、聖花が階段を上っていく途中で、別の使用人から呼び止められた。
「アデル。旦那様がお呼びです。護衛騎士とともに、すぐ執務室へ来るようにとのことです」
その言葉を聞いた瞬間、アデルは足元から冷たいものが這い上がってくるのを感じた。
何のために呼ばれたのか尋ねるまでもない。聖花を見失い、長時間にわたって行方不明にした責任を問われるのだ。
侍女として選ばれてから、まだ一日も経っていない。
それにもかかわらず、最初の外出で主人を危険へ晒したとなれば、罰を受けるだけで済むかどうかも分からなかった。
「……分かりました」
アデルは何とか返事をし、遠ざかっていく聖花の姿を一度だけ振り返った。
今すぐ側へ行きたかった。傷の手当てをし、目を覚ますまで付き添いたかった。けれど、ヴィンセントの命令を無視することなど許されない。
重く感じる足を引きずるようにして廊下を進んでいると、曲がり角の先から、同じく執務室へ向かっている護衛騎士が現れた。
彼も呼び出されたのだろう。
街で抱えていた大量の荷物は、すでに他の使用人へ預けたらしく、今は何も持っていなかった。表情はいつもとほとんど変わらないものの、普段よりも口元が固く結ばれている。
アデルは何か声を掛けようとしたが、言葉が浮かばなかった。騎士も、黙ったままアデルの隣へ並ぶ。
二人の足音だけが、静かな廊下へ重く響いた。
執務室の前へ着くと、護衛騎士が扉を叩き、中から許可の声が返るのを待ってから開けた。
室内へ入った途端、アデルは胸の奥が一層苦しくなるのを感じた。
大きな机の向こう側では、ヴィンセントが椅子へ腰掛け、口元の前で両手を組んでいる。窓から差し込む昼の光によって顔立ちははっきり見えているものの、その表情から感情を読み取ることは難しかった。
ただし、室内へ満ちた重苦しい空気が、彼の苛立ちを十分に伝えていた。
普段から威厳のある人物ではある。
けれど今は、机の上へ積まれた書類へ一切目を向けることなく、入ってきた二人だけを見据えている。その静かな視線の方が、声を荒らげられるよりも恐ろしく感じられた。
護衛騎士が背後の扉を閉め終えたことを確認すると、ヴィンセントは組んでいた指を僅かに動かした。
「一体、何があった」
低く抑えられた声が、静かな室内へ響いた。
護衛騎士は正面からヴィンセントの視線を受け止めている。一方のアデルは、顔を上げることさえできず、床の一点を見つめたまま指先を握り込んでいた。
自分から説明しなければならない。そう理解していても、喉が塞がれたように声が出なかった。
代わりに、隣へ立つ護衛騎士が口を開く。
「セイカ様は露店街をご覧になっていた際、突如として我々から離れられ、そのまま一時的に行方が分からなくなりました。私がすぐに追跡いたしましたが、人混みの中で姿を見失い、その後――」
「もうよい。その先は、セイカが意識を失った状態で発見されたことを見れば分かる」
ヴィンセントは騎士の説明を途中で遮った。
声音は平静を保っているものの、今聞きたいのは経緯の報告だけではないらしい。
彼の視線が、ゆっくりとアデルへ移る。直接顔を見ていなくても、その視線が自分へ向けられたことを、アデルははっきりと感じ取った。
肩が小さく震え始める。
「アデル」
名前を呼ばれただけで、心臓を強く掴まれたような感覚に襲われた。
「お前は、セイカの侍女として側へ付いていたはずだ」
そこまでしか言われていない。けれど、その言葉が意味するところは明らかだった。
なぜ目を離した。なぜ主人が姿を消すまで気づかなかった。聖花の行動を報告するよう命じられていながら、最も重要な時に何をしていたのか。
口にされていない問いが、ヴィンセントの視線とともにアデルへ突き刺さる。
アデルは謝らなければならないと思った。けれど、何から説明すればよいのか分からない。
服を買ってもらい、串焼きを分けてもらい、友人のように笑い合ったこと。聖花から似合う髪飾りを選んでほしいと頼まれ、それが嬉しくて夢中になったこと。自分が侍女であり、主人から決して目を離してはならないことを、ほんの僅かな間だけ忘れてしまったこと。
どれを口にしても、言い訳にしか聞こえないだろう。
そのためアデルは、青ざめた顔のまま黙り込んでいた。
