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1.プロローグ (裏)






…――おい。






 遠くで、誰かの声がした。




 水の底へ深く沈んでいるように、音の輪郭はぼやけ、何を言われているのかまでは聞き取れない。ただ、誰かが繰り返し自分を呼んでいるらしいことだけは、朧げに分かった。






―――おい。起きろ。







(……誰?)



 意識を浮かび上がらせようとした途端、それまで遠くにあった声が、急に耳元まで迫ってきた。




「おい!起きろ!!起きろって!」


「――っ!? な、何っ!?」


 柊 奏(ひいらぎ かなで)は弾かれたように目を開いた。


 視界へ真っ先に飛び込んできたのは、見覚えのない男の顔だった。男は地面へ片膝をつき、奏の顔を覗き込むようにしている。距離は近く、手を伸ばせば触れられそうなほどだった。


 寝起きで働いていなかった奏の頭が、一瞬で覚醒した。



「ひっ……!」


 悲鳴を飲み込み、両手を地面へついたまま、奏は勢いよく後ろへ下がった。身体を起こしながら何度も足を動かし、男との間へ少しでも距離を作ろうとする。


 男は、突然逃げられたことへ驚いたようだった。伸ばしかけていた手を宙で止め、目を丸くして奏を見ている。

 奏は荒くなった息を整える余裕もなく、目の前の男を睨みつけた。


 年齢は二十代半ばほどだろうか。背は高く、すらりとしている。身につけているのは、ところどころ擦り切れた布の服と、使い込まれた革の装備だった。決して裕福そうには見えない。それどころか、服だけを見れば、街中で見かけても進んで近づきたいとは思わない格好である。


 けれど、奏はすぐに、見た目だけで判断するのは危険だと気づいた。


 擦り切れた袖の下から覗く腕は、細いというより無駄がなく、薄く筋肉がついている。腰には剣のようなものも下げられていた。正面から全力でぶつかれば押し倒せるかもしれないと一瞬考えたが、よく見れば到底敵いそうにない。



(不審者……!?)


 家の鍵は閉めたはずだ。少なくとも、昨夜はそうした記憶がある。

 それなのに、目を覚ますと見知らぬ男が目の前にいる。普通に考えれば、泥棒か、誘拐犯か、それに近い何かだろう。


 奏は警戒を強めながら、直前までの記憶を探った。


 昨夜は、新しく買った乙女ゲームを進めていた。

 題名は『異界の国の聖女』。発売前から目をつけていた作品で、手に入れてからというもの、授業も睡眠も後回しにして遊び続けていた。昨夜も正規ルートを終わらせるため、眠気を堪えながら画面へ張りついていたはずだ。

 攻略対象の台詞を聞き逃さぬよう音量を上げ、選択肢の前では何度も保存し、手に入れたスチルを確認しては一人で満足していた。


 ゲームをしている時間だけは、現実の嫌なことを考えずに済む。

 人間関係は面倒だ。学校では話の合う友人もほとんどいないし、勉強も好きではない。何かを頑張ったところで、現実では自分より優れた人間などいくらでもいる。


 けれど、ゲームの中では違う。選択肢さえ間違えなければ、魅力的な男性たちは主人公だけを見てくれる。主人公のために争い、主人公を守り、主人公が何をしても最後には受け入れてくれる。

 画面の中の世界は、奏にとって都合がよかった。だから、正規ルートをすべて終えた後も、休む事なく別のルートへ進むつもりだった。


 だが、限界は突然訪れた。朝日がカーテンの隙間から差し込み始めた頃、猛烈な眠気に襲われたのだ。手近に置いていた缶飲料へ手を伸ばしたものの、指先が触れるより早く身体の力が抜け、椅子から床へ滑り落ちた。


 散らかった部屋の絨毯へ倒れ込み、そのまま眠ってしまった。――そこまでは覚えている。だからこそ、目の前に男がいることが理解できなかった。


 奏は男から目を逸らさぬまま、周囲の様子を確認しようとした。

 しかし、その時になってようやく、もっと大きな違和感に気づいた。頬へ風が当たっているし、頭上からは眩しい光が降り注いでいる。室内にいるはずなのに、天井も壁もない。

 奏は恐る恐る顔を上げた。


 そこにあったのは、見慣れた自室ではなかった。

 青く澄んだ空が、視界いっぱいに広がっている。周囲には巨大な木々が立ち並び、その先には果てが見えないほど深い森が続いていた。風が枝葉を揺らすたび、聞いたことのない鳥か獣の鳴き声が、遠くから響いてくる。

