事件の後
男は、足にしがみつく千代を突き刺そうとした。
吉永は棍を自分の後ろにいる男に思いっきり投げつけると、愛刀〈神切丸〉を抜いた。三条家で刀鍛冶を学び、家を出る前に、兄と一緒に打った太刀である。兄が〈神〉、吉永が〈切〉の文字を選んで命名した業物であった。十年前に警固衆に入ってからは、実戦で用いたことはない。
吉永は太刀を抜くや否や、目の前にいた男を、その刀ごと両断した。続けざまに左右の男たちを燕返しのように斬り裂いた。一瞬である。
そして千代を殺さんとする男に走り寄り、刀を持つ男の腕を切り落とした。男を蹴り飛ばし、千代を抱きかかえた。「千代!」と、玉と吉永が急いで千代を確認すると、白衣の背中がぽっと紅く染まり、そしてそれがじわじわと広がっていった。
「くっ、ひと足遅かったか、千代、すまねえ」
「千代! しっかり! すぐ手当てするからね」
玉はそう言って風呂敷を取り出し、きつく止血をしようとそれを巻いていった。
靖頼も何人か倒して駆けつける。残った数名の男たちは、仲間が一瞬のうちに殺されたのを見て、青い顔をして慌てて逃げて行った。
月が夜空高く昇ったころ、千代は賀茂基久の屋敷の一室に寝ていた。寝殿造りの室内は涼やかな風が入って来ている。
「千代は大丈夫でしょうか」
吉永は、待機していた部屋に基久が入って来ると、基久の言葉を待たず、千代の容態を聞いた。燈明の炎は風に揺れて薄暗く、今にも消え入りそうだった。
「うむ……、予断を許さない状態らしい」
基久は沈鬱な表情で答えた。吉永と靖頼は家に帰らなかった。千代の事はもちろんだが、玉のことも心配だったのだ。玉は千代に片時も離れることなく付き添っている。
襲撃の後、吉永は千代を抱えて賀茂の屋敷まで走った。医者をすぐに呼んだが、その時には千代の意識はすでになかった。
「この度は千代を守ることが出来ず、本当に申し訳ございませんでした」
吉永と靖頼は改めて頭を下げた。靖頼の目は悔しさの涙で濡れていた。
「いや、お前たちは悪くない。二人は良くやってくれた。この時期に千種がここまでの暴挙に出るとは、わしも想定しなかったこと。これは、わしの責任じゃ。謝るのはわしの方じゃ……」
「滅相もございません。神主様は悪くありませんよ。悪いのは皆、あの千種忠顕です」
「そうです、そうです! 悪いのは千種です」と靖頼。
吉永は話題を変える事にした。
「しかし…、あの丹波忠守様が自ら来て下さったのには驚きましたね」
「うむ、丹波殿の手が空いていたのは幸運じゃった…」
丹波忠守は元典薬頭である。三年前、後醍醐天皇の倒幕運動に参加した疑いで、六波羅探題に拘束され、そのまま出家させられた。しかし、その後も宮中の歌会などには参加している。基久とは歌詠み仲間であり、この時代、随一の名医であった。
忠守は傷口を塞ぎ、金創用の気血を補う薬を調合すると、「千代の意識が戻ったら、煎じて飲ませるように。明日また来る」と言って帰っていった。
「丹波様が診て下さったのだから、きっと大丈夫、ですよね」と靖頼。
「……」
「だと良いのじゃが……」
基久と吉永の顔は晴れなかった。
千代は数日間、生死の境を彷徨った。高熱に苦しみ、呼吸をするのも辛そうだった。たまに、意識が戻ると、玉は煎じた薬を口移しで千代に飲ませた。千代は霞む目で玉を見ると涙を流し、「た、玉姉様……、仇をとってたも」と言って、また意識を失った。
足利尊氏は、捕らえた下手人たちの聴取を終えると、千種忠顕に話を聞きに行った。すると、千種は「わしは知らん」と言った。
「わしを陥れようとする輩が、そう言うように仕向けたのだろう。足利殿、惑わされてはいけませぬぞ」
尊氏は粘ったが、話をそれより先に進めることが出来なかった。尊氏は純朴な人間であった。尊氏の弟、直義なら、もう少し上手く出来たかもしれないが、この時すでに直義は成良親王と共に鎌倉に下向していた。
―― 千種は、虎と狐の違いがあるにせよ、後醍醐天皇に似ておるやも知れぬ……
尊氏から報告を受けた基久は、そう思った。
十年前、後醍醐天皇は倒幕を試みて乱を起こそうとした。それを正中の変と言う。だが、その計画は実行する前に鎌倉方に漏れ、帝や側近たちは拘束された。その時、帝は責任の全てを、側近の日野資朝や日野俊基たちに押し付け、自分は関係ないと主張した。処罰は臣下だけが受け、後醍醐天皇は無実となった。
―― 帝は千種を処罰するかのぉ……、いや恐らくはせぬ……。千種は帝の鎧の一枚。たとえ口頭で注意することがあるかも知れぬが、恐らく、それで終わり……、千種は変わるか……、あの昔からの性格は、そう変わらぬに違いあるまい……
―― 護良親王から将軍の位を取り上げ、親王の身柄を足利殿に渡したのもそうじゃ。足利殿が帝の鎧となり剣となるからこそ、そう判断されたのじゃ。足利殿は帝位を簒奪することは出来ぬ。出来るのは、自分の親王たちと、後伏見院、光厳上皇が率いる、持明院統の皇子たちだけじゃ……
―― 帝は、帝位を守るために、有力な武家を味方に引き入れた。じゃが、それと同時に武家の力を落とそうと画策しておる。そこに大きな矛盾がある事を、帝は御存じなのかのぉ……。もし、このままこれを続けていけば、また大きな乱が起きるじゃろうに……
基久は「ふうっ」とため息をつき、深く頭を悩ませた。
―― 万里小路藤房様に会ってみるかのぉ……
そう思った時、基久の部屋に玉がやって来た。もし、ここに元気な千代がいたら、その玉の顔を見て、こう言っただろう。
「玉姉様が怒った顔をしておるのじゃ。ひょっとして、わしの為かの」