ヴィンセントの眉が僅かに寄る。
「何を黙っている。話さなければ、こちらで相応の判断を下すことになるが……その意味は分かっているな」
声を荒らげられたわけではなかった。それでも、アデルの中で膨らんでいた恐怖は、その一言を境に限界へ達した。
侍女を辞めさせられる。屋敷から追い出される。給金を失えば、母を支えることができなくなる。それどころか、伯爵家へ損害を与えた者として扱われれば、別の働き口を見つけることさえ難しくなるかもしれない。
そこまで考えた途端、震えていた身体がかえって強張り、アデルは勢いよく顔を上げた。
「申し訳ございませんでした!」
ほとんど叫ぶような謝罪が、執務室へ響き渡る。
ヴィンセントは何も答えず、続きを促すように顎を僅かに動かした。
アデルは一度息を吸い込んだものの、焦りのせいで言葉が上手く繋がらず、それでも何とか自分の過失を伝えようと口を動かした。
「私が、街での買い物を楽しんでしまったのです。セイカ様から、どの髪飾りが似合うか選んでほしいと仰っていただいて、それが嬉しくて、すぐお側にいらっしゃるものと思い込んだまま、品物を見ることへ夢中になってしまいました。気づいた時には、もうセイカ様のお姿がなく……すべて、私が目を離したことが原因です」
自分の声が次第に震えていく。
それでもアデルは目を逸らさず、ヴィンセントを見つめ続けた。
「次からは、決して同じ過ちはいたしません。街でも屋敷でも、セイカ様から一時も目を離さず、必ずお守りいたします。見逃してくださいとは申しませんし、罰を受けるべきなのも分かっております。ですが、どうか……どうか、今回だけは、罰を少しでも軽くしていただけませんでしょうか」
最後まで言い切ったところで、アデルは目を強く閉じた。
涙を零さないよう堪えているのか、瞼の端が震えている。
護衛騎士は隣で黙っていたものの、アデル一人だけへ責任を負わせることには抵抗があるらしく、僅かに口を開きかけた。
しかし、それより先にヴィンセントが答えた。
「生ぬるいな」
容赦のない一言だった。
アデルは弾かれたように目を開いた。
「そんな……」
自分でも、軽い罰で済ませてほしいと願うことが虫のよい話であるのは理解している。
主人を見失っただけではなく、結果として聖花は街中で倒れ、衛兵に保護される事態となった。もし悪意を持つ者へ連れ去られていたなら、取り返しのつかないことになっていたはずである。
それでも、何も言わずに処分を受け入れることはできなかった。自分には、屋敷で働き続けなければならない理由がある。
何よりも、聖花の側をこのまま離れたくなかった。
出会ったばかりでありながら、彼女はアデルを一人の人間として扱い、服まで贈ってくれた。主人であることを振りかざすどころか、母の話を無理に聞き出そうともせず、話せる時でよいと言ってくれた。
その聖花が目を覚ます前に侍女の役目を失い、謝罪すら伝えられないまま側を離れることだけは、どうしても避けたかった。
「お願いいたします。処分を先延ばしにしていただくだけでも構いません。セイカ様がお目覚めになるまでお側へ置いていただき、その後に、改めて判断していただけないでしょうか。必ず挽回いたしますから……!」
アデルは机の前で深く頭を下げた。必死な声音を聞きながら、護衛騎士は複雑な表情を浮かべていた。
聖花を見失った責任は、自分にもある。と。
アデルへ荷物を選ばせるような形で隙を作られたとはいえ、その意図にもっと早く気づいていれば、聖花が人混みへ紛れる前に止められたはずだったし、追跡の途中で姿を見失ったのも護衛を任された騎士として明らかな失態であるから。
それにもかかわらず、ヴィンセントは今のところアデルだけへ言葉を向けていた。
護衛騎士からして見ても年若い侍女がこれほど怯えながら処分の軽減を願っている姿を見れば、何も感じないわけではなかった。
けれど、命令を受ける立場である以上、勝手に口を挟むこともできなかったのだ。
ヴィンセントは、頭を下げたままのアデルを暫く黙って見ていた。
彼女の懇願へ心を動かされたようには見えない。むしろ、今後も聖花の側へ置く価値があるのか、処分した場合に代わりとなる侍女をすぐ用意できるのか、そのような損得を冷静に量っているようだった。