 少し離れた場所には、木製の荷車らしきものが止められていた。歴史の資料集でしか見たことがないような古めかしい造りで、当然ながら車輪の傍にエンジンらしきものはない。


 そして何より、遠い空には大地の塊が浮かんでいた。島のようなものが、雲の間へ影を落としながら、空中で静止している。

 奏は口を開けたまま、それを見つめた。



(……何、これ)


 夢だろうか。そう考えて、自分の手で頬をつねってみる。



「痛っ」


 普通に痛かった。


 撮影用の舞台に連れてこられた可能性も考えた。しかし、地平線まで続く森も、空に浮かぶ島も、撮影設備という言葉では到底説明できない。そもそも、誘拐犯が眠っている女子学生一人のために、これほど大がかりなものを用意する理由などないだろう。


 恐怖を抱くべき状況だった。自分がどこにいるのかも分からず、目の前の男が何者なのかも分からない。携帯電話も鞄も手元になく、日本へ帰る方法すら見当もつかない。

 けれど奏の頭に浮かんだのは、不安ではなかった。


 これまで遊んできたゲームや、読んできた物語の展開が、次々と思い出される。見知らぬ場所。現実には存在しない風景。突然の目覚め。そして、見るからに現代日本の人間ではない男。



(これって、もしかして……)


 胸の奥が急に高鳴った。



(異世界転移!?)


 そう思った途端、先ほどまで抱いていた警戒心が、驚くほど簡単に薄れていった。


 異世界へ来た主人公が、最初に出会う人物は大抵の場合、案内役か味方である。少なくとも、奏が知っている物語ではそうだった。

 ならば、この男もきっと大丈夫だろう。何の根拠もないまま、奏はそう結論づけた。


 奏は男の存在を忘れたように立ち上がり、興奮を隠せず周囲を見回した。森の奥へ目を凝らし、荷車を観察し、空に浮かぶ島を何度も確認する。夢ではないと確かめるほどに、口元が緩んでいった。



「……何してるんだ?」


 置き去りにされていた男が、不審そうに声を掛ける。



「本当に大丈夫かよ……」


 先ほどとは別の意味で心配されているらしい。奏はようやく我に返った。先ほどまで不審者扱いしていた相手の前で、一人ではしゃいでしまったことに気づく。



「あ……すみません」


 奏は慌てて表情を整えた。内心では今すぐ飛び跳ねたいほど興奮していたが、ここでさらに妙な行動を取れば、相手に変な人間だと思われてしまう。

 すでに十分思われている可能性については、考えないことにした。



「先ほどは失礼な態度を取ってしまって。助けていただいたようですが、貴方はどちら様でしょうか?」


 できる限り落ち着いた声を作り、奏は男へ尋ねた。


 男は一度だけ眉を上げた。先ほどまで敵を見るような目を向けていた少女が、突然礼儀正しい態度へ変わったのだから、当然の反応だろう。



「おっ?急にどうしたんだ?」


 男は訝しげに奏を見た後、細かいことは考えないことにしたのか、肩をすくめた。



「まあ、いいか。俺はルーツっていうんだ。ただの傭兵さ」


 そう名乗るまでに、ほんの僅かな間があった。


 けれど、奏は気づかなかった。傭兵という言葉へ気を取られていたからだ。

 異世界らしい職業が、本当に目の前へ現れた。剣を持った男が傭兵を名乗る。それだけで、ゲームの中へ入り込んだような実感が増していく。



「お嬢ちゃんは?」


 尋ねられ、奏は一瞬迷った。日本から来ましたと正直に答えるべきだろうか。

 だが、異世界から来たなどと言えば、さすがに頭がおかしいと思われるかもしれない。ゲームでは、異世界人であることを明かした主人公が特別扱いされる場合もあるが、逆に危険人物として捕らえられる話もあった。どちらになるかは分からない。


