第1話 風が割れる草原
春先の草原を渡る風は、まだ少し冷たい。雪解け水を含んだ草が揺れ、低い丘陵の向こうまで緑が続いている。空は高く、雲は薄い。
ここは帝国北州辺境。さらに北へ進めば、草原はやがて輪郭を失い、地図に描けない外縁地帯へ変わる。昔話では、その先に世界の果てがあるという。
十数騎の一団が、その草原をゆっくり進んでいた。
先頭を走る男――セヴィは手綱を軽く引く。
「止まれ」
騎列が減速した。後ろから副官が馬を寄せる。
「どうした、セヴィ主任官」
セヴィは答えず片手を上げた。指の隙間を風が抜ける。
北方草原の風向きは安定している。春先なら北西から南東。牧民でも知っている常識だった。
だが。
「……またか」
前方数十メートル先。草の揺れ方がおかしい。
左側の草は東へ倒れ、右側は西へ流れている。まるで一本の線でも引かれたように、風が途中で割れていた。
副官も気づいたらしい。
「また異変か」
セヴィは割れた草の流れから目を離さない。
「風の流れが変だ。……また線上か」
半年ほど前から、北州では不可解な報告が増えていた。夜中に誰もいない場所から声が聞こえる。家畜が消える。見たこともない獣の死骸が見つかる。そして一度だけ、身元不明の死体も見つかった。
最初は牧民の噂話。次は役人の報告書。そして今では辺境調査局が正式に扱う案件になっている。
セヴィは辺境調査局北州局主任官として、その調査を任されていた。
調査を続けるうち、一つだけ分かったことがある。
異変はすべて、同じ帯状地域へ集中している。
まるで帝国を横切る見えない傷跡みたいに。
そしてその線は決まって、外縁地帯へ続く境界標の近くを通っていた。
その時、遠くから馬蹄が近づく。
「主任官!」
偵察兵だった。息を切らしながら馬を止める。
「牧民から報告です!」
「何があった」
偵察兵は少しだけ言い淀んだ。
「……人です」
「流民か?」
「違います」
一拍置く。
「武装しています」
その場の空気がわずかに固まった。
「人数は?」
「十数人ほど。全員、血まみれで倒れています」
副官が顔をしかめる。
「盗賊か?」
「分かりません。ただ――」
偵察兵は唇を湿らせた。
「境界標の近くです」
セヴィは視線を前へ戻す。
風が割れる場所。境界標。異変。
全部、同じ線上。
「……行くぞ。先に武装解除。救護はその後だ」
一団が駆け出した。草原を裂くように北へ走る。強くなった風が割れた草を揺らす。
誰も気づかなかった。
その境界線の上で、空気が一瞬だけ水面みたいに揺れたことを。
◇ ◇ ◇
境界標が見えた頃には、太陽は少し傾き始めていた。
草原の中に立つ石柱は、人の背丈ほどある。ここから先は外縁地帯。帝国の地図が曖昧になり始める境目だった。
「……あれか」
境界標の周囲だけ、草が不自然に倒れていた。風に流された形じゃない。何かが落ちたみたいに。
騎列が近づくにつれ、その中心が見えてくる。
十数人の人間が草原へ散らばるように倒れていた。
誰一人、動かない。
砕けた鎧。裂けた軍装。乾きかけた血。
鎧の隙間から見える傷は、生きている方がおかしいくらい深かった。
まるで戦場そのものが、ここへ落ちてきたみたいだった。
「警戒しろ」
護衛たちが剣へ手をかける。セヴィは馬を降り、一歩ずつ近づいた。
途中で足が止まる。
倒れた兵士の一人が、折れた旗竿を抱えていた。
旗布は半分ほど裂けている。それでも刺繍だけは残っていた。
見覚えのない紋章。
帝国貴族の家紋じゃない。
辺境軍の軍旗でもない。
「……知らないな」
さらに視線を移す。
一人だけ装備の違う男がいた。
胸甲は比較的原形を保ち、肩当てにも同じ紋章がある。腰には短剣。他の兵士より装備も整っていた。
指揮官か。
そう思った瞬間だった。
男の目が開く。
セヴィの身体が反射的に強張った。
男は荒く息を吸い、震える手を腰へ伸ばす。短剣が抜かれ、周囲で一斉に剣が抜かれた。
「待て!」
セヴィが片手を上げる。
護衛たちの動きが止まった。
「敵じゃない」
男は倒れたまま身体を起こそうとしていた。腕が震え、血で濁った目がセヴィを見る。
そして。
目を見開いた。
「……辿り着いた、のか」
掠れた声だった。
短剣が指から零れ落ちる。
次の瞬間、男の身体もそのまま地面へ崩れ落ちた。
草原を風が抜ける。
誰も動かなかった。