アデルは人の感情へ敏感で、嘘をつくことが得意ではない。
その性質は監視役として扱ううえで都合がよく、聖花もすでに彼女へ一定の親しみを抱き始めている。別の者へ替えれば、聖花が警戒を強め、今以上に隠れて行動する可能性もあるだろう。とヴィンセントは考えた。
何より、今回の件ではアデルだけでなく護衛騎士まで聖花を見失っていて侍女一人を厳しく処分したところで、根本的な問題が解決するわけではなかった。
長く感じられる沈黙のあと、ヴィンセントは組んでいた手を解き、椅子の背へゆっくりと身体を預けた。
「……よいだろう」
アデルは恐る恐る顔を上げた。
「現時点での処分は保留とする。ただし、次はない。今後、セイカを外へ連れ出す際は、どのような理由があろうと側を離れるな。本人から命じられたとしてもだ」
「はい……!」
「屋敷の中でも同様だ。行動に不審な点があれば、些細なことでも報告しろ。お前の判断で伏せることは許さん」
「承知いたしました!」
アデルは何度も頷いた。
処分がなくなったわけではない。あくまで保留にされただけであり、再び失敗すれば、今回の分まで含めて重い罰を受けることになる。
それでも、今すぐ聖花の侍女を外されずに済んだことへの安堵は大きかった。緊張から解放されたことで、身体から力が抜けそうになる。
けれど、この場で座り込むわけにはいかず、アデルは足へ力を込めて姿勢を保った。
ヴィンセントは次に護衛騎士へ視線を向けた。
「お前も同じだ。荷物を抱えさせられた程度で対象を見失うようでは、護衛を任せる意味がない。今後はセイカが何を言おうと、追跡に支障が出るものを引き受けるな」
「申し訳ございません。以後、同様の失態はいたしません」
「次に外出させる際は、護衛の人数を増やす。本人へ気取られることを優先する必要はない。逃げ出す余地を与えないことを第一に考えろ」
護衛騎士は深く頭を下げた。
アデルも、その言葉を聞いて胸の奥へ小さな痛みを覚えた。
次に街へ出た時、聖花は今まで以上に窮屈な思いをすることになる。
彼女が何のために自分たちから離れたのかは分からない。けれど、ただ買い物へ来ただけではなかったのだろうということだけは、アデルにも薄々理解できていた。
それでも、聖花の望みを優先し、再び危険へ晒すわけにはいかない。
自分が主人の事情を何も知らないからこそ、せめて側へいて、倒れる前に支えなければならないのだと、アデルは自分へ言い聞かせた。
ヴィンセントから退室を許されると、二人は揃って執務室を出た。
扉が閉まった途端、アデルは張り詰めていた息を長く吐き出した。廊下の壁へ手をつかなければ、膝から崩れ落ちていたかもしれない。
隣にいた護衛騎士が、そんなアデルの様子を見て僅かに眉を寄せる。
「大丈夫か」
「……はい。少し、力が抜けただけです」
答えながらも、声はまだ震えていた。
護衛騎士は暫くアデルを見つめたあと、前方へ視線を戻した。
「今回のことは、お前だけの責任ではない。追いつけず、途中で見失った私にも落ち度がある」
「ですが、最初にお嬢様から目を離したのは私です。私がもっと注意していれば、騎士様が追い掛ける必要もありませんでした」
「セイカ様は、我々の隙を作るために最初から荷物を増やしていた可能性が高い。お前が髪飾りを選ぶよう頼まれたことも、その一つだろう」
アデルは俯いた。
自分も、何となくそうではないかと思っていた。けれど、他人の口からはっきり告げられると、胸へ鋭い痛みが走った。
聖花に信用されていなかったから、騙されたのだろうか。監視役であると正直に話したことがいけなかったのか。あるいは、聖花には誰にも知られたくない事情があり、自分が側へいることそのものが邪魔だったのかもしれない。
さまざまな考えが浮かんだものの、アデルは唇を噛み、首を横へ振った。
「それでも、私はお嬢様の侍女ですから。たとえ騙されたとしても、危険な場所へ一人で行かせてよい理由にはなりません」
その言葉には、自分を責める気持ちだけでなく、次こそは必ず側を離れないという決意が込められていた。
護衛騎士は何か答えようとしたものの、結局は小さく頷くに留めた。