 こういう時は、記憶喪失と言っておけば大抵どうにかなる。ゲームでも小説でもよく使われる展開なのだから、きっと問題ないだろう。

 奏は、その程度の考えで嘘をつくことに決めた。



「私はカナデといいます」


 自分の名前だけは正直に告げる。



「ただ、少し記憶が曖昧で……どこに住んでいたのかも、何をしていたのかも、よく分からないんです」


 言い終えた奏は、上手く誤魔化せたと内心で満足した。少し視線を下げ、不安そうな表情まで作ってみせる。


 ルーツは何も言わず、奏の顔を見ていた。


 服装。髪。靴。そして、嘘をつく者特有の不自然な間。男の視線が一つずつ確かめるように動いていたことへ、奏は気づいていない。



「そうか。記憶がないのか」


 やや間を置いて、ルーツは答えた。



「何か悪い目に遭ったのかもしれないな」


「そうかもしれません」


 奏は真面目な顔で頷いた。自分の嘘が完全に通じたと思っていた。


 ルーツはそれ以上追及しなかった。信じたからなのか、別の理由があるのかは分からない。少なくとも表面上は、奏の説明を受け入れたように見えた。



「おう。よろしくな、カナデ」


 ルーツは明るく笑った。



「はい。よろしくお願いします」


 奏も笑顔を返した。互いに、本当のことを話してはいないことを奏だけは知らない。





  この辺りは魔物が現れることもあり、一人で残しておくのは危険だと、ルーツは説明した。奏には魔物が何なのか正確には分からなかったが、異世界であるなら当然いるものだと、特に疑問を抱かなかった。

 むしろ、魔物という言葉を聞いて、さらに胸を躍らせていた。空島、傭兵、そして魔物。ここまで揃っていて、異世界でないはずがない。


 ルーツはこれから国の中心部へ向かうところだったらしく、奏を途中まで連れていくと申し出た。


 奏はほとんど迷わず頷いた。相手が本当に信用できるのか考えるより、王都らしき場所へ行けることの方が魅力的だったからだ。


 木製の荷車の端へ乗せてもらう。乗り心地は決して良くない。車輪が小石へ乗り上げるたびに座面が揺れ、何度も身体が跳ねた。それでも、初めて見る景色が次々と流れていくため、奏は退屈しなかった。

 森を抜ける道の両側には、見たことのない花が咲き、時折、奇妙な形をした小動物が茂みの奥へ消えていく。奏はそのたび身を乗り出し、落ちかけてはルーツから注意された。



「落ちても知らないぞ」


「大丈夫です。これくらい」


「さっきまで倒れてた奴の言葉とは思えないな」


 呆れたように言われても、奏は気にしなかった。


 しばらく進んだところで、ふと最も重要なことを聞いていなかったと気づく。



「ところで、私たちが今いるのは何という国ですか?」


 奏が尋ねると、荷車を進めていたルーツは、前を向いたまま答えた。



「アルバ国だ」


「アルバ国……」


 その響きが、奏の頭のどこかへ引っかかった。初めて聞いたはずなのに、知っている気がする。それも、ずっと以前に聞いたという曖昧な感覚ではない。つい最近、何度も目にしたような気がした。


