第70話 選択の錯覚
会議室は静まり返っていた。
誰も口を開かない。
だが、それは納得しているからではなかった。
もう、何を言っても結論は変わらないと――
全員が、どこかで理解してしまったからだ。
長い沈黙を最初に破ったのは、タン国の王ハイトスだった
「……ふざけるな」
低い声が響き渡る、怒鳴ったわけではない。だが、その一言だけで空気が張り詰めたように感じた。
ハイトスは机の上の条約草案に手を置いたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「これは交渉ではない」
真っ直ぐにアルトを見る。
「最初から、答えが決まっていることをみんなで決めたように見せてるだけだ
誰も口を挟まない。
ハイトスは続けた。
「通貨を握る。港を握る。軍を握る。制裁も、離脱も、再加盟も握る。形だけは連合だ。だが、中身は帝国の支配そのものだ、我が国を属国にしたいのか」
その言葉に、バイトル・ブリストル統領が小さく息を吐いた。
「まあ、そうだな」
軽く言ったが、笑ってはいなかった。
「少なくとも、対等な同盟ではない。商人の目で見ても分かる。これは“秩序”の顔をした支配だ」
メキシマス・シドル大公も静かに頷く。
「条文の組み方が上手すぎる。表では選択を残しているように見せて、実際にはそこへ進む以外の道が潰されている」
そして、そこで初めて、メラノ・アジス獣王が重い声を落とした。
「最初から選択肢なんて、なかったんだろう」
その言葉は、会議室の中央に重く沈んだ。
アルトは黙ってメラノを見た。
メラノは腕を組んだまま続ける。
「帝国に逆らえば死ぬ。違うか?」
誰も答えない。
だが、それ自体が答えだった。
この世界で魔力を持つのは帝国だけだ。
戦場でそれは、議論にならない差になる。
兵の数でも、城壁でも、将の才でも覆せない。
魔力の前では、国そのものの価値が変わる。
メラノは苦く笑った。
「だったら、これは“参加するかどうか”の話じゃない」
「死ぬか、従うかの話だ」
ハイトスが目を細める。
「……そうだ」
短い肯定だった。
だが、その短さにこそ重みがあった。
その時、アルトが静かに口を開いた。
「ええ。最初から決まっています」
全員の視線が集まる。
誰も、その答えは予想していなかった、答えを濁すだろと思っていただがアルトはあっさりと支配を認めた。
アルトは表情を変えない。
「帝国に逆らうことは、死です」
あまりにも静かな声で、あまりにも残酷なことを言った。
ハイトスの眉がぴくりと動く。
バイトルは目を細め、メキシマスは一切の無駄なくアルトを見据えた。
メラノだけは、わずかに笑った。
「やっと本音を言ったな」
「隠す必要がありませんから」
アルトは淡々と答えた。
そして、ほんのわずかに視線を落とす。
前世の記憶が脳裏をよぎった。
国と国が集まり、平和を掲げ、協調を謳う。
だが、最終的には誰も従わない。
なぜなら、そこに力がないからだ。
地球の国際連盟もそうだった。
理想はあっても、破った国を本当に止める力がなかった。
だが、この世界は違う。
帝国がいる。
圧倒的な力を持った帝国が、中心にいる。
もし地球で、国際連盟が絶対的な軍事力を持ち、
条約を破った国へ即座に報復できたならどうなるか。
――核兵器を撃ち込まれる前提で、条約に参加するようなものだ。
拒否という言葉はあっても、実際には存在しない。
だからこそ、この連合は機能する。
理想ではなく、恐怖と合理で。
アルトは顔を上げた。
「だからこそ、交渉の形を取っています」
バイトルが苦笑する。
「ずいぶん綺麗に言うじゃないか」
「綺麗ではありません」
アルトは即座に返した。
「必要だからです」
「必要?」
ハイトスが低く問う。
「今の帝国が直接支配しても、この大陸は回りません。広すぎる。国ごとの事情も違う。だから“形”が要るんです」
アルトの声はどこまでも冷静だった。
「支配では維持できません。だから構造にした」
メキシマスが、その言葉をゆっくり反芻するように呟く。
「……構造」
「はい」
「誰か一人の意志に依存せず、裏切ろうとしても裏切れない仕組みか」
「そうです」
アルトは頷いた。
「誰かが裏切れば崩れるようなものに意味はない。裏切れない形にする必要がある」
沈黙。
今度の沈黙は、さっきまでとは違った。
全員が、同じものを見てしまったからだ。
エリが、静かに口を開く。
「これは支配ですらないわね」
誰も彼女を見ない。
だが、誰もがその続きを待った。
「……現実だわ」
その一言が、会議室の空気を変えた。
ハイトスは深く息を吐き、椅子の背に体を預けた。
「最悪だな」
吐き捨てるように言う。
「だが、分かった」
バイトルは小さく肩をすくめる。
「私もだ。納得はしていない。だが、商売人としては理解した。外に残る方が損だ」
メキシマスは静かに言った。
「我々も同じだ。拒む理由はある。だが、拒んだ先には破滅しかない」
メラノは腕を組んだまま、アルトを見ていた。
「勝てない相手に戦いは挑まん。それだけだ」
そして最後に、ハイトスが言う。
「……署名はする」
誰も驚かない。
それ以外の言葉は、もうこの場にはなかった。
アルトは、わずかに頷いた。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」
ハイトスは冷たく返す。
「これは決断じゃない。確認だ」
その言葉に、アルトは何も返さなかった。
必要がなかったからだ。
会議室の外では、朝の光がさらに強くなっていた。
けれど、その光は誰にも暖かくは感じられなかった。
この日、条約はまだ署名されていない。
だが。
誰も納得していなかった。
それでも、誰一人として拒めなかった。
世界は、もう後戻りできない場所まで来ていた。