アデルは聖花の寝室へ向かって歩き出した。執務室へ呼び出されている間にも、医師の診察は進んでいるはずだった。
大きな怪我がないとしても、目を覚ますまでは安心できない。
廊下を急ぎ、寝室へ辿り着くと、ちょうど中から医師が出てくるところだった。
アデルは慌てて頭を下げ、聖花の状態を尋ねる。
医師によれば、倒れた原因は疲労と睡眠不足、それに軽い脱水が重なったためであり、命に関わるような異常は見られないという。擦り傷も浅く、清潔にして薬を塗っておけば痕が残ることはないだろうとのことだった。
ただし、身体は相当に疲弊しているため、目を覚ましたあとも一日は安静にさせ、無理に食事を取らせたり、長く話をさせたりしないよう注意する必要があるらしい。
その説明を聞き、アデルはようやく胸を撫で下ろした。
医師と入れ替わるように寝室へ入ると、聖花はすでに外出用の服から寝間着へ着替えさせられ、広い寝台の中央で静かに眠っていた。
擦り傷のある手足には薬が塗られ、その上から清潔な布が当てられている。額には冷たい布が載せられ、寝台の脇には水差しと、目を覚ました時に口へできる薄い果汁が用意されていた。
部屋にいたメイドたちは、医師の指示をアデルへ伝えると、それぞれの仕事へ戻るため静かに退室していった。
一人になったアデルは、寝台の脇へ置かれた椅子へ腰を下ろした。
今朝までの聖花なら、眠っていてもどこか警戒しているように見えたかもしれない。けれど今は、疲れ切った身体が深い眠りを求めているのか、呼吸は静かで、表情にもほとんど力が入っていない。
アデルは恐る恐る手を伸ばし、寝台の上へ出ていた聖花の指先へ触れた。
僅かに温かい。
その温度を確かめた瞬間、それまで必死に堪えていた涙が、頬を伝って零れ落ちた。
「よかった……」
もし、見つけるのがもっと遅れていたら。
もし、倒れた場所に悪意を持つ者がいたら。
もし、そのまま二度と目を覚まさなかったら。
考えたくもない可能性が、あとからいくつも浮かんでくる。
アデルは声を上げて泣かないよう唇を押さえたものの、一度溢れ出した涙はなかなか止まらなかった。
「お嬢様が私を信用してくださらなくても、何も話してくださらなくても構いません。ですから、次からは……次からは、どうか一人でいなくならないでください」
眠っている聖花に、その言葉が届くことはない。それでもアデルは、握った指先を離さないまま、何度も同じ願いを心の中で繰り返した。
聖花が自分から離れたことを責めたいわけではなかった。ただ、何かを一人で抱え、誰にも頼れずに動かなければならないのだとすれば、その重荷をほんの少しでも分けてもらえる存在になりたかった。
監視を命じられている自分が、そのようなことを願う資格などないのかもしれない。命令を無視することも、聖花の行動をすべて隠すこともできない。
それでも、報告役として側へいるだけではなく、聖花が本当に困った時に頼ってもらえる侍女になりたいという気持ちは、街へ出る前よりも強くなっていた。
涙が落ち着いたあとも、アデルは寝台の側を離れなかった。
冷たくなった額の布を取り替え、乾燥しないよう時折唇を湿らせ、眠りを妨げない程度に室温を確かめながら、聖花の呼吸へ何度も耳を澄ませる。
主人が目を覚ました時、最初に目へ入る場所へいたかった。
そして、その時こそ街で何があったのか聞きたいと思いながらも、今は問い詰めるより先に、無事に戻ってきてくれたことを喜ぼうと決めていた。
いつの間にか窓から差し込む光は傾き、室内には穏やかな夕方の色が広がり始めていた。
長い捜索とヴィンセントからの追及によって疲れ切っていたアデルは、聖花の手へ触れたまま、次第に重くなる瞼へ抗えなくなっていく。
それでも最後まで椅子へ座った姿勢を崩さず、眠りへ落ちる直前には、聖花が再び目を覚ました時には今度こそ決して一人にしないと強く心へ誓いながら、寝台の端へそっと顔を伏せた。
『面白い』『今後の展開も読みたい』などと
少しでも思っていただけましたら、
ページ下方の【ブックマーク】【★★★★★評価】
を押して頂けましたら、創作の励みになります。
モチベーションアップにも繋がりますので、
どうぞよろしくお願いいたします。
一話にも是非お越しください☆彡