 奏は眉を寄せた。どこで見たのだったか、と。



「最近は王都へ向かう貴族が増えている」


 奏が考え込んでいることへ気づいたのかどうか、ルーツが続けた。



「第一王子が、そろそろ正式に婚約者を定めるんじゃないかって噂があるからな。今まで頑なに決めようとしなかったらしいが、いつまでもそういうわけにはいかないんだろう」


 第一王子。婚約者のいない王子。その言葉で、奏の中にあった記憶が一気に繋がった。



「……あっ!」


 奏は勢いよく顔を上げた。突然大声を出されたルーツが、僅かに肩越しへ振り返る。



「何だ?」


「いきなりすみません」


 奏は跳ね上がる心臓を押さえるように胸へ手を当てた。



「その王太子様のお名前は、ルードルフ・フィン・アルバ殿下で合っていますか?」


 声が抑えきれずに上ずる。すでに答えを確信しているような尋ね方だった。


 ルーツはすぐには答えなかった。ほんの少し目を細め、奏の顔を観察する。



「……そうだ」


 やがて、短く答えた。



「どうして知っている?」


「え?」


 奏は目を瞬かせた。記憶喪失を名乗った直後であることを、すっかり忘れていた。



「それは、その……」


 困った奏は、すぐに別の言い訳を探そうとした。しかし、良いものが何も思いつかない。


 ルーツは数秒待った後、小さく息を吐いた。



「まあいい。だが、王族の名前を、そんな調子で誰彼構わず口にするなよ。場所によっては、不敬と取られる」


 先ほどまでの気さくな声音とは違い、僅かに厳しさが混じっていた。



「俺の前だからよかったが、相手によっては面倒なことになる。覚えておけ」


「はい」


 奏は一応返事をした。けれど、その忠告はほとんど頭へ入っていなかった。


―――ルードルフ・フィン・アルバ。


 間違いない。『異界の国の聖女』に登場する、主要攻略対象の一人。アルバ国の第一王子だ。


 国の名前だけなら偶然ということもあったかもしれない。だが、王子の名前まで同じであるなら、もう疑う余地はない。


 奏は両手を握り締めた。身体の内側から、喜びが一気に湧き上がる。

 自分は異世界へ来た。ただの異世界ではなく、昨夜まで遊んでいた大好きな乙女ゲームの世界へ来たのだ。


 ゲームの知識ならある。攻略対象の好みも、過去も、どの選択肢を選べば好感度が上がるのかも知っている。ならば、この世界では何も怖くない。

 現実では自分を見向きもしなかったような男性たちも、ここでは主人公を愛するようにできている。そして、ゲームの展開を知っている自分なら、誰よりも上手く立ち回れる。


 そう考えた瞬間、奏は自分を抑えきれなくなった。



「『異界の国の聖女』の世界に来たんだー!」


 静かな街道に、奏の叫び声が響き渡った。森の鳥たちが一斉に飛び立つ。ルーツは歩みを止め、ゆっくりと振り返った。何を言っているのか理解できない。その顔には、はっきりとそう書かれていた。

 けれど、奏は気にしなかった。両手を胸の前で握り締め、喜びを噛み締めることに夢中だったからだ。ルーツの表情から、一瞬だけ気の抜けた呆れが消えたことにも気づかない。



「異界の国……聖女……?」


 誰にも聞こえないほど小さな声で、ルーツが繰り返す。その目が鋭く細められ、奏を観察していたのは、ほんの僅かな間だけだった。再び奏が彼を見る頃には、奇妙な少女へ呆れる気さくな傭兵へと戻っていた。



「さっき記憶がないって言ってなかったか?」


「細かいことは気にしないでください」


「細かいか?」


「はい」


 奏は堂々と言い切った。自分でも説明できないことは、相手が気にしなければ問題ない。少なくとも奏は、本気でそう考えていた。

 ルーツは何かを言いかけた後、諦めたように前へ向き直った。荷車が再び進み始める。


 しばらくして興奮が少し落ち着くと、奏は改めて自分の姿を確認し始めた。

 手を持ち上げると、見慣れた自分の手が目に映る。髪を一房すくってみても、色も長さも日本にいた頃と変わらない。服装も、昨夜ゲームをしていた時に着ていた部屋着のままである。

 ゲームの主人公は、確か淡い色の長い髪と、誰からも愛される可愛らしい容姿を持っていたはずだ。


 奏は自分の髪を眺めた。



(ああ、違うのね)


 自分はまだ、ゲームの主人公の姿ではないらしい。


 普通なら、そこで少しは不安になるのかもしれない。主人公ではないのなら、自分は何者なのか。なぜこの世界へ来たのか。攻略対象へ近づくことができるのか。

 考えるべきことはいくらでもあった。けれど、奏は深く悩まなかった。



(まあ、いっか)


 今は違うだけだ。


 ゲームの世界へ来られたのだから、いずれ主人公と同じ立場になれるに違いない。容姿が違うのなら、変えればいい。主人公でないのなら、主人公になればいい。

 どうやってそうするのかは、まだ何も分からない。それでも奏は、きっと何とかなると信じていた。



(後で変えればいいんだし)


 奏は一人、楽しそうに笑った。その笑みを見たルーツが、僅かに眉を寄せる。けれど、奏がそれに気づくことはなかった。



―――これが、すべての始まりだった。



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