第19話 魔法
皇城訓練場は普段より静かだった。
周囲には近衛兵が配置され、観覧席も封鎖されている。集められたのは必要最低限の関係者だけだった。皇帝。ホワイト。プロマ。ティム。トスリ。コヒス。そしてライネとレイヴン。
アンセスは訓練場中央へ立つ。
数歩先には木製の訓練標的が並び、その奥には石造りの訓練壁が設置されていた。
ティムが箱を運ばせる。
始祖の翡翠。
二千年間、皇室が保管し続けてきた首飾りだった。
箱が開く。
アンセスはゆっくりと翡翠へ手を伸ばした。
冷たい感触が掌へ伝わる。
その瞬間、思わず息が止まった。
忘れかけていた感覚が腕を伝い、胸の奥へ流れ込んでくる。
マナだった。
この世界へ来てから一度も感じることのなかったもの。
草原にも。
空にも。
石にも。
どこにも存在しなかったもの。
それが今、確かに手の中にあった。
「……どうした」
皇帝が聞く。
アンセスは翡翠から視線を離さない。
「予想より多いです」
静かな声だった。
「もっと僅かだと思っていました」
プロマが眉を寄せる。
「多いのか」
「はい」
アンセスは頷く。
「個人が持ち歩く量ではありません」
周囲が静かになる。
二千年間ただ受け継がれてきた首飾りが、実際にはそれほどの価値を持っていた。
誰も何も言わなかった。
皇帝だけが短く聞く。
「試せるか」
「はい」
アンセスは頷いた。
「ですが、最初は最小術式にします」
皇帝も頷く。
「任せる」
アンセスは訓練場中央へ歩く。
深く息を吸った。
久しぶりだった。
術式を組む。
流れを整える。
マナを導く。
身体は覚えていた。
幼い頃から繰り返してきたことだった。
右手を前へ出す。
「灯れ」
次の瞬間。
指先へ小さな光が生まれた。
ライネが息を呑む。
光はゆっくり揺れながら形を変え、やがて小さな炎になる。
何も燃やしていない。
灯具も無い。
油も無い。
それでも炎は空中に存在していた。
誰も動かない。
近衛兵達も目を離せなかった。
トスリは火を見つめたまま微動だにしない。
コヒスの記録筆だけがかすかに動いていた。
アンセスは火を消す。
訓練場へ再び静寂が戻った。
「これが魔法か」
皇帝が聞く。
「初歩術式です」
アンセスは答えた。
「学院に入る前の子供でも使います」
今度は何人かの表情が変わった。
これが特別な秘術ではない。
その事実の方が衝撃だった。
アンセスは続ける。
「もう一つお見せします」
右手を開く。
今度は火ではない。
周囲の空気が動いた。
最初は微かだった。
だが数秒後、訓練場中央の砂が舞い上がる。
小さな旋風だった。
砂粒が渦を描きながら空中を回転する。
ライネが思わず一歩前へ出る。
「風が……」
アンセスは術式を解いた。
砂が落ちる。
静寂。
誰もそれを自然現象だとは思わなかった。
全員が見ていたからだ。
火の後に風が現れた。
偶然ではない。
同じ技術だった。
アンセスは最後に近衛兵へ視線を向けた。
「剣をお借りできますか」
近衛兵は皇帝を見る。
皇帝が頷いた。
剣が渡される。
アンセスはそれを受け取った。
翡翠を握ったまま目を閉じる。
今度は炎も風も現れない。
変化は見えなかった。
だが、剣を握る感覚が変わる。
術式が刃へ流れ込んでいく。
アンセスはゆっくり目を開いた。
「下がってください」
近衛兵達が距離を取る。
訓練場の端には石製の訓練標的があった。
厚い石板を組んだものだ。
アンセスは剣を構える。
一歩踏み込む。
振る。
乾いた音が響いた。
次の瞬間。
石板の中央へ深い切断痕が走った。
遅れて上半分が崩れ落ちる。
重い音が訓練場へ響いた。
誰も声を出さなかった。
近衛兵達でさえ息を呑んでいる。
アンセスは剣を返した。
「身体強化と武器強化です」
「軍で最も一般的に使われる術式の一つです」
皇帝は崩れた石板を見る。
火。
風。
強化。
三種類。
別々の現象。
だが全て同じ翡翠から始まっていた。
長い沈黙の後。
皇帝が口を開く。
「記録しろ」
コヒスが顔を上げる。
「本日」
皇帝は静かに続けた。
「帝国は初めてマナの存在を確認した」
誰も異論を挟まなかった。
もはや伝承ではない。
神話でもない。
訓練場中央には砕けた石板が残り、空気にはまだ微かな焦げた匂いが漂っている。
それが何よりの証拠だった。
アンセスは手の中の翡翠を見る。
淡い緑色の表面が、陽光の下で僅かに輝いていた。




